34~29

文字数 28,196文字

34
 いつまでたっても職員会議は終わらなかった。
 タケルはもう気づいていた。水も電気も通らないというのなら、ガスだっておなじだろう。ガス漏れが収まったのは、この超常現象のせいなのだ。
 タケルたちはなにより気持を落ち着かせたかった。それには現状をしっかり把握すべきだと提案したのは、マコトだった。それで教師たちとはべつに、四人で手分けして校内を駆けずりまわり、居残った生徒がどれくらいいるのかつかんだ。
 噴水のところではダンス部の三年生が二人、途方に暮れていた。体育館では特進コースの二年生五人――うち二人は女子――がバスケットをしていた。避難指示があったのちもゲームに興じていたのだ。昼休みを削ってカンニング表作りにはげむ必要なんてなかったらしい。それよりも心身のリフレッシュのほうが得策というわけか。さすがはエリートだ。武道館には剣道部の部室に一年生が三人いた。そこまではガスは漂ってこまいと高をくくって漫画本に読みふけっていたのだ。
 北館の一階では、一年生の野球部員たちが教室の片隅で堂々とタバコを吹かしていた。ヒロシがにらむと、なかの一人が頭をさげた。眉毛がほとんどない。おなじバイト先だという。ヒロシははっきりとは言わないが、組長である父親の息がかかった悪徳金融で、いっしょに取り立ての臨時バイトをしているらしい。都内に遠征しての仕事だったから教師たちに目をつけられることもないし、ストレス解消にもなると妙なことをヒロシは言っていた。
 問題は本館二階のグラウンド側の外れにある“ライブハウス”だった。
 ときどき開催される音楽ライブの会場となる視聴覚教室のことで、遮音性の高い分厚いドアにあるのぞき窓からマコトが見たところによると、食料を強奪したとおぼしき三人をふくむ五人の三年生男子と二年生の女子三人が籠城していた。かなりの量の食べものと飲み物が確保されているみたいだった。きっとタケルたちよりひと足早く、最悪の事態を予測して行動を起こしたのだろう。五人ともヒロシとどっこいどっこいのタイプで、ボスの加納は歌舞伎町の半グレたちと付きあいがあるとヒロシが話していた。だったら小梶さんをあんな目に遭わせたのも納得がいく。しかしタケルはそれよりもむかむかすることがあった。女子三人とは、金井京子と村田琴美と榎本彩加だったのだ。
 頬が赤く腫れあがり、口のまわりにマジックでいたずら書きをされた川瀬美紀の顔が、タケルの胸を突きあげた。
 ちくしょう。
 よりによってあんなやつらが残っているなんて……きっと蔦川映見だっていっしょにいるんだろう。やがて襲ってくるはずの飢えを、小梶さんを襲って奪った食べものでしのぎつつ、あの部屋の暗がりで男たちといちゃつくにちがいない。
「まだほかにいると思うけど」学校の周囲に突如張りめぐらされた見えざる柵の前でマコトはつぶやいた。把握できただけで三十人になる。
 最初にヒロシたちがワープしたグラウンドの東端に立ち、タケルは空を見あげる。相変わらずの日差しだ。
 もうすぐ三時になる。
「まだ信じられねえ」ヒロシは目をぱちくりさせた。「絶対夢だぜ」
「だから共同幻覚だって。ボクはそう思うよ」
「おれもそう思いたいよ」タケルは生徒手帳に走り書きしたメモに目をやった。
 1年 8人
 2年 12人
 3年 10人
「なんでまじめに逃げなかったんだろう」
「まじめでなかったからやろ。いまさら後悔したってはじまらんわ」
 マコトがうなずいた。「だけどそれにしたって多いよね。やっぱりオザキの言うことなんか聞きやしないんだね」
 そのときタケルの心にわずかな灯がともった。
 待てよ――。
 つづけざまに悪いことばかりが起こるこの二時間あまりのなかで、はじめて感じたうれしいことだった。
 美紀も残っているんだろうか――。
 なんの根拠もなかったが、それは確信にも近い感覚だった。五感を超越したなにかで感じとれた。そうとしか言いようがなかったが、危機に陥った精神が救いをもとめて暴走を開始しただけなのかもしれなかった。
 グラウンドで使うライン引きの持ち手をヒロシは両手で握りしめていた。「準備オーケーだぜ」
 ガクはそのうしろで、補充用の炭酸カルシウムの大袋をのせた手押し車を用意している。「ほな行こか」
 最初のワープポイントは、学校敷地の南側に沿う県道を町のほうへ東に進んだ地点、グラウンドの端だった。そこから北に向かってマコトが慎重に歩きだした。グラウンドフェンスの外側に広がる荒れ地だった。右手を大きく横に広げ、その手には六十センチほどの小枝を握りしめている。枝の先端にはやつの汚れた白いハンカチが結んであった。そのあとをヒロシがライン引きを押しながらついていく。
 あらためて見ても信じられなかった。ハンカチはマコトの肩の高さのところで、まるで手品のように消えたり現れたりを繰り返す。タケルはそれが消える地点の向こうにそっと顔を出してみた。すると反対側にあるサツマイモ畑が見えた。そこが境界面というわけだ。その手前から小枝と腕の長さのぶんだけ内側に入ったところに炭酸カルシウムの白い線がくっきりと引かれていく。それはグラウンドフェンスにほぼ平行に北に向かって進んでいた。
 ちょうど野球のダイヤモンドを越えてバックネットをすぎたところで、急に境界面は左に折れ、学食のぎりぎりのところをかすめて西に向かいだした。
「ちくしょうめ。あとちょっとでメシが確保できたのに」片手でライン引きを押しながらヒロシはくわえたタバコに火をつけた。タケルも腹がすいてきた。こんなんだったら早弁するんじゃなかった。ほんとならいまごろ試験も終わって学校を飛びだし、マックにでも入っているころだ。いや、きょうは予備校はない。そのまま家に帰ってゲームでもしていたかもしれない。
 急に家のことが頭に浮かび、胸が疼いた。
 きのうの晩メシ、なんだったっけ?
 ライン引きがカタカタと音をたてながら学食の前をかすめて進み、体育館の手前でそれを取りこむように北にカーブを開始したところで記憶がよみがえった。
 引き肉と白滝とピーマンの炒め煮だ。
 母親の昔からの得意料理だった。
 肉を炒めてから白滝の水分でくたくたと煮て、しょうゆと酒で味つけする。簡単な料理だが、ご飯にたっぷりかければ何杯でもかきこむことができた。
 ライン引きはゆるやかにカーブしながら北西に進んだ。完全に体育館を取りこんだところで学校の敷地外に出た。そのまま湖まで行くのかと思ったら、学校の裏手と湖を隔てる木立のなかでまるで放物線の頂点に達したかのように、こんどは徐々に南西に向かいだした。ちょうどプールの真裏にあたる位置だ。そこでガクが湖のほうへふらふらと進んだ。姿が消え、数秒後にもどってきた。学校の南側に広がる樹海に足を踏み入れていたという。
 いつだったかタケルはヒロシたちと死ぬ前に食べたいものの話をした。ヒロシは納豆ご飯だと言い張った。マコトはビッグマックで、ガクは大阪のインド料理屋のキーマピラフだった。タケルはほかの連中にはわかるまいとひき肉ご飯のことは言わなかった。でもいまは断言できる。
 この状況はいつまでつづくんだろう。もしかしたらずっとなのかな。
 涙が出てきた。
 仲間に気づかれぬようタケルは目元をぬぐった。あれを食べといてよかったのかな。でももう一杯――。
 ライン引きはいま学校の西側に広がるサツマイモ畑を南に進んでいた。このぶんだとマコトの体を半分に割った境界面まであとすこしだろう。
「まさかこのままずっとってことはないよね」先頭を行くマコトが心配そうにつぶやいた。
「夢ならいつか醒めるぜ。共同幻覚ってやつなんだろ、マコト」
「うん、そうだね。そう思うのが一番だね」
 共同幻覚説にはなんの根拠もなかった。しかしいまはそれにすがりたかった。夢か幻にちがいないのだ。そう思うと、さらさらと心地よいタオルケットにくるまれているみたいな気分になった。レイク・ウエストの経営は厳しい。借金も増えてきて、ヒロシたちには言えないが、無言電話までかかってくるようになってきている。親父はいったいどこで借金しているんだか。だがそれでも家に帰りたかった。あんな親父でも、かつては新聞記者だったんだ。タケルにとっては誇りだった。
「せやけどわからんな」
「なんだよ」ヒロシは手押し車を押しながらついてくるガクのほうを振り返った。
「目の前に透明の境界面があるとするやろ、したら向こう側に見えとるのはなんやねん? 道路も森も、看板も電柱も、みんなちゃんと見えとるやん。遠くまでくっきりと。ほら――」ガクは西の空を指さした。「入道雲がわきたっとるやん。あっちはなんなんや? いつものふつうの世界なんか?」
