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文字数 26,865文字

45
 2000年7月 モロッコ トドラ渓谷
 赤い霧のような砂嵐のなかを這いつくばり、カリムが先にパジェロにたどり着く。そのあとに若い男がつづき、力まかせにドアを閉める。
 男は日本からの旅人だ。突如広がる静寂に砂嵐がどこか遠くの世界の出来事のように感じられた。助手席にぐったりと身を沈め、目にたまった砂粒が涙で押し流されるのをじっと待つ。声が出ないし、息をするのもつらい。
 カリムがバックシートからペットボトルをつかみだし、男に渡す。メクネスで詰めた生ぬるいミネラルウオーターだ。口にたまった砂とともに、一気に五百ミリリットルを飲みほした。カリムは黒のポロシャツだったから目立たないが、男のほうは白いTシャツだった。胸から腹にかけて広がる赤い染みが生々しかった。それに右の眉から目じりにかけて、じくじくとした赤い砂粒が筋になってへばりついている。痛みが走り、手を触れると、シートに黒っぽいものが落ちた。
 尖った石だった。
 額に食いこんでいたのだ。栓の抜けたところからふたたび出血がはじまった。「そっちはだいじょうぶか」ようやく男が口を開いた。
「石つぶてをかなり食らいましたが、けがはしなかったみたいです」流暢な日本語だった。五年間、東京に留学していたという。
「爆発……したのかな」
「みたいですね」
「何時だろう」
 カリムが腕時計を見る。偽物のロレックスは午後十時二十七分をさしている。
「そうじゃなくて」
 若い男にうながされ、カリムはキーを回した。エンジンは快調なうなりをあげ、ワンテンポ遅れてエアコンの風が猛然と吹きだした。
 2:24pm
 フロントパネルのデジタル時計は昼下がりのままだった。
「八時間か」
「車にたどり着くまでの時間を差し引くと、だいたいそれくらいになりますね」
「よく見えないな」男は助手席側の窓の向こうに目を凝らした。風が一瞬弱まり、赤茶けた壁のようなものがぼんやりと浮かびあがった。二十メートルほど先だった。下のほうが黒っぽくなっている。
 洞窟だった。
「あのなかにいたんだな。奥のほうだった」
「爆発したんです。そこまでは覚えています」
「ほら穴の外まで……十メートル以上、飛ばされたのか」
「光でした。そして……闇」カリムは顔をこわばらせる。
「ああ、たしかに」男の頭に浮かんでいたのは、砂漠には似つかわしくない光景だった。黒々とした深い森、涼風にそよぐ木々の緑、黄金色にきらめく陽光……。
 男ははっとして身を起こす。
 ギイィ――。
 耳元で聞こえたのだ。敵を威嚇する甲虫が発する鳴き声のようなごく短い音だった。不快でおぞましい響きで、一度だけしか聞こえなかった。それなのにタールの染みのようにいつまでも耳の奥にこびりついていた。
「わたしたちはなにを見たのでしょう。いったいなにが起きたのか」
「なにをしたか……だろ」消え入りそうな声で男が言った。「誰がなにをしたか……つまりおれが――」男は口をつぐんだ。カリムを相手に話しているはずなのに、いつしか自分の頭で自問自答していた。そうじゃない。やつの頭のなかにあることが、文字通り手に取るようにわかったのだ。それはあたかも自分の頭に住みつく誰かがささやきかけてくるかのようだった。
 つまりおれがなにをしたか。それが問題なのか?
 だってわたしたちがいまここにいるということは……。
 よしてくれ。
「でも結局は」カリムは語気を強めた。
それを男がさえぎる。「行こう。とにかくいまは」
 運転手兼ガイドは、アラビア語で小さく返事をすると、アクセルを踏みこんだ。
 長い夜がやって来る。
 男はそれを予感した。

44
2021年7月 山梨・西湖畔
「マジに誰もいなくなっちまった」
 タケルはラッキーストライクの火を消した。それをヒロシが見逃さなかった。
「こんなとこまでガスが漏れてくるわけねえよ」平然と紫煙を吐きつづける姿は、度胸がすわってるというより無神経すぎる。でもそこは組長の息子だ。やることがちがう。青大将が足もとにからみつく天女のタトゥーに笑われてはならないのだろう。
「だけどなぁ……」タケルはそこはかとない不安に襲われた。「なんか息苦しくないか?」
 七月七日午後零時四十三分。
 西湖をわたる風はいつもながらに体に粘っこくまとわりつき、吐き気をもよおさせる。屋上にいるとそれがひどかった。正門の向こうには青木ヶ原が広がる。ぞっとするほど静かで、タケルはいまにも吸い寄せられそうだった。こんな場所になぜたたずんでいるのか。ふとわからなくなる。今年は例年以上に行方不明者が多い。親父が話していた。親父は、レストランが休みのとき、アルバイトでトレッキングガイドをやっているが、今年は自分でも道に迷うことがあるという。いつもいるはずの野鳥も見あたらない。親父は地磁気が狂いだしているんじゃないかとマジに疑っていた。
 強烈な太陽が入道雲の合間から照りつける。
 私立蔦川学園高校は期末試験の真っただ中だった。ふだんなら大波のように絶え間なく襲ってくる蝉しぐれも、生徒たちに気をつかうかのようにやんでいた。
 昼休みが終わったら、二年生は英語と古文だ。藤野タケルはどっちも得意だった。勉強は嫌いじゃない。いまはレストランの店長を務める父親は以前、地元紙の記者だったし、母親は役場勤め。学業方面の遺伝子では、ヒロシなんかよりはるかに恵まれていた。だが目下の愉しみといえば、目前に迫った夏休みと女の子のことしかない。その点では、タケルもヒロシも変わらない。マコトもガクも似たようなものだ。ふつうの日だろうと試験中だろうと、四人そろって昼休みはここへやって来る。巨大な太陽電池パネルの裏は最高の死角で、ゴールデンウイークにはハイネケンの缶で山を作った。
「うまくいくと中止になるかな」マコトが期待をこめた。いつも以上にひどい汗をかき、風呂あがりみたいな顔をしてやがる。百六十五センチそこそこの身長なのに体重は九十キロ。アキバのオタクを絵に描いたようにぶよぶよと太り、おまけに色白ときているが、いまはかすかに上気して見えた。
 それも納得できる。タケルだっておなじ気持だった。ほんの十分ほど前、中庭の配管工事でトラブルがあり、女教頭の尾崎の声で校外避難の放送が入ったのだ。尾崎は「ガス漏れが起きたので」と切迫した声で話していた。しかしこれはたんにガスが漏れたわけではない。タケルたちは一部始終を屋上から目撃していた。現場はブルーシートで覆われていたが、屋上からはなかが丸見えだった。そこに見知らぬ男がいきなり現れ、むきだしの配管を巨大なハンマーで殴りつけたのだ。
「てゆうか、試験なんて無理だって」ヒロシが吐き捨てる。「ふつうなら、これから警察やらガス会社やらが来るんだぜ。そういうのって思った以上に時間がかかるもんさ」
「ほんとかよ」マコトのとろんとしたまぶたが開く。
 ヒロシはこの手の話はよく知っている。父親からいろいろと聞かされているのだろう。いつだったか組員の不始末でガサが入ったとき、自分の部屋まで調べられたとか言っていた。拳銃も薬物も――ヒロシはクスリだけは絶対に手をださない。母親のことがあるからだ――出てこなかったが、サバイバルナイフとラブホを盗撮したDVDを持っていかれてしまったと嘆いていた。
「野球の試合なら雨天順延だけど、試験となると教師たちも全員が付きあわないといけない。そのぶん労働が増えることになるだろ。そんなのごめんだろうよ」
「トロッピーあたりはそうだろうな」
 マコトはタバコとハーシーズのチョコバーを交互に口にしながら言った。タケルたちのクラスの副担任で物理担当の多葉田は有給休暇を一〇〇%消化したうえ、あやしい出張が多いとして、教頭の尾崎からにらまれている。無気力というより趣味のほうが忙しいのだ。大の熱帯魚狂だった。マンションは水槽だらけでさながら水族館のようだった。職員室のデスクにも小さな水槽があった。だからあだ名は“トロピカル・フィッシュ”が短くなってトロッピー。ひまさえあれば、魚たちに餌をまき、うっとりとしている。試験をやれば採点作業がある。教師にとっても面倒なんだろう。
