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文字数 22,641文字

11
「こっちよ」
 熱帯雨林さながらの蒸し暑さのなか、サヤカはガクの手を取って走りだした。いまや左右の境界面は緑のオーロラのように樹海のなかをなびき、幅は六十センチほどにまで狭まったものの、はっきりとした谷間を形作っていた。そこをたどりながらサヤカは、入り組んだ木の根や深い藪をすり抜けてどんどん進んでいく。
 ガクは驚いた。
 激しさを増す一方の蝉しぐれのなかで、サヤカの耳にもはっきりと聞こえたのだという。
 名前を呼ぶその声を。
 ガクの名を。
「なんか苦しそうよ。急がないと」
 たしかにそうだった。あれはオトンの声だ。サヤカはもちろんオトンに会ったことなんかない。でもバイト中によく話していた。大阪でリストラされ、流れ着いたこの町でもおなじ憂き目にあってしまったこと。息子にも遺伝したとおりのお人好しで、意外と思い悩むタイプであること。そして時としてわれを忘れて自棄を起こしがちなこと――。
 わかるのか。
 わかるよ。ガクのおとうさんでしょ。会ったことないけど、わかるわ。
 どうしてこんな場所に……?
 わからない。でも……つらそうよ……。
「こんな奥まで入ったことないで」
「もどるのは難しくないわ」
 藪のなかでサヤカは足をとめ、振り返った。
「左右の壁がさっきよりもはっきり目に見えるようになっているじゃない。あの間をたどればいいのよ」
 声は森のさらに奥から聞こえた。さっきより明瞭に聞こえるようになっている。頭上にたれこめた木々は厚みを増し、日差しが薄暗くなっている。
「よし、とにかくたしかめよう。そんなに遠くないはずだ」
 こんどはガクがサヤカの手を引いて進んだ。風がないぶん恐ろしく蒸し暑い。こんなところでもゴミが落ちている。キャンプでもしていたのだろうか。でもどうしてスーツの上着や腕時計のたぐいが散らばっているんだろう。
「いやな感じがするわ」
 サヤカの足もとにはサラリーマンが通勤に使うような黒いカバンが転がっていた。
「ちがう。オトンのでない。こんなしゃれたバッグ持っとらんわ」
 しだいに枝が奇怪な形にねじくれた木が増えてきた。蝉しぐれは相変わらずだが、その合間からたしかに人の声が聞こえる。
 ガ……ク……。
 ちくしょう、なんでこんなところに。オカンを残して……。
 行方不明になったのっていつのこと?
 二週間ぐらい前や。
 そんなに……でもガクやおかあさんのこと、忘れるわけないよ。
 そうやろか。会社クビになってからずっと眠れんようやった。
 かわいそう……でも――。
 なにするかわからんで。
「あ、あれ、なにかしら」
 サヤカは右手に広がる林の奥を指さした。そこに樹齢数百年はありそうな古木が垣間見えた。
「人よ……誰かいる」
 ガクはサヤカの手を放して駆け寄った。
「オトン!」
 象の足ほどのがっしりした枝の下だった。ガクは、肌着一枚になったその体にしがみついた。
 棒きれみたいだった。
 抱きついたいきおいで、宙に浮いた足がぐらりと揺れた。ガクはあわてて父親の体を持ちあげ、絶望とともに頭上の枝に目をやった。
 どこでそんなものを手に入れたのか。農家で使うような荒縄だった。それが枝に巻きつけられ、まっすぐに父親の首根っこにのびてきていた。
 サヤカは冷静だった。ガクの手からバタフライナイフを奪い、それを口にくわえて木をよじのぼった。途中のこぶに足をかけると、縄を結んだ枝までらくに手がとどいた。大人の体重で引っ張られているため、ナイフを二、三度こするだけで縄はちぎれた。
「なんでだよ……」
 異様な暑さを忘れるほどに冷たくなった体をガクは抱きしめた。死体が残っているということは、こっちの世界にきてから亡くなったのではあるまい。それならとっくに消えうせているはずだ。つまりオトンは――。
「オカンは病気なんやで。わかっとるやろ……あかんやろ……」あとは心のなかの絶叫だった。それが嗚咽となって森に響きわたったが、サヤカにはガクが放つ言葉の一つひとつがはっきりと聞き取れた。
 ガク……。
 それはもちろんサヤカにも聞こえた。
「オトン……!」
 ガクは父親の亡骸を揺さぶり、死後硬直が解けてひさしいその顔を見入った。しかしサヤカの目にも、それが声を発したようには見えなかった。
「もしかして――」あとは心のつぶやきとなった。
 即身仏とおなじなのかな。生きてるのかな……魂が。
 それでおれを呼んだんか。祈り……。
 迷ったまま一線を越えてしまったんだわ。それで後悔している。
 あほんだら。ほんならせんかてええやろ、こんなこと。
 ガク……。
 オトン……なんでや? なんで早まったんや……?
 それに父親が答えることはなかった。かわりに境界面がぐらりと歪んだ。いつのまにか谷間の幅は人がかろうじて通り抜けられるほどにまで狭まり、そのまま森のさらに奥へとのびている。
「世話の焼けるジジイやな、ほんま」
 ガクは父親の遺体を背負い、歩きだした。冷たい体は想像以上に軽かった。その腰のあたりをサヤカがささえた。父親の亡骸を通じて二人はふたたびつながった。
 どうするの……あ、ごめん、当然よね。
 まあ、ちゃんとオカンのところに連れていったる。しゃあないわ。そうせんと……それにしても困ったなあ。なにもかも丸聞こえなんやな。
 どうなっちゃうのかなぁ……。
 ガクは足をとめ、学校のほうを振り返った。
 いまさら……やろ。
 そうよね。
「このまま進めば、きっと森を抜けられる。町に出るんや。だから帰れるで。かならず元の世界に帰れる――」なんの確信もガクにはなかった。不安はサヤカにもじかに伝わった。
 谷間の小径はどこまでもつづき、頭上を覆う木々はますます濃くなっていく。
 一歩、また一歩。下草を踏みしめて進めば進むだけ、まだ見ぬ世界へと近づいていく。そこに待ち受けているもの、二人にはそれがわかっていた。
 二人は考えるのをやめた。

10
 美紀を追うようにタケルも階段の窓からダイビングした。
 礼拝堂の床が猛スピードで近づいてきた。縮こまった両腕が本能的に顔の前にせりあがってくる。口の端から悲鳴を漏らし、最後の瞬間、タケルは目を閉じた。
 激痛が右半身に走った。
 バランスを崩し、横向きで着地したらしい。かろうじて頭は打たなかったが、息ができない。しばらくタケルは動けなかった。それでも目だけ必死に動かし、四囲の状況をたしかめる。蝉しぐれが近くに聞こえた。
 ここに来るのははじめてだった。
 円筒形をした鐘楼の最上部を取り囲む幅一メートルほどのベランダ部分に、タケルの体は落下してきたのだ。先に放り投げたナイフが目の前にあった。階段の窓から飛び降り、足もとの境界面を通過して鐘楼の上空に転位し、そのままベランダに激突するまで、じっさいには何メートルのダイビングだったのだろう。しかしそれほどのけがは負っていない。すなわち四方ばかりでなく上下の収縮もかなり進行しているということだろう。