 誰も答えられなかった。
 サツマイモ畑を所有しているのは学校の西隣の家だった。屋上でタバコを吹かしているとき、よくおばさんが野良仕事にはげんでいるのが見えた。タケルの母親と同年代だが、子どもはまだ小学生のようだった。その母屋もライン引きの白線の内側に入っていた。在宅なのか不明だった。物音ひとつ聞こえてこない。
 畑がおわり、県道をまたいでライン引きは樹海に突入した。小さな崖やうっそうと茂る下草にじゃまされて線を引くのが難しくなった。それでも最南端はなんとか把握することができた。ちょうど最北端から学校の中庭あたりをはさんで反対側のあたりだった。県道まで百五十メートルはあった。
 四人はグラウンドの東端にあたる県道までようやくもどってきた。一番最初に記した白線のポイントにライン引きがぴたりとくっついた。
「こういうのを数学的には『閉じてる』って言うんだよね。うん、完璧に閉じてるよ。抜け道、逃げ道、避難路、すべてなし。南北に長い楕円形をしてる」マコトは汗まみれだ。ずっと腕をあげていたためこわばってしまった右肩の筋肉をほぐしながら言った。
「外からはどう見えるんだろう。なんだかほんとに息苦しくなってきたよ。でっかい袋に詰めこまれたみたいだ」
「避難した連中が帰ってこないってことは」ヒロシが口にする。「入ってこられないってことなんだろう」
「ということは、こっちの異変に気づいているかも」
「さすがマコト、いいこと言うぜ。じたばたしないで待つって手もあるな」
 タケルはヒロシほど楽観的にはなれなかった。そもそも共同幻覚なら、救助隊がやってくるなんて理にかなった展開はありえないだろう。それにもうすぐ夕方の四時になる。避難したのはたしか十二時半すぎだった。救助隊がくるにはいくらなんでも時間がたちすぎていた。
 日差しはいまなお強烈だ。
 太陽はいつまでも真上にあった。

33
「あの女、追いだしてやる」
 エミはお気に入りの冷えたシャブリをあおった。いったん職員室にもどった杉山は、動揺する教師たちを校長室に集めて対策を練るように仕向けた。だが自分はちゃっかり途中で抜けだして礼拝堂にもどってきた。階段をあがってきたときは、大きなアイスボックスを抱えていた。白ワインのほか、シャンパーニュや缶ビールが冷えていた。今回の改装でパパは、教師たちに内緒で礼拝堂の地下に立派なワイン蔵をつくっていた。ヨーロッパの伝統的な地下貯蔵庫を模しているが、商売でも使えそうな巨大な冷蔵ケースも完備されている。それで世界各地から高いワインをかき集め、いつ飲むとも知れないのに寝かしてあるのだ。一九七五年のボルドーの赤なんてある。どこのシャトーか聞きもしなかったが、そんなの絶対にすっぱくなっているにきまってる。
「キミねえ」
 杉山はちびちびとワインをすすった。二〇一六年産だった。ワインの味を覚えたのは、中学三年の夏。そのころから家に出入りしていた杉山と付き合うようになったあとの話だ。ビールもいいけど、やっぱりエミはこっちのほうが好みだった。
「せっかくの新しい能力は、そういうことに使うもんじゃないよ」
「そんなのあたしの勝手でしょ」
 わざと突き放すように言ってやったら、杉山はあきれた顔をした。「困ったねえ。そんなに彼女のことがキライなら、方法はほかにもいろいろあるだろう。超能力なんて大げさなものはいらない。パパに頼めばなんとでもなるだろうに」杉山はわざとエミがいやがることを口にした。
腹が立った。エミは空いたグラスを突きだし、おかわりを要求した。
「あんまり飲みすぎるなよ」
「うるさぁい」
 勝利の美酒には早いが、ドキドキする心臓を鎮めるにはアルコールが必要だと思ったのだが、すこしばかり酔ってしまった。でもまだ吐くほどじゃない。エミはベランダから森のほうを見た。誰かいる。目を凝らしてわかった。父親が暴力団組長の西田浩たちだ。いつもつるんでいる四人組だ。
 そのなかに藤野タケルの姿があった。あいつの父親は、赤字つづきのレイク・ウエストの雇われ店長だ。パパはあそこは秋には廃止するときめているが、店長はまだ通告されていまい。閉店のひと月前にそんなことを言われたら、さぞや驚くことだろう。このご時世だ。すぐには再就職先なんて決まるまいし、パパだってそんなところまで面倒は見ない。だからタケルだっていつまでもこの学校にはいられない。学費の滞納イコール即退学。それがパパの大方針だった。
退学したらタケル、どうなっちゃうのかな。小学校からの同級生だからエミはちょっと気になったが、同情はやめた。人のことなんてかまっていられない。
 きょうは何日だっけ?
 七月七日……水曜だ。
 パパはなんて言ってたっけ。週明けには結論を病院に報告するんだったかな。だったらあと五日間しかない。そのあいだになんとかしないと。
 ジュンを失うなんて想像もできなかった。
 あの子があんなふうになる前からエミは二つ年下の弟をとても大事にしていた。かわいくてかわいくてならなかった。つぶらな瞳が愛らしく、さらさらした髪はいつだってミルクの甘い香りがした。ほかの家の姉弟もそうなんだろうとずっと思っていたが、案外そっけなかったり、仲が悪いところがほとんどだった。エミはジュンが入院する前日までいっしょにお風呂に入っていた。自分が十四で、あの子が十二歳。でもパパは無関心だったし、ママもなにも言わなかった。股のところのうぶ毛が濃くなってきたのに最初に気づいたのもエミだった。それでもエミもジュンも気にしなかった。さすがに背中を流しっこしているときに硬くなられると、恥ずかしくなったし、あの子も照れたが、だからといって翌日から交互にお風呂を使うなんてこともなかった。
娘の部屋もパパはこしらえてくれたが、一人にするとジュンはさびしがった。だから結局、ずっとジュンの部屋を使い、机を並べていた。勉強家の弟とちがい、エミは漫画ばかり読んでいたんだけど。ベッドは二段で、上があの子で、下がエミ。眠るときは毎晩、おやすみのキスをして明かりを消した。
 いつもいっしょだった。
 まるで新婚夫婦みたいだった。
 ジュンは朝起きると、いつも机に向かった。その夜、見た夢を日記につけていたのだ。想像力が豊かなジュンは、エミなんかよりずっと夢を見た。それもカラーだった。いろんな情景を細かく覚えていた。舌を巻くほどだったが、コツは、夢の終わったところから記憶を順に遡っていくようにすることと――これはほんとにあの子らしい独創的な方法なんだけど――頭をあまり動かさないようにすることだという。起きてすぐに動きまわると、小さなお皿にのった夢の残りかすがこぼれ落ちてしまう。あの子はいつもそんなことを言っていた。
 漫画のヒーローもののような夢が多かったが、幻想的で奇怪な話もすくなくなかった。将来は漫画家になりたいと言っていたが、豊富なイマジネーションはたしかにその可能性を感じさせた。
 それが一変した。
 あの子が六年生にあがった五月のことだ。
 医者は一命を取りとめただけでも幸運だと説明した。そりゃそうだろう。医者からすれば、医療技術の低さを指摘されるのは心外だったのだから。とはいえたしかに重症ではあった。家の階段から落ちて首の骨を折ったうえ、脳に重い障害を負ったのだ。
 あれから三年になる。
 胸の悪くなる狭くて陰気な個室でずっと寝たきりだった。いくら話しかけてもなんにも返ってこない。うっすらとでも目を開けてくれたら、どんなにかうれしいだろう。ママは病室に行くたびに涙を流した。ずっと一人で介護している。泊まりこむことだってある。いや、目なんか開けなくたっていい。ちょっとでも手を握り返してくれればそれでいい。
 ジュンくん、いまどんな夢を見ているのかな……おねえちゃん、ここにいるからね……。またいっしょにお風呂入ろうね……。
 海外の最新の研究では、植物状態の人間に健常者とおなじレベルの認知能力があるかどうか特殊な機械を使って診断できるようになってきているという。しかしまだ研究段階だし、あの田舎病院にはそんな機械あるわけもない。その診断さえ受けられれば、あの子を失わずにすむかもしれないというのに。
 ただ、半年ほど前、あの子の脳幹に小さな腫瘍が見つかっていた。それが徐々に拡大し、いまでは考えたくないほどの大きさにまで膨れあがっているのは事実だった。
 またしても川瀬美紀の顔が頭をよぎった。
 エミは杉山が注いでくれた白ワインを一気にあおった。総務課長はまた顔をしかめた。「一時的なものだと思うよ」
「なにが?」
「川瀬さんのことさ。一年生のときは仲がよかったんだろ。子どものキミにはまだわからないだろうが、高校時代に嫌っていた相手だって、大人になってひさしぶりに会ってみると何事もなかったかのように話したりできるもんだよ。そこが人間のすばらしさというやつだ」