「そうだとすると通信簿はどうすんのかな」タケルが口にしたが、それには誰も答えなかった。自分でもばかな心配だと思った。先のことはまたあとで教師が考えればいい。
「あのおっちゃん、なんやったんやろ」上半身裸になって背中を焼いていたガクが太陽電池パネルのほうに這い寄ってきた。中三まで住んでいた大阪では空手道場に通っていたといい、ここでは去年まで柔道部に入っていた。筋肉質のいい体をしている。ガクがいれば地区大会はけっこういい線いったはずだと柔道部のやつが言っていた。ガクだってその気だった。でもそうはいかなかった。家庭の事情で退部して味わったのは、バイト先のコンビニでくすねたタバコの苦みだけではないのだろう。日に日にガクの目は、どこか遠くを見るようになっている。
「変質者だろ」二の腕の刺青をぼりぼりとかきながらヒロシがつぶやいた。「よくニュースでやってるだろ。いきなり教室に入ってきて生徒に切りつけるとかいうやつ」
「いきなりでなかったやろ」
「そうそう」マコトが相づちを打つ。「雑誌の取材とかでここ何日か通ってきていた人だよ。校長室でインタビューとかしてたじゃん」
「じゃあ、なんだよ。あれも取材の一環だったってわけか?」ヒロシが眉をつりあげる。
 タケルが言った。「ガス管が腐食して漏れだす恐れがあったのを学校側が放置した。それを潜入取材して、最後に自らためしてみた」
「ありえねえ」
「だよな。いくらジャーナリストでもそこまでやったら捕まっちまう。だけど試験がいやで、生徒の誰かが頼んだって可能性はどうよ」
「生徒やないかもよ」ガクがタバコに火をつける。「教師だって試験はいややっていま話しとったやんか」
「やっぱりトロッピーなのかな。だったらちょっとは見直すんだけど。だけどあのおっさん、逃げちまったのかな」タケルは太陽電池パネルの陰からにじり出て、眼下を見わたした。中庭はもちろん、校舎のほうも人っ子一人いなかった。試験は誰だっていやだ。生徒たちは嬉々として飛びだしていった。みんなちゃんと心得ている。こんなとき、避難所で中途半端にうだうだしていたらろくなことはない。また呼びもどされるにきまっている。思いきって家に帰ってしまうか、タケルたちみたいに隠れ家にこもるかのどちらかだ。
 マコトが首をひねりながら口にする。「工事の人たちが連れて行ったんだよ。それは見た。だから先生たちが捕まえてるんじゃないかな」
「ええなぁ」ぽつりとガクがつぶやく。関西弁はタケルの耳には心地いい。調子外れに聞こえるイントネーションがやわらかなリズムとなって、ほのぼのとした気分になる。のんびり屋でお人よしのガクのキャラクターによるところも大きいのだが。しかしきょうのガクはちがった。心の底に御しがたいなにかを抱えているようだった。
「なんだよ、いきなり」
「わからんか、マコト。しんとしてなんだか別世界みたいやろ。日曜でもないんやで。平日やで。先生の姿ひとつない。こんなことってあるんやな。蝉も鳴いとらんし」
「このまま夏休みに突入したってことだろうよ」
 ヒロシがうれしそうに言うとマコトが大きくうなずいた。ガクだけが元気がなかった。タケルは思いきって訊ねた。「まだ連絡ないのか? 親父さんから」
「ああ」ガクはもの憂げにつぶやく。「あかんわ」
「だいじょうぶだって。心配すんなよ」なんの根拠もない無責任な励ましだった。ガクは言葉をかみ殺している。やつのまわりだけ真夏の空気が冷え冷えとしていた。「もう何日になる?」
「十三日目かな。数えるのやめたわ」ガクの父親は自動車部品の工場に勤めていた。大阪でも似たような仕事をしていたのだが、そっちが閉鎖されたので二年前、家族を連れて流れてきたのだ。ところがこっちでも雲行きがあやしくなり、ついに解雇通告がなされた。理不尽ではあったが、末端労働者としては会社に文句を言うひまがあったら、一刻も早くつぎの仕事を探さねばならなかった。ガクの父親はハローワークに出かけた。以来、ずっと帰ってきていない。「オカンがな……あかんのや」ガクはつらそうにスマホを見つめている。その肩の向こうに見えるのは、緑が深すぎて黒々として見える広大な森だった。「ものは考えようや。これでスマホがつながらんかったら、いちいち着信の心配せんでもええやろ」
「げっ! マジだぜ!」ヒロシが大声をあげた。タケルは学生ズボンのポケットからスマホを取りだした。
 圏外だった。

43
 顔がただれていたり、ひざから下がなかったりしたほうがよかった。うわべだけでもやさしくしてもらえるし、面と向かっていやがらせを受けることなんてないだろう。そんなことをしたら先生が飛んでくるし、世間が許すまい。てゆうか、空気のような存在として、みんな、無関心のままでいてくれるだろう。
 頭からびしょ濡れになったまま美紀は、汚れた和式便器のわきにうずくまっていた。強烈なにおいが鼻を突き、目にしみる。でも怖くて外に飛びだせなかった。
 五体満足だし、うすのろなわけではない。におうよ、なんて言われたこともあるが、あれは法事で焚いた線香が制服に残っていただけだ。ふつうに学校にきて、まじめに授業を受けている。休み時間だって誰のじゃまもしない。ハサミでびりびりにされたバーバリーのマフラーは、御殿場のアウトレットでかわいいのが安かったから買っただけだ。オヤジくさいなんて誰が思うんだろう。
 誰でもいいんだ。
 エミにしろ、キョウコにしろ、コトミにしろ、サヤカにしろ。
 誰でもいいから標的がほしいんだ。理由なんかありはしない。田舎の学校のつまらない女の子たち。だけど彼女たちに囲まれたこの学び舎こそ、いまの美紀の全世界だった。
 いったいいつまでつづくんだろう。
 一年生の夏まであんなに仲がよかったのに……。
 ディズニーランドに遠足に行ったとき、たしかにはしゃぎすぎたかもしれない。なんでも仕切ろうとしたかもしれない。だからといって、翌日から手のひらをかえされるいわれはない。はじめは無視されるだけだったが、それも一週間かそこらだった。あとはあっという間に暴力にまでエスカレートした。美紀はいじめなんて受けたことがなかった。ニュースで見るだけの別世界の出来事だった。誰にも迷惑はかけなかったし、突飛な行動だってした覚えがない。中学までは公立だったからいろんな家庭環境の友だちに囲まれて、なんとなくみんなにあわせながら目だたぬように生き抜くすべを身につけてきた。
 それが急変したのだ。
 体にあざをつけて帰ったら、さすがにおとうさんは学校に相談してくれた。だが県立高校以上に私立高校の壁は厚かった。県教委は歯がたたず、理事会もワンマン理事長に文句が言えなかった。教師はイエスマンか風見鶏ばかりだ。首謀者のエミは理事長の愛娘だった。「承りました」と電話口で告げられたが、その後、職員室には波風一つ起きなかった。
 それが一年以上つづいている。
 きょうの最高気温は何度だったっけ? 三十四度? うそでしょ。どうしようもない寒気が美紀を襲ってきた。
 両手で体を抱きながら美紀はじっと耳をすませた。人気はない。アブラゼミの大合唱だけが広がっていた。あいつらは引きあげたようだった。アンモニア臭が髪と頬とブラウスからたちこめている。キョウコとコトミが廊下の向こうからこっちを見ているのに気づき、緊急避難のつもりで教職員トイレにあわてて飛びこんだ。まさかそこがきょうの刑場になるなんて。あの子たちのどっちがやったのかわからないけど、掃除用のバケツに放尿する薄気味悪い音が聞こえたかと思うと、生温かい雨が肩まで伸びたやわらかな黒髪を濡らしたのだ。
 こんなこと許されるわけがない。でも証拠がなかった。こっちは個室にこもってしまい、誰がトイレに入ってきたのか見ていない。声もしなかった。また泣き寝入りだ。こういうときは衆人環視のなかに身をゆだねないと助けてもらえないし、あとで追及することもできない。悲しい教訓だった。
 校内放送が流れたのはそのときだった。
 ガス漏れ?
