28~24

文字数 25,021文字

28
 狭い棺桶に寝そべり、杉山は首筋にキスしてきた。エミは頭のいい人が好きだった。自分がバカだからだ。それに杉山にはどことなく品がある。パパとの大きなちがいだった。でもこっちの世界がどういう場所か考えると、どんよりとした気持ちになる。
 そのとき下のほうで音がした。
 杉山は棺桶から飛びだし、裸のまま床に立てひざをついた。エミは耳をすませた。足音が聞こえる。下に誰かいるようだった。礼拝堂の入口の鍵なら事務室に予備のやつが何本かあるはずだ。それを使って入ってきたのか。
 杉山は服を着て、階段に出る扉を開けた。エミはあわててパンティーとスカートをはき、ブラウスをノーブラのまま引っかけた。
「誰かきたの――」
「しっ!」
 エミは口元を押さえられた。ここにいることは知られてはならない。中庭から掘りだしたあの木箱を鐘楼の最上階であるベルテラスまで無理して運びあげたのは得策だった。元の世界にもどるには、あの箱のなかに入っているもののそばにいなければならない。しかし杉山によれば、もどったとき、極度の疲労感に体がすぐには動かないという。いわばトリップの後遺症みたいなものだ。だから中庭はまずかった。そこでぐったりして長居していたら、二人とも不審に思われるだろう。それで人目を避けられる場所として、礼拝堂を選んだのだ。だが総務課長はさらに慎重だった。教師や生徒たちが礼拝堂に入ってくる可能性を考えたら、ベルテラスまで上がって来ていたほうがいい。
 ちょうつがいがきしむ音が聞こえた。杉山は声をひそめた。「地下室だ。食料を取りにきたんだ」
「知ってるの? ワインセラーがあること」
「パパのほかは、キミとわたししか知らないはずなんだが」
 杉山は扉の向こうへ下りていった。エミもすこし離れてついていく。礼拝堂は学校の施設だが、地下室はべつだ。勝手に入るだけでも腹が立つのに、飲み物や食べもの――といっても酒のつまみばかりだが――を持ちだすなんて、泥棒じゃないか。
 地下室にいたる扉には、ダイヤル式の南京錠が取りつけてあった。それが解錠され、扉は半開きになっている。杉山は難しい数学の問題にぶちあたったみたいな顔をしたが、まるでスパイ映画みたいな身のこなしで扉から離れ、祭壇前に並ぶ長いすの陰に隠れた。エミもまねをしてそれにつづいた。地下から階段を上ってくる足音が聞こえたのだ。
 やがて扉が開きだし、ふたたびちょうつがいがきしんだ。
 エミの頭に疑問符が点灯した。
 現れたのは、二年生の現代文を担当する鳥居節子だった。もう五十歳近いさえないオバサンだ。陰気だし、いつもダサい服ばかり着てくる。もちろん独身だ。ことによるといまだにバージンかもしれない。そんな女教師がなぜ地下室に――。
 鳥居は、スーパーで使うようなエコバッグを二つ、両脇に抱えていた。どっちもぱんぱんに膨らみ、ミネラルウオーターのペットボトルが何本か顔をのぞかせていた。水割り用の天然水だった。ほかに乾物なども持ちだしているようだった。小ぶりのアタッシェケースも手にしていた。杉山は咎めなかった。女教師が礼拝堂を出るまでじっとしていた。
「ダイヤル番号を知ってたんだな」ふたたび二人だけになり、杉山は話しだした。
「どうしてやめさせなかったの?」
「あのくらいかまわんさ」
「でもほかの先生たちもくるかも」
「いや、逆に教師が行方不明になったら、誰か捜しに来るかもしない。それにああ見えて鳥居先生はしたたかだよ」杉山はタバコに火をつけてから、礼拝堂の入り口を内側から施錠した。
「したたか?」
「南京錠のダイヤル番号を知っているのは、理事長とわたしだけなんだ。もちろんわたしは彼女に教えたりしてないよ」
「パパが教えたっていうの?」エミは長いすに腰掛けた。
「ほかに考えられないよな」杉山はいすの背もたれに寄りかかったまま立っていた。
「どういうこと?」
「あの先生にはあとがない。だったら使えるものは、体でもなんでも使うだろうね」
