17~12

文字数 24,441文字

17
 このことは誰にも言えなかった。
 話したい気もしたが、そうしてはならない。心の深い部分からそう告げられている。美紀はそれにしたがうことにした。
 美紀は鳥居先生の銃口を恐れていなかった。
 藤野くんたちのようすから、それは美紀にしか見えていないのだと思った。鳥居先生の頭のうしろのあたりに、あの黒い煙の塊が取り巻いていたのだ。美紀はカラカラになった口のなかで無理やりつばを飲みくだした。蛇ににらまれた蛙の気分だった。どこに目があるのかわからない。でも美紀は肌で感じ取っていた。
 視線だ。
 片岡さんや三橋さんの家で感じたのとおなじだった。それは美紀に対して敵がい心は抱いていない。不思議な確信が美紀にはあった。
 きみは守られている――。
 そう告げたのは片岡さんだった。いじめっ子たちに復讐するようそそのかし、へいきで人を殺す。なにを考えているかわからなかったが、この世界の秘密をなにか知っていそうな気がした。だが美紀は理解に苦しんだ。
 どういうことなんだろう。わたしが守られているって……?
 礼拝堂の前だった。
 片岡さんはにらみつけるように一同を見回した。腰から例の巨大なサバイバルナイフをさげている。特進コースの男子三人は、疲れきった顔でアスファルトにへたりこんでしまった。五十メートルほど離れた正門のところには、さっき鉄パイプで友だちを殴り殺したカオリという三年生が立ちつくしていた。ここから見てもわかるほど肩を震わせている。
 片岡さんはじっと押し黙っていた。禿げあがった額にかいた玉のような汗が、眉のうえの傷跡を伝って目元に流れ落ちた。
「気味わりいな」持丸さんに傷を手当してもらいながら西田くんがつぶやいた。片岡さんが刺すような視線をそっちに送りつけた。
 まもなく午後九時になる。
 太陽は頭のうえからぴくりとも動かない。
「いいか」おもむろに片岡さんは声をあげた。「ここが中心だ。即身仏はここにある」生徒と教師のあいだにどよめきが起きた。それを無視して片岡さんはエントランスの扉に手をかけた。「これがその証拠だ。なかから鍵がかけられている」
「もしかしておスギなの」藤野くんが訊ねると片岡さんは小さくうなずき、話しだした。
「わざわざ掘り起こす必要はなかったのに。起こるべくして起きたことだ」
 美紀はまたしても視線を感じ、八角形をした鐘楼を仰ぎ見た。しかし塔の先端が黒い煙で覆われているわけではなかった。ほんの一瞬だったが、人影が見えただけだった。それは美紀がもっとも会いたくない相手だった。
 蔦川エミだ。
「この学校は、自我を肉体から解放するとんでもないパワースポットのうえに建っているんだ」片岡さんは説明をつづけながら、なんとかして扉を開けようと格闘を再開した。礼拝堂の窓は、すべてステンドグラスをはめた高窓だった。十メートルは壁をよじ登らねばならない。
 そのときだった。
 美紀は周囲の世界がぐわんと歪んだような感じがした。まるで目の前で蜃気楼が見えたみたいだった。この熱気だ。頭のほうかおかしくなっているのかと思ったら、藤野くんたちもあたりを見回していた。
「なんや、あれ……」桜井くんが正門のほうを指さした。それはまるで透明のカーテンが風になびいているかのようだった。正門が見える東の方角すべてが揺らいで見えたのだ。カオリの姿はなかった。美紀は怖々と正門とは反対に位置する礼拝堂の裏手のほうを振り向いた。案の定、礼拝堂から四十メートルほどのところにカオリが立っていた。礼拝堂に向かって迫ってきた境界面に飲みこまれ、西側に転位したのだ。
「もう時間がないぞ」波多野さんの声は切迫していた。
「どうなってんのよ」礼拝堂の裏で声があがった。カオリではなかった。そのうしろにもう一人いた。美紀は本能的に藤野くんのうしろに隠れた。キョウコだった。
「大人が先に死んでよ」サヤカもいる。カルネアデスの板について、カオリから話を聞いたようだ。それにしてもライブハウスから姿を消したあと、こんなところにいたなんて。きっとまたエミとつるんでいたのだろう。
「あたしたちのバリケードになってよ。こうなったのも先生たちの責任なんだから」
「サヤカ……おまえ……」桜井くんが前に出た。
「ガク、あんたには関係ないんだからじゃましないで。悪いのは教師たちなのよ」
「おれがやってやるよ!」突如、特進コースの男子の一人が立ちあがった。手にはナイフを握りしめている。
 真っ先に向かったのは前田先生のところだった。逃げるひまをあたえなかった。首筋をひと突きし、ナイフを引き抜いたら、どくどくと血が噴きだし、先生はひざをついた。
 優等生の乱心をとめたのはやはり片岡さんだった。サバイバルナイフを躊躇なく少年の胸に突きたてた。
 境界面が停止していた。だがいまにもこっちに向かってにじり寄ってきそうだ。
 片岡さんは執拗に礼拝堂の扉を開けようと苦心している。しまいには桜井くんから鉄パイプを奪って、それを鍵の部分にたたきつけはじめた。
「信じられないだろうが、肉体から離れた魂というものは存在するんだ。しかもそれは時間をも超越している。すべては宇宙に存在するたったひとつのエネルギーの塊だったんだ」
 片岡さんはなにか特別なことを知っているようだった。それは到底、常識では理解しがたい話らしい。でもいまの状況自体、ふつうではありえないのだ。波多野さんをはじめそこにいる誰もが、すがるような思いで用務員さんの言葉に耳をかたむけた。
「それが肉体という物質に分化して、原始の生命体が生まれた。その進化の果てにあるのがいまの人類だ。しかし肉体には時間的な限界がある。死だ。ところが個々の肉体ごとに分かれていった魂、すなわち人間の自我というものは、死によってふたたびはじまりの地へともどっていくことができる。ある条件のもとに――」
「時の亀裂……なぜそれを……誰なんだ、あなたは」波多野さんが訊ねた。
片岡さんは疲れた目でそちらを見た。「時の亀裂か……呼びかたはいろいろあるだろう。しかしわれわれは、宇宙の源となる唯一絶対のエネルギー体の元へ帰っていくことができる。それはいうなれば、無数の人々の意思が融合してできあがったひとつの自我、全意識とでも呼べるものだ。夢を見ているときの感覚にも似ている。自分が自分であって、自分でない。もうひとつの巨視的な視点から自分の姿さえ客観的に見えてしまう。その無限の世界に帰っていくための移行過程なんだ、いまわれわれがいるのは」
「それをあの即身仏が」藤野くんが訊ねた。
「引き金になっている。もうべつのものに変化しているはずだ」
「べつのものって……」波多野さんのをほうを藤野くんは振り返った。「さっきがん細胞にそっくりだとか言ってたよね」
「ああ、巨大ながん細胞だ。時の亀裂が起きた場所に埋められたミイラの細胞は、すべてそれに酷似した性質を帯びていた」
 そこまで言うと波多野さんは口を閉ざし、困惑した顔で片岡さんを見つめた。
片岡さんは言った。「肉体が全意識と反応した残滓なんだよ」
 しばらく考えてから藤野くんが言葉をしぼりだした。「魂はそれにより永遠を手に入れた……つまりそのためのチケットの半券みたいなものが、肉体の側にがん細胞として残ったってわけ?」
「そう思ってもいいだろう」
 礼拝堂の扉は分厚く、びくともしない。背後では雨に煙るかのように境界面が揺らぎながらじわじわと近づいてきていた。“永遠世界”にいざなう壁まで、もはや二十メートルほど。それがいまや礼拝堂を中心に同心円状に広がっていた。
「どうしたらとめられるのよ」尾崎教頭が肝心のことを訊ねた。
片岡さんが答える。「ここにいる者たちの命をいくら切り売りしたところで、それは対症療法にすぎない。要はミイラのエネルギーの問題なんだ。永遠を求めるその力が減衰すれば、向こうの世界、つまり全意識の側による肉体の浸食もおさまる」
 その言葉に西田くんと桜井くんが片岡さんの隣に躍りだし、扉に体あたりをはじめた。
「ちくしょう……」西田くんは扉のすき間をのぞいた。「かんぬきみたいのがかけてある」
「せやけど、なかのミイラを――」
「いや……」片岡さんは鉄パイプを扉のすき間にこじ入れながら話をつづける。「今回はちょっとちがうかもしれない。南条直幸は手ごわい。想像以上に念力が強い。おそらくそれを受けた全意識の側は、ここにいるすべての者の命を奪い、魂を取りこんでしまうだろう。それくらいの勢いがある」
「冗談じゃねえぜ」西田くんがもう一度強烈なタックルを扉に食らわせた。
「でもそれだけにとどまらないかもしれない」
「どういうことだよ」藤野くんも強情な扉と格闘を開始した。
「元の世界、つまりわれわれが暮らしていた時間世界にまで達して、そこに塞ぎようのない大きな穴を開けてしまうかもしれない」
「どうなるんだ」
「人間の魂はつぎつぎに全意識の側に吸いだされていき、肉体と自我の別離が地球規模で起きるだろう。唯一絶対の自我、全意識への壮大な回帰だ」
 じゃあ、人類はどうなるっていうの?