 美紀は困惑して立ちあがった。四の五の言ってる場合じゃない。本能的にそう感じ取り、クラゲのようになっていた足に力が入った。
 ドアが開かなかった。外からかんぬきのようなものを掛けられたみたいだった。まさかそんなことまでするなんて。
 放送では事故があったのは中庭だと言っていた。目と鼻の先だった。頭が真っ白になった。廊下が急にばたつきだした。美紀は狂ったようにドアに体当たりを開始した。せめてその音で気づいてくれればいいのだが。
「誰か!」
 声を張りあげた。しかしトイレに入ってくる者はいなかった。スマホは教室のカバンのなかだ。美紀は天井を見た。ドアとの間に二十センチほどのすき間がある。そこから出るほかない。水洗レバーの軸の部分に足をかけ、両手をのばしてドアの上部をつかんだ。懸垂の要領で体を持ちあげようとしたが、筋力が足りない。こらえきれずに落ちてしまった。ドアのちょうつがいのところに足をかけて梯子のようにしてみたが、つるつると滑るだけだった。
 時間ばかりがすぎた。廊下もしんとしている。ようやくドアのすき間に額が近づいたとき、美紀は絶望感に襲われた。これじゃ狭くて体なんか出せやしない。体は自然と濡れたコンクリートの床にずり落ちていった。
 おしっこのにおいがさっきよりも強く鼻を突いた。エミたちも先生たちも、学校全体が美紀のことを嫌って、葬ろうとしているみたいだった。
 なんでこんな学校に入っちゃったのよ……。
 おとうさんが洗ったタオルケットにくるまりながら毎夜思った。いまはそれがいっそうつらく美紀のうえにのしかかってきた。だってふつうにしていれば渋谷あたりの高校に通えたじゃない。
 おとうさんが転職すると言いだしたのがきっかけだった。二年前のことだった。美紀の父親は、製薬会社の研究者だった。その手の職種ではヘッドハンティングは日常茶飯事だったが、まさか自分がその対象になるなんて想像すらしていなかったようだ。あの日、恵比寿のマンションに帰ってきたおとうさんは、まるで別人のように饒舌におかあさんにいろんなことを話しだした。
 おかあさんが心配したのは一人娘のことだった。中学三年の夏だった。いちおう私立の名門女子高を目指して予備校にも通っていた。しかし単身赴任ならと夫に水を向けられなかった。おとうさんはもともと空気のいいところで仕事をしたがっていた。研究に純粋に打ちこみたかったのだ。
「いまの会社だと、結局は営業優先で仕事が進んでしまう」
 娘のことも気がかりだったが、伴侶の夢も実現させてあげたかった。悩んだすえに結論をくだしたのは、おかあさんだった。そして地元の私立蔦川学園高校の特進コースに合格後の二月、家族三人そろって西湖のほとりへ引っ越してきた。湖を見わたす新築の一戸建てだった。ログハウス風で美紀も気にいっていた。
 おかあさんが亡くなったのは、その家に越してから十日目のことだった。急性心不全だった。持病があったわけではない。病理解剖をしたものの、それ以上の原因は不明だった。言葉にはあらわしきれないほどのショックと悲しみが父娘を襲った。美紀はそれをおくびにも出さずに学校に通いだし、新しい友だちを作っていった。でもそのときから歯車は狂いだしていたのだ。足もとに忍びよる無色透明の毒ガスにおびえながら美紀はあらためて痛感した。
 どうして退学しなかったのだろう?
 そうまでしなくとも不登校ですんだじゃないか。いまになって美紀は後悔した。御殿場の材木商だった蔦川祥一が、富士山のふもとでの採石業で大儲けしたのは戦後間もないころだった。その息子の蔦川幹が二〇〇七年に創立した高校を川瀬美紀が選んだのは、自宅から自転車で通える範囲だったし、いちおう特進コースが設置されていたからだ。三年後に東京の大学を受験することを考えれば、妥当な判断だった。それに純朴で都会ずれしていない生徒が多いとの話にも影響された。いったいどこの誰がでっちあげたのだろう。いまとなっては考えるのもおぞましかった。
 かつて美紀は父とおなじ化学者になる夢を抱いていた。いまはそれもどこか遠くに霧消してしまっている。こんな田舎でどう過ごしたらいいんだろう。おかあさんがいけないんだ。肝心なときにいないんだから……。蒸し暑くて薄暗い個室で、美紀は最悪のことまで考えた。
 いつしか蝉が鳴きやんでいる。静けさがトイレに広がっていた。
 そのときだった。
 ドアのちょうつがいがきしむ音がした。隣の個室だ。ずっといたようだった。
 美紀は殺気を感じた。

42
 こんなことは想定外だった。
 パニックになって廊下をダッシュする一年生の流れにあらがいながらエミは立ちつくした。手にするキャリーバッグに足を引っかけて女の子が派手に転倒した。見たこともないさえない子だったが、お尻までめくれあがったスカートをなおし、うらめしそうな目を向けてきた。その目つきがあの生意気な川瀬美紀に似ていた。それがエミのかんにさわった。にらみ返してやったら、向こうは驚いた顔をしてふたたび走りだした。
「バーカ! どこ見てんのさ!」
 怒鳴ったらすっきりした。その後は誰もぶつかってこなかった。というより人っ子一人いなくなった。いつもあとをついてくるコトミもキョウコもサヤカもいない。一人だった。さて、これからどうする。思案のしどころだった。
 北館二階にある一年E組の教室を選んだのは、中庭の作業現場に近いからだった。梅風味のじゃがりこをくわえながら、エミはブルガリの腕時計に目をやった。
 十二時三十九分――あと二分だ。
 フェンディのキャリーバッグを引きずって教室に入り、窓辺の机に腰をおろした。一瞬、ガスのことが心配になった。しかし計画どおりなら、ガスは自然に止まるはずだった。
 パパは、東京のカトリック教会の人たちをうまく言いくるめて資金を引きだした。キリスト教徒でないくせに、カトリック系をうたう総合高校を故郷につくってしまった。もう十年以上も前の話だ。しかし金儲けのセンスだけはあった。少子化と言われるいまなお、定員数は変わらず、就職内定率は近隣の私立高校のなかではトップクラスだった。といっても大学進学率となると、そうでもない。特進コースに入ってくる連中もやはり現役では到底いいところへは入れない。まあ、就職でも大学進学でもどっちでもお好きなほうへ。ちょっと背伸びした中流層が、子どもたちをとりあえずは放りこむのが、蔦川学園高校だった。
 パパの人間性をよく知っているから、エミとしてはここに進学するのは抵抗があった。しかし勉強は苦手だし、始終遊ぶことばかり考えている。将来の夢なんて、目元と鼻のあたりをプチ整形すること以外はなにもなかった。子どものころから苦労とは無縁でわがまま放題に育てば誰だってそうなる。エミがこうなったのも親のせいだ。ならばと開き直って、まるまる三年間、遊びまくることにきめた。なにもしなくたって卒業できるのだ。成績表を操作して、どこかの大学に推薦入学することだってできる。エミにとっては、そんなことがへいきでできる腐りきった場所だった。
 学費のわりに施設は地味だ。礼拝堂なんて張りぼてみたいな安普請で、窓にはお慰み程度のステンドグラスがはめこまれているだけだ。体育館はせまいし、学食なんてプレハブ建てだ。だから中庭といっても、自転車置き場の端に季節の花がすこし植えられた花壇が点在し、古臭いプラスチックのベンチが設置されている程度だ。それをはさむようにして職員室と三年生の教室がある本館と一、二年生の教室がある北館が並んで建っている。
 職員室側の花壇の前に広がるアスファルトが、畳三枚ぶんの広さだけめりめりと剥がされていた。そこにブルーシートで覆ったやぐらが立っている。高さは二メートル近くあり、きょうの未明から作業員が入れかわり出入りしていた。配管工事の名目で穴を掘り進めているのだが、どのくらいの深さまで到達したのかはさだかでない。ただ、たしかにガス管のわきを掘らねばならないから注意は必要だと杉山は話していた。
 杉山はパパも信頼する総務課長だ。