 魚が腐ったようなにおいがした。タケルは吐き気を覚えた。
「だいじょうぶ? 藤野くん」すぐうしろの美紀がいた。かろうじてその体のうえには落ちずにすんだらしい。だが美紀は額を切っていたし、両ひじをすりむいていた。
 はっとしてタケルはナイフをつかみ、痛みもかえりみずに前方にジャンプした。「こっちだ!」
 美紀もつられてそっちに飛び移った。
 二人がいたところに、たてつづけにべつの二人が折り重なるようにして落ちてきた。
 片岡とヒロシだった。
 タケルはわき腹に激痛を覚えたが、立ちあがり、二人の体を引きずってずらした。直後、鐘楼の丸天蓋で大きな音がして波多野が滑り落ちてきた。あやうくベランダのフェンスから飛びだすところだった。
 五人は体をさすりながら立ちあがった。テラスの内側、天蓋に覆われた部分はオープンエアになっている。中央に濃緑色の鐘が吊ってあった。その下に白木の箱がある。蓋が開いていた。腐臭はそこから漂いだしていた。
「あれよ」美紀が声をあげた。「総務課長が中庭から運びだした箱」
「死にそこないたちめ」
 おスギは木箱のうしろにいた。そこに置かれた茶色い金属製の棺のようなものから顔を出している。中庭の作業現場にあったのとおなじものだ。おスギはそのなかに座っているようで、奇妙な形のヘルメットをかぶっている。
 波多野が一歩前に出た。「風間さん……あんた――」
「ここでは杉山さんと呼んでもらおうか。ずっとそれで通っているんだし」
 タケルのうしろに美紀がそっと身を隠した。
 エミがいたのだ。
 おスギの隣で顔を出している。おなじヘルメットをかぶっていた。
「あら、タケル、お似合いじゃない。そこの妖怪と」
「なんだと……いい気になるなよ」
 エミは小首をかしげて薄笑いを浮かべた。「いいの? そんな口聞いて。レイク・ウエスト、もう閉めるのよ。そうしたら、あんたのおとうさん、どうするの?」
 店を閉めるだって……知らなかった。そうなったらうちの親父は――。
「だけどもうあんた、ここから帰れないか。じゃあ、しょうがないわね。言い残すことがあるなら伝えてあげてもいいけど。あんたの家族に」
 波多野が声を荒げた。「風間さん、あんた、自分がしたことがわかっているのか。どれだけの犠牲者を出したと思っているんだ」
「波多野くん、偽名まで使って取材に来るなんて。きょうのきょうまで気付かなかったよ。やっぱりめんどくさい仕事も下にまかせちゃいけないね。どこからネズミが入って来るかわからないのだから。でもね、きみは以前からそうだったが、本当に短絡的だね。物事はもっと広い視野で見ないといかんよ。たとえば人類の進化という観点とかね。その意味で考えると、わたしのしていることは、けっして他人から非難されるものではない。なにしろ言葉を介さずとも、相手の意識を感じることができるのだからね。まさにテレパシーだろう」
「われわれの研究はそんな私利私欲のためのものじゃなかった」
「おいおい、波多野くん、本気で輪廻転生なんて考えていたのか? ここはただの死の入口だよ。しかしプロメテウスとおなじく、危険をおかさねば本当の宝物は手に入らない。たしかに多くの犠牲ははらった。だがそれも元の世界から見たら一瞬の出来事だ。生徒と教師数十人が集団失踪しただって? たしかガス漏れ避難の最中だったんだよな。悪ガキたちがトンズラして、やる気のない教師たちが職場を放棄した。それだけだろう。どさくさのなかにまぎれちまうさ。もちろんわたしだってどこかに姿を消すよ。元の世界にもどったらな」
「きさま!」
 波多野が飛びかかった。しかしそれより一瞬早く、片岡とエミは棺のなかに消え、蓋が閉じられた。波多野は蓋にしがみついたが、内側からロックされてしまった。ヒロシが力いっぱい棺に蹴りを入れたがびくともしない。
「やばいぞ!」
 ベルテラスの外に目をやるなり、タケルは叫んだ。境界面がテラスを浸食し、円形をしたフロアを包みこむように迫ってきていた。もはや外の景色は完全にゆがみ、まるで水槽のなかにいるようだった。しかもまるでアブラゼミの大群が丸天蓋の裏にびっしりと張りついているかのごとく、蝉しぐれが大波のように頭上から降りそそいできた。
「なんなんだ、この棺は」片岡も棺の蓋をずらそうとしたが無理だった。
波多野が説明する。「あの男がNASAの研究者だったときに開発した超合金シェルターだ」それは特殊な電磁バリアを張りめぐらせることにより、時の亀裂の発生地特有の磁気の乱れ――即身仏のパワー――から逃れることができるというものだった。「このなかにいれば、憑依を受けることもないし、憑依された者たちから身を守ることもできる」
 片岡が苦りきる。「全意識界にぎりぎりまで接近して最大限まで超能力を獲得したうえで、自分たちだけ助かろうって魂胆だ。だが彼は大きな計算ちがいをした。こんなちんけな棺桶じゃどうにもならない。南条直幸の力が強大すぎるんだ」


 蓋まで閉められるのははじめてだ。
完全な密閉状態だった。エミは闇のなかで息苦しさを覚えた。そもそも一人が入るのでも窮屈なぐらいなのに、二人してごついヘルメットまでかぶっている。
 耳元でラジオがザーザーいうような音が聞こえた。杉山が棺の内部にあるスイッチを入れたのだ。それはヘルメットのスピーカーから聞こえてくる電気的なうなりとはちがった。いかにもなにかを妨害しているような音で、しだいに高まりつつあった。そのせいもあってタケルたちが外でなにを話しているか、まるで聞こえなかった。
「あいつら、殺し合うぞ」杉山がささやいた。
「杉山さん、さっきカザマとか言われていなかった?」
「昔、そんな名前を使っていた。ただそれだけさ」
「ほんとにだいじょうぶなの?」
「波多野と用務員、藤野タケルと川瀬美紀、それに西田ヒロシの五人が残っていただろう。やつらの命をささげればだいじょうぶさ」
「だけど杉山さん、元の世界にもどるまでこんなに時間を食うなんて考えていなかったでしょう。なんだか切羽詰まってるみたいじゃない」
「たしかにしぶといミイラだよ。だが見てのとおり、やつの活性化ははじまっている。これまでのケースを考えれば、やつのショーもこれでおしまいさ。現実世界にもどる宇宙船のロケットが点火され、発射の秒読みがはじまった感じだ」
「ちゃんと地球に向かうのかしら」
「心配するな」
 エミにはわかっていた。杉山は取り乱している。だがエミは、自分のなかにさして恐怖が広がっていないことに気づいていた。帰ることよりも、いまはやらなきゃいけないことがある。その思いがエミの胸を強く突きあげていたのだ。
 杉山に気づかれぬようエミはヘルメットのあごのところにあるスイッチを切った。それにより聴覚が広がった。白色音のような音は棺の内側に据えつけたスピーカーから発せられているが、それを無視してエミは意識を集中した。
 どこにいるの? おねえちゃん、ここにいるんだから。返事をして……。
 エミはたしかめねばならなかった。
 あの日、家でなにが起きたのか――。
 アイタイヨ……。
 ふいに声がよみがえった。エミはつばを飲みくだした。しかしそれはエミの頭のなかで記憶がぶり返しただけだった。