 あのオバサンが……パパと……。気が遠くなってきた。くそまじめが取り柄の地味な女教師だとばかり思っていたのに、パパの前ではいったいどんな顔をするんだろう。
「そんな女のやることだ。あの水と食料は自分でガメるつもりだろう」
「あのアタッシェケースはなにかしら」
「理事長のコレクションさ」
「なんなの」
「護身用のしろものさ。でも心配することはない。最後に生き残るのは、わたしたちだけだ」
 エミは思わず訊ねた。「あとどれくらいかかるのかな。杉山さんの計算では」
「さあ、わたしだってはじめてだからね。なんとも言えないな」それにしては杉山は落ち着いていた。自信があるようだった。「でも最後の手段は確保してあるから心配しなくていい。生徒だけでも三十人は残っている。過去のケースを考えれば、それで十分すぎるくらいだ」
 そのときだった。
 エミはその目を疑った。
 目と鼻の先の祭壇のわきに全裸の女が立っていた。
 全身ずぶ濡れになっている。若い女だ。
 エミはそれが自分であることに気づいた。祭壇が消え、背後に風呂場のようなものが現れた。まるで夢の世界に引きずりこまれたみたいだった。夢なら自分のことを見ていてもおかしくはない。でもアルコールならもうとっくに抜けている。
 自分で思っている以上に肌が白かった。はにかむような顔をしてこっちに両手を広げている。恥ずかしいほどピンク色に染まった乳首がつんと立っていた。ブラジャーのワイヤーの跡がくっきりと乳房の下についている。おへその下に陰毛が小さく密集していた。むだ毛を処理したばかりみたいでチクチクしそうだった。裸のエミはプラスチックのいすに腰掛けた。足をすこし広げている。奥にある赤い肉ひだが顔をのぞかせる。そんなところ見てはいけないのに、エミは視線を動かせなかった。恥ずかしかった。胸がドキドキしてくる。でも凝視をやめられなかった。もうわかっていた。そこは自宅の風呂場だった。そこでエミはにこにこと微笑みながら、たいせつなところを見られていた。
「どうした?」遠くから杉山の声が聞こえた。「眠たいのか?」
 幻覚が消えた。
「なにぼんやりしてるんだ。眠るなら硬いベッドにもどらなきゃだめだよ」
 あの棺桶のことだ。もし眠くなったらドラキュラみたいにあそこに入る。そういう約束だった。眠気は禁物だというのだ。
「そうじゃないの。なんかへんなものが見えたのよ」
「見えた?」
「幻みたいのが。あたし、自分で自分を見ていたわ。お風呂場にいる自分」
「お風呂場って」
「裸だったの。なんかすっごく恥ずかしかった」
「来るんだ」杉山はエミの腕をつかみ、階段をのぼりだした。鐘のところまでもどると、無理やりエミの体を棺桶に押しこんだ。
「なによ」
 杉山は返事もせずにエミのキャリーバッグを開け、例の両生類のかぶり物じみたヘルメットを取りだした。「かぶるんだ」
「もうかぶるの? きちゃったの?」
「いいから」
 マジな雰囲気だった。エミは怖くなって言われたとおりにした。杉山の手があごのところにのびてきて、スイッチに指先がふれた。ブーンという音が耳に入ってくる。それから杉山もおなじヘルメットを手に棺桶に入ってきて、狭いスペースに腰をおろした。
「こんなに早く起きるなんて……」杉山は棺桶の内側に取りつけたサイドポケットからタブレットを取りだした。
 四分割された画面には、校内のようすが映っていた。防犯カメラの映像だった。中庭と体育館と職員室と北館の廊下がカラーで映っている。生徒たちは体育館に集められている。職員室では教師たちが話しあっている。画面はべつのカメラの映像に切り替わる。そのなかに保健室の映像があった。エミは寒気を覚えた。床の二か所が赤く染まっていた。血の海だった。どちらにも服のようなものが落ちている。その場で体を丸めているようだった。
「はじまったみたいだな。でもまだ序の口さ。これからもっとひどくなる。だけど――」杉山はヘルメットを頭に装着した。声がくぐもって聞こえる。「なんでキミだけなんだ。多少の個人差はあるにしろ、わたしもおなじ状況にあったわけだからね」