 大学講師のようなインテリっぽい風貌で、今年、四十七歳になる。カリキュラム編成以外のあらゆる面で全責任を負っており、この男がうんと言えば、金の出し入れを伴う大方の事業が動きだす。ときどきパパの方針にもへいきで異をとなえる。その度胸にエミはひかれるところがあった。しかしその杉山でさえ、取材にやって来た雑誌記者があんなことをするなんて予想できなかったのだろう。
 エミは中庭を見わたした。
 あの男はもうどこかに連れていかれているし、作業員の姿もない。風もやみ、作業用のやぐらに巻きつけて目隠しにしたブルーシートはぴくりとも動かない。でもガス漏れとはちがう意味で爆発とかが起きるのかもしれない。破片が飛んでこない位置から監視したほうがいい。エミはひとつ廊下側の机に移動し、おっかなびっくり首をのばしてもう一度中庭をのぞいた。緊張していた。キャリーバッグのグリップをずっと握りしめたままだった。はっとして手をはなす。ぱんぱんに膨れあがったバッグは支えを失ってバランスを崩して倒れた。それを立て直そうと手をかけると、ごろりとなかのものが動いた。鈍い音が響く。廊下に目をやった。
 誰もいない。時刻は十二時四十一分をすぎた。
 いよいよなんだ。
 エミはキャリーバッグに詰めたものを頭のなかで確認した。ミネラルウオーター。これがないとやっていけない。ディスカバリーチャンネルでやっていたサバイバル番組では、サバンナでゾウのふんの搾り汁をすすっていた。冗談じゃない。ヴォルヴィックの二リットルボトルを二本入れてきた。
 あとのすきまを食料が埋めつくしている。
 サンドイッチとおにぎりは二日分しかないが、長期戦を考えたら乾物がいい。ソイジョイやカロリーメイト、チョコレートのたぐいにした。これだけでも十日以上はもつ。ほかにポテトチップスは欠かせない。プリングルスのサワーオニオンのロング缶が二つ。一度に食べすぎないようにすればいくらでももちそうだった。ほんとはカップ麺も入れたかったが、水のむだ遣いはやめといたほうがいい。それに多少の飢餓を味わったほうがダイエットに役だつ。空腹は逆にその後の養分吸収を加速するとかなんとか言って、食べながらのダイエットをすすめるサイトもあるが、そんなのうそっぱちだ。やっぱり食べないのが一番。実体験に基づいている。
 そんなことよりも気をつけなきゃならないことがある。
 急に不安に襲われ、息苦しくなってきた。エミはバッグを開いた。
 それはジッパーのすぐ下から顔をだした。小ぶりのフルフェイスタイプのヘルメットだった。材質はチョコレート色に黒光りする金属でできていた。エミはそれをかぶり、下あごを覆うプロテクターの内側に指をはわせてスイッチを入れた。ノイズキャンセリング機能付きのヘッドホンみたいなブーンといううなりが耳元で聞こえ一瞬、外の音が聞こえにくくなった。ゴーグル部分が眼鏡のように左右分かれて外に向かって突きだしているため、一見すると両生類系の化け物のかぶりものにも見える。しかし内側からは、数々のインジケーターがデジカメのファインダー内のように見えた。エミはバッグのサイドポケットから携帯用酸素ボンベを取りだし、マスクを装着した。ガスの恐怖ではない。杉山の言うことが本当だとしたら、そこに広がっているのは――。
 得も言われぬ不安が襲ってきた。
 エミはキャリーバッグを見つめた。もう片方のサイドポケットが不格好に膨らんでいた。すがるような思いでそこに手をのばす。
 一冊の日記帳が入っていた。
 エミはそれを握りしめた。
 あの子がいる。
 あの子といっしょなら怖くなんか――。
 廊下で音がした。
 川瀬美紀のことが頭をよぎった。あいつはいつだって人の死角に入って、目に見えぬ不幸の素をスプレーみたいに放っている。あの辛気くささったらなかった。いじめてるつもりなんてさらさらない。正当防衛だ。てゆうか害虫駆除にひと役買ってるだけのことだった。
 美紀ではなかった。薄汚れたTシャツ姿の男子が立っていた。丸刈りの頭をしている。見覚えがあった。野球部かもしれない。エミはヘルメットを外した。
「なに見てんのよ」
 どすをきかせたつもりだったが、声がうわずってしまった。無理やりつばを飲みこみ、もう一度喉に力をこめる。
「あんた、誰よ。このガキ!」
 少年はにやつきながら姿を消した。理事長のバカ娘が妙な格好をしていたと、いまにもふれまわりそうで腹が立った。
 落ち着かないと。
 エミはヘルメットをキャリーバッグの外側にストラップで固定した。これを使うのはもっとやばくなってからでいい。教室を見回した。取るものも取りあえずに逃げだしたらしい。机の上には教科書や試験対策の問題集、筆記用具が散乱していた。食べかけの弁当箱もあちこちにあった。机の足もとにはカバンがいくつも残されていた。エミは一番近くにあるそれに手をかけてみた。女子のものらしい真っ赤なデイパックだった。学校指定のスポーツバッグではない。けしからん話だ。持ち物検査をしてやろう。
 たいしたものは入っていない。
 薄汚れた布製の財布には二千円しかなかったし、読んでる漫画はガキっぽいものだった。隣にも赤いデイパックがあった。おそろいで買ったのだろうか。こっちからは五千円札が二枚収穫できた。つぎつぎと持ち物検査をやるうちにやめられなくなった。あっというまに八万四千円のあがりとなった。何人かのポーチからは、クラミジア用の軟膏が出てきた。あら、いやだ、この子たち、ずいぶんお盛んなのね。それにあわせるように男子のバッグのサイドポケットには、あたりまえのようにスキンが入っていた。くやしいからそのぜんぶにシャープペンの先で穴を開けてやった。一年生のくせにまったくませた子ばかりだった。
 だけどエミなんて週末はいつも新宿か渋谷に出かけるし、たいていは六本木にあるツヨシの部屋に泊ってくる。初体験は中三のときにそこですませてきた。ツヨシは最近、こっちが抱きついてもすぐ寝てしまう。ちょっとさみしい気もしたが、会社の仕事でくたくたみたいだった。「いくら電話でセールスしてもワンルームマンションなんか見向きもしない。なのにヤクザみたいな先輩がうるさくて」泣き言ばかりだった。でも週末のクラブで一番イケてるのはやっぱりツヨシだった。そんな彼氏がいることがエミにとってはステータスだった。もしかすると、クラブの連中からはパリス・ヒルトンみたいに思われているかもな。あたしってセレブ……ふふ、いい響きじゃない。
 娘の素行にパパはうるさくないけど、ママは顔をしかめている。
 だいじょうぶよ、ママ。そんなことよりパパのほうを気にしたほうがいいんじゃないかしら。あっちこっちで悪さしてるんだから。学校でだって、事務の女の子相手にへんなうわさがあるもの。自分ばっかり苦労してると、あとでばかを見るわよ。
 エミは、そんなふうにクールに考えてしまう自分もいやだった。パパの血をひいている証拠だからだ。
 一刻も早く離婚して、慰謝料をふんだくれるだけふんだくったほうがいいわね。家からパパを追いだしちゃおうよ。裁判所だって味方についてくれるわ。ジュンだってそれを望んでいると思うの。いつも厄介者あつかいされてあの子だって傷ついているんだから。パパがどこかにいけば、ジュンだって安心して帰ってこられるでしょう。
 エミは中庭に目をもどした。
 ガスマスクをした三人の男がやってきた。先頭は杉山だった。つれているのは作業員だ。ガスマスクは災害対策用に職員室にいくつか常備されていた。杉山はブルーシートの前で周囲を見まわした。一瞬、二階にいる自分と目があってしまったようで、エミは首を引っこめた。
 怖々とのぞくと、杉山はガスマスクを額の上に外していた。エミは息をのんだ。杉山は堂々とタバコに火をつけた。
 なにも起こらなかった。
 ということは――。
 ジュンのことが胸をしめつけた。エミは日記帳をふたたび握りしめた。
 二つ下の弟は、エミが中学二年のときから湖の反対側にある病院の個室にいる。いるといっても、目が覚めていることはない。ずっと眠ったままだった。エミがぐれだしたのはそのころからだった。
 パパもママもあの日、なにが起きたのかはっきりとは語らない。パパからエミに電話があったときには、弟はすでに病院で昏睡状態だった。以来、自宅に引き取ることもできず、ママが介護に通っている。パパはもうジュンなんかいないみたいにしている。てゆうか、ママを家政婦みたいに考えている。もう五年も雇っている久野さんとおんなじってことだ。つまり家には、娘と二人の家政婦がいるって感じだ。