 杉山は本当にエミのことを子どもあつかいする。体はものすごく欲しがるくせに、そういう気分でないときは、いつだってばかにしている。
「冗談じゃないわ。あんなやつ、未来永劫、顔も見たくない」
「理由がわからんね」
「理由なんかないわ。ただキライなのよ。わかる? 課長さん」エミはわざと挑発的に言った。しかし杉山はのってこなかった。肩をすぼめるだけだった。「たとえば家の壁に大きなクモが張りついていたとするでしょう。あの感じよ。皮膚感覚的なものね」
「皮膚感覚的な理由にもとづくいじめか」
「人聞きの悪いこと言わないでちょうだい」
「やっていることはおなじだろう」
「ふん、勝手にそう思っていればいいわ」エミはタバコに火をつけ、胸いっぱいに吸いこんだ煙を杉山に吐きかけてやった。「いじめ? ぜんぜんわかってないよ、杉山さん。そうじゃないの。正当防衛なのよ。あいつがそばにいると、あたし、ものすごく気分が悪くなって体調も悪くなるの。だから近寄らないでほしいの。ただそれだけ。あいつがこの学校から出ていってくれたら、あたし、もうなんにもしないもん」
「まるで死神あつかいだな」
 死神――。
 気にいった。まさにそのとおりだった。「そうよ。いっつも辛気臭くって死神に憑かれてるみたい」
「そうだったかな。意外とかわいい子だと思ったけど」
「バーカ!!」
 エミはグラスを棺に投げつけた。派手な音があがって粉々に割れた。杉山は顔色一つ変えない。エミはまくしたてた。
「あいつ、この学校に入る直前に母親が亡くなったのよ。それを去年の秋、ディズニーランドに行ったときまでずっと隠していた。毎日、毎日、仏壇にお線香供えて、死んだ人にお祈りを捧げてから登校してきていたのよ」
「それのどこがいけないんだろうね」
「イヤなのよ、あたしは!」エミは泣き声になって叫んでいた。こんなに動揺するのは、ジュンがこのままずっと植物状態だと知らされたとき以来だ。「あいつは毎日、死んだ人を背中におぶって学校にきてるのよ。教室に着くなり、それを自分の席に置く。そのうちそれがお部屋の芳香剤みたいにプンとニオッてくる。不幸が伝染してくるのよ」
「ひどい……いや、それはエミ、キミの考えなんだから、そういうふうに感じるのもありなのかもしれない」
「でしょ! だからすこしでも遠ざけておきたいのよ」
 あいつの母親がどうこうではない。人の死そのものが放つ悲しいにおいをそばで嗅がされたくなかったのだ。
 おととい、ジュンの脳死判定が行われ、脳死が確定した。肥大化した腫瘍の影響が大きかった。悪性だった。あとは両親が生命維持装置を外すかどうかの結論をくだすだけだった。そのリミットがあと五日。パパなら葬儀社の手配とかもうすませているかもしれない。
 信じられなかった。
 あの子の体が冷たくなるなんて……。
「なるほど、弟さんのことか」わけ知り顔が心底ムカついた。「怖いんだな」
「なに言ってんの。あんたに関係ないじゃない! なにがわかるっていうの!」
 恐ろしいほどの剣幕に総務課長はたじろぐ。「わかった、わかったよ。だけどその神秘に近づくためにここに来たんだろう」
「え……」
 だがすぐにエミも理解した。そうなのだ。ジュンともう一度話し、医者やパパたちをあっと言わせるためには、避けて通れないのだ。こっちの世界にやってくることが。
 死の世界に近づくことが。

≪時の祈り≫
 二〇一四年の春がわたしにとっての大きな転換点だった。
 南条直幸のことを知っていたのは、西湖東岸のキャンプ場で平日の昼間だけ管理人をしている老人だった。九十歳を過ぎたいまも、よたよたした足どりながら石ころだらけの敷地内を歩きまわり、ときどき狼藉をはたらく若い連中をどやしつけていた。戦時中は陸軍の一兵卒としてガダルカナル島決戦をくぐり抜けてきていた。
 老人のことを教えてくれたのは、富士河口湖町で長年、小学校の教員をしていた男だった。
「その手の話なら真之介さんがいい。富士山信仰に明るいし、羽黒山伏が調伏のため樹海に入ったまま出てこなかったとか話していた」
男がそう口にする前から、もちろんわたしにはそれがわかった。男はあえてわたしに言わなかったが、真之介翁は話のくどさにかけては町内で右に出る者がいないようだった。真之介翁本人とあいさつをかわした瞬間にすべてを理解したわたしには、たしかにそれは苦痛以外のなにものでもなかった。
 それでも老翁の意識の手触りはふつうとはちがった。灰色のざらざらした膜のようなものが記憶の水面をすっかり覆っていた。その内側に広がっていたのは、大半がガダルカナルでの悲惨きわまりない体験だった。胸が痛んだ。何時間も、何日もかけて話に耳を傾けてあげたい衝動にも駆られた。いっしょに出征した幼なじみがつぎつぎと目の前で殺され、飢えと病に倒れたのだ。意識の奥に横たわっていたのは深い罪の意識だった。それで引き揚げ後、鎮魂の意味もこめて郷土史、とくに地元に伝わる信仰について調べるようになったのだ。
 もう二十年近く前になる。老翁は、山伏として樹海に入ったかつての戦国武将、南条直幸のことを知り、その足どりをノートにまとめていた。念のためそれを借りだすことに成功したわたしは、ノートに書ききれず、彼の記憶のみに刻まれたいくつかの事実もしっかりと自分のなかに落としこみ、キャンプ場をあとにした。
 直幸が故郷の尾張でなく、青木ヶ原を目指したのにはわけがあった。
 一五八二年の徳川家康による甲州攻めのさい、直幸は途中で通過した青木ヶ原に立ちこめる濃い霧のなかで幻夢を見た。それは自分が天下を統一して、家康でさえも足もとにひれ伏させるという壮大な幻覚だった。ところが直幸は興奮に打ち震えるどころか、逆に意気消沈してしまった。眼前に現れた幽鬼が言うには、直幸は四百三十九年後に天下人となるというのだ。正夢だとしても、そんな時代にまで生きているわけがない。とはいえ、なんとかして天下を取ってみたい。だったらどうしたらいいか。気も狂わんばかりに訊ねたところ、幽鬼は目の前の巨岩を指さし、その下に掘った穴蔵での入定を告げたのである。
 戦いに明け暮れていた直幸には、仏の道の心得が欠けていた。そこで一年ほど、諸国を旅したのち、ついに羽黒山にたどり着き、山伏として修行を開始したのだった。そして八年後に舞いもどり、意志を完遂した。
 老翁は、わたしのフィールドワークをはるかに超える地力で樹海を歩きまわり、ついに幽鬼がしめした巨岩を自力で探しあてていた。二〇〇六年のことである。その写真もノートに貼りつけてあった。軽自動車一台ぶんはありそうなほぼ卵形をした岩だった。風雨に長年さらされて角ばったところが消えてしまったが、もとは富士山噴火による火山岩のようだった。しめ縄らしきものがかけられた跡もあり、老翁はその下に直幸が眠っていることを確信した。西湖の南岸だった。その成果は町の教育委員会に報告された。しかしもはや掘り起こすことは不可能だった。
 新しい高校の建設予定地として造成工事が始まっていたのだ。
 わたしが蔦川学園にはじめて足を運んだときは、巨岩のかけらもなかった。アスファルトに埋めつくされ、いかにも人工的な花壇と噴水が設けられた中庭になっていた。だがその地こそが、われわれ帰還者がともにイメージした約束の地、肉体を超越した完璧なる魂への入口なのだった。わたしはそのとてつもないエネルギーに圧倒され、確信を得た。たしかに富士山周辺は世界的にも有数のパワースポットとして知られる。火山地帯特有の磁場、森の精気、豊かな水脈などがその理由としてあげられる。だがとくに直幸の眠る場所は、あちらの世界を経験してきたわたしにとっては、恐ろしいくらいだった。光の渦が無数の呼び声となって迫ってくる。そんな感覚に始終つきまとわれた。
 もはや発掘なんてする必要はなかった。そんなことをしたところで遅いだろう。
 つぎはいつ起きるか、わたしは計算した。
 ぐずぐずしてはいられなかった。
 光の渦はきっと膨大な災厄をもたらすであろう。それを運命とあきらめるのも一策だろう。現世に見切りをつけるのなら、それでもよかろう。しかしわたしはその道を選ばなかった。これまでの調査記録をすべて読みなおし、あることに思い至った。かすかな希望だった。それをたしかめるべくわたしは一路、モロッコに飛んだ。

32
 いつまでたっても放送が入らなかった。
 サバイバルナイフなんて見るのも怖かった。しかし片岡さんは真剣な目をしている。美紀はそれが恐ろしかった。