 なんとかしてあの声を聞き分け、たどっていかないと。エミはさらに意識を集中した。
 パパ、そしてママ……とにかくはっきりさせなきゃ。あの日の出来事を。
 もう一度、ジュンに会って。


 美紀が悲鳴をあげた。
 タケルはナイフを握りしめたまま目を疑った。
 ヒロシだった。美紀の細い首を両手で絞めている。
「やめろ! ヒロシ!」
 それに反応してヒロシがこちらを向いた。「みんな、向こうに行こうゼェェェェェェ!」
 美紀は声をあげられず、顔は紫色に腫れあがっている。
「ずうぅぅぅぅっと、いぃぃぃぃぃっしょだゼェェェェェェ!」ヒロシは興奮して激しく頭を振った。
 タケルはヒロシに飛びかかった。がっしりした肩に手が触れた瞬間、父の声が聞こえた。
(もしもし……もしもし……だ、誰なんだ……)
 おびえた声が聞こえてきたのは、ヒロシのスマホからだった。それをヒロシは満足そうに聞き入っていた。それがはっきりといま、感じられた。
 底知れぬ憎悪がわきあがった。
 美紀は意識を失いかけていた。
 タケルは躊躇しなかった。ナイフが親友の左の胸に深々と突き刺さる。
 静寂が広がった。
 いつのまにか蝉しぐれがやんでいたのだ。境界面による浸食も停止していた。ヒロシの命を吸いつくして満足しているかのようだった。
 タケルはぐったりとした美紀の体を抱きかかえ、鐘のほうに一歩近づいた。波多野も片岡もそうした。四人の背中と背中が触れあった。途端にそれぞれの意識が濁流のようにタケルのなかに流れこんできた。耐えきれずタケルは三人から離れた。激しい動悸に苦しみながら訊ねる。
「片岡さんが助かったときは、境界面はもっと近くまで迫ってきていたんだね」
「そうだ。もっとぎりぎりまできていた。それでもなんとか助かった」
 その言葉に波多野が反応し、憎々しげな視線を片岡に送りつけた。二人はしばらくにらみ合ったままだった。まるでテレパシーでけんかをしているようだった。
 やがて片岡が口を開く。「今回は全員の命を奪っても収縮はつづくだろう。ここは帰還者の誰もが目にしていた聖地なのだから」
 片岡は波多野のそばから離れ、鐘の下にある木箱をのぞきこんだ。タケルもなかを見た。
 卒倒しそうなほどの汚臭のなかに鎮座していたのは、白色のゴムのような塊だった。中心部分がくぼみ、奥のほうが数秒おきにぼんやりと光輝いていた。
 美紀がふらふらと箱に近づき、両手で箱の縁を握りしめた。「これが即身仏……わたしのご先祖さまなの……?」かすれ声を必死にしぼりだす。
「見ている」片岡がつぶやいた。「きみのことを見ている」
 箱のなかに片岡は顔を突っこみ、何事が話しはじめた。「汝、南条直幸、よくぞ聞け。ここにおわす娘は貴殿の末裔である。汝の体は滅びるとも、それは汝の子孫がかならずや受け継ぐであろう」
 なにかが背中に迫っている気がしてタケルは怖々と振り返った。案の定、境界面が動きを再開し、いまや即身仏の周囲四メートルにまで壁が接近してきていた。
 片岡は呪文のように語りつづけた。「時の世は、変化(へんげ)の苦に満ちている。されど救済は何者かがかならずやもたらすべし。己が魂にしいてこだわるは……愚なり――」
 そのときだった。
 ゴムのような塊のくぼんだ中心部分がひときわ輝き、変形がはじまった。
 タケルは息をのんだ。
 そこに生まれたのは、人間の口だった。
「われは……」片岡が後ずさる。うめくような声だった。「天下を欲せし。されどいま、求むるは永久(とわ)の、たましい……」口元が発光しながら歪み、その周囲にだんだんと顔のようなものが浮かびあがってきた。「この身を……超えて……不滅の魂とならんと……す」白いレリーフのような男の顔に浮かんでいたのは、穏やかさと苦悶がないまぜになった表情だった。「仏は、あの世を統べる、ただ一つの……魂。われ、この身を捨て、仏の魂と重ならん……」
 人の顔が浮かびあがった白い塊全体が輝きだし、みるみる丸天蓋へとのびるひと筋の閃光へと変わった。タケルたちは口をあんぐりと開けたまま、その変化を見つめた。強烈な光はベルテラスを覆う境界面に乱反射し、いまや境界面は白い壁と化している。それは即身仏を中心に半径三メートルの半球となり、タケルたちはさながら小さなドーム内に幽閉されたかのようになった。あやまって後ずさると、激しく活性化する境界面をすり抜けて、反対側に転位した。波多野と片岡の体もドームのあちこちから現れては消えた。
 境界面はじわじわとすり寄ってきていた。
 美紀だけが木箱の前から動こうとしない。そして縁をつかんでいた両手がついにその内側にのびた。
「よせ!」
 タケルは美紀に飛びかかり、箱から引きはなそうとした。しかし美紀は激しく抵抗する。
「やむをえないんだ!」片岡がタケルを羽交い締めにしておさえこんだ。「直幸がようやく現れた。いましかないんだ! 時の亀裂を……とめるんだ!」
 タケルは暴れた。片岡の力は強かった。最後の力を振りしぼっているかのようだった。
「でも……どうなるんだ」
「わからん」
「それじゃ、生け贄じゃないか……ミキちゃん!」
 タケルの叫びなど美紀には聞こえていない。両手は箱のなかへとのびていく。
「だめだ!」
「いいの。ありがとう、藤野くん。でもわたし……おかあさんを捜すんだから――」
 美紀の体はまるでプールに飛びこんだかのように木箱のなかに吸いこまれた。それはあたかも直幸のほうが、自らの末裔の体に触れるべく引きずりこんだかのようにも見えた。が、それはちがった。美紀の体は箱のなかから弾き飛ばされ、タケルの前に転がった。
「だいじょうぶか!」
 タケルが駆けよる。美紀はぐったりとしていた。Tシャツもスエットパンツも焼けこげ、露出した皮膚のあちこちに火ぶくれができていた。タケルはその体を抱きしめた。ユカとはまるでちがう、かぼそく、硬い木の芽のようだった。いつまでも抱きとめていたかった。
 目の前に気配を感じた。
 片岡も波多野もそっちを見ていた。タケルはゆっくりと目をあげた。
 全裸の大男が立っていた。
 引きしまった体は赤褐色の鈍い光を放っている。髪を剃りあげ、その下からにらみつける眼光の鋭さにタケルは恐怖を覚えた。見あげるほどの巨躯は赤鬼そのものだった。
 直幸は肩でゆっくりと息をしていた。赤黒い肌はところどころ本当に火がついていた。燠火のように赤々と燃えている。
 片岡がつぶやいた。「やつは動揺している……彼女に願いを託しているんだ」異形の怪物と化した直幸が、胸に飛びこんできた美紀を押し返したというのだ。
 そのときタケルは気づいた。
 白壁と化した境界面の輝きが薄れ、その向こうに外の世界が見えた。学校の東端のフェンスのあたり、その前にのびる県道に人影が見えた。何人もいる。それはガス漏れで避難したはずの生徒たちだった。
「あとすこしだ。もどれるぞ」
 タケルが声をあげた途端、四方にふたたび白色の幕が下り、四人は半球の内側にふたたび囚われた。赤鬼は右足を木箱から踏みだし、すごむように片岡と対峙した。