 杉山は作業員たちと声をひそめて話していた。エミは周囲を見まわし、中庭と向こうの校舎の窓に人影がないことをたしかめた。ガス漏れ騒ぎで生徒たちがあらかた校外に避難してしまうなんて想定外だった。でも肝心の作業がはじまるときに人ばらいができたのは、不幸中の幸いだ。
「うまくいけば、あの子と話ができる」
 エミはつぶやき、ブルーシートのやぐらをじっと見つめた。杉山と作業員がなかに入っていくところだった。深さは三メートル、それとも五メートルか。その下になにがあるのか、エミの胸には好奇心と不安が拮抗しながら渦巻いていた。無意識のうちにキャリーバッグのヘルメットに手がのびる。教室はエミのほか誰もいないはずだった。なのにざわついている感じがする。それが一秒ごとにじわじわと強まっていく。
 息がつまり、エミはもう振り返れなかった。

41
「マジかよ、ぜんぜんだぜ!」スマホをかざして屋上をひとまわりしてきたヒロシが怒鳴った。「マコト、おまえのキャリアーは?」
「こっちもぜんぜん。ボクのは元々、つながり悪いもん。ヒロシたちのがつながらないなら無理だよ。地震とかあったのかなぁ」
「地震?」
「うん、そういう災害のときって電話会社のほうで強制的に発信制限するじゃん」
「発信制限?」
「みんなが電話に殺到して、肝心の緊急電話とかがかけられなくなったらたいへんじゃん」
 タケルがいらいらと声をあげた。「だけどそういうのってメールはだいじょうぶって言うだろう。なのにぜんぜんだぜ」
「そうなんだよね。妙だな。ジャミングされてるみたい」さすがはオタクのマコトだ。というより家が電器店だからその手の話には強かった。
「誰がそんなことすんだよ」ヒロシはそう言いながらもういちど屋上を回遊しだした。
「樹海のなかなら不感地帯があってもおかしくないんだけど。あそこは磁場が狂ってるからね」マコトはいぶかった。
 タケルはすでに十回以上、新着メールのチェックを繰り返している。「まいったなぁ……」連絡を待っていたのは、父親が失踪したガクだけではなかったのだ。そのことは仲間には言えない。松本由香とのことはうすうす勘づかれている。だいいち由香は、前にもほかの生徒との関係がうわさにのぼっている。生徒ばかりか教師たちともだった。図書室の司書で、今年で二十八歳になる。小柄だがスタイルがよく、いつも短くてぴっちりとしたスカートにお尻を包んでいた。ショートカットの黒髪が愛らしく、なにしろ胸がデカい。冬休みにノーブラにセーターを着て出勤してきたことがあって、ヒロシなんてふだん漫画しか読まないくせに、そのときばかりはわざわざ図書室に足を運び、帰りぎわにタッチしてきたって話だ。由香はキャッと悲鳴をあげたものの、そんなに怒らなかったとやつは言っていた。
 体もそうだが、タケルは由香の目元にひかれた。さほど大きくはないが、媚を売るように見つめてくる。ほかのやつらにもそんな目で見るのだろうかと不安になったが、どうもあれは自分に対してだけ放つ、とっておきの光線のようだった。それに気づいたのはヒロシが胸を触ってからひと月ぐらいしたときだった。タケルだって図書室なんて無縁だったが、入学したころから図書室のおねえさんのことは知っていた。はじめは結婚して、子どもでもいるのかと思っていたが、そのうち独身だとわかった。それにヒロシの話がくわわった。
 春休み最後の日、タケルはまだそのころ在籍していた水泳部の練習に参加していた。
「速いのね、フジノくん」
 夕暮れ時だった。
 水からあがるなり、声をかけられた。プールを見下ろす図書室の窓からだった。両手で頬づえをつき、けだるそうな雰囲気だった。名前を知られているとは思わなかった。照れくさくてぺこりと頭をさげたが、アシックスの競泳用水着は張りつめた。練習はそれから十分ほどして終わった。後片づけの最中も由香は窓から顔をのぞかせていた。二言三言でいい。あとでなにか言葉をかわしたかった。図書室から下りてきてくれればいいのに。タケルは残った一年生部員たちを見まわした。あしたから二年生だというのに、なんだかガキっぽく、男どうしでじゃれついていた。由香のところへ抜け駆けしないかたがいに見張っているような連中じゃなかった。でも帰りぎわ、自分だけ校舎にもどったら絶対あやしまれる。それにこっちから図書室にあがっていく理由がなかった。
 うしろ髪を引かれる思いで部室を出たときは、もう彼女の姿はなかった。昂った気持のやり場を失い、途方に暮れたそのとき、野球部の一年生が自転車で通りかかった。そっちも部活を終えて帰るところだった。話の輪ができた。たわいない話だった。タケルは思いきって「クソしてくる」と言って、校舎に走った。由香がまだ図書室にいるのなら、仲間たちには勝手に帰ってしまってほしい。階段を駆けあがる最中、自分勝手な思いがドッキンドッキン、引き締まった胸に出たり入ったりした。
 図書室の扉はまだ開いていた。奥の準備室から明かりが漏れていた。生徒はもういない。しかしさすがに足を踏み入れる度胸はなかった。仲間たちの声が遠くで聞こえた。
おれはいったいここでなにを……話がしたかったのか? それとも? 
 幻滅したとき、準備室のドアが開いた。
 時間にしてわずか十五分くらいだった。
 初体験だった。しっとりとした余韻をジャージの内側に覚えながらもどったら、仲間たちは帰ってしまっていた。以来、禁断の関係がつづいている。はっきり言ってこの三か月あまり、学校の授業はまるで頭に入らなかった。
 だがタケルがいまひそかに待っている由香からの返信メールは、けっして甘美なものではないはずだ。それが肌で感じ取れただけに、タケルは内臓をきりもみされるような気分をずっと味わっていた。あの人と関係がつづけばつづくほど、罪の意識が深まる気がしたのだ。まるで子犬のようにかわいがられながらも、タケルの頭は醒めていく。ここ半月ほどはそんな気分がつづいていた。
「なんで圏外なんだよ、こんなときに」
 タケルが吐きすてると、ガクが鋭く反応した。「ユカさんか。メール待っとるんやろ」
「ちがうって」タケルは言い逃れようとしたが、顔に出た。マコトまでがにやついている。「先輩だよ……カンタさん。卒業生。バイトの声かけられたんだ。それでメールがくるはずなんだよ」
「ふうん」マコトははなから信じていない。
 ヒロシが回遊からもどってきてからかってくる。「ユカさんはあぶないぜ。何人もくわえこんでるって話だぞ」
「ちがうって言ってんだろ」
「セックス依存症や」ガクがぽつりとつぶやいた。
「えっ」タケルは驚いた。そんな病気あるのか。
「なんだそりゃ」ヒロシが訊ねる。
 ガクが説明する。「こないだそんなようなタイトルの新刊本、読んどった。高校生には刺激強すぎるやん。なんであんなの仕入れたんか思ったら、自分で買った本やったみたいや。誰かと肉体的につながっていないと落ち着かない病気らしい」
「いいねえ、その病気。いや、病気じゃないぜ。男ならみんなそうだろう。だったらおれも仲良くしちまおうかな。まったくこいつばっかり、いいことしやがって。くやしいぜ」
 開き直って自慢してやりたかったが、そうはいかない。「なに言ってんだ、バカ」
「いつかおれもヤッてやる」ヒロシは火のついたタバコを中庭にはじき飛ばした。作業員二人と総務課長の杉山が、ブルーシートで囲った工事現場に入っていくところだった。
「勝手にヤればいいだろ。おれはあんな年増はごめんだね」
「筆おろししてもらっといて、そりゃないだろう、なあ」
 ガクもマコトもうなずいた。ヒロシはもう経験ずみだ。中学一年のとき、暴力団の組長であるやつの親父が面倒を見ているスナックのホステスが相手だったとか言っていた。以来、ヒロシは女を欠かしたことがない。まだ童貞のガクやマコトに唯一、やつが自慢できる話だった。
「ほんとにちがうんだって。しつこいな、おまえも」
「はいはい、わかりましたよ」
 電波状況は依然として改善されなかった。しかしけさ、タケルが由香に送ったメールは、たとえ電波がつながったとしても、容易には返信できない内容だった。