「どういうこと?」
「お風呂場って言ったね」
「そう」
「キミとお風呂に入った覚えはないんだが」
「バカ、あたりまえじゃない。あたしんちだもん。あたしんちのお風呂だったもん」
「キミの家? そこでキミは裸の自分を見ていた。そういうこと?」
「うん」返事をしながらエミは、いまだ生々しい記憶をたどった。あたしはあたしを見ていた。でも見ていたあたしは誰かであって、あたしじゃなかったのかもしれない。エミはその人物を記憶のなかにもう一度探しだしたかった。
 奇妙な予感がエミを高揚させた。エミは弟の日記帳をアイスボックスの上に置いてきたことを思いだした。杉山を呼びだす校内放送が入ったのはそのときだった。

≪時の祈り≫
 二〇一四年の五月、わたしはティネリエールの旧市街にいた。
 そこでフランス系の旅行会社に勤める知人を訪ねた。いくら能力があるからといって、誰かれかまわず思考を読みとるのは、わたしの主義でなかった。それに多かれすくなかれ不快な気分にさせられるのだ。必要以外のときは、へたな干渉はしないほうが身のためでもあった。だから古びた事務所でミントティーをすすりながら、だいたいの事情を言葉で説明した。知人は十四年前のことを覚えていてくれて“生き神さま”の家族と連絡を取ってくれた。
 その孫にあたるファティマはいまは二十四歳となり、古都フェズの高級ホテルでハウスキーパーとして働いていた。
 五月十五日夕、そこに宿をとったわたしの前に彼女は現れた。夜のターンダウンサービスのためだった。
「ターンダウンの必要はありませんよ」
「ウィ」
 それだけのやり取りでわたしは必要な情報をすべて獲得できた。
“生き神さま”が、ティネリエールの街を出て、赤茶けた岩に覆われたトドラ渓谷にある“ジュヌン(狂気)の家”と呼ばれる洞窟に移り住んだとき、彼女は銀細工の腕輪をお守りとして贈っていた。日本人観光客らにもよく売りつけられる安物の腕輪だった。
 彼女にとっていまもそれは、せつなくもたいせつな思い出だった。祖父という偉大な存在があったからこそ、つらいことだらけの人生にもめげずになんとかやってこられたのだ。そう考えても過言ではなかった。
 腕輪を贈ったのがたしかに彼女であることをつかみ、わたしはようやく得心した。向こうの世界で出会った“生き神さま”も、それをたいせつにはめていたからだ。
 わたしは日本にもどり、策を練った。
鍵を握るのは、南条直幸の子孫だった。

27
 ざらざらする板の間に置かれた食卓に美紀は突っ伏したままだった。
三橋さんがくれたミネラルウオーターは、電気がとまっているせいでぬるくなっていたが、喉の渇きを癒すことはできた。ほかにおせんべいやチョコレートも出してくれたが、お腹はぜんぜんすかなかった。
「ほんと暑いわ。風もないし」
 居間と台所の窓を全開にしてあったし、玄関も開けっぱなしだ。それなのにまったく風が入ってこない。うだるような熱気が家のなかにこもったままだった。
「いつまでつづくのかしら、こんなこと」
 三橋さんは美紀の隣に寄り添い、話しかけた。学校の西側に隣接するサツマイモ畑の持ち主だ。ご主人は役場勤めで、畑のほうは三橋さんがほとんど一人で手入れしているという。すらりとした体形で目鼻だちもはっきりしていた。水商売ってこんな感じの女性が似合うのかもしれない。どちらかというと和風のイメージがあった美紀の母親とはずいぶんちがうタイプだ。それに大人だった。学校の若い女性教師たちが子どものように思える。教師なんかよりあれこれ苦労しているのかもしれない。それでいてTシャツとショートパンツ姿はさっそうとしていたし、黒々とした長い髪は若々しく生命力にあふれていた。
「怖いわ。本当に。人が三人も消えたってどういうことなの? 悪い夢なら早く覚めてほしいわ」三橋さんは独り言のようにつぶやいた。
 夫婦には子どもが一人いた。小学五年生の男の子だ。三橋さんは掛け時計に目をやった。もうとっくに家に帰ってきていい時間だった。でももしかしたら息子のほうでも、家に近づけずに途方に暮れているのかもしれない。