片岡が叫んだ。「汝、その末裔の命までも奪う気か!」
 鬼は爛々と輝く眼(まなこ)で片岡のことをにらみつけ、腐臭に満ちた吐息とともに咆哮をあげた。
「この野郎!」美紀をうしろにかばい、タケルは一歩前に出た。「おまえは自分の子孫がかわいくないのか! 彼女は懸命に生きているんだぞ!」
 その言葉に鬼はほんのわずかだけ耳を貸したかのようだった。しかしこんどは左足まで木箱から抜きさり、いまにも襲いかかりそうに身構えてタケルをにらんだ。
「待ってくれ」波多野がタケルの前に出てきた。「こっちの残るのはわたしだけでいい。陽子を捜すんだ。さあ――」鬼の前に波多野は一歩踏みだした。「おれを殺せ……あいつが待っているんだ」
「波多野さん!」
 タケルが叫んだのと同時に、鬼の右手が刀のように閃き、波多野の首が薙ぎはらわれた。床に血の海が広がり、タケルは後ずさった。
 境界面が薄れ、ふたたび外の世界が見えた。奪われる命はこれが最後でなければならない。それがタケルの強い願いだった。ところが十秒もたたないうちにまたしても白い壁に包まれた。鬼は身構えたままだった。やがてちらちらと燃えていたあちこちの炎がつながりあい、焼き物の窯さながらの真っ赤な業火が鬼の体を包んだ。柱となって天井にまで立ちのぼる。その熱にひるみ、タケルは顔をそむけた。
 境界面の収縮はさらに進み、残された空間は火柱の周囲二メートルほどとなっていた。
 藤野くん……わたしはおかあさんを捜すんだから……。
 タケルは美紀を捜した。火柱の向こうに立ちつくしていた。しかし彼女がなにか言ったわけではない。言葉がタケルのなかに自然と滑りこんできたのだ。
 森が見えた。
 そのなかにひときわ大きな古木が見える。ヒノキのようだった。だがそのフラッシュバックはつぎの瞬間には途切れていた。かわりに火柱が目の前に迫っていた。
 直幸……助けてやれ……助けてやれ、おまえの……おまえのたいせつな――。
 片岡の声だった。タケルの隣で口を真一文字に結んでいる。
 タケルはぼんやりとしてきた。
 夢を見ているようだった。
 いろいろな声が聞こえるのだ。
 美紀や片岡だけでない。
 数えきれぬほどの、無数の……人の声。それが頭の内側でぱんぱんに膨れあがり、やがて僧侶たちが吟ずる声明さながらの音の潮流へと収れんしていく。
 もはや言語による説明はつかない。タケルの理解を超えていた。まるで自分の意識が――自我が――無理やり変容を余儀なくされているかのようだった。それは渋谷の雑踏に放りこまれたようでもあり、同時に樹海のど真ん中に一人置き去りにされたかのようなぽつねんとした感覚でもあった。しかしタケルはけっして孤独ではなかった。見えざる無数の人々に囲まれ、それでいてその一人ひとりが自分自身であると実感できたからだ。
 音の潮流が一段高まり、音質が変化した。
 ギイィ……。
 はっとしてタケルは天井を見あげた。蝉しぐれそっくりの響き――というより、それまでタケルたちが蝉しぐれと勝手に思いこんできたもの――は、そこから降りそそいでくるかのようだった。


 エミは棺のすき間から真っ白い光が差しこんでくるのに気づいた。もはや棺のなかに闇はなかった。
「だいじょうぶだ」自分に言い聞かせるように杉山がつぶやいた。
 恐れることはない。エミにはわかっていた。ついにあたしは真相を知ることができる。そしてあの子を取りもどせる。
 棺が揺れはじめた。電車に乗っているみたいで、蓋がガタガタと音をたてはじめた。棺がぐいと持ちあげられるような感覚がする。
「負けないわ」エミは腹をくくった。
まだ見ぬ世界は手の届くところにありそうだった。


 鬼の姿は紅蓮の炎に溶けこみ、炎はしだいに色が薄れ、しだいに白色の輝きへと変わっていった。その光は直視できぬほど強烈だった。タケルたちは白熱電球のなかに押しこまれたようになった。
 ギイィ……。
 ふたたびそれがタケルの鼓膜を刺激したとき、タケルは目が見えなくなった。というより無限の闇をじっと見つめていた。宇宙空間にぼんやりと浮かんでいるような錯覚にとらわれた。
 あれがそうなのか。
 暗黒の世界――それが全意識界なのか。
「おぉっ……」
 片岡の声でタケルは輝きのなかに引きもどされた。タケルも声をあげそうになった。金属製の棺が頭上にまで浮かびあがり、その周囲に静電気のような青い火花が激しく散っていた。やがてゆっくりと棺が回転し、上下が逆さまになった。
 つぎの瞬間、がっちりと閉ざされていたはずの蓋が一気に開いた。
 杉山とエミが落ちてきた。
 石の床に体を強打し、二人とも息ができないようだった。
 先に動いたのはエミだった。美紀の足もとへ救いをもとめるように這っていった。杉山もそれにつづこうとした。しかしまばゆいばかりの光の塊と化した南条直幸が、それを許さなかった。宙に浮いていた棺桶が急にささえを失い、杉山の上に落下したのだ。
 棺の角の部分が後頭部を直撃した。ちょうどヘルメットと首の合間のむきだしになっているあたりだった。身の毛のよだつ鈍い音があがった。杉山はそのまま重量のある棺の下敷きとなり、わずかに痙攣したのち、動かなくなった。
 エミが美紀に近づこうとしていた。あいつ、なにしようってんだ。タケルは棺をひとまたぎし、両手でエミの襟首をつかんで力まかせに引っ張った。エミの体はうしろにいた片岡の足もとまで転がっていった。
「ミキちゃん!」激しい蝉しぐれのなか、タケルが叫んだ。美紀は激しくかぶりを振った。
藤野くん、あなただけは助かって……わたしのことはいいから。おかあさんがいるからへいき……。
「早くしろ!」片岡が叫ぶ。杉山の体は早くも消失している。片岡は逆さまに落ちた棺を引っ繰り返そうとタックルをつづけていた。「時間がない。あとはこれを使うしかない!」
 タケルは美紀を見つめた。
 なんて美しいのだろう。
 迫りくる絶望の大波を前にタケルは胸がときめいた。
 きみのことは、おれが絶対に……助ける。
「急ぐんだ!」
 片岡の言葉にわれに返り、タケルも棺に体当たりをはじめた。そのときタケルは眉をひそめた。
 エミが消えていた。


 ガクが足を速めてからずいぶんになる。
 太陽はずっと頭上のままだった。生い茂る枝葉の向こうにはっきりと見える。それなのにどんどん薄暗くなっていく。まるで日暮れ時だった。
 うしろからざわざわとなにかが近づいてきている。
 それがなんであるかガクもサヤカもわかっていた。境界面が迫ってきているのだ。二人にはもはや前に進む以外に道がなかった。
 父親を背負うのがつらくなってきた。氷のような体が肩に食いこみ、その足を地面に引きずるようになっていた。でも置いていくわけにはいかない。
 どのへんにいるのかしら。
 サヤカの不安は頂点に達していた。タケルたちはもう即身仏を見つけただろうか。もう脱出に成功したのだろうか。
 いまさら後悔したってはじまらんやろ。
 わかってるわ。でも……。
 信じるほかないやん。
 でも……あきらめるってわけじゃないけど……前に見た映画を思いだしちゃった。
 なんや?
