第2話

文字数 1,750文字

 信号が変わる。
 ぼくの町では、ごく(まれ)な黒のコーデ。その風貌で、りょうさんが道のむこうから、こっちにむかってやって来る。
 いかにも、これから旅に出ますよ、というようないで立ち――ひょっとして、これから、どこかに旅行でも? 
 そう訊こうとした瞬間、横断歩道に、一陣の風が舞った。それが、りょうさんの長い黒髪を、ふわりとなびかせる。
 一瞬覗いた、すらりとのびた白いうなじ――ぼくは、ドキッとして、息をのむ。
 こんなことはなかった、いままでは。彼女に対して、胸が鈍くうずいてしまうようなことなんて。
 いつだって、彼女は憧憬の念を抱くだけの女性(ひと)ーーそう思っていた。
 ましてや、他人に「どんな関係?」と聞かれても、え、ああ、単なる友達さ、と淡々と応えていたものだ。なのに、どうして……。
 ぼくはおそらく、すかっかりうろたえて、頬に含羞の色すら浮かべているのだろう。
 
 
 
 そんなぼくに真っ直ぐな眼差しをむけていたりょうさんがふいに、「うふっ」といたずらっぽく笑った。
 まるで、ぼくの胸のうちを見てとってかのように。それで、心中穏やかでいられなくなったぼくは、ますます、うろたえてしまう。
 ちょっとぎこちない沈黙。
 その沈黙の居心地の悪さから身をかわすように、ぼくは、さりげなくりょうさんから目をそらして、おもむろに口を開いた。
「りょ、りょうさん、その格好……どこか旅行にでも?」
 間髪を入れず、りょうさんはうなずいて、こう返した。
「あ、うん、そう……ちょっとヒマワリを見にね」
 ふーん、ヒマワリね……え、ヒ、ヒマワリ! ぼくは、目をパチクリさせる。
 そりゃそうだ。なんといっても、季節は初冬。もうすぐ、花屋の店先に、ポインセチアが並ぶころ。
 はは、りょうさん、いくらなんでも、こんな時期にヒマワリなんて――そう言いかけたけれど、その言葉はからくも飲み込んだ。ふと、思い出したからだ。
 九州のどこだったか、その地名までは忘れた。が、そこでは夏場に種を蒔く『遅咲きのヒマワリ』というのが、あることを。たぶんいまが、ちょうど、その見ごろだったような、そうでもないような……。
 うふっ――またしても、ぼくの胸のうちを見てとったとでもいうのだろうか。りょうさんがクスリと笑った。そして、ひとりごとのようにつぶやいた。
「……トウキョウよ」
 ト、トウキョウ――。
 その言葉のひびきに、ふたたび、ぼくは、ドキッとして、息をのむ。
 一極集中の弊害が影を落とす地方都市。そこで、ぼうっとした感じで手ごたえのない毎日をすごしている、十八のぼく。
 そんなぼくにとって、これまで『トウキョウ』は意識の遥かむこう側にあった街だ。でもいまは、ちがう。時に、星空を眺めながら、こうも思う、そんな夜がある。
 大学進学で上京して、それで、母さんのくびきから逃れることができたなら、その瞬間から、ぼくはどこにも属さない、自由で奔放な存在になれるかもしれない、と。
 でもわが家は、母子家庭。進学するにしても、せいぜい、広島の大学がせいいっぱいだろう。いや、よしんば経済的な面がクリアできたとしても、ぼくには葛藤がある。
 この家をぼくが出ていけば、母さんはひとりぼっち。それでも、自由を選ぶのか――という葛藤が、心のどこかに。



 それにしてもーーと、ぼくは感嘆する。ぼくが知らない街トウキョウでは、こういう時期でも、ヒマワリが咲くというのだから。
『知れば知るほど、何も知らないことを知る』
 そう言ったのは、だれだっけ? 名前は、ちょっと忘れしてしまった。が、少なくともこうした名言を残している以上、ひとかどの人物にちがいない。
 そんな非凡な人物ですら、そうなのだという。であるなら、凡庸なぼくなどはなおさらのこと。かくも、十八のぼくは知らないことばかり。
 もっとも、だからこそ、むしょうに、行きたくなる街、トウキョウ。
 もしも上京がかなって、そこで新しい生活ができたら――十八の舌足らずのぼくは、無邪気に、思ってしまう。
 そうすれば、知識はもちろんのこと、見識だって深くなるだろうし、ひょっとしたら、りょうさんのように聡明な人になれるかもしれない、と。
 聡明であればあるほど人は明るく素直になっていくものだから……と、何かの本に書いてあった。
 
 
 つづく
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