 古米先生のことを思いだした。あれはクスリのせいだったのだろうか。その話を片岡さんにすると、ようすを見てくると言って出ていった。
 美紀はしんとした部屋で一人になった。掛け時計の秒針の音だけが聞こえている。外はさんさんと日差しが降り注いでいるのに、部屋は薄気味悪かった。ほかに誰かいるような気配がした。視線を感じるのだ。そんなはずはない。片岡さんは独り暮らしなんだから。でも柔和な印象とは裏腹の一面も美紀は垣間見ている。小さな家でなにをしているか知れたものではない。ある平凡な公務員の男が床下に誘拐した子どもを何年も監禁していたというネット記事を読んだことがある。美紀は立ちあがった。逃げるならいましかなかった。
 玄関であわててスニーカーを履き、庭に干したブラウスとスカートを回収した。着替えているひまはない。見つからぬよう裏門から学校にもどり、体育館のわきを抜けて北館の裏手に出た。片岡さんの姿はなかった。美紀は校舎の西の外れ、ちょうどバレーコートが見わたせるあたりに顔をだして、ようすをうかがった。古米先生がいた本館の職員トイレに向かうなら、北館の東を回るよりこっちを通るはずだ。
 案の定、片岡さんのうしろ姿があった。
 美紀は踵を返し、北館と体育館のあいだの小道を走った。あいつらに会ったらどうしよう。でもいまはとにかく職員室に逃げこむしかなかった。昇降口から校舎に入り、本館にいたる渡り廊下を進む。三人組の女生徒の姿が見え、足がとまった。キョウコたちではなかった。三年生だった。売店のところで誰かと言い争っている。美紀は神経過敏になっていた。怖くなってあともどりし、紙パックジュースの自販機の陰に隠れた。
 自販機は扉が壊されていた。一本も在庫がなかった。断水していることを考えれば、理由もわかる。略奪したのだろう。売店はもっとひどいことになっているかもしれない。
 中庭に出るドアに据えつけた窓からブルーシートが目に入った。
 ガス漏れがあった作業現場は、何事もなかったかのように静まり返っている。ブルーシートは微風にかすかに揺れていた。二人の作業員はどうしただろう。総務課長の杉山さんはあのときなにをしたのだろうか。手に注射器のようなものを持っていたけど。
 うしろで足音がした。誰か近づいてくる。
 美紀はドアの鍵を開けて中庭に出た。左右の校舎から見られている気がした。でも誰かの目があるなら、いじめっ子たちだって大っぴらにはひどいことはすまい。美紀は中庭の中央にふらふらと進んだ。その先に噴水が見えたが、キョウコたちの姿はなかった。でもあっちは死角がある。近づくのはよそう。
 風でブルーシートの端が大きくめくれあがった。
 人の腕が見えたような気がした。
 まさかさっきの……。いじめっ子のことなどすっかり忘れて駆け寄った。
 ブルーシートのなかはむっとする暑さだった。穴の深さは約三メートル。配管なんてどこにもない。かわりに穴のわきに金属製の棺のようなものが置いてあった。まさかそれが埋まっていたのだろうか。それにしては真新しい感じがする。穴は日本史の教科書に出てくる古代遺跡みたいな感じだった。正方形の穴の四方に石が積みあげられ、底の部分にも石が張ってあった。石室のようだった。さっき総務課長の杉山さんは大きな木箱を台車で運んでいた。きっとここにあったものを掘りだしたのだろう。
 かわりにそこに二人の作業員が折り重なっているわけではなかった。人の腕かと思えたのは、脱ぎ捨てた作業着の袖が見えただけだった。穴の縁にはズボンが引っかけてあった。シートに囲まれてなかはたしかに暑い。でも裸になって作業をしていたというのか。穴の底には上下もうひと組の作業着が落ちていた。ズボンのなかに下着も見えた。その下に靴が転がっている。穴のもっと下に温泉でも湧いているのなら話もわかる。さしづめここは脱衣場というわけだ。でもそんなはずはない。作業員はどこにも見あたらなかった。美紀が片岡さんの家にいるあいだに素っ裸で帰ったのだろうか。それともここで服を着替え、靴も履き替えて昼食に出たのだろうか。それにしてはあまりに不自然だ。わざと脱ぎ散らかしたようだった。それに下着まで――。
 足音が聞こえた。
 噴水のほうからこっちにやってくる。美紀は外に出られなくなった。シートのすき間からのぞくと、片岡さんがテニスコートのほうからリヤカーを引いて近づいてきていた。作業員たちのことを告げようか迷った。片岡さんはサバイバルナイフで人殺しをするようそそのかしてきた。用務員として信頼していいのか判断がつかない。
 リヤカーは目の前を通過した。どこか疲れたようすで、美紀のことなど気づかない。頬に赤い筋が二本見える。ひっかき傷のようだった。荷台が目に入った。美紀は首をかしげた。桃色の布が折りたたまれて載っていた。洋服のようだった。赤い染みで汚れている。生地の感じとボタンのようすから女性もののようだった。隣には茶色いパンプスが転がっている。服にも靴にも見覚えがあった。
 美紀は声をあげそうになった。赤い染みがなんであるかわかったからだ。
 どうして……。
 シートのすき間から用務員のうしろ姿を目で追った。リヤカーはかたかたと音をたてながら荷台を揺らしている。職員トイレでクスリを使っていた英語教師は、いまどんな格好をしているのだろう。トイレを出たあと、ふらふらと校舎をさまよっていた。そこでハイになりすぎてつぎつぎと服を脱いでいったのだろうか。
 足もとに散らばる作業着に目をやり、不安になる。
 たしかに服を脱ぎたくなるくらい暑かった。でも常識をわきまえているのがわたしだけということはなかろう。売店にいた三年生たちだってちゃんと制服を着ていたじゃないか。
 片岡さんの顔のけがが気になった。あれは転んだり、ぶつけたりしてできた傷ではない。クスリのせいでおかしくなった女教師を見たら、片岡さんはサバイバルナイフにも匹敵する凶器を腰から取りだすんじゃないかな?
 もう校内放送なんか待つつもりはなかった。電話が通じないのなら、いますぐ学校を出て警察に知らせないと。いや、そんなことよりとにかく逃げだしたかった。
 おかあさん……。
 一番そばにいてほしいのは母親だった。それに思いあたり、胸が疼いた。ひざから力が抜けてしまいそうなぐらいだった。それをこらえて噴水のわきをかすめ、テニスコートに出た。その向こうのサツマイモ畑とは、高さ十メートルほどの金網で隔てられている。飛びだしたボールを取りにいく必要からか、下のほうに人が通れるぐらいの切れ目があった。畑を越えて県道に出たら、あとはひたすら走るだけだ。歩いたとしても三十分かそこらで家に着くだろう。そうしたらおとうさんに連絡しよう。
 もう学校にはもどるもんか。
 絶対に。
 美紀は心に誓い、金網の切れ目に体をねじこんだ。

31
 職員会議は四時すぎに終わった。
 タケルたちのほか、何人かの生徒が詰めかけていた。そこで尾崎が事態を説明し、対応策を発表した。それは在校が確認されている生徒三十人を体育館に集め、そこで救助を待つというものだった。
 職員室には、尾崎教頭を筆頭に、教務主任の前田、生徒指導の鵜飼、化学の祐成、数学の羽曽部、物理の多葉田、現代文の鳥居が残っていた。保健室では、体育の辻本と売店の小梶さんが寝ていた。ほかに総務課長の杉山、事務員の小林、養護教諭の持丸、それに用務員の片岡も残っている。
 羽曽部と多葉田が、台車を押して階段の下に向かった。タケルたちも手伝った。本館一階の階段下には、全校生徒が三日は暮らせる非常食が備えてあるのだ。生徒たちの多くが空腹を訴えるようになっていた。
 不安は的中した。
「防災担当は辻本さんだろ」羽曽部がいじわるそうに言った。教室でできの悪い生徒を立たせて徹底的に個人攻撃を行うサディストらしく、担当者の無責任をあげつらった。
「なにやってんだよ」タケルも同調したい気分だった。何年も在庫の入れ替えをしていなかったのだろう。ことによると、開校時から十年以上ものあいだ、ずっとそのままだったのかもしれない。ポリタンクの水はすべて腐敗していた。煮沸してもそんなのは口にしたくない。けんちん汁と野菜シチューの缶はどれも穴が開いていた。レトルトのご飯ものは、海老ピラフからシソわかめご飯までいろいろ用意されていたが、どれもカビだるまとなっている。
 乾パンの缶は大量に積みあげられていたが、手にするのははばかられた。どれも機械油のようなものでべとついている。羽曽部が顔を近づけるや「うっ」とあとじさった。「ネズミの糞だ」ブリキ缶のあちこちに齧ったような穴が開き、中身がこぼれだしているものもあった。
 倉庫の一番奥にダンボールの大箱があった。羽曽部がそれに手をかけた。「これだけか」ビニール袋に包まれたリッツクラッカーの保存缶が見えた。「ないよりマシだけどな」