 何日も海で漂流して、サメの恐怖にさらされたカップルがある選択をするの。よく話しあっての結論よ。
 歌でも歌ったんか。
 歌う歌はもうなかった。ほかにできることはもうなくなっていた。体の力を抜くこと以外には。だから順番にそうしたの。
 そうしたって……。
 もがくのをやめたのよ。
 ギイィ……。
 二人の間に突如、鳴き声が割りこんできた。ガクはカラカラになった喉で唾を飲みくだした。あれは蝉じゃない。声はそっくりだが、あきらかに異質な不協和音だった。それが無数の層を織りなしてまさに波のように二人を引き裂こうとしてきた。
 なにかしら。
 どうした?
 森の向こう。
 サヤカは足をとめ、前方を指さした。二十メートルほど先だった。墨を流したような闇が広がっていた。ガクは周囲に目をやった。そっちもおなじだった。
 なにかいるわ。
 え……うっ……。
 ガクの足がとまった。前方の闇でなにかが蠢いた。丈の短い熊笹の藪がガサガサと音をたてて揺れる。
 藪の合間からほんの一瞬、そいつの体が見えたような気がした。
巨大な甲虫か節足動物の背中のようだった。
 なんなの、あれ……。
 うしろにもおるで。
 ねえ、ガク……これが、そうなの? これがわたしたちの行きつく場所なの?
 気をつけろ。近づいてきたで。闇や……夜が……近づいてきたで……。
 ガクは父親の体を下ろした。
 森のどのあたりだろうか。ガクはどっちにも進めなくなった。
 暗黒はいまや完全に二人を取り囲んでいた。


 エミはタケルとは小学校のころからいっしょだった。
 三年生か四年生のときだったか、おなじクラスになったこともある。わりと好きなタイプだった。それだけにあんな乱暴をされるなんてショックだった。
 とっちめてやる。
 絶対に。
 そう思ったとき、目の前に現れた真っ白い壁の下に割れ目ができているのに気づいた。考えているひまはなかった。エミは巣にもどるネズミのように四つん這いになってそこに逃げこんだ。
 白い霧のようなトンネルだった。立ちあがるなんて無理。こうして這って進むのがやっとだった。頭上の濃霧のなかに顔を突っこんだらどうなるんだろう。足もとから顔を出すのかな。やってみたくてしょうがなかった。非常ベルを見るとボタンを押したくなる衝動とおなじだった。それを懸命にこらえる。そんなことをしたらせっかくのチャンスが失われてしまいそうだからだ。
 目の前に木戸が現れた。階段に出る扉だった。エミは鍵を外した。
 扉の向こうにまでトンネルがのびている。エミは四つん這いのまま慎重に階段を下りていった。
 霧のトンネルはずっとつづいていた。階段を下りきると、エントランスを抜け、礼拝堂の外にまで出られた。そこまでいくと霧が晴れはじめ、学校の南側に広がる樹海まで見えるようになってきた。エミはそっちに近づいた。案の定、霧の壁はエミを逃がしてくれなかった。礼拝堂のエントランスにもどってきてしまった。エミは口をとがらせてあたりを眺めまわした。
 進むべき道は開けていた。
 なるほど。
 真相を明らかにしたいのはあたしだけじゃないんだ。
 トンネルは幅五メートルほどにまで広がり、礼拝堂から見て北のほう、湖のほうへとのびていた。
 例のヘルメットをかぶったままだった。スイッチは棺桶に押しこまれていたときから切ってあった。もはや無用の長物だ。それを脱いで足もとに転がし、エミはアスファルトを踏みしめて歩きだした。
 タケルのことがまだ頭にあった。
 首根っこをつかまれて野良猫のように放り投げられたとき、なにかが見えたような気がした。それはタケルの記憶だった。スイッチが入っていなかったからヘルメットが機能せず、意識の融合が起きてしまったのだ。
 それはレイク・ウエストにやってきた一人の中年女のイメージだった。黒革のハーフコートに身を包み、日本では売っていないブランドのブーツはぴかぴかに磨きあげられていた。久野さんがこんなにいい格好をしているのを見るのははじめてだった。蔦川家に勤めてもう何年になるだろう。口数がすくなく、いつもエミたちの視界から隠れるようにして働いていた。それがそのときは別人に見えた。
「ウソにまみれているわ」
 ビールをジョッキで注文し、一気に半分ほど流しこむなり、飲み友だちに打ち明けた。カウンターの内側で洗い物をつづけながら、タケルはそれにじっと聞き耳をたてている。
「でも口止め料もらってるからね」
 こざっぱりした身なりは、派遣会社から支払われる給料とはべつに、ママからの特別チップによって購入されたものらしかった。
 飲み友だちは久野さんをせっついた。久野さんはもったいぶって最初は話そうとしなかった。しかし結局は育ちの卑しさが出た。ぺらぺらとしゃべりだしたのだ。
「母親のかわりに長男の面倒見てるのは、あたしなのよ。あの女、自分の息子だっていうのに、なんにもしやしない。下の世話とかならまだわかるじゃない。だけどそうじゃないの。顔を見ようともしない。世話をしてるふりをするのは、エミちゃんが面会しにくる日だけ。娘にいい顔しようとしてさ」
 霞と化したトンネルは裏門へとつづき、林を抜けて桟橋へとつらなっていた。さらにそこから湖の沖へとのびている。
久野さんは声を潜めて言った。
「ほんと男狂いよ」
 湖の向こうは霞に揺らいでいた。対岸までたどり着けるだろうか。エミは桟橋にボートがもやってあるのを見つけた。


 棺は二人がかりで引っ繰り返すことができた。
「もうだめだ。なかに入るんだ!」片岡は美紀の体を抱きかかえ、棺のなかへ押しこんだ。タケルもあわててそのなかにしゃがみこむ。
「おかあさんを……!」
 立ちあがろうとする美紀をタケルがおさえ、無理やり美紀の体を棺のなかに横にした。それをたしかめ、片岡が力づくで外から蓋を閉めた。タケルはあやうく頭をぶつけるところだった。
 読経にも似た無数の人々のざわめきとともに、蓋のすき間をとおして入ってきた紫色の光が金属製の棺のなかに広がった。
「片岡さん! まだ入れるよ!」
「いいから! 早くロックするんだ!」
「そんな……!」
「早く! 彼女を守るんだ!」
 そうだ。
 美紀を守らないと。タケルは手探りで錠を見つけた。だが杉山の上に落ちた衝撃で壊れたらしい。「だめだ! ロックできない!」
 突如、棺の蓋が開いた。
 片岡が開けたのではない。片岡は、半径二メートル足らずの半球世界の中空を、左から右へとまるで壊れたレコード針さながらに際限なく舞っていた。いまや七色に変化する光の渦が突風を巻き起こし、それが用務員の体を境界面にたたきつけているのだ。
 タケルは蓋に手をのばした。そのすきに美紀が外に飛びだした。
「だめだ!」
 タケルも出ようとしたが、襟首をつかまれ、動けなくなった。それを錨がわりにして片岡が着地したのだ。
「なかに入ってろ!」そう告げるなり、片岡はタケルのみぞおちを殴りつけた。タケルは息ができなくなった。そのすきに片岡に棺桶のなかにもどされてしまった。
「ミキ……ちゃん……」片岡が閉じた蓋が頭に激突してタケルは一瞬、意識が遠のいた。突風がすき間から吹きこんでくる。剥がれる寸前のトタン屋根さながらで、時折、十センチほどもすき間が開いた。タケルは声を張りあげた。「帰ってくるんだ!」