 美紀の不安は片岡さんに完璧に読まれていた。
「無数の肉体の連鎖……それを人類の歴史と呼ぶなら、それがまもなく消滅する……たぶん十分か二十分後に」
「とんでもねえ野郎だな、その南条なんとかっていう戦国武将は」西田くんのわき腹から血がにじんでいた。さっき持丸さんに手当してもらったところからふたたび出血がはじまったのだ。
「直幸からしてみれば、それも当然の帰結なのかもしれんぞ」片岡さんは、すき間に突っこんだ鉄パイプに力をくわえた。「いまの世のなかは――」扉はわずかに開いたものの、人が通れるほどの幅は生まれなかった。「憎しみが飽和しているじゃないか」まるでここにいる全員の心を見透かすように片岡さんは、一段高くなったエントランスのうえから美紀たちのほうを見わたした。「われわれはためされているのかもしれないぞ。生命体として時の連鎖をあたえるにふさわしい存在なのか否か」
「時間なんかないほうがいいにきまってる」声をあげたのは多葉田先生だった。「永遠なんてものがあるなら、そのほうがいいにきまってる」
 多葉田先生がこれほど毅然とした口調で話すのを聞いたのははじめてだった。熱帯魚の飼育しか楽しみのない無口で存在感の薄い先生だと思っていたのに。
「小役人みたいな上司に縛られずに、どこか遠くに行ってひっそり暮らすよ。誰にもじゃまさせないさ」
「いいのかな、それで? 本当にそれでいいのか?」片岡さんは同情するような目で多葉田先生を見つめた。「わたしは浸食はとめるべきだと思う。地球にはまだ未来のかけらが残っているはずだ」
「誰なんだ、あんたは……」胸に渦巻く思いを波多野さんが口にした。「どうしてNASAの調査内容を知っているんだ」
 片岡さんは扉のすき間から鉄パイプを引き抜いた。「あなたの調査はおおむね正しい。でも真実にはいたらなかったようだ」
「どういうことだ」
「二〇〇〇年の夏のことだ」
「えっ……」波多野さんの顔色が曇った。その背後に境界面が迫っていた。
「トドラ渓谷……モロッコの奥地だ」
「それってもしかして――」藤野くんはなにか聞いているようだったが、口を閉ざした。片岡さんはエントランスからアスファルトに下りた。波多野さんの目の前だった。
「あなたの言う『時の亀裂』はそこでも起きた。そこであなたは恋人を失った。当時わたしは勤め先を辞め、ヨーロッパとアフリカを放浪中だった」
「まさか……」波多野さんは吐息のような声をもらした。
「カリムはわたしといっしょに帰還したのだ」片岡さんはがく然とする波多野さんを無視して駐車場に向かった。オーロラのように揺らぎながら近づいてくる境界面の手前にスクールバスがとめてあった。
「離れていて」
 片岡さんは運転席に乗りこんだ。美紀たちはあわてて後ずさった。バスはタイヤを軋ませて急発進した。礼拝堂の頑固な木戸まで十メートルも離れていなかった。生存者たちはかたずを飲んで成り行きを見守った。
 波多野さんだけがどこか遠くを見つめていた。

16
「もう二度と勝手なことをするんじゃないぞ」
 杉山はエミの頭にヘルメットを無理やりかぶせるなり、礼拝堂にエミを引っ立てていった。それからエミは、バリケードを組むのを手伝わされた。むかついたが、したがったほうがよさそうだった。
 ベルテラスに上がってからも、二人はヘルメットを取らなかった。
「ついに収縮がはじまった。あとはここに向かって加速度的に近づいてくるだけだ。見てみるといい――」
 杉山は化け物を入れた白木の箱の蓋を開いた。強烈な腐臭が広がった。
“それ”は変化していた。
 まず色が変わっていた。最初に目にしたときは動物の糞のようなこげ茶色をしていたのだが、いまはそれがすっかり薄れ、クリーム色っぽい感じだった。かすかに輝いていて、形も変わっていた。さっきまでゾウの糞のようにこんもりとしていたのに、いまは中心部分が落ちくぼみ、巨大な白玉のようになっている。
「どうなるの」
「心配いらない。」
「だけど……怖いわ……」
 即身仏の放つ白い光で杉山のヘルメットが輝いた。「想定の範囲内さ」
 杉山は腕時計を見た。
 午後九時を過ぎたところだった。
「八時間二十分……ほぼ平均的な時間だな。あとはシェルターで待てばいい」杉山は茶色い金属の棺桶のほうに手を広げた。
「外が騒がしいけど」
「鉄パイプでがんがんやっているみたいだ。でもバリケードは破れないさ。それにここまでは来られまい」
 たしかにそんな気もした。エントランスのほか、螺旋階段の入口にはあらかじめ杉山が用意していたかんぬきが掛けてあったし、階段からベルテラスに至るドアはがっちりと施錠されていた。
「あいつ、下にいたわ。まだ生きてるのよ」
「川瀬美紀のことか。いいかげん忘れろ。あと何分かしたら別れられるんだから」
「イヤなのよ。あいつがそばにいると思うだけで、不愉快になるの。ほんとに死神なんだから。せっかく超能力を身につけようっていうのに、どうしたあんなやつがくっついてきちゃうのよ」
 湖を臨む林のなかでの体験がまざまざとよみがえった。
 ジュンがそばにいた。エミはそれを肌で感じた。というよりジュンのなかに入ってしまったかのような不思議な感覚だった。いや、そうじゃない。あの子が――
 あたしのなかに……。
 やはり杉山の言うとおりだ。これは超能力の一端なのだ。きっとあたしはあの子との交信に成功したのだ。
 それにしてもわからなかった。
 エミはあの体験をいまいちど最初から反芻してみた。
 自宅の二階だった。ママの部屋のドアが半開きになっていた。
 声が聞こえた。
 けっして聞いてはならないママの声……。
 踵を返したそのとき体がふわりと浮かんだ。階段のうえだった。背中に奇妙な感触が残った。硬い手のひらを力いっぱい押しつけられたみたいな感触だった。
 あたしは病院のベッドにいた。
 ママが病室にやって来たのがわかった。でもベッドまで来なかった。のぞきもしなかった。
 どうしてだろう?