「うちの人、わかっているのかしら」
 そのときだった。
 美紀は誰かべつの人が部屋にいるような気配を感じた。はっとして顔をあげたが、誰もいない。
「どうかした?」
「いえ……誰かいたような気がして」
「え……」三橋さんは玄関を見にいった。「気のせいよ。疲れているんだわ、あなた」
「たぶん学校でも異変に気づいていると思います。でも電気だけは通っているんじゃないかな。太陽光発電の装置が校舎の屋根にありますから」
「うらやましいわ、そういうの。うちにも電気引いてくれないかしら。こう暑くっちゃ」
 そう言うと三橋さんは白いTシャツの背中に手を入れ、ブラジャーを解いた。
「ごめんね、はしたなくて」三橋さんは、左右の肩ひもを袖から引っ張りだして腕をくぐらせ、器用に黒い下着を外した。それが覆っていた部分に美紀の目は自然と吸い寄せられた。香水のいいにおいがした。
 またしても人の気配がした。
 美紀は三橋さんに気取られぬよう目だけ動かしてたしかめた。
 誰もいない。
「さっき男の子たちがライン引きでうちの裏に白線を引いていったわ。ちょうどそれ以上進めなくなるあたり。あれが境界なんだわ」
 おなじことは美紀も体験ずみだった。サツマイモ畑と三橋さんの家を通り越し、その向こうに広がる休耕地に足を踏み入れた途端、体は学校の東側、野球部のバックネット近くに飛びだしていたのだ。常軌を逸した事態だった。だが学校に帰るわけにいかなかった。それで美紀は三橋さんの玄関をたたいたのだ。
 三橋さんは居間の窓辺にたち、南側に広がる畑を見やった。相変わらずの日差しが、地面に反射している部分がある。ライン引きが通った跡だった。それが畑の西の端から南に向かってまっすぐにつづいている。
「あの子たち、なにかわかったのかしら。ヒロシたちよ。西田浩。二年生。あなたとおなじ学年。ヤクザの息子よ。なんで高校なんて通わせるのかしら」
 特進コースでもスポーツ特待生でもなかったが、目立つ子だから知らないわけじゃない。でも美紀はべつの男の子のことが頭に浮かんだ。以前、西田浩とたむろしているところを見た覚えがある。
「ほかに誰といっしょだったんですか」
「うぅん、あとはよくわからない。太った子とがっしりした感じの子。あぁ、レイク・ウエストの息子さんもいたかな」
 かっと首筋が熱くなった。
「どうかした?」三橋さんは振り返った。美紀はあわてて平静をよそおった。三橋さんはなにか察したみたいに近づいてきた。「レイク・ウエスト、行ったことある?」
「いえ、お店の前はよく通りますけど」
「藤野くん、いい子よ」だしぬけに言われ、どきりとした。「おとうさんのお手伝い、ちゃんとやっていて。感心だわ。あそこのおとうさん、むかし、富士新報の記者だったんですって」
 はじめて聞く話だった。このへんは田舎だ。近所のうわさ話ぐらいしか楽しみがないのかもしれない。でも美紀としては、いまの状況の打開策とおなじくらい聞かせてほしい話だった。
 校内放送が聞こえた。
 教頭先生が総務課長の杉山さんを呼びだしている。声が緊迫していた。
「リストラされて蔦川さんに頼みこんだのよ。それであのお店をまかされることになった。でも最近厳しいみたいよ。藤野くんには悪いけど」
 見透かされているようだった。でも美紀自身、よくわからなかった。というより、もし彼に面と向かったら、やっぱり恥ずかしいし、悔しくもあった。あの日のことが、どうしたって頭から離れない。
 藤野くんはこないだまで水泳部に入っていた。ほかにカッコいい男の子たちはたくさんいたから、美紀はべつに気にもとめていなかった。むしろ悪いうわさに眉をひそめていたくらいだ。司書の松本さんと付き合っているとかいう話だった。
 でもあの日、まさにその松本さんの根城で、彼に見つかってしまった。一番見られたくない姿を。
 その夜、美紀は夢を見た。