「いいの……わたしは……」
 美紀が立ちつくすところまで一メートルもなかった。しかし片岡もそこに手をのばせないでいる。ネオンさながらにきらめく渦が美紀の体にまとわりつき、まるで光の鎧をまとわせたように他の一切を寄せつけずにいた。美紀はあごをあげて喘ぐように口を開け、苦しそうに目を閉じていた。
「直幸! それでいいのか!」片岡の叫びも永遠を願う戦国武将にはもはや届かない。
 タケルが声を張りあげた。「おとうさんはどうするんだ!」
 美紀が目を見開いた。慈しむようなまなざしにタケルは抱きしめたい衝動を覚えた。「待っているもの……おかあさん……と。ずっと……いっしょ」
「おれはきみのことが……」タケルは思いきって口にした。「好きなんだ!」
 美紀は微笑んだ。神々しいほどだった。「藤野くん……」
 それが最後の言葉だった。
 光の渦がひときわ輝きを増し、美紀の姿が見えなくなった。それはまるで南条直幸が自らの子孫を抱きしめているかのようでもあった。
「もうだめだ……」片岡の声が聞こえる。棺のすき間の向こうに顔があった。蓋の上にのって錘がわりに体重をかけていた。
「片岡さん、早くなかに!」
「いいんだ。もう何人もが犠牲になった。あとひと息で時の亀裂を封印することができるというなら、わたしの命をくれてやることぐらい――」
 いまや極彩色に変化した光が漏れ入ってくる棺のすき間から、本のようなものが滑りこんできた。
≪時の祈り≫
 時の亀裂からの帰還者として片岡がつづけた独自調査を記録した日記帳だった。
「よく聞いてくれ。一度しか言わないぞ」
 片岡は必死の形相で棺のなかのタケルに打ち明けた。「わたしは思いちがいをしてきた。この場所は、全意識界に至ることのできる最大の聖地であるだけではないのだ。ここは入口であると同時に出口でもあるのだ」
「どういうこと……?」
 そこから先は言葉は不要だった。片岡の思念はするするとタケルの胸に滑りこんできた。それはまるで意識の融合を受けはじめたタケルが自ら気づいたことのようだった。
 自我の融合によって生まれた全意識界は、たんなる永遠の安息地ではなかった。言うなればそこは通過点にすぎず、そこにも時が流れているのである。そして唯一絶対の自我であるはずの全意識は、ふたたび肉体世界へ分散していくというのだ。
 それって……輪廻転生ってこと……?
 そうだ。ただし一度、全意識界に吸いあげられた自我が、つぎに地上のどこに転生するかはわからない。その点でわたしは大きな思いちがいをしていた。各地で起きた時の亀裂のなかで、帰還者たちが最後に見た光景は、この地だった。それでわたしはこの森こそが、最強の時の亀裂が起きる場所だと考えた。だが時の亀裂を引き起こしたミイラたちは、全意識界に吸いあげられたあとのことまで思いをはせていたのだ。それがこの地なのだ。すべてはこの森に帰ってくるのだ。
 それで出口……。
 だから恐れる必要などないのだ――。
 そのときだった。
 風が突如やみ、眼前にまで接近した境界面に反射していたありとあらゆる色の光が、単一の色合い、黄金色の光へと収れんしていった。恐ろしいばかりのその輝きにタケルは思わず目をつぶった。
 頭上で片岡の断末魔の悲鳴が聞こえた。
 その背後で全意識界が放つあの気味の悪い不協和音がいつまでもつづいた。耐えられなくなり、タケルは両手で耳をふさいだ。だがそれは明らかに頭の内側から発せられていた。それをとめることはもはや無理だった。タケルは棺の蓋に手をのばし、内側からなんとか密閉しようと指先に力をこめた。
 涙がとめどなく流れた。
 おれはここでこんなことをするために生まれてきたのか……。
 藤野くん……。
 美紀の声だった。
 また会えるから……。
 その言葉が聞こえたとき、壊れたと思っていた錠がカチリと音をたて、棺の蓋がしっかりと閉じた。すき間から漏れ入ってくる光はわずかになり、やがて劇場の明かりが落ちるように光が弱まっていく。それにつられてあの奇怪な声の波もタケルの頭からふっと消えていった。
 直後、猛烈な爆発音が響きわたった。
 タケルはエレベーターにでも乗っているような不可思議な浮揚感を覚えた。


 服を脱ぎだしたのはサヤカだった。
 それにうながされガクも全裸になった。薄闇のなか、脱ぎ捨てた服をシーツがわりにして腰を下ろす。隣には父親の亡骸があった。
 二人は見つめ合った。
 暗がりの奥では気味の悪い合唱がつづいていたが、もはや気にならなかった。サヤカの胸はゴム毬のように張りがあって、ピンクの蕾のような乳首が上を向いていた。ややぽっちゃりぎみかと思ったが、わき腹やおへそのまわりはきゅっと引き締まり、余計な肉はついていない。その下の部分をガクが目にするのははじめてだった。サヤカは正座を崩した格好で、すこし脚を開いていた。
「サヤカ……」
 ガクは彼女を抱き寄せた。キスは激しかった。サヤカの体は信じがたいほど柔らかく、ぬくもりに満ちていた。乳房はその極みだった。ガクは乳首を口にふくみ、両手でもみしだいた。
 サヤカの息が荒くなる。それがガクをさらに硬直させた。まるで鋼のようになったそれをサヤカは自然と握りしめていた。二人は横になり、はじめての愛撫を無心につづけた。ガクの指先が下腹部に至るなり、サヤカはすすり泣くようにうめいた。
ゆっくり愉しんでいるひまはなかった。闇はすでに父親の遺体を飲みこみ、二人の周囲にまで迫ってきていた。逃げ道はどこにもない。
 永遠なんや。
 ずっといっしょ……。
 そうや。
 その先はあるのかしら……。
 わからんなぁ……せやけど、それでもいっしょやねん、サヤカ……。
 ガク……。
 心と心だけでなかった。
 たがいの存在をたしかめるように、二人はついに一つになった。
 歌うべき歌はもうなくなっていた。
 生きるってなんだろう。ガクはそれまでの価値観がことごとく覆されていく気がした。ガクと一つになったサヤカもそれを感じていることだろう。最後にたどり着いたのは、言語を超越した境地だった。
 無だった。
 二人はもがくのをやめた。
 暗黒の大海原で、無理に浮かんでいる必要はなくなった。


 オールは一本しかなかった。
 それを器用に使ってエミはなんとか対岸までたどり着けた。揺らめき霞む左右の壁面がつくりだす谷間は、しっかりとエミを弟のもとへといざなってくれた。町立第二総合病院は建物ごとこちらの世界に飲みこまれていた。
 何時間か前に奇妙なイメージを感じとったのは、ジュンがここの病室からなにかを訴えてきたからだ。エミはそう確信し、正面玄関からなかに入った。
 誰もいなかった。
 かわりにリノリウムの床のあちこちに血だまりができ、白衣や靴が散乱している。それが意味することに思いあたり、エミはぞっとした。
 ジュン……。
 階段を駆けのぼり、五〇三号室に飛びこんだ。
 クリーム色のカーテンが引かれていた。
 エミは息を整え、ゆっくりと近づきながら、自分に言い聞かせた。
 ジュンはいる。そこで生きている。だってさっきあれだけのイメージを送ってきてくれたじゃない。
 アイタイヨ……。
 それはカーテンの向こうからはっきりと聞こえた。
 脳死?