しばらく会わないほうがいいかも。
 それだけですべて伝わるはずだった。送信時刻はけさの八時三十八分。ひとつ目の試験の直前だった。それからずいぶんたつ。返信を遅らせてこっちを焦らそうとしているのか、それともどんな罵詈雑言を書いてやろうかと図書室じゅうの辞書を広げているところなのか。いや、子ども相手のちょっとした火遊びなんて日常茶飯事と、はなから無視をきめこんでいるのか。
 どうにも落ち着かない。逆上してへんにふれ回られたら困る。ヒロシたちならともかく、クラスのほかの連中の前では、タケルはまじめなタイプとして通っている。やはり修羅場はアナログな正攻法で切り抜けないとならないか。
「クソしてくる」自分でそう言ってタケルは幻滅した。最初のときもそうウソをついて彼女のところへいった。そして決着をつけるべきこの日も、おなじことを口にしてこそこそしなければならない。
 だけどやっぱりそろそろ潮時だろう。十歳以上離れている。二人を結ぶのは恋愛感情ではない。ただれた高校生活だ。それを痛感する出来事がちょっと前に起きた。校舎にもどる階段を下りながら、タケルはあれがいつだったか思いだそうとした。
 ちょうど二週間前だった。
 いつものようにタケルは図書準備室にいた。夕方六時近かった。まだ外は明るく、薄いカーテンごしに夕焼けがきれいだった。もう何回、この部屋を訪れたことだろう。タケルとしてはホテルとかに行きたかったが、彼女はかたくなにそれを拒み、ビニールのすり切れたソファにバスタオルを敷くやり方にこだわった。なぜ由香が外で会うのを嫌がるか、タケルにもわかるような気がした。所詮、高校生なんてつまみ食いでしかないのだ。もっとちゃんとした大人の男が彼女にはいて、しかるべきデートののち、広いベッドで明かりを落とし、本物の女豹に変身するのだろう。
 だからそのときも準備室に内側から錠をかけた由香は、タケルをソファに座らせた。タケルは隣の閲覧室に誰かいるのに気づいていた。由香だってわかっていたはずだ。なにか重たいものが壁にぶつかり、本が崩れ落ちる音がした。それが何度か繰り返された。声が聞こえた。
「死ねよ、このブタ!」
 蔦川エミの声だった。ほかにもいる。いつもつるんでいるやつらだろう。閲覧室の物音は、エミが放った呪いの言葉に触発されて、ひときわ不穏な響きへと変わっていった。タケルは気が気でなかった。
 五分ほどして閲覧室のほうが静まった。いつも以上にそそくさとズボンのベルトをはめなおして錠を開けたとき、その女の子と目が合った。散乱した百科事典の荒海のただなかで、ブラウスは汚れてボタンが弾け飛び、スカートはめくれあがっていた。右の頬はビンタを食らったように赤く腫れあがり、口のまわりには太マジックで点を打ったようにして髭が描かれていた。両手はガムテープで縛られ、上履きは履いていなかった。リノリウムの床には髪が散乱していた。無理やり切られたのだろう。それをたしかめようと一歩近づいたとき、その子は脱兎のごとく図書室を飛びだした。
 自分のふがいなさにタケルは腹がたった。いじめをやめさせようと思えばできたはずだった。たぶんおなじ二年生だ。何度か廊下で見かけたことがあった。エミたちにいじめられているとは知らなかった。タケルはふらふらと廊下に出てみたが、もう姿はなかった。憐憫の情以外にタケルはなにかを感じた。ほんの一瞬、目と目が合ったとき、二人の間になにかが結ばれたような気がしたのだ。斧を心臓にたたきこまれるような、そんな衝撃だった。
 由香との関係はその後もつづいた。いざとなると自分が抑えられない。頭がおかしくなりそうだった。だがタケルのなかでは、月夜の晩にある種の香木がむくむくと育つように、あの子のことが胸のなかでひそかに大きくなっていった。
 川瀬美紀。
 タケルのクラスからは一番離れた特進コースの子だった。何度か遠くから見まもった。いつもびくびくしているように見えた。たぶんエミたちのことが怖いのだろう。だが清純なイメージは、由香とは正反対だったし、ふつうにしていたら美人の部類に入るだろう。ほかの女子とおなじ制服姿だったが、どこかあかぬけて見えた。
 タケルは屋上から三階に下りた。
頭がくらくらすることも気持が悪くなることもなかった。ヒロシの言うとおりだ。こんなところまでガスが漏れてくるわけがない。それにしても避難放送の効果は抜群だった。尾崎真理子はへいきで生徒の退学を校長に進言する血も涙もない教頭だった。その腰巾着である音楽の前田たちが走り回ったのだろう。廊下も教室もまったくの無人だった。ふと気になって美紀の教室をのぞいた。誰もいなかった。じゃあ、図書室だってもう誰もいないかな。タケルは二階に下りた。案の定、こっちもまったく人気がなかった。
 期末試験は中止だろう。このまま下校措置が取られるはずだ。そうしたら司書の由香だって帰らざるをえない。どうしよう。帰り道で待ち伏せするか。それともメールを待つべきか。きょうのうちになんらかの結論を出したかった。美紀のことが頭にあるうちは、由香とは愉しめない。無人の廊下を図書室に近づくにつれ、そんな思いが強まっていった。
「川瀬美紀……いい名前だよな……だけどいきなりコクるわけにいかないぜ」誰もいないのをいいことに、タケルはまわりに聞こえるぐらいの声でつぶやいた。「エミのやつ、ひどいことしやがって」
 美紀は教師たちに相談しているのだろうか。しかし相手が蔦川エミだと厄介だ。父親はこの学校の経営者だった。タケルはエミとは中学までいっしょだった。あのころは金持ちのさえない田舎娘だったが、父親の学校に入っていきなり態度がでかくなりやがった。
「ムカつくぜ」
 だがどうしようもなかった。それを思うとタケルはせつなくなる。エミの父親、蔦川幹は学校経営以外にもデベロッパー「蔦川興業」の社長として、西湖周辺でリゾート開発を中心に多角的に事業を展開していた。そのなかに湖畔の観光レストラン「レイク・ウエスト」があった。不況のあおりで周辺地区への観光客は減少しており、レイク・ウエストも青息吐息であった。そこの雇われ店長こそ、タケルの父、藤野徹だった。以前は地元紙の記者だったが五年前、リストラされ、やむなく知り合いのつてで蔦川に頼んだのだった。レストランでは、タケルも中三のころから週末は無給で働くようにしている。ある日、蔦川幹が家族を連れてやってきた。父は本人ばかりか娘のエミにまでぺこぺこと頭を下げた。かつて蔦川興業の不正を追及していたころの正義感に燃えるジャーナリストの姿は、もうこれっぽっちも残っていなかった。
「まったくムカつくぜ」吐き捨てたもののどうにもならない。自分だっていま蔦川帝国の真っただ中にいるのだから。
 スマホはあいかわらず圏外のままだった。タケルは図書室の前に立った。扉は開いていた。なかで昼の読書を楽しむ生徒はいない。あの日の夕方、散らかり放題となった百科事典はなにごともなかったように整然と棚に並んでいる。やるせなさがこみあげ、タケルは意を決してなかに足を踏み入れた。
 準備室のドアは開けっぱなしだった。あわてて飛びだしたのだろう。タケルは足音をしのばせて近づいた。
「こんちは――」
 どんなに話がこじれようと、はじめのあいさつぐらいふつうにやらないと。
 準備室のなかを見てほっとした。由香は不在だった。やっぱり避難したのだ。デスクの上を見て、タケルは胸を痛めた。ビールの空き缶が三つ四つ転がり、ウイスキーのボトルも空になっていた。江戸切子のグラスにまだ残っている。ストレートで飲んでいたようだった。踵を返そうとしたとき、背後に人の気配を感じた。酒のにおいがした。まうしろだった。タケルはあきらめた。
「こんなに飲んじゃって――」
 振り向くなり、タケルは抱きつかれた。酒にまじってゲロのにおいがした。白いブラウスの胸のところに黄色い染みができている。由香は吐いてきたようだった。
「フジノくん……」泣かれるのははじめてだった。タケルのなかで黒々とした罪悪感が噴出した。「どうして……」
 こう聞かれるのはわかっていた。だがいざとなるとうまく答えられない。タケルはしばらく彼女を抱きとめ、ようやく口を開いた。