 そう思ったとき、たしかに聞こえた。
 アイタイヨ……。
 ジュンの声だった。会いたいのはこっちだっておなじだ。それだけじゃない。ちゃんと話をしたかった。いろんなことを聞きたかった。いまどんな気分なのか。痛いところはないのか。一番食べたいものはなんなのか。行きたいところはどこか。それに――
 あの日、なにが起きたのか。
 もう一度湖畔に行けば、おなじことが起きるかもしれない。でもそんな余裕はもうないだろう。裏門のあたりでさえ、もはやたどり着けまい。こうなったらぜひとも元の世界にもどって、満を持して病院に向かうほかない。
 だけど――。
 それは抑えがたい恋心のようにエミの胸を突きあげてくる。ヘルメットがじゃまだった。こんなものかなぐり捨てて、いますぐ湖に走っていきたい衝動に駆られた。あそこにはきっと真実がある――。
「さあ」杉山の声でわれに返った。「すこしのあいだ、このなかで待つことにしよう」
 杉山はヘルメットをしたまま棺桶をまたいだ。死体を入れる棺なんかよりは大きいが、二人で入るには狭かった。アイスボックスからとっておきのブルーベリースムージーを取りだし、エミもあとにつづいた。向かいあう格好でしゃがみながら杉山が手順を説明した。
「これまでの帰還者は偶然助かったにすぎない。即身仏が放つ電磁波がたまたま消失しただけの話なんだ。でもこの棺はちがう。即身仏のエネルギーを完璧にシャットアウトできる。この部屋の内側にまで収縮が接近してきたら、蓋を閉めよう。そうしたらあとは五分かそこら息をひそめていればいい。つぎに蓋を開けるときには、元の世界にもどっている。二〇二一年七月七日、午後零時四十一分の世界だ」
「そうならいいんだけど」
 冷たいスムージーにストローをさしたとき、なにかが爆発したような大音響が階下から突きあげてきた。

15
 一瞬の出来事だった。
 バスは礼拝堂に突っこみ、堅く閉ざされていた扉を木っ端みじんにした。運転席から飛びだした用務員につづき、タケルたちも礼拝堂になだれこんだ。しかしどこを見回しても即身仏を入れたとおぼしき木箱はなかった。
「教えてくれ」
 波多野が片岡に問うた。タケルも驚いていた。時の亀裂がモロッコで起きたときの生存者だったなんて。
 片岡はいらいらと祭壇のまわりをたしかめていたが、もう一度、波多野に問われ、あきらめたように話しはじめた。「洞窟のなかだった。もはや左右とも二メートルも残っていなかった。向こうの世界がどんどん迫ってきていたんだ。わたしと運転手兼ガイドのカリム、そして陽子さんが残っていた」
 最後の言葉に波多野の顔色が変わった。それでも用務員は話しつづける。
「わたしたちはすでにほかのツアー客など四人を殺害していた。もちろん自分たちが生き残るためにね。誰かを殺せば、世界の収縮が停止することを発見していたんだ」
「それでどうしたっていうんだ」波多野は語気を荒げた。さっきまであんなに冷静だったのがうそのようだ。
「弁解するつもりはない。非難はいくらでも甘受する。しかしこれはあの状況下にいた人間にしかわからないことだ。それはいまこの場にいるあなたにも理解できることなのではないか」
「なぜだ」波多野は片岡の胸ぐらにつかみかかった。そのまま礼拝堂の石壁に押しつける。タケルたちはただ黙って見ているほかなかった。
「どうしてあのガイドじゃなかったんだ」
「それは――」
「おなじ日本人どうしだろう。それとも相手が女だから殺しやすかったのか!」
「ちがう……そんなんじゃない。わたしたちはミイラの肉の塊を抱きかかえるようにして身を寄せあった。あとで調べにやってきたあなたにカリムが説明したとおり、本当に大海原で漂流するゴムボートのようだった。しかもそれは沈みつつあった」
「もうすこし待っていれば、ミイラのエネルギーが途絶えて元の世界にもどれたんだろう」
「それは結果論だ。それにそのときはそんなことわからなかった。恐怖だよ。死の恐怖。それだけさ。するとそのうちにおたがいの考えていることが読めてきた。全意識がすぐそこまで迫っている証拠さ。自我の統合は時間の問題だった。そのなかで三人が三人とも、自分だけ生き残ろうと考えていた。そのことにおたがい同時に気づいたんだ。それでたがいに体を触れ合わせるのをやめた。自分の思考が体と体の接触を通じて相手に筒抜けになっていると思ったんだ。でもそうじゃなかった。もうそんな段階はとっくに通り越していた。もはや言葉をかわすだけで、その背後にある思念がすべて伝わるようになっていたんだ。やがてわれわれに残された世界は一メートル四方にまで縮んでしまった。そのときミイラが激しく輝きだして……あとは……あとはメロンぐらいの大きさの石を両手で握りしめ、何度も何度も地面にたたきつけていた……。気がついたら洞窟の外に放りだされていた。爆発のようなことが起きて、元の世界にもどれたんだ」
 片岡は額を指さした。
「これはそのときの爆風で受けた傷だ。シャツには血が……そうだよ。血がついていたよ。べっとりと、生々しく……それしか覚えていない。だからカリムだって、あなたにわたしのことを話さなかったんだ」
「ちくしょう……!」波多野は拳を振りあげた。
 そこに美紀が飛びかかった。「やめて!」
 声が礼拝堂の高い天井に響きわたった。
「いまはそんなことをしている場合じゃないでしょう」
 肩で息をしながら波多野はようやく拳をおろした。片岡は作業ズボンのポケットからなにかを取りだした。
 小ぶりの日記帳だった。
「ずっと罪の意識を感じてきた。同時に使命感にも駆られた。臨死体験者とおなじさ。この世のためになにかしようと思ったんだ。あの日からわたしの人生は変わったんだ」
 片岡は日記帳の表紙をみんなに見せた。
≪時の祈り≫
「ほかの帰還者とおなじで、わたしも相手の思考と過去の記憶を読み取る超能力を身につけた。全意識に触れたおかげだよ。さらに相手の思考に影響をあたえることだってできた。なにしろ全意識では自我はひとつしかないんだからね。帰還者のなかにはその能力を悪用する者もいた。わたしはできるだけ寡黙をとおした。他人の意思なんて盗み見るものじゃないし、こちらから積極的に影響をあたえるのは、ひどく体力が消耗する作業だったからだ。正直なことを言えば、わたしだって何度かその能力を行使したことがある。すべてここに書いたとおりだ。そのせいで見てみろ」片岡は日に焼けてざらついた頬を片手でこすった。「まだ五十二だっていうのに、こんなに老けちまった」
「どうしてここがわかったんだ」落ち着きを取りもどした波多野が訊ねた。
片岡はふたたび礼拝堂内を歩きまわりながら話した。「モロッコの洞窟で助かる直前、ほんの一瞬だけ見えたんだ。富士山のふもとに広がる黒々とした森がね。青木ヶ原さ。それを見たのはわたしだけじゃなかった。世界中にちらばった帰還者の全員がそれを目にしていたんだ。何度も言うが、全意識にあるのは一つの自我だ。その自我が全員におなじものを見させた。つまりそれは絶対的なものであるはずだ」
 片岡は鐘楼にあがる階段の前で足をとめた。扉には案の定、錠がかかっていた。
「聖地――わたしはそう考えた。そしてもっとも近くにいるのがこのわたしだった。帰還者としての使命感もあいまって、わたしは調査を開始し、ついにこの地に埋められた即身仏を発見した。しかもそれは四百年以上というとてつもない年月を地中ですごしていた」