 百二十五枚入りの缶が十個ある。台車なんていらなかったが、生徒に持たせるとガメるやつがいるからと、羽曽部が大箱を台車に載せて体育館に運んだ。衆人環視のなか、配給が行われ、とりあえず一人あたり二十枚が配られた。ぜんぶ配ってしまうべきだとの不平が出たが、ほかに生徒が居残っている可能性を羽曽部は指摘し、残りをふたたび台車に載せて職員室に帰ってしまった。
「こんなんでもつの?」ヒロシの知り合いである三年生のサツキが心配そうに言った。
「だいじょぶだって、サツキさん。一時間もすりゃ、誰か助けに来るって」タケルは、ヒロシの楽観的な性格がうらやましかった。誰もが不安を感じてるっていうのに。
「長引くと怖いよね」マコトはすでに半分近く食べてしまっていた。
「気をつけたほうがええで。あんまり食べすぎると、喉渇くやんか」
ガクに言われ、クラッカーを口に運ぶマコトの手がとまった。「それもそうだよね」マコトはたいせつそうに残りのクラッカーをティッシュに包み、ズボンのポケットにしまった。「ほかに食べるものないのかな」マコトは、生徒たちの監督役として一人で体育館に残る多葉田に訊ねた。
「こっちが聞きたいくらいだねえ。キミたちなにか持ってないの?」多葉田はおよそ教師らしくない。東大法学部の出身だそうだが、官僚にも一流企業にも就職せず、どういうわけか高校教師となった。そして毎年おなじ授業をくりかえすサラリーマン教師を地道につづけている。いま四十歳ぐらいだが、髪は薄くなりかけている。当然ながら独身だった。そのさびしさというかもの悲しさをまぎわらすのが熱帯魚の飼育というわけだ。
「先生たちこそ、なんか持ってないの」タケルが聞いた。
多葉田は、気の抜けたペプシみたいにしれっとして言った。「あるわけないよ」
「トロッピー、熱帯魚のエサは食えないのかよ」ヒロシがからかったが、気色ばみもしなかった。
「食べられないこともないと思うけど、やめといたほうがいいな。それにあれはやっぱり魚たちのものだから」
「まだそんなこと言ってんのかよ。まさか魚にエサやるんで逃げ遅れたとか言うんじゃねえだろうな」
「そうだよ」多葉田は平然と言った。「いけないか?」
「アホかよ。だからトロッピーって呼ばれんだよ」
 多葉田はいくらばかにされても顔色ひとつ変えない。
「せやけどサバイバルってことになったら、魚のエサどころやないで。ションベンでも飲まなあかんやろ」
「やめてよ。気持ち悪い」サツキが整形した鼻筋にしわをよせていやな顔をした。
「いつまでつづくのよ」サツキの腰巾着とも言うべき小太りの女子だった。トモコという名前だ。「気がヘンになりそう」
 体育館の外れでは、バスケットに興じていた連中がいまは車座になってシュンとしている。すすり泣きも聞こえる。その隣で野球部と剣道部の一年生たちが堂々とタバコを吹かしていた。だが誰も騒いだりはしていない。みんなあの境界面を体験しているのだ。あらゆる感情が失われたかのように放心状態となっている。
 共同幻覚か。
 だったら醒めないでもいいから、せめて本当に幻であってほしかった。いや、やっぱりおかしい。これはやはりおれが夢を見ているだけなんだ。タケルは気が狂いそうだった。
「うちに帰りたいよぉ」トモコは目に涙を浮かべていた。
「帰れるって」いっしょにつるむカオリがなだめたが、元気がないのはおなじだった。
 タケルはリッツを一枚口にした。塩味が刺激的で、とまらなくなりそうだった。残りのコーラにすこし口をつけ、なんとか空腹をおさえつけた。教師にしろ生徒にしろ、食べものや飲みものを隠し持っているやつがいないわけがなかった。
 ライブハウスだ。
 あの連中はどれくらい食料を奪っていったんだろう。なにより飲みものだ。
「加納たちが小梶さんを襲ったんだ。ライブハウスに籠城している」
 多葉田は嫌悪の表情をした。以前、多葉田は加納に殴られたことがあった。
「食いものを強奪したんだ」
「加納くんたちか」
「くん、じゃねえだろ」ヒロシがあきれる。「しっかりしろよ、トロッピー」
「そのうち助かるさ。そうでなくとも教頭がなんとかするだろ。いちおう報告はしとくから」多葉田はそう言い残し、体育館をあとにした。
「マジ使えねえな」
 空腹には勝てなかった。タケルたちはいやいや視聴覚教室に向かった。
多葉田は役目を果たしていた。教頭と前田が、ライブハウスの扉の前で声を張りあげていた。
ほんの一瞬、扉が開いた。
「ぶっ殺す!」
 声でわかった。加納だった。前田の体が廊下に弾き飛んだ。白シャツのみぞおちのところにくっきりと革靴の足形がついていた。
「マジかよ」
 ヒロシは鼻をひくつかせた。タケルにもわかった。カップ焼きそばのにおいだ。タケルは扉にある小窓からのぞいた。売店のものだろう。電気ポットがあった。それに奪ったミネラルウオーターを入れて作ったのだ。
「あいつら!」
 ヒロシがいきりたち、ドアノブをつかんだ。びくともしなかった。前田は四つん這いになったまま息ができずにいる。教頭はおろおろするばかりだった。腕力がもっともありそうな辻本は重傷を負い、保健室で横になっている。ほかに頼りになる教師はいなかった。あとは事務の小林ぐらいしかいない。
 妙なにおいがした。
 葉巻のようなきついにおいだった。
「ハッパやな」ガクがうなる。「コトミやろ。回しとるんや」
 ヒロシは小窓に顔を張りつけた。
「死ねばいいんだ。死ぬまで吸ってりゃいいんだ」苦々しく吐き捨てる。ヤクザの息子のくせに、やつはハッパに関しちゃ、きびしい。てゆうか絶対に手を出さないし、タケルたちにもまるで生徒指導の教師のようにその害悪をふれ回っていた。もちろんタケルだってあんなものに手を出すつもりはない。末路が見えているからだ。ただ、ヒロシが神経質になるのはわけがあった。母親だ。かたぎだったが、ヒロシが六年生のとき、クスリに手を出した。組員とできてしまい、そいつから分けてもらっているうちに抜けだせなくなったのだ。
 ヒロシの父親は事実を知っても離婚はしていない。組員には落とし前をつけさせたが、女房を責めることはなかった。責められる状況でないのだ。ヒロシの母親はいま施設にいた。そこで長いこと治療を受けている。芳しくなかった。見舞いに行くのがつらい。最近ヒロシはよくもらす。でも父親がよく言うそうだ。それでもあれはおまえの母親なんだ、と。ヒロシは心の深いところで傷を負っている。それがタケルにはわかったが、どうしようもなかった。友だちとして見守るしかできなかった。
「ちくしょう、サヤカまでおる。なにしとるねん」ガクはいま一度ノブを握りしめたが、ドアはぴくりとも動かない。「あのアホが……コトミがあかんのや、あんなんと付きあっとるのがあかんのや……おい! サヤカ!」しかし分厚いドアは完璧な遮音効果を発揮していた。
 日差しは弱まる気配を見せない。
 マコトが一計を案じた。「怖いのは空腹よりも渇きだよ。暑い体育館にいたら余計水分を失うことになる」
 そのとおりだった。かといって教室にエアコンはない。職員室と校長室と事務室、保健室以外にエアコンが備わっているのは、図書室しかなかった。
「あそこかよ……」タケルは気がひけたが、ヒロシもマコトもガクもそっちに向かって歩きだしている。タケルはしぶしぶついていった。
 図書室に由香の姿はなかった。
 準備室のドアをブロックした本棚がずれている。すき間をつくって逃げだしたんだろうか。首筋の痛みがぶりかえしてきそうでなかをたしかめる気になれなかった。
「おぉ、やっぱエアコン最高だな!」マコトは閲覧用の机に大の字になって寝そべった。「太陽電池さまさまだ」
「ユカさん、避難したんやろか」
「どうなんだよ? タケル」
「えぇ……知らねえよ」
「うそつけよ。おまえ、さっきここに来てたんだろ」
「ちがうって」
 ガクがすき間から準備室に入っていった。
「おらんで!」
 それを聞いてタケルはほっとした。でもどこに行ったのだろう。
 ガクは、飲みかけの五百ミリサイズのミネラルウオーターを手にしてもどってきた。「食いものはない。缶ビールは空だった」
 水は半分ほど残っていた。まだ飲まずに残しておくことで四人は合意した。
「ライブハウスの食いもの、なんとかしたいね」マコトは空腹に耐えかねていた。
「許せねえ。絶対に許せねえ。あいつら、ぶっ殺してやる」
「せやけど、たしかに水も食いもんもぎょうさんあったやんか。なんとか奪えんやろか。サヤカもあんなところにおったらあかんわ。親父さんに怒鳴られるで」
「女はなんとかなるんだろうけどね。加納たちはちょっとな」
