第3話
文字数 1,842文字
「ところで、あっくんは、これからどこに?」
ふいに、りょうさんがそう訊いて、ぼくの夢想をいやおうなしに破った。
「え……オ、オレ」
――だから、ぼくは、つい口ごもってしまう。
りょうさんはトウキョウに。そして、ぼくは広島のデパートに――だからといって、なにも口ごもる理由なんかない。たかが、トウキョウじゃないか……。
いや、理由ならある。されどトウキョウだ。たぶんぼくは、いじけているのだろう。
だとしても、この場をなんとかとりつくろわねば――そんな強迫観念に一瞬、駆られる。そこでぼくは、突然、考える。やがて、ぼくの唇からこんなことばが、無意識のうちに、こぼれ落ちていた。
「えっと、う、海……そう、海を見に」
「……ふうん、そっか。あっくんは、海が好きだもんね」
つぶやいたりょうさんは、ふとぼくから目を離し、遠くを見るような目をした。どこか自分の中に沈み込むような目つきを。
いや、それほどでも――そう切り返そうとした、意地を張って。けれど、ふいに、その目を腕時計に落としたりょうさんが、ぼくの切り返しを遮るように、ひとりごとのようにつぶやいた。
「あら、もう電車の時間だわ。わたし行かなくちゃ」
りょうさんはそう言うと、ダッフルバッグの持ち手をしかと握り直し、じゃ、あっくん、またね、と右手を左右に振りながら踵を返して、駅の方にむかって歩き出した。
「あ、うん、じゃね、りょうさん……」
ぼくも、バイバイ、と手を振り返す。
四つ角で、その日、偶然に出会ったぼくたちは、けれど、すぐに右と左に別れて、りょうさんは東京にヒマワリを見に、そしてぼくは言ってしまった手前、仕方なく、海を見に、それぞれが、それぞれの道を進んでいった。
あの日、海にたどり着いたぼくは、堤防に腰を据えて、ずいぶんと長い間、瀬戸の内海の
さびれた夕暮れ。もうすぐ、日が沈む。でも、西の空はまだ明るい。美しい残照だった。胸がジンとせつなくなるほどに……。
それを見ていると、ヒマワリ、トウキョウ、りょうさん、それから、母さん、デパートのないふるさと、やがてシャッター通りと化すアーケード街――そういった言葉が、波打ち際に寄せては返す波のように、次から次へと、胸のうちに押し寄せて来た。
そう言えばーーふと、思い出した。りょうさんはトウキョウの大学に進学するんだっけ、と。
そのとたん、わけもなく、胸が鈍くうずいた。そのうずきにとまどっていると、カモメが一羽飛んできて、ぼくのすぐ近くで、その羽を休めた。
目が合った。つぶらな瞳。
だしぬけに、ぼくは海にむかって、むしょうに、叫びたくなった。
「やっぱり、ぼくは、りょうさんが好きだ! だから、ぼくも、トウキョウにいくんだ!」
叫んだその次の瞬間、ぼくは駆けだした。考えるより先に体が動いていた。
その叫び声を聞いたカモメがカモメのくせに、鳩が豆鉄砲を食ったような顔でぼくを見ていた……。
でも、そんなの関係なかった。
息を切らして
「卒業したら、必ず戻って就職する。だから、四年、四年でいいから、トウキョウに行かせて、いや、行かせてください……」
一瞬、ぎこちない沈黙。
その沈黙を破って、母さんが「はい、これ、優しさのおすそわけ」と垂れた首の下に、そっと何かを置いた。目を開き、それを見た。
なに⁈ けげんそうに首をひねって、それを手にした。
ヤマダアキト――ぼく名義の預金通帳。中を、開く。
え⁈ こんなに!
ぼくは目を丸く見開いた。
「十八年間、こつこつ溜めたんよ。いずれ、こういう日がくると思うてね。ま、入学金の足しにはなるじゃろ」
つぶやいた母さんは自分の言葉に照れたように、そそくさと立ち上がって、逃げるように居間にいくと、気恥ずかしさを紛らわそうとでもするのか、やけに大きな音量でテレビを点けた。
「あ、ありがとう」
テレビの前に座る母さんの背中に、ぼくは謝辞をぶつけた。そして、垂れていた首を、いっそう、深く垂れた。なんだか胸が熱かった。それが、瞼の裏まで熱くした。
ぼくは声を絞り出すようにして、謝った。
「か、母さん、いままで、斜に構えていて、ほんとうに……ほんとうに、ごめんなさい」
つぶやいたぼくの頬を熱いしずくが伝わり、それが通帳の上に、ポトリ、こぼれ落ちた。
つづく