 そこで片岡は用務員として蔦川学園に勤めながら、教師たちの思考をスキャンし、ついに総務課長の杉山が即身仏を狙っており、つぎの転位が二〇二一年七月七日の午後零時四十一分に起きることも読み取った。
 片岡はふたたび波多野のほうを見た。
「あなたは発掘作業がはじまらないか監視していたようだが、残念ながら見こみちがいだったようだな。聖地に埋まる四百年以上前のミイラ――とくに今年は富士山周辺の磁気の乱れが激しくなっていることを考えれば、あえてそれを地中から掘り起こさずとも全意識界と結合する。それがわたしの見たてだったし、じっさいそうなった。あなたが学校に乱入してきたとき、あれはまだ土のなかだった。それでもあなたの言う“時の亀裂”は起きてしまったんだ」
 人の心を読む超能力を獲得するのが杉山の魂胆で、時の亀裂の収縮を抑え、無事に元の世界にもどるための生け贄として、わざと期末試験の時期をずらして多くの生徒を巻きこんだのだという。
「だが何度も言うが、直幸は手ごわい。たとえ何百人生徒が残っていたとしても、すべて食いつくして、さらに元の世界に大きな穴を開けてしまうだろう。だから直幸の力を直接ねじふせる算段をしないといけなかった」
「なにかいい方法が見つかったの?」たまらずマコトが聞いた。
 片岡は自分を鼓舞するように大きくうなずいた。「七年前のことだ。わたしはふたたびモロッコを訪ねた。ミイラは発掘当時、三年ほどしか埋められておらず、何人かの親族がまだ生きていた。そこでわたしは孫にあたる女性に面会し、銀細工のブレスレットを副葬していたことを読み取った。そのブレスレットこそ、わたしが向こうの世界で、ミイラとは名ばかりの肉の塊の間から見つけたものだった」
 それはかつて腕だった部分に食いこんでいた。孫娘は祖父の死後、石室にそれを安置しただけだったが、どういうわけかそれが祖父の腕にはまっていたというのだ。
 死んだ祖父の腕に――。
「現世に決別し、永遠をもとめるミイラも、やはり子孫を慈しみ、その行く末に希望を抱いていた。ブレスレットはその証拠だった。つまり未来への期待感――それこそがミイラの力を減衰させ、わたしが元の世界にもどれた最大の要因だったんだ」
 波多野は礼拝用の長いすにへたりこんだ。恋人は死ななければならなかったのか――いまとなっては考えてもしかたのないことだった。
「それでわたしは捜しはじめたんだ。南条直幸の末裔を――」
「やめようよぉぉぉ……」
 タケルの背後で突如、男の声があがった。苦しげな声音だった。振りかえるなり、タケルはぎくりとした。特進コースの二人組が身構えていた。どちらもナイフを手にしていた。
「おまえら――」
 ヒロシが飛びだそうとするのを、長いすから立ちあがった波多野がとめた。「目を見ろ」
 タケルも気づいていた。ライブハウスの連中とおなじだった。ドラキュラのように血走った目をしていた。「憑依されている」
「あの子たち」美紀がつぶやく。「眠ってしまったんだわ」
「そうだよぉぉぉぉ、眠かったんだもぉぉぉぉん……」
 特進コースの二人組は飛びかかってきた。礼拝堂にパニックが広がる。
「みぃぃぃぃんなぁぁぁぁ、いっしょだよぉぉぉぉ」
「ずぅぅぅぅぅっとぉぉぉぉぉ、いっしょだよぉぉぉぉ」
 タケルは優等生の片割れの腹を蹴飛ばし、ナイフを奪い取った。だが相手はあきらめず、首筋に咬みついてきた。焼き鏝(ごて)をあてられたような痛みが肩に走る。そこへ片岡がやってきて躊躇なくサバイバルナイフを使った。優等生は背中から心臓をひと突きにされた。相方のほうはヒロシが始末した。
 そのとき気づいた。エントランスの二メートルほど向こうが揺らぎだしている。礼拝堂が浸食されるまであとすこしだった。
「全意識は焦っているんだ」片岡はまだ冷静さをたもっていた。「妨害を恐れて先制攻撃に出たんだ」
「彼らの言うとおりだよ」トロッピーが声をあげた。拳銃を握りしめている。鳥居が使ったものを隠し持っていたのだ。「ここで迎える死は意味がちがう。消滅じゃないんだ。永遠を手に入れるための一歩なんだよ」
 憑依を受けたわけではなさそうだった。目も血走ったりしていない。それでも銃口はしっかりとタケルたちのほうを向いていた。
「元の世界にもどる必要なんかない。帰ったって、どうせそこにいるババアや理事長にへえこらするだけだろう。おれだって昔は教育の理想とやらに燃えていたんだぜ。若い連中をなんとかいっぱしの社会人に育てあげようと奮闘したもんだ。だけど、がんばるうちにいろんなものが見えてきてな。自分は官僚組織の真っただ中にいるんだって、そのうちわかってきてむなしくなった。じゃあ、もうなにも言うまいってきめたんだよ。あとは趣味に生きることにした。魚は裏切らないからな。それで最低限の給料さえもらえりゃ、おれは満足だった。ところがどうだよ――」
 境界面は停止していた。まだエントランスの向こうだった。たったいまこの場で起きた殺戮に満足しているかのようだった。だがこのままでは境界面の収縮よりも銃が決着をつけてしまいそうだった。波多野も片岡も反撃に出る機をうかがっている。しかし相手が銃ではそれも容易でなかった。
「先月、人間ドックで言われたんだよ。末期の肺がんだとさ。おれまだ、四十歳だぜ。酒もタバコもやらないのになんでだよ。不公平じゃないか。がんなんていうのは、不摂生な生活してるやつとか、日ごろの行いの悪いやつとかがなればいいだろ。それなのになんでおれなんだよ? えぇっ、おかしいだろ!」
 怒りを抑えられなくなり、トロッピーは引き金をしぼってしまった。弾は、わなわなと震えながら立ちつくす尾崎のわきの長いすの背にあたり、木片を飛び散らせた。尾崎は火線から逃れようと、そっと事務員の小林の陰に隠れようと足を動かしたが、それに気づいた小林のほうが尾崎の背後にまわった。尾崎は動けなくなった。
 目の前に銃口があったのだ。
「時の亀裂とか言ったな。おもしれえじゃねえか。どこに逃げようと、かならずおなじところにもどってくる。人生とおなじじゃないか。物事が解決したり、進展したりなんてことはもうないんだ。すくなくともおれに関してはもうない。個人的にも、仕事の面でも。どんどん小さくなっていく現実のなかで、おれは死を待つだけなんだ。ところがありがたいことに、おれは永遠を手に入れることができるときた。だったら自分からそっちに進もうじゃないか。おい、藤野!」
 いきなり名前を呼ばれ、タケルはびくっとした。
「さっきおまえ、なかなかいい推理を聞かせてくれたな。『魂はそれにより永遠を手に入れた。つまりそのためのチケットの半券みたいなものが、肉体の側にがん細胞として残った』とかなんとか。なるほど。じゃあ、おれの肺にできた腫瘍ってのは、さしづめ永遠を得た領収証ってわけだな。おれは神さまに選ばれたってことだよな」
 銃声とともに尾崎の頭が吹っ飛んだ。
 一瞬遅れて体のほうがどさりと床に崩れた。
「あばよ」
 多葉田はすばやく銃口を自分の口に突っこみ、映画のワンシーンさながらに脳天から血しぶきをあげた。

14
「ベルテラスだ。あそこに隠したんだ」
 多葉田の死体が消えるより先に、片岡はエントランスわきの木戸と格闘をはじめた。扉の向こうに螺旋階段があるのだが、錠がかかっていて入れないのだ。多葉田の血をすすった境界面は停止していたが、いつ動きだすかわからない。
「そうだ」ヒロシが血と脳しょうの海から拳銃を拾いあげる。それで錠を壊そうというのだ。しかし弾はもう一発も残っていなかった。「だめだ。ちくしょうめ」