 タケルが不安を口にすると、ヒロシがバタフライナイフを取りだした。「おれがやってやるぜ」
「ほんなら、おれもやったるで」ガクも拳を握りしめた。ヒロシもけんかが強いだろうが、体格ならガクのほうががっしりしている。それにやつには空手と柔道がある。しかし食料を奪いあうことになったそもそもの原因について、もうすこし考えてみるべきだった。
「さっきから考えていたんだけど」それはタケルだけでなく、ほかの連中もうすうす気づいていたことだった。「あの雑誌ライターの人、妙なこと口走っていたよね。何人残ってしまったんだとか」
「ああ、そう言ってたぜ。おれも聞いた」
「ガス中毒の危険にさらされた生徒のことを心配しとったんかな」
「自分でやっといてそういうのってないよな」
 タケルに言われ、ガクもうなずいた。「ほんなら、なんだったんやろ」
「てゆうかなんか知ってるんじゃないかな」
「ボクもそう思う。ただの気のふれた人とは思えないよ」マコトが大きくうなずく。
ヒロシが身を乗りだしてきた。「尋問しにいくか?」
 タケルは首をひねった。「先生たちも聞いたはずだ。ろくな答えがかえってこなかったんじゃないか」
「そうかもしれないね。だけど先生たちには理解できない話だったってことはないかな」共同幻覚説をとなえるマコトらしい推理だった。どっちにしろタケルは話を聞いてみてかった。
 四人は男が監禁されている会議室に向かった。途中、二階のトイレで四人そろって連れションをした。赤外線式の水洗便器だったが、水はもう流れない。
「手も洗えねえのかよ。クソしたくなったらどうすりゃいい」
「ヒロシなぁ、そんなん穴掘って野グソにきまっとるやろ。水の流れない水洗トイレなんて、あかんわ。くさいだけやん」
 いちもつをしまい、振り向いたときだった。
 タケルは凍りついた。ヒロシもガクもマコトもおなじだった。先に小便をしていなかったらちびっていたかもしれない。
 真っ赤に充血した目を爛々と輝かせた女が刃物を手に立っていたのだ。

30
「よせ……!」
 由香は果物ナイフで襲ってきた。
「死のうよ……」狙いはタケルだけのようだった。だがまさに死に物狂いで切っ先を向けてくる。ヒロシたちも危なかった。
タケルは廊下に逃げた。由香があとから猛然と追いかけてくる。アドレナリンの分泌が増しているのか、ものすごい脚力で、たちまちシャツの背中をつかまれた。遠くでヒロシたちが呆然と見つめている。
「やめろって……落ちつけよ!」
 由香は無言のままナイフを振り回し、シャツが切り裂かれる。タケルは腰くだけとなり、四つん這いになってリノリウムの廊下を逃げまわった。階段から転がるようにして踊り場に下りるが、由香は執拗に追いたててきて、またしても飛びかかってきた。タケルはバランスを崩して倒れ、由香が腹のうえに馬乗りになった。
「やめろ……!」
由香はナイフを握りしめる手を振りあげた。タケルは力いっぱい体をよじって、間一髪のところで第一撃を逃れた。だがつぎに振り下ろしたナイフの刃先が左肩に触れ、血が噴いた。恐ろしいほどの寒気に襲われた。神経が寸断されたかのように手も足も動かない。まるで四肢の血管に鉛を流しこまれたようだった。
「おい!」
 階段の上からヒロシが叫んだ。由香はほんの一瞬、背後に気を散らせた。そのすきをタケルは逃がさなかった。力いっぱい身をよじって立ちあがり、鬼女に正対する。
 きのうの夕方もタケルは図書準備室にいた。あれから二十四時間もたっていない。それなのに――。
 躊躇しなかった。
 個人レッスンを施してくれた司書の形のいい下あごを力いっぱい蹴りあげる。まるでサッカーボールのように由香の体がふわりと持ちあがり、一階に下りる階段の最上段で足を滑らせた。あとはマネキン人形が落ちるようだった。体がとまったときには、由香はぐったりとしていた。首の骨が折れたのかもしれない。しかしタケルの目は豊かな胸に吸いよせられた。純白のブラウスにみるみる赤い染みが広がっていく。その真ん中に果物ナイフが立っている。
「ゆ……かさん……」駆け寄ったときはもう遅かった。急所を貫いてしまったようだ。
「おまえ、なにしたんだよ!」ヒロシも血相を変えて飛んできた。
「だって……じゃなきゃ、殺されるところだったよ」
「そうじゃねえよ。由香さんにあんなことされるなんて、いったいなにをしたんだって聞いてんだよ! えっ! ひでえ別れ話でも持ちだしたんだろ!」
 タケルは返答できなかった。あのメールは、そこまで憎まれるほどのものだったのだろうか。だけどあの目は……尋常じゃなかった。
「心配せんでええ。おれたち、みんな見とったで。正当防衛や」
「うん、あきらかに由香さんには殺意があった。まちがいないよ」
「どうしよう……」
「ここに放置しておくわけにいかないよね」
 タケルは脱いだシャツで肩の傷を止血し、マコトにうながされるまま職員室に向かった。
 こっちでも騒ぎが起きていた。生徒指導の鵜飼と祐成が職員室を飛びだし、廊下を走っていく。小柄な男子生徒が足をひきずりながらタケルたちのほうへ近づいてきた。
「たいへんッスよ!」さっき辻本がバイクではねた一年生だった。「辻本が狂っちゃって……売店のオッサンの首絞めて――」
「まさか」タケルは肩の傷をシャツで押さえたまま保健室にダッシュした。
 ウーヤンと祐成の間から目に飛びこんできたのは、床でぐったりとなった小梶さんの体だった。腰のあたりから黄色っぽい液体が広がりだしている。筋肉が弛緩して失禁してしまったようだ……ということは――。
「やめて!」
 養護教諭の持丸がベッドに押し倒されていた。尻が丸だしになっている。辻本は剥ぎ取った下着を手にしている。
ヒロシが先に動き、体育教師の背中に飛び蹴りをくらわせた。辻本の体はそのまま持丸の背中にのしかかり、勢いでベッドが壁際まで一メートルもずれた。きゃしゃな養護教諭の体はそのまま床に放りだされた。
 辻本はヒロシと対峙していた。
 恐ろしい目をしている。映画のドラキュラ伯爵のようだった。
「なにやってんだ、おめえ、センコーだろ!」
「みんな、死ぬんだ……死ぬんだよ」辻本は事故で頭を打っている。それでおかしくなっているのだろうか。
 辻本とヒロシは取っ組みあいをはじめた。それにガクが加勢する。しかしさすが元体育大の柔道部員だった。二人とも弾き飛ばされ、ヒロシは隣のベッドの脚に後頭部をしたたか打ちつけた。ガクは薬棚に頭から突っこんでいった。
辻本はふたたび持丸のほうを振り向き、太い腕でその体を持ちあげ、もう一度ベッドに乗せた。
「やめろ!」
 タケルは背中に飛びかかったが、辻本は振り返りざまに顔面に強烈なひじ打ちをくりだした。一瞬にしてタケルはベッドの下に崩れ落ち、鼻から生温かい血がどろどろと滴りだす。
 そのときシュッという音がして、それにつづいて辻本が野太い声で悲鳴をあげた。
 マコトだった。
 小さなスプレー缶を手にしている。持丸のハンドバッグが足もとに落ちていた。防犯用の催涙スプレーだった。バッグを引っかきまわして見つけたらしい。辻本は片手で目をかきむしりながらも反対の手を突きだし、マコトを捕まえようと近づいてきた。
「このアホンだら!」
 ガクが立ちあがり、辻本を羽交い締めにする。それから足払いを食らわせて床にねじ伏せた。だが辻本は即座に立ちあがり、ガクとつかみあいになった。保健室はさながら格闘技場のようになり、薬瓶や機材ががちゃがちゃと音を立てて落ち、ガラス片が飛び散った。
 辻本の分厚い手のひらが、ガクの頭を左右からはさみつけ、目は見えずとも親指がまぶたを探りあてた。いまにも力がくわわってボタンが押されそうだった。ガクは抵抗できないでいる。大量の鼻血を噴きながらタケルは息を飲んだ。
 つぎの瞬間、辻本の体がふたたび床に崩れた。後頭部から血が染みだしている。
 持丸だった。
金属バットを握りしめている。
辻本の体は断末魔の昆虫さながらに痙攣しはじめた。

29
 けたたましい警報機の音が廊下に鳴り響く。
 何事かと事務職員の小林が会議室から顔を出す。
「やべえよ、たいへんだ!」ヒロシが玄関に向かって走りだす。隣の職員室からは羽曽部が出てきた。
「ほんまや、急がなあかん……」ガクもヒロシにつづいた。
 小林と羽曽部が顔を見合わせ、ふらふらと二人のあとを追う。いましかない。タケルとマコトは見張りがいなくなった会議室に侵入した。
 サファリジャケットの男が猿ぐつわをかまされ、いすに荒縄で縛りつけられている。手も足もがんじがらめだった。計画どおりマコトが窓に走った。
「OK! 急げ、タケル!」
 目を白黒させる男を無視してタケルは、男を縛りあげる荒縄に鎌の刃を食いこませた。