 冗談じゃないわ。
 エミはカーテンを一気に引き開けた。
 生命維持装置につながれていたが、モニターはしっかりと心臓の拍動を計測していた。ジュンは穏やかな表情で眠っていた。
 エミは天使のようなその寝顔をじっと見つめた。
 オネエチャン……。
 それはおびえた声とともに、エミの脳裏になだれこんできた。
 自宅の二階、階段をのぼりきったところに、エミはたたずんでいた。廊下をはさんで子ども部屋とママの部屋が向きあっていた。ママの部屋のドアは半開きだった。
 秋の夕暮れだった。
 声が聞こえた。
 エミは眉をひそめた。弟の記憶をさらってみるかぎり、幼いジュンにはその声の意味がわからないようだった。エミには理解できた。
ほんと男狂いよ――。
 藤野タケルが耳にしていた家政婦の言葉がエミのなかで繰り返された。
 声はますます激しくなる。
 エミは聞いている自分のほうが恥ずかしくなった。それなのにママの部屋のほうへ自分から近づいていってしまう。
 ジュンの記憶だった。
 弟は母親がどこか具合でも悪いのかと心配になったのだ。
 エミは――ジュンは――半開きのドアの前に立った。踵を返したい衝動に襲われたが、エミは傍観者でしかなかった。
 ナイトランプだけが灯っていた。
 それが放つほのかな明かりが、ママの背中を照らしだしていた。その下にいたのは見知らぬ若い男だった。
 良妻賢母という言葉がよく似合い、女癖の悪い夫をそれでも愛しているのだと娘は思っていた。その仮面が剥がれた瞬間だった。
 ママはこっちを振り返った。
 ジュンは足がすくんで動けなくなった。ママはガウンをつかむなり、こっちに近づいてくる。
 イケナイモノヲ、ミタ。
 ボクハ、イケナイコトヲ、シタ。
 ワルイコトヲ、シタ。
 ジュンは呪縛を解かれたように逃げだした。
 目の前は階段だった。ジュンの足がもつれだす。
 怒りに満ちた足音が近づいてくる。そこにはべつの思惑もないまぜになっている。ジュンにはわからずとも、姉であり、十七歳にして大人を手玉に取ろうとしている女にはなんとなくわかる、ある種のたくらみのような感情だった。
 ジュンが階段から下りかけたとき、ママはもう真後ろにいた。
「やめて!」
 エミはジュンが眠るベッドの柵をぎゅっと握りしめる。ジュンはそのときの出来事を鮮明に記憶していた。
ママは息子の背中を両手で押したのだ。
ためらいもなく。
 それが真実だった。
 ママは自分の不倫がばれるのを恐れ、それを目撃したわが子を階段から突き落として殺そうとしたのだ。
 なにも悪くない息子を。
 ただママのことを心配しただけの弟を。
 あたしのジュンを――。
 それをあの子は、このベッドの上からずっとあたしに伝えようとしていたのだ。それがこっちの世界に陥ったことではからずも明らかになった。
 脳死ですって?
 だからこんな田舎病院じゃだめなのよ。
 エミはもう一度ベッドのまわりをカーテンで覆った。この病院でも殺戮が繰り広げられ、もうほかに誰も残っていないだろうが、それでも死にそこないの看護師にのぞかれるのは不本意だった。
 オネエチャン……。
 ジュンはうれしそうに思念を送ってきた。エミは微笑みを返した。
 もうだいじょうぶよ。おねえちゃん、そばにいるからね。
 ホント……?
 ほんとよ。もうこれからずっといっしょなんだから。
 アリガトウ――。
 エミは泣きだしそうになった。どんなにかつらく苦しい思いをしてきたのだろう。それを理解してやれなかった自分が情けなかった。でも振り返ってもしょうがない。いまはただそばにいてあげること。それが弟をなにより元気づけるはずだった。
 カーテンの向こうがだんだんと薄暗くなってきた。急に夜が降りてきたみたいだった。そればかりでない。気色の悪いなにかがベッドのまわりを這いまわっているような気もしてきた。
だがそんなものにかかずらってはいられない。エミは弟の鼻と口に挿入されたさまざまな管を慎重に抜き去り、腕に栄養剤を送りこむ点滴の管も外してやった。それでようやくジュンはふつうの人とおなじになった。それからエミは服を脱ぎ、下着だけになって弟のベッドに潜りこんだ。
「ほうら、おねえちゃんも入れてよぉ。何年ぶりかなぁ……ジュンくん、甘いにおいがするよぉ。シャンプーしてもらったんだね。よかったねぇ……」
 外はもう真っ暗だった。腕をのばし、カーテンをすこし開けてみた。
 宇宙の真っただ中にベッドは浮かんでいた。
遠くに無数の星々が輝いている。エミは驚かなかった。これでいいの。ジュンはあたしが守るんだから。それからエミは頭まですっぽり布団にもぐった。
 無数のなにかがこすれあうような音が頭のなかでした。それはエミをどこか遠くの世界にいざなおうとしている。
 どこかべつの場所にいくのなら、いっしょだからね
 ずっとよ――。
 そう言い聞かせ、弟の柔らかな髪に口づけをした。ほんのわずかだったが、ジュンが微笑んだような気がした。エミはうれしくなり、骨と皮ばかりになった弟の手をパンティのなかに招き入れた。


 一瞬の出来事だった。
 棺は竜巻に翻弄されたかのようにぐるぐると回転し、あやうく気が遠くなるところだった。直後、交通事故に巻きこまれたかのような恐ろしい衝撃に見舞われ、タケルは棺の内側に頭を強打した。
 急ブレーキの音が耳元であがった。
 棺は横倒しになり、蓋が開いていた。
 空が見えた。
 真夏の抜けるような青空だった。
 頭を打ったせいで、耳鳴りがする。右手に車のフロントバンパーが見えた。
「だいじょうぶか!」
 頭上から声をかけられた。タケルは顔をあげた。麦わら帽子をかぶった中年男だった。軽トラックの周りに野菜が散乱している。
 タケルの体は棺から半分飛びだしていた。
「ぶつかっていないと思うけど、けがはないか」
 もう一度男が訊ねてきた。そのときになってタケルは気づいた。男の背後に生徒たちが走り寄ってきていた。礼拝堂を見あげる県道上だった。
 耳鳴りがおさまってきた。
「マジかよ、大砲の弾みたいだったぜ」
「見た、見た。礼拝堂の上のほうから落ちてきたんだ」
「吹き飛ばされてきたみたいだった」
「やっぱガス爆発かな」
 麦わら帽子の男が目の前にしゃがみ、タケルの体を棺から引きずりだそうとした。
「動かさないほうがいいかもよ」生徒の誰かが言い、男は差しだした手を引っこめた。たしかに乱暴に動かされるのはごめんだった。全身に痛みが走っている。