「かんぬきだ」すき間をのぞきながら片岡が言った。「二か所にかかっている。かなり重そうだな。小林さん、地下室があるのは知ってるね」
 体の大きな事務員はうなずいた。「工具があるはずだ」
 しかし地下へ降りる木戸にはダイヤル式の南京錠がかかっていた。小林は途方に暮れた。
「4136……それが番号だ」
 言われたとおりにすると錠が開いた。小林が驚いて訊ねた。「なんでナンバーまで知ってるんですか」
「鳥居先生だよ。ナンバーは理事長と総務課長しか知らないはずだが、彼女は理事長から聞いていたんだ。その記憶を読んだんだよ」
「記憶を読んだって……じゃあ、ぼくらの頭のなかも――」
「安心してくれ。けっして口外しないから」
 困惑した表情を浮かべ、事務員は地下室に下りていった。しかしなかなかもどってこなかった。タケルははらはらした。視界のすみで境界面がわなわなと震えたような気がした。また動きだしたのか。
「あそこだ」片岡が石壁を見あげた。五メートルほどの高さのところに六十センチ四方の穴が開いている。
「階段に明かりを入れる窓だ。もう待っていられない。長いすを持ってきてくれ」
 言われるがままにタケルたちは重たい木製の長いすを窓の下に運んできた。片岡はそれを縦にして壁に立てかけるよう命じた。三メートル近くある長いすだった。
「おさえていてくれよ」
 片岡は見た目よりもたしかに若々しく身軽だった。長いすの座面と背板の端を両手でつかみ、足で座面を踏ん張りながら登っていった。波多野もタケルたちもそれを見守った。キョウコとサヤカも近くにきていた。タケルは美紀を守るようにさりげなくその間に立った。ほかに残っているのはカオリと事務員の小林、それに保健室の持丸だけとなった。
 長いすの一番うえに到達しても窓まではまだ届かなかった。片岡は石壁に手をつき、慎重に立ちあがった。全員が息をのんだ。タケルは長いすをおさえるヒロシとマコトにくわわった。
恐ろしいくらい静かだった。
窓枠に片岡の手がかかり、懸垂の要領で体を持ちあげていく。大きさはじゅうぶんだった。
 そのときだった。
 タケルの脳裏に無数のフラッシュバックが起こった。映像が高速でコマ送りされるような感覚で目がちかちかした。
 見えたのはカオリの姿だった。手首からだらだらと血を流し、樹海をさまよっていた。知らなかった。役場勤めの父親には裏の顔があった。妻に知られてはならない性癖だった。カオリはその犠牲者だった。だからリストカットすることもしばしばだった――。
 いつのまにか隣にカオリがいた。いっしょに長いすをおさえてくれていたのだが、手と手が触れ合っていた。向こうは気づいていない。タケルはそっとそれを離した。
 イメージが消えた。
 片岡の上半身はもう壁のなかに消えていた。その言葉をタケルは思いだした。モロッコで時の亀裂を体験したときのことだ。境界面がぎりぎりまで迫ってきたとき、生き残った者たちは、体の接触を通して相手の思考や記憶が読めるようになる――。片岡はそんな可能性に言及していた。だとするといま見えていたのは……。
「ライトスタッフって、ようはデートクラブだよね」いきなりマコトが口にした。うしろを向いている。そこには唖然とするキョウコがいた。
 二人は体が触れ合っていたわけではない。意識の融合が進んでいるだけだった。モロッコの洞窟とおなじだ。
「売春してるとは驚いたな」
「あんた……」キョウコは口もとをわなわなと震わせている。「なに言いだすのよ」
「かわいそうにね。両親が株にはまって授業料も出してもらえないのか。でもなんか、最近は愉しんでるみたいじゃないか、バイトのほう」
「ちょっと、なんなの、このデブ!」キョウコは取り乱し、長いすから離れた。
 タケルはエントランスのほうを見た。いまや境界面は礼拝堂のなかに入ってこようとしていた。つまり円筒形の礼拝堂の周囲ぎりぎりのところに膜が迫り、取り囲んでいるのだ。急がないと石壁をすり抜け、ベルテラスにあがる螺旋階段までも浸食されてしまう。そして生き残った者たちの意識と意識がどんどん融合していく。
 ふいにヒロシの姿が頭に浮かんだ。
 狭い事務所のような部屋から電話をかけていた。相手が出た。その声にタケルは愕然とした。自分の父親だった。「もしもし……もしもし……」しかしヒロシは無言を通した。
 なんでだよ……。
 ヒロシは隣で長いすをおさえながら、つらそうな顔でタケルのほうをじっと見つめている。
 借金の取り立て屋のバイトをしていると言っていたが、あれは東京に遠征してのことだと思っていた。それを地元でもやっていたなんて。しかもよりによって――。
「そりゃあ、借金した親父のほうがいけないんだけどな」タケルは床に目を落とし、吐き捨てた。ヒロシはなにも言わなかった。
 友だちだと思っていたのに……。
 タケルは長いすをおさえるのに集中した。片岡の両足があとすこしで窓のなかに消えていきそうだった。
 耳元で音がした。鳥肌が立つような大きなざわめきだった。
「蝉が鳴きだしたぞ!」マコトが興奮したように言った。
 それはたちまち恐ろしいほどの音の渦に変化した。不思議な感覚だった。タケルはそこにどこか懐かしさを覚えた。
 樹海だ。
 あの緑の森は蝉たちの、そしてさらに無数の昆虫たちが植物とともに織りなす生命の王国だった。だったら現実世界が近づいているのかもしれない。そこにおれたちはもどれるのかな。そうしたらみんな元どおりになるのかな。ヒロシとはまだ友だちでいられるのかな……。
 ちがうかもしれない。
音がしだいに変化するのを感じ、タケルは不安になった。現実世界とはどこか異質な気配があった。
 ギイィ――。
 それは聞き覚えのあるひとつの響きに収れんされていく。そう……お寺だ。線香のにおいが漂う仏間で、まだ子どもだったタケルは慣れぬ正座の痛みに苦しみながら、たしかに聞いた。低く張りのある声で吟じられる意味不明の歌声を――
 読経の響きを。

13
 最初に気づいたのはサヤカだった。
 エントランスの内側にまで侵入してきた境界面の一部が、周囲とすこしばかりちがって見えるというのだ。片岡が高窓にあがるのをほかのみんなが手伝っている間に、ガクはそっちに近づいてみた。
 八十センチほどの幅だった。
 たしかにそこだけ揺らぎがなく、へこんでいるように見えた。ガクは振り返った。反対側は祭壇のあるあたりだった。これまでのことを考えれば、このまま進むと、あのあたりに顔をだすことになる。そう思ってガクはそこに足を踏み入れた。
 転位しなかった。
 ガクはそのまま歩きつづけることができた。礼拝堂を出て駐車場のほうにもどれる。
 左右を見た。
 湖畔をわたる風にさざ波だつ水面のようにどちらもゆらゆらと揺れている。
 ガク……。
 足がとまった。たしかに聞こえた。ずっと向こう、正門のほうからだ。もう一度耳をすませてみる。再開された蝉しぐれしか聞こえなかった。首筋がかっと熱くなる。言い知れぬ焦燥感が胸を突きあげた。
 その声に聞き覚えがあったのだ。
 背後で足音がした。
 サヤカだ。
「穴が開いてるの?」
「みたいやな。時の亀裂の“亀裂”や」
「やめなよ。みんなのところにいたほうがいいよ」
「おまえ、ほんまにうまくいくと思っとるのか」
「わかんないけど」
「いま、聞こえたんや」
「え?」
「声だよ」
「向こうに誰かおったんや」
「まだ誰か残ってるんじゃないの」