「さあ、早く!」マコトは南側の窓を開けていた。向こうは駐車場だ。
 タケルは猿ぐつわをされたままの男を立たせた。それ以上言われなくとも男のほうで動いた。男が外に出たのにつづき、タケルも頭から窓を越えた。マコトが窓を越えて、そっと閉めたとき、小林が帰ってきた。マコトはあわてて首を引っこめた。
 駐車場に教師たちの目はなかった。三人は校舎の壁際を西に向かってダッシュした。礼拝堂にさしかかったとき、警報音がやんだ。
「うまくいったか」ヒロシたちとは武道館の前で合流した。
「うん、見られてないと思う」マコトは息をあえがえせている。タケルだっておなじだった。心臓が喉から飛びだしそうなくらいだ。
 部室で漫画本を読んでいた剣道部の一年生たちはもういない。タケルたちは謎の男をそこに導いた。むっとする熱気に防具の汗くささがくわわって息苦しかったが、南に面した曇りガラス張りの窓を開けるわけにいかない。教師たちに見つかってしまう。
 男は自分で猿ぐつわを外し、タケルたちのことをまじまじと見た。突然のことに動揺しているが、しっかりとした大きな目は、悪事をたくらんでいるようには見えなかった。
「雑誌の取材なんて、うそなんやろ」
 ガクが訊ねると、男は申し訳なさそうな顔になって床に座りこんだ。タケルたちも取り囲むように腰を下ろした。
「うそをついたのはあやまる。名前も偽名だ。理由があったんだ。どうしてもやらなければならなかった」
「ガス管たたき割ることかよ?」ヒロシが訊ねる。「試験をなくしてくれたのはありがたいけど」
「それしか方法がなかった。とにかく全員を避難させたかったんだ。あれが起きたんだろ」
「あれ?」タケルの予感は的中した。男はなにかを知っている。
「校長室の会議、まる聞こえだったよ。落ち着いているように見えるかもしれないが、正直、ほんとに起きたなんて信じられない。いまでもかなり動揺してるんだ」
「雑誌の取材でないなら、なんなんですか?」タケルはストレートに訊ねた。
男は観念したようにスマホを取りだし、ホルダーから取り外してそこに挟んであった免許証のようなプラスチック製のカードを見せた。小林らによるボディチェックをすり抜けたらしい。英語ばかり書かれているが、顔写真もある。身分証明書らしかった。
 ケイスケ・ハタノ。
 それが本名らしいが、それよりもタケルは、青く印字された四つのアルファベットに目を引き寄せられた。
「NASA……なんで?」
「ある調査を行っていたんだ」ハタノはいっしょに挟んであった日本語の名刺を見せる。
波多野圭介。
「日本政府にも伝えていないから、協力はあおげない。それでこういう形になってしまった。とにかく被害を出したくなかったんだ」
「被害ってなんだよ」ヒロシがめずらしく不安そうな口ぶりになる。
「何人残ってしまったんだ」男は職員室前の廊下で口走ったのとおなじことを聞いてきた。
 タケルは背筋が寒くなった。「残ってしまったって、避難しないで学校に残った生徒のこと?」
「そうだ。先生たちもふくめて」
「おれたちが確認しただけで、生徒は三十人。先生たちをいれると四十一人。いまわかっているのはそれだけ。もしかして波多野さん、あのこと知ってるの?」
 タケルは具体的には言わなかったが、波多野は静かにうなずいた。図書準備室から持ってきたペットボトルをガクが差しだす。ひと口だけ飲むと波多野は腕時計を見た。
「いま何時だ」時計が狂ってるのかと思い、タケルはスマホでたしかめた。
「五時十三分。あってるよ、その時計」
 波多野はおもむろに立ちあがり、強い日差しを浴びる窓の曇りガラスを指先でなでた。「いつまでも暑いな」鍵を外し、すこしだけ窓を開ける。風を入れたいわけではなさそうだった。「見てみるといい」波多野はすき間から空を見あげた。
 タケルたちは顔を寄せて真っ青な空に目を凝らした。
「太陽がずっとおなじ位置だと思わないか」
「マジだ。ほんとそうだぜ」ヒロシが感心したような声をあげたが、タケルはうすうす気づいていた。いくら真夏でも五時をすぎれば日差しも弱まるし、もちろん太陽はかなり傾くはずだ。それがいつまでも昼とおなじ頭のてっぺんにあった。
「きょうの午後零時四十一分、それが起きることになっていたんだ」
「それって?」聞かずともすでに経験している。タケルたちがいま必要としていたのは、納得のいく説明だった。
「時の亀裂(ルビ タイム・クラック)だ」
「はぁっ?」四人そろって声をあげる。
「便宜上、われわれはそう呼んでいる。そこに引きずりこまれたんだ」
「われわれって……NASAの?」マコトが怖々と訊ねる。
「そうだ。正式な研究対象だ。もう三十年以上調査が行われている。世界的な規模でね。わたしはそのセクションの主任研究員なんだ。職員室の大人たちは信じようとしなかったが、きみたちにはわかってほしい。ただ研究といっても当然、外からの研究だ。取りこまれた先でのフィールドワークは、わたしがはじめてということになる」
 取りこまれる――その言い方がいやだった。例の薄膜のような境界面は、たしかに外の世界とこっちとを隔てる見えざる鉄格子のようであった。
「気持をしっかり持って聞いてほしい。わたしたちはいま、集団失踪の真っただ中にいる」
「集団失踪? なんや、頭がくらくらしてきたで」ガクが肩を落とした。行方不明になったのは父親だったはずなのに。それを無視して波多野は話しだした。
 時の亀裂――。
 それは有史以来、世界各地で発生しているある事実から発生が予測されたものだった。
「バミューダ・トライアングルの話は聞いたことがあるだろう」
「船が遭難して消えてしまうとかいう話だよね」マコトが純粋な興味をしめした。「UFOにアブダクトされたとも言われているんだっけ?」
「報告されている船の失踪事例のなかのほとんどが、時の亀裂によるものだ。インカ帝国の空中都市、マチュピチュでは十五世紀に住民八十三人が一夜にして消えている。計算上、たしかに時の亀裂が出現するタイミングだった」
 ほかにも十六世紀のムガール帝国では五十人以上ものキャラバンがラホールで、十八世紀のロシア・イルクーツクでは狩猟民の集団が、十九世紀のハワイ島ではマウナケア山に登った宣教師のグループが、それぞれ失踪していた。どのキャンプ地でも荷物が広げられたままだった。遭難したようには思えなかった。ナイジェリアでは一九七九年、油田調査にやってきた米国企業の調査員三人が森のなかで謎の失踪を遂げている。現地人が“神の宿る森”と呼ぶ場所だった。おなじ日、オーストラリアでは、エアーズロック近くに暮らしていたアボリジニの少年二人が“闇の谷”と呼ばれる洞窟に入ったまま帰らなかった。
「最近では二〇〇〇年七月七日、イギリスのスカイ島、モロッコのトドラ渓谷、メキシコのグアダラハラ、中国の山西省でそれぞれ集団失踪が起きたことが確認されいる。規模は五人から十七人。いずれも遭難ではない。町に近い場所で起きたケースもある。むしろ何者かに拉致されたと考えたほうが説明がつく。スカイ島の事例では、教会で礼拝中の十三人が外に出てこなかった」
「裏口だろうよ。教会にはそういうところがあるんだろ。こっそり抜けだしたんだ」からかうようにヒロシが言ったが、誰も支持しなかった。本心はヒロシもおなじだろう。タケルたちは、のめりこむように波多野の話に聞きいった。ふだんならばかばかしく聞こえる話も、いまとなっては信憑性があった。
「歴史書や口承伝承までふくめれば、旧約聖書にまでさかのぼることだってできる。紀元前八世紀、北イスラエル王国がアッシリアに征服されたのち、多くの民が奴隷となった。そのなかで信仰を深めようと逃亡をはかった部族がある。歴史からはその時点で完全に消え去ったのだが、一部が日本にまでたどり着いたなんて考える学者もいる。それをもって日本人とユダヤ人が同一祖先だと考える説だ。でもむしろ時の亀裂に引きずりこまれた可能性のほうが高い」
「つまりボクたちはやっぱりふつうじゃない世界にいるってこと?」
 波多野はマコトの問いかけにうなずいた。「人間がいなくなるだけじゃない。それが起きると、森や建物まで消え失せる場合がある。マチュピチュではそれまであったはずの神殿が消失したし、スカイ島では巨大なキリストの十字架像がなくなっていた」
 マコトが生唾を飲みこむのが聞こえた。コーラはもうない。タケルも喉がからからだった。しかしあとは図書準備室から持ちだしてきたペットボトルの水があるだけだった。ちくしょう。せめて水道だけでも出てくれれば……。波多野の話が本当なら、自分たちはいま現実世界から切り離されていることになる。じゃあ、水道管の端はどうなってんだ?