「だって……やっぱり……」
「死のうよ」
「え……」
「死のうよ」由香は両腕を首にまわし、タケルの後頭部をしっかりとロックするようにつかんでいた。
「そんな……ちがうよ、ユカさん。ほら、おれ、レストランのバイトとか結構たいへんになっちゃって……かなり深刻なんだよ。だからおれ……」
「フジノくんといっしょなら怖くないわ。ねえ、だからお願い……」由香は耳元でささやいた。以前ならこんなところに吐息をかけられたらがまんできなかった。いまは離れたくてしょうがない。だいたい面と向かって心中を持ちかけてくるなんてどうかし――
 激痛が首筋に走った。
 タケルは女を突き飛ばした。由香は書棚に背中を強打して尻もちをついた。タケルは首筋に手をやった。みるみるしみだしてくるものを見て、めまいが起きた。ガス漏れなんかよりも強力だった。学生ズボンのポケットからハンカチを取りだして傷口をぎゅっと押さえる。
 由香は立ちあがっていた。赤く染まった口を半開きにしたまま、獣が喉を鳴らすような声で威嚇してきた。その眼(まなこ)までがひどく充血している。
「なんでだよ……」
 幻でも見ているようだった。だが首筋の痛みがそうでないことを告げていた。ハンカチはもう使いものにならなくなっていた。

≪時の祈り≫
 罪の意識にさいなまれ、あの日以来、わたしは夢を見なくなった。
 というより、わたしの現世自体、夢の連続のようなものに変わってしまった。いまにして思えば、三十歳で上司とぶつかり、先行きの危うい商社に辞表をたたきつけたのは、このときのためだったのではないか。すべての物事には道理があり、理屈という細い鎖でつながっている。
 つながっているのは、生きている間だけではない。生と死は連続している。それを目の当たりにしたわたしは、もしかしたらすでに死んでいるのかもしれない。だからいまは死人がものを考え、行動している。そう思ったほうがいいのだろうか。ただ、生きていたと確実にわかるあのころとくらべ、いまのほうが目的意識がはっきりしている。凍てついた真冬の朝の晴れわたった空みたいなものだ。なにもかもがくっきりとしていた。
 なすべきことをなすためには、自己抑制するほかない。よく言われる話だが、死んでからもこれは真実だった。わたしは暮らしていくために最小限必要とされる以外、誰とも口をきかないようにつとめてきた。沈黙は金なりというが、わたしの場合、そういう理由からではない。それは無用なトラブルのもとだし、わたし自身の体力を奪う原因となるからだった。
 暮らすのに苦労はなかった。たまのカードゲームですべてまかなえた。負けることは絶対になかった。相手のカードに対するわたしの読みは、常に一〇〇%正確だった。いかさまはどこにもない。もしラスベガスにいったのなら、マフィア連中から徹底的に調べられるだろう。だが不思議なことに、金の心配がなくなると、逆に金のことなんてどうでもよくなった。これは死にびくつきながら生きているうちには絶対にわからぬ感覚だった。
 たしかめねばならないことがあった。
 わたしは帰還者をさがしはじめた。
 あれが起きたとき、わたしとおなじ体験をした者がいてもおかしくない。わたしは二〇〇〇年七月のあの日、集団失踪などの超常現象の報告がなされていないか、まずは調べた。それにはネットを使うのが一番だったが、結局は各地をこの足で歩かねばならなかった。
帰還者は、中国の山西省で一人、メキシコのグアダラハラで一人、イギリスのスカイ島では老夫婦が見つかった。バミューダ海域で漂流中に救出されたパナマ人の船員は自己抑制に失敗したため、わたしが会いにいく前夜、病院で息を引き取った。残念ながら日本では一人も見つけることができなかった。
 彼らと会ってもっとも驚いたのは、言葉は不要という点だった。あいさつ程度に口をきいたら、あとは瞬時にすべてを理解した。彼ら一人ひとりの全人生、意思、五感のすべてが、言葉をはじめとするいっさいの媒介物なしにわたしの頭のなかになだれこんできたのである。それは子どものころ、水遊びに行った丹沢で、あやまって急流にはまってしまったときにそっくりだった。父親に助けられるまでの数秒間、いっさいあらがうことができずにただ激しい流れに身をまかせるほかなかった。そのときとおなじく、わたしは翻弄されるがまま立っているのも苦しいくらいで、そばにつかまるものがないときは、そのまま相手にしがみつかねばならないほどだった。
 彼らもおなじだった。
 山西省とグアダラハラで、わたしたちはたがいに見つめあいながら、相手の目をとおして自分を見つめた。スカイ島の老夫婦だけは特別だった。あの世界から帰ってきたときからずっと“それ”を共有しているため、いわば副作用のようなものが現れていたのだ。帰ってきたときは、二人とも三十三歳だった。だがわたしが会ったときはすでに八十代に見えたのだ。あれからまだ九年しかたっていなかったのに。夫のほうはかなり衰弱し、自力では食事が取れなくなっていた。おそらくその時点で彼らは、もはや一つの自我を共有しはじめていたのだろう。
 彼らとの面会は、わたしの読みが正しかったことを裏づけてくれた。あの異次元世界からもどってくる直前、深い緑の海に覆われた岩原を誰もが目にしていたのだった。
わたしは彼らとともに、その場所の記憶をあらためて逍遥し、最後に木漏れ日の差す緑の切れ間から、頂に雪を残すその美しい峰を目にした。
 それはわたしにとって大きな衝撃だった。

40
 誰かが美紀のいる個室のドアを外から引き開けようとしていた。下のすき間から影が見える。美紀は壁に背中をはりつけた。ライトブルーのタイルが生温かい。それくらい体温のほうが下がっていた。声をあげようか迷った。あいつらがまだいるのなら悲鳴なんて聞かせたくないし、もっと恐ろしい侵入者なら……。でも助けにきてくれたのかもしれない。だけど隣の個室から出てきたのよ。耳元でドアのちょうつがいがきしむのがはっきりと聞こえた。わたしがあいつらにひどい目に遭っている間じゅう、ずっとそこにいたんだ。
 荒々しい息づかいが聞こえてきた。女性のようだ。それだけでまずは安心できた。美紀は思いきって声をだしてみた。「すいません……」相手は返事をしない。ドアをがちゃがちゃとやっているだけだった。「先生ですか……助けて……ください……」そこまで言いきり、苦しくて息を吸いこんだら強いアンモニア臭にむせかえった。外に出たらなにより先に髪を洗わないと――。
 真っ白い光がなだれこんできた。ドアが引き開けられたのだ。
 英語の古米先生だった。
 今年の春に大学を卒業したばかりの新人教師だった。いまは一年生を受け持っている。それほど美人でもないが、生徒たちには人気があった。というよりむしろ年齢が近いぶんだけ、なれなれしくされていた。試験監督をするからだろうか、きょうはかっちりとしたピンクのスーツに身を包んでいる。ふだんはもっとラフな格好をしてくるのに。
「あなた……」寝ぼけたような声だった。金網を編むときに使うような太い針金を握りしめている。六十センチほどあった。コトミたちはそれを使ってドアの引き手をがんじがらめにしたようだ。「なにしてんの?」
 隣の個室で異常な事態が起きていることぐらい、教師なら察せられるはずだ。それにさっきガス漏れ避難の校内放送があった。だったらもっと切迫した感じがあってもよさそうだったが、古米先生は逃げるそぶりなんてまったく見せない。ただぼんやりと、たったいま眠りから目覚めたみたいだった。
 先生がドアの前から一歩さがったので、美紀は怖々と個室の外に出た。洗面台の向こうの扉は閉まったままだったが、廊下に人気はなさそうだった。窓からは強烈な真夏の日差しが曇りガラスを破らんばかりに注ぎこんできていた。駐車場に面しているが、そっちも人の気配がない。蝉の声すら静まりかえっている。
 明らかに先生はふだんとちがった。呆けたような顔つきになったかと思うと、意味ありげににやついて、美紀の汚れた髪に手をのばしてきた。
「逃げないんですか?」
 古米先生はぽかんとしたままだった。
「放送流れたじゃないですか」
「ほう……そ……?」