「いや……そうじゃなくて。おれ、ちょっと見てくるわ」
「わたしもいく」
「よせって。おれ一人でええ。みんなといっしょにいたほうが心配ないやろ」
「助かる保証はないのよ。だってもうわたしたち“死んでる”んでしょう」
「死んでなんかおらんで。死んでおったら、こうして話すことも歩くこともできないやろ」
「そんなの死んでみなきゃわからないじゃない」
「そうや」ガクはつい声に力が入ってしまった。「死んでみんとわからんよ。せやけどもし生きておるのやら、死に急ぐことないやろ。せやからおれ一人でいくわ。責任持てんから」
「責任って? もう子どもじゃないのよ。自分のことは自分で責任持つわ。それにガクだって、誰かいっしょにいたほうがいいでしょ」
 図星をつかれた。ガクは口をとがらせ、正門のほうに顔を向けた。「ほんなら、勝手にせえや」
 ガクは、ライブハウスから持ちだしたバタフライナイフを握りしめ、ゆらめく境界面の間を慎重に歩きだした。あとからサヤカがついてくる。いつのまにかサヤカは、ガクの学生ズボンのベルト通しに指を引っかけていた。
 大阪に住んでいたころ、ガクにはあこがれの先輩がいた。ショートカットでボーイッシュな感じだった。サヤカとはタイプがぜんぜんちがう。夜、コンビニに客がいないとき、ガクは商品チェックをしながらサヤカによく話していた。サヤカは彼女の写真を見たがった。そんなもの持っているわけがなかったが、昔使っていたガラケーに画像が残っていた。それを見せてやったら、どういうわけか膨れっ面をした。自分で見せろと言ったのに……でもなぜかうれしかった。その後もサヤカはなにかというと彼女の名前を口にした。まるで二人の秘密をかみしめているかのようだった。
 こいつ、おれに気があるんやな。
 ガクはいつしかそう思うようになった。あえて聞いたりはしなかったが、レジで並んでいるときの二人の距離は最近、ひどく近くなっている。あこがれの先輩とタイプはちがったが、サヤカは目がくりくりしてかわいいほうだったし、気だてがよかった。結婚するならむしろこういう感じの相手のほうがいいんだろう。でもそんなふうに思っているのをタケルたちに知られたくなかった。ガクはあいつらの前ではニヒルで、いざとなるとけんかの強い関西人で通っている。そのたたずまいは崩したくなかった。もしかしたらもうバレてるかもしれないけど。
 境界面のすき間は正門のほうまでつづいていた。それどころか二人は正門を出て県道を横断し、そのまま樹海にまで進むことができた。ためしにガクは右の壁に顔を突っこんでみた。すると白シャツを着た男の背中が見えた。自分の背中だった。ガクは予想どおり左側の壁から顔を出していたのだ。
 二人は森の奥へと分け入った。
「もしかしてわたしたち……」サヤカがうしろで声をあげた。「出口に近づいてるのかな」
「どうやろ。そう願いたいけどな」ガクはスマホを見た。まもなく夜の九時半になる。「ほんまなら、バイトの時間や。もう四時間も遅刻しとる。せやけど、サボるわけにいかんやろ。たしかおまえもシフト、入っとったんちゃうか」
「うん。おとうさんと交代しないと」
 左右の境界面はまだ八十センチほどの間隔をたもったまま、迫ってくることもなかった。ガクは水を流したガラス板のように揺らぐ境界面どうしが作る空間を見きわめ、すこしだけ足を速めた。ベルト通しに指をかけたまま、サヤカがついてくる。木漏れ日が二人を照らしていた。
「みんなどうなってるかな」ささやいたのかつぶやいたのか。たしかに聞こえた。サヤカは不安そうだった。
「わからんわ。ちゃんと避難しとればよかった。タバコなんか吸っとらんでなぁ。せやけど、おまえらなにしとったん?」
「エミを待っていたのよ。そしたら逃げ遅れちゃった……ただそれだけ」
 あの女が――。
 ふっとサヤカのつぶやきが聞こえた。ガクの頭に滑りこんできたのだ。ガクは足をとめ、振り向いた。
 知らない話じゃない。
 川瀬美紀のことだ。
 エミがいけないんだ。サヤカは、あんなのとつるんでいるからどんどん悪くなる。それで陰湿ないじめに巻きこまれているんだ。エミに嫌われるのが怖くて、嫌々いじめる側に回っているんだ。
 それはガクとしては認めがたかった。大阪に住んでいたときのことがある。ひどくさびしい日々だった。こっちに引っ越してきたのだって、親の仕事の都合というより、自分が学校でうまくいかなかったからだ。いくら体が大きくて、空手道場に通っていたとしても、やられるときはやられる。だからどんな理由があろうと、やるほうは許せなかった。でもそれをあえてサヤカに言ったことはなかった。
「川瀬美紀も残っておったろ」
「え……」
「そんなに嫌いなんか」
「しょうがないじゃない」サヤカは憮然とした。なにを言われているか悟ったようだ。「美紀が悪いのよ」
「エミの尻馬に乗ってどうするねん。川瀬とおまえ、前は仲よかったやん」
「いいじゃない、そんなこと。あんたに関係ないでしょ」サヤカはガクの前に出て、森の不可思議な小径をずんずん進みだした。
 言ってやらねばならなかった。「知らんとでも思うんか」ガクは速足で進むサヤカのあとを追った。「みんな、見て見ぬふりみたいやけど、やっぱりわかっとるんやで。むかむかするんやわ、ああいう嫌がらせは」
 サヤカの足がとまった。
 逆上するのかと思ったが、そうではなかった。
「したくないよ。あたりまえじゃない、そんなの」サヤカの頬にひと筋の輝くものがあった。「こんな目に遭ったから懺悔してるんじゃないよ。前から思っていたわよ。やめよう、やめようって。べつに美紀、ヘンでも気持ち悪くもないもん。お店にも来てくれてたし……でもダメなのよ。できないのよ。前みたいにもどろうとしても、エミが――」
「そうやろ。エミやろ。ほんまに心が歪んどるのはあいつや。あいつが一番悪いんや……でもなぁ、サヤカ、結局は自分やん。ちゃうか?」
 サヤカは立ちつくし、肩を震わせた。「美紀がわたしたちと仲直りしようって近づいてくるでしょう。そうすると、そんなに簡単に許していいのって声が聞こえるの。心のなかから。なんだかすごく軽く見られてるみたいでさ。だから突っぱねちゃうのよ。エミだってそうなんだと思う」
「恥ずかしいんやな」
「え?」
「もう一度、川瀬と打ち解けるのが、こっちの非を認めたみたいで負けたような気がするんやろ」
 ブラウスの胸には涙の染みが広がっていた。「わたし、ずるいわよね。こんなふうになってからでないと反省しないし、それも本人のいないところでだもん」
「ほんなら、いつか本人に言うたれや」ガクはサヤカの肩にそっと手を回した。丸みをおび、とてもやわらかな、それでいて華奢な肩だった。女の子にこんなふうにするのは、ガクははじめてだった。
「言えるかな……ガク……」
「言えるで、おまえなら――」
 そのときだった。
 ガクは後頭部から両肩にかけてずしりと重みを感じた。サヤカが飛びついてきたのかと思った。あまりの重さにひざをついてしまう。
 サヤカはそのままだった。しかし飛びついてきたのは、たしかにサヤカだった。猛烈な吐き気が襲ってきた。胃がよじれ、もどさないようこらえるのがたいへんだった。なにかが入ってきたのだ。サヤカのなにかが。
「おまえ……」
 そう言うのが精いっぱいだった。しかし頭のなかでは見たこともない光景が渦巻いていた。それがサヤカの内なる世界であることに気づくまで数秒間を要した。これがあの用務員が話していた意識の融合、全意識への移行なのか。