「それが人類史において幾度となく起こってきた。NASAでは三十年ほど前になってようやくそれを科学的に検証しようということになって、調査チームが組まれた。それで事態が周期的に起こっていることをつかんだんだ」
「何年かに一度、起きるってことかな」
 マコトは額に噴きだした汗を手の甲で拭った。タケルも全身汗まみれだった。さっきより気温があがっているようだった。でも波多野の話を聞きはじめてからは、わきの下を流れ落ちるのは冷たい汗のほうが多かった。
 時の亀裂。
 太陽はずっとおなじ位置にある。
 それはなにを意味してるのだ。
「時間の観念そのものがそうだが、世のなかのあらゆる事象が、ある一定の周期によって起きている。レム睡眠のように比較的短い周期のものもあれば、地殻変動のように何千年という莫大な周期のものもある。その周期性こそが宇宙の謎を解くカギとも言える。時の亀裂の問題も、その視点からの考察を通じて予測し、算出できるようになった。つまり宇宙を構成する様々な物質の周期を計算していったんだ。その結果、時の亀裂はおよそ二十一年に一度の頻度で発生していることがわかった」
「二十一年やて? なんかハンパやな」
 ガクの疑問に波多野は答えた。
「十年半、三年半、それに七年という三つの周期が重なりあっていたんだ。その最小公倍数だ」
「なんの周期なんや?」
「十年半は太陽の黒点の活動が活性化するおよその周期だ。それにより放射される宇宙線量が大きく変化して、地上にもさまざまな異変を起こしている。三年半というのは地球からも観測できるコオリナ彗星の周期だ」
「コオリナ彗星? 聞いたことあらへんよ」
 それにはマコトが答えた。「ハレー彗星なんかよりもずっと周期が短い彗星だよ。太陽のまわりをまわっている」
 そのとき校内放送が入った。
 総務課長の杉山を教頭が呼びだしていた。波多野がいなくなったので対策を練るのだろう。波多野は声を潜めて話をつづけた。「そして七年というのは、地上の磁気変化の周期だ。マントル対流の影響で微妙な変化が七年ごとに起きている。時の亀裂が起きた地域は、いずれも地磁気の乱れが激しい場所なんだ。世に言うパワースポットだよ」
「樹海もたしかにそう言われているね。太陽の黒点、コオリナ彗星、そして地磁気の変化。その三つの周期が重なりあったときに、アブダクションが起きてるの?」
「アブダクションと呼ぶかどうかはべつとして、時の亀裂が起きているときは、その三つの周期が重なっている」
「だからってきょうの十二時四十一分に起きるなんて、どうしてそこまで厳密に計算できたの?」マコトは不安よりも興味をかきたてられている。
「コオリナ彗星だよ。地球にどれくらい接近しているか、秒刻みで正確に測定できるからね。今年は八月六日に地球に最接近するんだが、時の亀裂が起きるのはいつも、その最接近の日の三十日前なんだ」
「まさか……きょうがその三十日前だったってこと?」
「そうだ。計算上、七月七日の午後零時四十一分二十三秒がそうだった。彗星はその時刻に宇宙空間上のあるポイントを通過する。そこになにかが存在しているんだ」
「なにかって?」
「強烈な電磁波の雲のようなものだ。光をまったく放っていないから見ることはできないんだが、たしかに存在している。さまざまなデータがそれをしめしている。そこを彗星が通過したとき、ほんの一瞬、放射される電磁波に乱れが生じるんだ」
「それがそのタイミングなの……転位の?」
「転位か。まさにそうだね。だけどそれを引き起こすスイッチは、地上からずいぶん離れているところにあるわけだ」
 窓のすき間から見える太陽はずっとそこにとどまったまま、まるで衰えを知らなかった。タケルはたまらず訊ねた。
「どうして太陽が動かないの?」
 波多野はタケルをじっと見た。ためすような目をしている。タケルは答えを聞くのが怖くなった。
「あれからもう五時間近くたっている。でも元の世界ではずっと零時四十一分二十三秒のままなんだよ」
 四人そろって南側の窓のすき間を見あげた。言葉がなかった。
「まさかそれって……」ヒロシの声は震えていた。「時間がとまってるってことか」
「そうだ。だから時の亀裂なんだ。連綿とつづく時の流れのなかの、目に見えないほどのほんのわずかなすき間なんだ。そしてそこではおなじように時間が流れているようでいて、じっさいには一瞬の出来事でしかない。だから時の亀裂に落ちこんだ者たちが、そこで何時間過ごそうと、現実世界では時間がまったくつながっている」
 それが意味することをマコトが引き取った。「つまり現実世界にいる者からすると、目の前の相手が突然消えたり、逆にいきなり見知らぬ誰かが出現したりするってことだよね」
「人間だけじゃない。たとえばこの武道館だが、いまから火を放つとする。もし時の亀裂が解消したなら、一瞬にして武道館が消滅したように見えるね」
「プリンセス天功みたいやな」
「イリュージョンか……でもわれわれもいま、それをまざまざと見せつけられている」
「なんや、それ?」
「あれさ」波多野は立ちあがり、窓のすき間を広げた。野球部の一年生たちが堂々とたばタバコこを吹かしながらバレーコートをサツマイモ畑のほうへと横ぎっていた。性懲りもなく脱出を図ろうというのか。コートの向こうには樹海が広がり、遠方には夏空に映える富士山が見える。
「じっさいはどこまでが時の亀裂の支配領域かはわからないが――」
「いや、わかるよ」マコトが自信満々に言う。「さっき調べたんだ。学校を中心に南北に長い楕円形をしている。最南端は県道から樹海側に約百五十メートル入ったあたりだよ」
「なるほど。でもここからだともっと向こうの富士山まで見えるよね。それに空まで。あれは現実世界にわれわれが目にしてきたものが残像として見えているにすぎない」
「残像やて?」
「そうだ。想像上の産物と言ってもいい」
「せやけど見えてるやん。あれはほんとやろ」
「おい、ガク」なにかに気づいたようにヒロシが訊ねる。「富士山に雪は残ってるか?」
「微妙やな。ただ上のほうにすこし残っとるかな」
「どのあたりだよ」
「右のほう。三日月形しとる」
「だろ。タケルたちもそうだろ」
 タケルもマコトもうなずいた。
「想像だったら見え方がちがうだろ」ヒロシは勝ち誇ったように言った。
だが波多野がさらりと言う。「共有しているんだよ」
 どこかで聞いたような話だった。タケルはふいに明るい気分になった。
 共同幻覚――。
 やっぱりそうなのか。マコトの言っていたことだ。でもそれははかない期待だった。
「潜在意識にすりこまれた外界のイメージが見えているだけなんだよ。おなじ環境に暮らす者ならそれほど変わるものじゃない。それにだよ――」波多野は四人の顔を見まわした。「絶対的な外界なんて存在するのかな? 世のなかのすべての事象は、個々人の脳内で起こる化学的な処理を通じて把握されているにすぎない。その意味では、われわれが目にするものはすべてが主観的バイアスのかかった映像、想像上の産物なんだよ。それを共有することで、あたかもそこに“本物”があるように思いこんでいる」
 たまらずマコトが訊ねる。「共同幻覚ってこと?」
「ああ、そう呼んでもいいだろう。現実世界はそうやって成り立っている」
「いまボクたちがいるこの世界も共同幻覚ってことはないかな」
波多野はゆっくりとかぶりを振った。「わかってほしいんだが、多少見え方はちがったとしても“こっちの世界”に来てしまったことはたしかなんだ。それは夢でも幻覚でもなんでもない。厳然たる事実なんだ」
 四人は言葉を失った。
 信じたくなかった。でもあの境界面のせいで、下校しようにも帰れずにもどってきてしまう。水道は使えないし。スマホも通じない。それはここが異次元世界という現実であることをしめしていた。
「もう帰れねえのか」
 みんなが思っていることをヒロシが口にした。
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