 エミたちにさんざんいじめられる胸クソの悪くなる夢だ。そこに彼が現れた。風のように近づくと、美紀のことを抱きかかえ、そのまま廊下に連れだしてくれた。気がつくと、樹海のなかに二人でいた。大きなヒノキの前だった。いつのまにか手をつないでいた。男の子と手をつなぐなんてはじめてだった。分厚くて温かな手のひらだった。美紀は恥ずかしさに頬を赤らめた。それが見つかるのではないかと、美紀はうしろを向いた。だがタケルは許してくれなかった。
 肩に手がかかった。美紀は体からすっと力が抜けるのを感じた。こんなことって……こんなことって……なんでもない男の子だったのに――。
 大きなヒノキの前だった。
 夢はそこで覚めた。
 甘美な思いはずっとつづいた。美紀はそれをずっと押し殺してきた。そんなことを口にしようものなら、あいつらがなにをしてくるか知れたものでなかったからだ。でもこんなふうになってみて、なんだかなにかが弾けたような気にもなった。三橋さんになら話してもよさそうだった。
「わたし、学校でひどい目に遭ってまして……」
「ひどい目って? いじめとかってことかしら」
 それには答えなかった。認めたら、みじめさの大波にくるまれてそのままどこかに連れていかれそうな気がしたからだ。それでいて三橋さんと話していると気持ちが落ち着いた。休日の昼下がりにおかあさんと話しているみたいだった。
「だいじょうぶなの?」
 美紀は小さくうなずいた。その間もずっと妙な気配が自分のまわりについてまわっていた。やっぱり精神的に相当まいっているんだ。気持ちを強く持たないと。
「先生たちはあてにならないけど、わかってくれる友だち……いますから」
「それが藤野くんなんだ」ズバッと言ってくれた。「じゃあ、彼のところへ行ったら?」
「いやぁ、それはちょっと……」
「ふぅん、なぁるほど」
 三橋さんははじめて笑みを見せた。さっきまでの雰囲気とはちがう、少女のような微笑だった。「まだそこまでは近づけないんだ。だけどこんなふうになったら、恥ずかしいもなにもないんじゃない? これもたぶん、あなたの夢のなかの出来事なのよ。好きにしたらいいのよ」
 そうか。
 夢なのか。どうしてそう考えなかったんだろう。美紀は目からうろこが落ちたような気分になった。さっきから感じる気配も夢ならではなのだ。
 ところが異変はまもなく起きた。
 開け放った居間の窓のすぐ外を開襟シャツの男の子が通りすぎたのだ。一瞬、美紀はそれが藤野くんかと錯覚したがちがった。頭が丸刈りだった。
 裏のほうでなにかを踏みつけるような音がした。三橋さんが勝手口を開けた。
「あなたたち、どうしたの?」
 三橋さんは怯えたような声で訊ねたが、返事はない。美紀は怖々と首をのばした。野球部の一年生らしき男の子が二人、勝手口の向こうでにやついていた。どちらも眉毛のない酷薄そうな目をしている。
「なにか用?」
「お腹すいたんッス」背の高いほうがぶっきらぼうに言った。「学校の売店、加納さんたちに襲撃されちまった。学食はあっちの世界だし、非常食はみんなカビちまってるんッス」
「育ち盛りの男の子はもうがまんできないんですよ」ずんぐりとした相方がつづく。
「しょうがないわね。じゃあ、先生呼んできなさい。あんたたちだけに食べさせるわけにいかないでしょ」
「ねえ、おばさん」相方が甘えたような声で訊ねた。「なんでノーブラなんですか」
 言われた途端、三橋さんは両手を胸の前で組んだ。「なに見てんのよ。先生に言うよ」
「いろいろさぁ」
 いきなり耳元で声がして美紀は飛びあがった。べつの丸刈りの男子だった。居間の外で見かけた生徒だ。いつの間にか玄関から上がってきている。土足だった。
 三橋さんが振り向くよりも侵入者のほうが早かった。隣家の妻の脇の下にうしろから両手をいれ、Tシャツ一枚に包まれた乳房をぎゅっとつかんだのだ。三橋さんは短い悲鳴とともに体を激しくよじった。美紀はあっけに取られてなにもできなかった。
「おれにもやらせろよ、ユウキ!」
「窓閉めろって!」