 サヤカの家だった。
 店長であるサヤカの父親は沈鬱な顔つきで食卓についていた。
 母親はむすっと黙ったままだったが、なにを思っているかは察しがついた。不器用な夫にくさくさした思いでいるのだ。サヤカはそんな両親を悲しく見つめ、なんとかしたいと悩んでいた。いますぐにも就活して、ちょっとでも給料のいい会社にもぐりこんでやる。童顔に似合わぬ、並々ならぬ決意だった。限界まで凝り固まったその気持を癒してくれるもの。それは――
 ガクではなかった。
 それがわかるなり、ガクは立ちあがり、サヤカから離れた。
見たことのない男だった。でもその正体は、滑りこんできたサヤカの記憶が伝えてくれていた。
「ツヨシって……」思わず口をついて出てしまった。
 サヤカは唇をかみしめていた。こちらの意識も読まれたみたいだった。二人はしばらく見つめあった。下草がひざのうえまでかぶっている。学校はもう見えなくなっていた。
「エミに紹介されたのよ」
「わかっとる……ぜんぶわかっとる……なんなんや……」
 エミが六本木に遊びに行ったときに紹介された男だった。紫のスーツでホストみたいな雰囲気だった。エミと深い関係のようだったが、サヤカは惹かれていた。それどころじゃない。
 夢中だった。
「そんなに怒らないでよ」サヤカはガクの動揺を読んでいた。「わたし――」
 いま揺れてるんだから……。
 たしかにそう聞こえた。ガクは口のなかがカラカラになった。
 どういうことだ……。
「そんな関係じゃないんだから」
「そんな関係って?」
「だっていま、へんなこと考えたでしょう」
 ガクは黙りこくった。
「なんにもないんだから。エミのカレシだから――」
 勇気を振りしぼってガクはそっとサヤカの手に触れた。途端、静電気のようなものが指先に走った。それでもガクは逃げなかった。サヤカのなかに入っていき、薄皮を一枚ずつはがすように探っていく。彼女の……アタマを。
「たしかにカッコええし、大人やもんな」
「そうよ。でもただそれだけ」
「わかっとるわ……せやけど、おまえには――」心に正直になるほかなかった。なにもかも読まれているのだ。「この町が似合っとる」
「なによ、田舎者ってこと?」
「ちゃうわ……どないすんねん」そこから先をガクは心のなかでつぶやいた。
 おまえが都会なんかにあこがれたら、どないすんねん?
 このおれは――。
「ガク……」
 好きよ。
 それから二人はずっと手をつないだまま、甘美な森を彷徨った。
 永遠か。
 ガクは用務員が言っていたことをかみしめた。
 いまがずっとつづけばいい。
 絶望をかき消すような体験に期せずして遭遇し、ガクは高揚していた。ただ、ガクは口にこそしなかったが、はっきりとべつのものも感じとっていた。もしかするとガクの意識を通じて、サヤカもそれに気づいているかもしれない。
 誰かいるのだ。
 サヤカのほかにもう一人。
 それはすぐそばにいた。

12
 かんぬきが外れる音がして扉が開いた。
「さあ、こっちだ」扉の向こうから片岡さんが腕をのばしてきた。肩をぐいとつかまれ、美紀は怖くなった。
 なんでわたしなの……。
 石造りの螺旋階段はむっとしていた。片岡さんが侵入に使った内窓のほか、明かり採りのステンドグラスが外壁にはめこまれていたが、それでも薄暗く、カビくさかった。そこに美紀は体ごと引きずりこまれた。
 藤野くんが開放された扉のところで立ちつくしていた。「まさか……」
 美紀の手を取って階段をあがろうとした片岡さんの足がとまった。「そうなんだよ」
 片岡さんは平板な声で告げた。美紀はそれをどこか他人事のように聞いていた。
「彼女こそがわれわれの救世主なんだ」
 呆然とする藤野くんを押しのけて波多野さんが入ってきた。「即身仏の末裔が彼女なのか……戦国武将の」
「南条直幸だ。彼女はその十八代目となる」
 片岡さんは、その戦国武将の子孫をどうやって探っていったか早口で説明した。信じられなかった。美紀が蔦川学園を受験せざるをえなかったのは、転職を希望した父親の気まぐれが原因だとずっと思ってきた。ところがそれは、この地に問題の即身仏が眠ることを知った片岡さんによる巧妙な策略だったというのだ。片岡さんは自らの危険をかえりみずに時の亀裂の体験を通じて身につけた超能力を駆使して、父の思考を操作した。それにより父は西湖畔に事業本部を置く製薬会社への転職を決意し、実行した。
 それだけではなかった。美紀はがく然とした。
「もうしわけないが、きみときみの母親の思考にも手をくわえさせてもらった」
 片岡さんは言葉をかわすだけで相手の思考と記憶を読み取ることができた。だから教師や生徒たちにかかわる知られざる事実をいくつも知っていたのだ。「レイク・ウエストで仕入れてきた」というのは真っ赤なうそだった。しかし美紀は進路で迷っていた中三のころ、いったいいつ片岡さんと話をしたのか、それどころか会ったことさえ覚えていなかった。
「その結果、きみは蔦川学園に入学願書を出すことになった。すでにわたしは用務員としてこの学校に勤めていた。あとは来るべきときの訪れまでじっと見守ってきた」
片岡さんは、美紀がひどくいじめられていることも知っていた。それを苦に美紀は何度も学校をやめようと思ったが、そのたびに片岡さんは美紀の心のなかに入ってきた。「意識を読み取るのと、積極的に働きかけるのとでは使うエネルギーの量がまるでちがうんだ。蔦川エミたちがきみにひどいことをすればするほど、わたしは体力を消耗せざるをえなかった」
「わたしをこの学校に縛りつけておきたかったって言うんですか……きょうという日が訪れるまで」
「しかたなかったんだ」すがめた目の奥でなにかがぎらりと光った。海面に浮かびあがった魚のような、一瞬の鈍い輝きだった。それで美紀は理解した。
「トイレに……閉じこめたのは……」
 片岡さんはつらそうに唇をかみしめ、小さくうなずいた。
「ガスが漏れたので避難するように……校内放送が流れる直前、わたし、教職員トイレの個室にいたんです。コトミたちに見つからないようにしようと思って。でもそこで外から鍵をかけられたみたいになって出られなくなった。針金が把手にぐるぐる巻きにされていた」
「取材にやってきていたフリーライターがまさかあんなことをするなんて思わなかったからね。窮余の策だった」
 突如、銃声があがった。
 事務の小林さんが地下室にいたる扉のところに立っていた。猟銃のようなものを手にしている。その目を見て美紀は背筋が凍りついた。ライブハウスにいたときとおなじだった。二つの眼が赤々と輝いていたのだ。
「急ぐんだ」
 片岡さんのその言葉に、藤野くんと西田くんと田中くんの三人がいっせいに飛びこんできた。片岡さんはそこで扉に手をのばし、閉めてしまった。まだ下には何人か残っていた。その暴挙が美紀には信じられなかったが、片岡さんは有無を言わせなかった。
 薄闇が広がった。
「さあ、行こう。時間がない」かんぬきを元にもどすなり、片岡さんは美紀の手首をつかんだまま、狭い階段をのぼりだした。すると美紀の頭のなかにみるみる片岡さんの考えていることが滑りこんできた。でも肝心なこととなると片岡さんも混乱しているようだった。
 背後で悲鳴があがった。
 銃声が数発つづく。