 目つきがさらにどろりとした。鼻先に白い粉が付いている。ぞっとして美紀は後ずさった。個室のドアが後頭部に激突したが、痛みなど感じていられなかった。不思議な感じの新人教諭だとのうわさはあった。ふさぎこんだようすで教室に入ってきたかと思うと、いきなり生徒が言葉を失うほどにはしゃぎだしたりする。無断欠勤もすくなくなかった。でもまさかクスリに手をだしていたなんて。
「あんたも……やる? いじめられっ子ちゃん」病的なくらい血走った目で言われ、美紀は怖くなった。しかし先生が取りだしたのはただのタバコだった。シルバーの細身のライターを擦ったとき、美紀は首をすくめた。爆発は起きなかった。ガスは漏れてきていないようだ。先生が吐きだした紫煙に美紀は咳きこんだ。
「いっしょにやろうよ……天国行けるんだから」先生は、タバコを人差し指と中指ではさんだままピンクのポーチをまさぐり、本当に白い粉の入ったビニールの小袋を取りだしてひらつかせた。尋常じゃない。教師のくせに。「サイコーなんだからぁぁぁぁ……」よだれをたらしながら近づいてきた。「やめよう……よぉぉ……試験なぁぁんてぇぇぇぇ……」空いた手がのびてきて美紀の肩をつかむ。きゃしゃな体からは想像もできないくらいの握力だった。美紀は悲鳴をあげて廊下に飛びだした。
 本館の一階だった。
 職員室は保健室と放送室のすぐ向こうだ。だが廊下の向こうにコトミとキョウコのうしろ姿が見えた。あいつらは逃げなかったのか。美紀は気づかれぬよう足音をしのばせて階段を三階まであがった。三年A組からC組まで三つの教室がならんでいたが、避難放送にしたがったらしく人気はない。美紀は水飲み場に倒れこんだ。
 めいっぱい蛇口を開き、水流に頭を突っこんだ。助かった。恐怖による緊張が急速に解けていく。できることなら入念にシャンプーしたいし、熱いシャワーを浴びたかった。
 水流が弱まり、そのうち蛇口から一滴も出なくなった。
「なによ、これ……」
 べつの水道もためしてみたがおなじだった。断水のようだ。ガス漏れがあったというのは、中庭の工事現場でガス管を傷つけてしまったからだろう。ほかに水道管でも破裂させたのだろうか。髪はざっとすすいだ程度だ。こんなんじゃだめだ。なんとかしたかった。美紀は濡れ髪のまま、廊下をさまよいだした。いやなにおいがまだ体にまとわりついている。目を落とすと、ブラウスの胸のところに黄色い染みができている。屈辱の印だった。
 二階に下りたとき、足がとまった。一番手前の教室――三年D組だった――に、コトミとキョウコがいた。それにサヤカも仲間入りしている。サヤカも蔦川エミのコバンザメの一人だ。三人は先輩たちのカバンに手を入れている。とんでもない連中だ。でもとにかくいまは見つからないようにしないと。美紀は足音をしのばせて階段を下りかけた。ところが下から古米先生が上がってくる。ちょうど踊り場に差しかかったところだった。かといって廊下にもどれば、あいつらに――。
 逃げ道がもう一つあった。
 階段をのぼりつめて右に曲がれば、あいつらのいる教室のほうに出るが、左に曲がったすぐのところに鉄扉があった。非常用の外階段への出入り口だった。錠がかかっていないことを祈ってドアノブに飛びついた。さびついたノブがきしんだが、コトミたちが教室から顔を出すより早く、美紀はドアを引き開けて屋外に躍りでた。
 学校の西側がよく見わたせた。バレーコートとテニスコート、それに武道館だ。人影はない。美紀は慎重に階段を下りた。
 中庭の外れに出てきた。目の前に噴水があった。水がとまっている。さっきの断水で停止したのだろう。たとえ循環式だとしても、下にたまっている水はそんなに汚れてはいまい。それをつかってもうすこし髪を洗いたいし、ブラウスの染みもなんとかしたい。
 噴水に近づいたとき、足がとまった。中庭の工事現場が見えた。高さ二メートルほどのブルーシートで覆われている。その下の部分が、銭湯の暖簾のようにめくれあがったのだ。美紀はとっさに噴水の陰に身をひそめた。
 なかからヘルメットをかぶった二人の作業員が姿を現した。八十センチ四方はありそうな白木の箱を慎重に抱えている。二人はそれをあらかじめ用意してあった台車に載せた。ブルーシートの奥からもう一人現れた。
 総務課長の杉山さんだ。
 生徒と直接かかわる機会はめったにないが、いつもスーツでびしっときめてるエリートサラリーマンのような人だった。理事長の信任が厚く、教師たちへの発言力もあるという。今回の配管工事ももちろん総務課長が実施を認めたはずだ。だからたぶん、その結果起きた不始末として自らガス管の点検にやってきたのだろう。それにしてもあの箱はなんだ。
 杉山さんは労をねぎらうように二人の作業員の背中をたたいた。二人は笑みを浮かべ、ふたたびシートの内側にもどっていく。杉山さんはあたりに目をやった。美紀ははっとした。杉山さんの右手に注射器のようなものが握られている。
 なんなの……?
 杉山さんはその疑問に答えることなく、自らもシートのなかに入っていった。
 三十秒後、杉山さんは外に出てきた。おもむろに台車に手をかけ、まるで空港の到着客のような疲れた表情で、美紀がいるほうに向かってそれを押しはじめた。もう注射器は握っていない。作業員たちは出てこなかった。美紀は見つからないよう居場所をずらし、身を潜めた。杉山さんは気づかずに通りすぎていった。
 中庭は静まりかえっていた。
 学園全体が静寂に包まれていた。あんなに鳴いていた蝉たちは、どこか遠くに飛んでいってしまったみたいだった。太陽だけが真上から照りつけている。髪は乾きはじめていた。
「あら、オシッコちゃん」
 ぎくりとした。
 キョウコだった。
「こんなとこでなにしてるの?」
「きまってるじゃない」コトミがキャッキャと神経にさわる声をあげる。「シャワー浴びにきたんでしょ。でもザンネンだったね。水がとまっちゃって!」
 コトミの父親は元音楽プロデューサーで、かつては売れっ子の歌手を何人も生みだしたとかいう話だった。最近は落ち目で、こんなへんぴな場所に暮らしているのも隠遁を思いたったからだという。でも家に遊びにいった子によると、大きなログハウスはなんだか煙っぽいへんなにおいがしたし、部屋の奥には草を植えた鉢がいくつも並んでいたという。父親は大麻栽培をするために湖畔のキャビンに暮らすようになった――そんなうわさまでたっていた。
 いまのコトミは、そんな父親のひそやかな趣味に自分ものめりこんでいるかのようにハイになっていた。「でも心配いらないよ!」コトミが両手を伸ばしてきた。「お風呂入れてあげるからさ!」
 キョウコもサヤカもわっと飛びついてきた。三人が相手では抵抗のしようがなかった。あっというまに噴水に放りこまれた。足を滑らせ、体が反転して水のなかに倒れた。真夏とはいえ水は冷たい。全身ぐしょ濡れだった。
「湯かげんはどう? 気持いいでしょ」サヤカだった。「もっとちゃんと……入りなさいよ!」サヤカは美紀の頭をつかんで水に押しこんだ。美紀と三人は一年のときはおなじクラスで、とりわけサヤカとは仲がよかった。父親がコンビニを営んでいて、たまにサヤカもレジに立つので、そういうときには塾帰りによく買い物に行き、ついでに長々とおしゃべりをしたものだった。それがどうして――。
 深さ四十センチほどの水のなかで、美紀はこのまま死んでしまおうかと思った。
「やばいよ!」キョウコがおびえた声をあげた。頭を押さえつける手がなくなった。
 二秒後、美紀はいきなり左右のわきの下に手を入れられ、引っ張りあげられた。
 いじめっ子たちの姿はなかった。
「けがはないか」
 しゃがれたその声にぞっとした。声をかけられるのははじめてじゃない。きょうとおなじねずみ色の作業服姿で、ときどき話しかけられた。天気や動物の話など取ってつけたようなことばかり訊ねてきた。腹のなかでよからぬことをたくらんでいそうな感じがして、ずっと薄気味悪く思っていた。
「ここにいてくれ。タオル持ってきてあげるから」猫背の男が踵を返して校舎の向こうに走っていく。
 用務員さんだった。
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