「この棺桶が目の前に降ってきたんです」生徒をかき分けて現れた女性職員に、男は説明した。「あやうくひいちまうところだった」
 男の腕時計が見えた。
 午後零時四十一分だった。
 時の亀裂が起こった時刻だった。その直後の世界にタケルはもどってきたのだ。
 帰還の喜びはわかない。
 蝉が鳴いていた。
「藤野……藤野タケルくんね。二年B組の」スクールカウンセラーの佐々木さんだった。「どうしたっていうの? けがはない? 痛むところとかある?」
「いや……まあ……」言葉を返したときだった。タケルは見えない大波にあおられたような衝撃を頭のなかに受けた。胃が引きつるような感じがして吐き気を催す。
 佐々木さんは四十五歳で独身だった。カウンセラーらしく親切だったし、いろいろと相談に乗ってくれると評判だった。それにまずまずの美人だった。それだけにそんな心の闇があるとは知らなかった。四年前、学生時代から付きあっていた男に捨てられたあげく、自殺未遂を繰り返すようになっていた。人にアドバイスするよりも、自分がカウンセリングを受けたほうがよさそうだった。いまは歌舞伎町のホストに入れあげ、給料の大半をつぎこんで借金が六百万円にのぼっている。
 ほんのひと言交わしただけで一人の女性の全人生が垣間見えてしまった。
 それのどこが超能力だっていうんだ。
 あまりの不快感にタケルはめまいを覚えた。
 ズボンのポケットからスマホを取りだし、恐るおそるディスプレイを見た。
 21:48 7/7(火)
「礼拝堂から落ちてきたんだよ」生徒たちのなかから声があがった。「見たんだから、おれ」
 佐々木さんはもう一度、タケルの顔をのぞきこんできた。そのときタケルは尻の下になにか踏みつけていることに気づいた。
 日記帳だった。
 片岡が丹念に調べあげた記録が詰まっていた。
 体じゅうの悲鳴を押しやり、よろよろと立ちあがる。麦わら帽の男と佐々木さんが手を貸そうとする。忌むべきものから逃れるようにタケルは反射的に後ずさる。
「だいじょうぶなの?」心配する佐々木さんにタケルはうなずいてみせた。もう言葉は発しなかった。
 広域住民センターに到着してから一時間ほどして、教頭たちが行方不明となっていることが伝わってきた。ガス会社が到着して点検したところ、安全装置が正常に働き、ガスはわずかに漏れただけで自動停止していた。ただ、学食の前で祐成先生の車が黒焦げとなっていたし、あちこちに服が散乱しているのは不可解なようだった。それから理事長の蔦川がやって来て、警察の立ち入りを認めた。
 期末試験どころでなくなり、生徒たちは帰宅させられた。集団失踪とわかるまでまだ時間がかかるだろう。だが唯一の帰還者としてタケルにはしなければならないことがあった。
 午後の太陽は順調に傾きはじめていた。
 タケルは校内をいつまでもぶらつき、夕方になって森に足を踏み入れた。
 すべてはこの地に帰ってくる――。
 最後に片岡はそう教えてくれた。だったら捜さねばなるまい。いつの間にかタケルは、それまで入ったことのない深い場所にまで分け入っていた。
 五時をすぎてから黒雲が広がり、すぐに降ってきた。たちまち豪雨となり、岩棚の下に避難した。蝉たちが鳴きやみ、かわりに稲妻とともに雷鳴が轟いた。
 このぶんだと県道は冠水しているだろう。バスはだいじょうぶだろうか。
 かまうものか。
 帰るつもりなんかなかった。
 三十分ほどして雨がやんだ。タケルはさらに森の彷徨をつづけた。雨をたっぷりと吸った木々は生命力に満ち、森は精気にあふれていた。夕闇のなか、枝から枝へと飛び回る小鳥たちは、その恵みに歓喜しているようだった。雨あがりのひんやりとした空気を胸いっぱいに吸いこみ、木々の合間に目を凝らした。
 また会えるから……。
 いまの自分をささえているのはその言葉だった。
 ひときわ巨大な木が現れた。そこで足がとまる。
 白っぽい人影だった。
 何時間も足を棒にして歩きまわり、疲れきっていた。意識ももうろうとしている。錯覚にちがいない。それでも一縷の望みを託してその木に近づいた。
 ヒノキの古木だった。
 それは美紀との間で自我の融合が始まったさい、突如、目の前に現れた光景を思い起こさせた。太い幹も枝ぶりもそっくりだ。しかし樹齢三百年はありそうながっしりとした幹の周囲をぐるりと回ったが、誰もいなかった。
 すべてはこの地に帰ってくる――。
 ちょうどいい大きさの横根に腰かけ、その意味を考えた。
 無数の人々の意識がどろどろに溶けあって一つになったはずの全意識が、ふたたびバラバラになって個体の上に再配分される。
 そういうことなのか。
 だったらもどってくるのは、元の自我そのものなのか?
 それとも――。
 ダメだ。あまりに疲れてもう頭が回らない。しのびよる闇が足もとに絡みついてきている。あきらめて立ちあがった。
 そのときだった。
 目が幹の一部に釘づけとなった。ちょうど目の高さだった。樹皮の裂け目でなにかが動いたのだ。スマホの明かりを近づけてみる。
 昆虫や小動物ではなかった。
 樹皮にそっと手を触れ、裂け目の周囲をすこしばかり剥がしてみた。あらためて照らしてみると、白い皮膚のようなものがなかで蠢いた。タケルは生唾を飲みくだした。それは開いたばかりの蘭の花弁のようにおびえていた。
 甘やかな芳香が鼻先をくすぐった。
 どこかで嗅いだ覚えのあるにおいだった。タケルは顔を近づけた。
 ギイィ……。
 突如、響きわたり、尻もちをついた。頭上の蝉ではなかった。裂け目から聞こえてきた。頭にじんじん響いてくる。
 それは自ら樹皮を破ろうとしていた。
 タケルは勇気を振りしぼってそれを見つめ、声の波に耳を傾けた。
 声は夜の森のあちこちから聞こえるようになった。もはや不協和音ではなかった。涼やかで落ち着きのある旋律を森全体が奏でていた。そのときになってタケルは片岡の言ったことを悟った。
 ここが帰ってくる場所なのだ。
 それがなんであるか、理解する必要はなかった。
 そしてここははじまりの地でもあった。
 頭は冴えていた。
 完全に透明だった。
 空は晴れているし、月も出ている。
 満月だった。
 今夜はずっとここにいたかった。
                                        (了)
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