 扉は木製だがじゅうぶんな厚さがあったし、石壁は堅牢だから弾が貫通することはあるまい。しかし礼拝堂のほうは修羅場になっているはずだ。美紀は階段をあがる足をとめ、片岡さんの侵入路となった明かり採りの窓から下のほうに目を走らせた。祭壇のまわりに血の海が広がっていた。そのなかにキョウコと三年生のカオリ、それに保健室の持丸さんが倒れていた。
「顔出しちゃだめだよ」
 あとから来た藤野くんに注意され、階段をのぼりだしたが、つぎの瞬間、美紀の足はふたたびとまった。
 三人を撃ち殺した小林さんは、さらなる獲物を捜すかのように礼拝堂をうろついていたが、そこで足をとめ、おもむろにエントランスに向けて発砲した。直後、小林さんは前のめりになって倒れ、動かなくなってしまった。後頭部と背中から血が流れだしていた。
「弾が境界面を突きぬけて、反対側の祭壇のほうから飛びだしてきたんだよ」しんがりを務める田中くんが当然のことのように言った。
「待てよ」藤野くんが声をあげた。「ガクがいないぞ」前を進む波多野さんと片岡さんを押しのけ、藤野くんは階段を駆けあがった。つぎの明かり採りの窓から顔を出して礼拝堂のなかをたしかめる。「サヤカもいない」
「どこ行きやがった」西田くんが吐き捨てる。
「どこも行けないよ。ほら」田中くんが階段の外側の壁に手を突っこんでいた。壁は粘土のように軟化し、拳を完全に飲みこんでいた。もちろん粘土のわけがない。境界面がついに外壁を浸食してきたのだ。
「このなかから出られないはずだ」
「捜しに行かないと。撃たれてけがをしているかもしれない」
 西田くんが下りようとしたが、それを片岡さんがとめる。「やめたほうがいい。さっき小林さんは眠ったわけではあるまい。それなのに凶暴化していた。最終段階が近づいて、直幸のパワーが強まっているんだ。脳が睡眠状態になくても憑依される可能性がある。だったらもう彼らだって変身しているかもしれない」それだけ言うと片岡さんは、ふたたび階段をのぼりだした。その手はさっきよりもしっかりと美紀の手首をつかんでいる。
 一瞬、なにか黒々としたものが美紀の頭のなかに立ちのぼった。それは例の守護神めいた黒煙に似ていたが、すこしばかりちがうようでもあった。この人はわたしにいったいなにをさせようというのだろう。言い知れぬ恐怖に襲われ、美紀は足をとめ、用務員のごつい手を振りはらった。
「来るんだ」
 片岡さんは手をのばしてきたが、美紀は身をよじって逃げた。「イヤッ……片岡さん、わたしをどうしようっていうの……?」
「たのむ。言うことを聞いてくれ。早くしないと、みんな憑依されてしまうぞ」
 美紀は藤野くんの顔を見た。疲れた目をしているが、充血しているわけではない。だがそのうしろの男の子たちとなると判然としなかった。そして彼らも美紀のことを見ておなじことを感じているようだった。狭い階段で誰もが疑心暗鬼となっていた。
 十段ほど上に木の扉が見える。ベルテラスはその先だった。
 片岡さんは必死に説明した。「憑依された者たちは、南条直幸の意思によってコントロールされている。想像してみてくれ。自我の融合により、一つの自我が二つの肉体を支配することになる。そうなると五感が倍増するように思えるが、じつはそうじゃない。五感はあくまで一つの自我に基づいているんだ。だとすると肉体は二つ必要でなくなる。片方が不要になるんだ。そして自我の融合が、無数の人々の間で起きたらどうなるか? 自我は無限に拡大し、もはや自我そのものがあたかも物質として存在することになる。それによりついにわれわれは肉体のくびきから解放され、肉体とはべつの存在、すなわち全意識というエネルギー体とつながるのだ。われわれはいま、それに向かっている。元の世界にもどりたいのなら、たのむから協力してくれ。それだけじゃない。放っておくと、直幸の強大なパワーは元の世界に大きな穴を開けてしまう。それこそが人類を破滅に追いやるのだ」
 波多野さんが訊ねた。
「全意識の世界には、亡くなった人の魂も残っているのか」
「個別の自我は融合されてしまっている。でもトドラ渓谷でわたしがあれを経験したとき、たしかに一つの巨大な自我に触れたようでいて、そこに無数の声が聞こえたような気もする」
「そのなかの誰かを特定することはできるのか」
「フィアンセに会いたいのか」
「どうなんだ。できるのか」
 波多野さんは、片岡さんがモロッコで体験した時の亀裂で犠牲になった婚約者に再会したがっているのだった。
 美紀ははっとした。
 おかあさん――。
「待って……」しかしそこから先を話す前に、片岡さんが美紀の心を読んでいた。
「無理だ」それだけつぶやくと片岡さんは一人で階段をのぼり、扉に手をかけた。
 開かなかった。
「なかから錠がかけられている。銃があればいいんだが」
「じゃあ、ここでゲームオーバーだね」
 田中くんだった。階段の一番下にいる。ようすがへんだ。薄暗がりのなか、美紀はその目をのぞきこんだ。
「誰か死ねば、壁がとまるかな」田中くんは太った体を揺さぶって笑いだした。「ためしてみようよ。どうせみんな――」
 その目を見るのが美紀は怖かった。
「死ねばいっしょなんだから」体型にしては軽やかなステップで田中くんは駆けあがってきた。美紀が悲鳴をあげるより、片岡さんのほうが早かった。田中くんの胸にサバイバルナイフが突き刺さっていた。田中くんは驚いたような顔をしたまま、石段を転げ落ちていった。
「マコト……」西田くんが絶句する。
 片岡さんが説明した。「直幸の自我、その先にある全意識界に魅入られてしまったのだ。そうなった以上、境界面の動きをとめるためにも、その命はやむをえぬ犠牲と考えたほうがいい」
「だからって……マコト……」いまにも階段を下りていきそうになるのを西田くんは必死にこらえていた。
「うそだろ……」藤野くんが声をあげた。階段の内側にある六十センチ四方の明かり採りの窓から下の礼拝堂を見ていた。つられて美紀ものぞいてみた。
 整然と並んでいた長いすが揺らいで見えた。
 四方だけでなく、垂直方向にも時の亀裂は収縮していたのだ。
「間に合うかな」波多野さんは焦りをにじませた。
「どこに向かって縮んでいるのかはわかっている」
「そうだ」藤野くんは特進生から奪い取ったナイフを窓から投げ落とした。すると十メートルほど落ちたところで、音もなくナイフは消え、直後、頭上でガツンという音がした。ベルテラスのほうだった。一同は顔を見合わせた。
 時間が迫っていた。
 美紀もそれを肌で感じ取っていた。「わたしがご先祖さまに会ったらどうなるんですか」毅然として片岡さんに訊ねてみた。
「人類を救える」
「わたしはどうなるんですか」
 片岡さんはつらそうな顔をした。「わからん……でもご先祖さまがきみに未来をあたえようとするのなら、元の世界にもどしてくれるはずだ」
「そうじゃなくて。片岡さん、わたしがなにを考えているかもう読めているんでしょう」美紀は恵比寿で楽しく暮らしていたころを思いだしていた。「向こうにいったら、わたし、おかあさんに会えるのかしら」
 片岡さんはゆっくりとかぶりを振った。「きみのおかあさんは自然死を迎えただけだ。時の亀裂に吸いこまれたわけじゃない」
 美紀は、時の亀裂の体験者がどう答えるかなんて期待していなかった。「うそよ。亡くなることに変わりないもの。霊界はおなじでしょ! わたし、おかあさんを捜すんだから!」
 美紀の華奢な体は、明かり採りの窓を難なくすり抜けた。

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