 ユウキと呼ばれた男子はそのまま三橋さんを床に引きずり倒した。その間にも残りの二人が勝手口を閉じ、台所と居間の窓もすばやく閉じていく。玄関はユウキが入ってきたときに自分で閉めていた。たちまち密室ができあがった。
「マジにいい体してんなぁ」隣で震えあがる美紀のことなどおかまいなしに、ユウキは三橋さんの体を仰向けに押さえ、ばたつく手足を振りはらってショートパンツの上から下腹部をなでまわしていた。
「やめなさいっ……!」
三橋さんが叫んだ途端、ユウキはそのこめかみを殴りつけた。「うっせんだよ、このアマ!」
 それでも三橋さんは悲鳴をあげた。ユウキはスリッパを見つけ、それを彼女の口に押しこもうとした。
「やめなさいよ!」ようやく美紀は声を出せた。しかしうしろからいきなり抱きつかれ、他人のことなどかまっていられなくなった。
「やりたいッス! 死ぬ前に!」背の高いほうだった。美紀は必死に抵抗した。その刹那、二人がかりでショートパンツを下ろされる三橋さんの姿が見えた。
「前からヤリたかったんだゼ」ユウキのおぞましい声が密室に充満した。

26
「帰る方法がわからなかったら、わたしだって安易に近づいたりしなかったさ」波多野は心配する四人の顔を見まわした。「でも確実じゃない。それだけはわかってほしい」
「どういうことだよ」ヒロシはいきりたった。
 波多野は言い聞かせるように説明した。「あくまで以前はそれで助かったというだけなんだ。時の亀裂は、黒点活動と地磁気の変動、それに彗星の動きが重なって起きるんだが、じつはもう一つ要因がある。人為的な要因だ」
「人為的だって?」マコトがまた興味をしめした。
「ミイラだ」
「えっ?」
 さすがにマコトも眉をひそめたが、波多野は平然と説明した。「時の亀裂が観測された場所では、かならず地中からミイラが出土しているんだ。バミューダ海域では無人島に埋められていた。神の島と呼ばれる場所だった。出土からだいたい数日以内に失踪事件が起きている。だからミイラの呪いだとか神隠しだとかいううわさ話もあるくらいだ」
「なんや、気色悪い話やな」
「ミイラが一つの大きなファクターだと考えると、時の亀裂はもっと大規模に世界各地で起きている可能性がある」
「なんでや?」
「ミイラっていうのは、ふつう山奥とか人里離れたところに埋めるからだよ。まわりに人がいなければ、転位が起きても被害はない。被害がなければ、騒ぎにはならない」
「それがこの学校に埋められていたっていうの?」
 波多野はマコトに小さくうなずいた。「中庭だ。あの工事現場だよ」
「そういえば、さっきでっかい木箱を運びだしていたよ。あれかな」
「やっぱりそうだったか。誰の指示だかわかるかな」
「さあ、でも校長は出張中だし、この学校は理事長が牛耳っているからね」
「蔦川幹か……時の亀裂を知っていたとは思えないんだが」
「せやけど、ミイラが入るような棺とかではなかったで。人間は入らんと思うんやけど」
「日本のミイラは特殊な格好をしているんだ。即身仏って聞いたことあるかな」
「日本史の副読本に写真が載っているよ。生きたまま土のなかに入って死ぬんだろ」
 マコトは自慢げに話したが、タケルだってそれくらいは知っていた。土中の石室に入り、座禅を組んで念仏を唱えつづけながら息絶えるというものだ。それをあとで掘り起こしてお寺に飾ったりする。そんなことをしてなんの意味があるのかわからなかったし、なんだか拷問のようだった。それに体の腐敗を防ぐうえでたんぱく質が大敵だとかいう話で、土に埋められる前は何年間も木の実などしか食べないという過酷な修行が必要だとも記されていた。
「その目的は、お釈迦さまの入滅後、五十六億七千万年後に弥勒菩薩が降臨したときに手伝えるように肉体を残しておくためだとか、たんに衆生救済の願いからだとか言われている。だけど時の亀裂にかかわる即身仏はちょっとちがう。即身仏とは、厳しい修行を何年も積んだ修験者の究極の姿だ。修験者というと、病気を治せるとか空を飛べるとかいうたぐいの験力(げんりき)のことが昔からよく言われていたが、要は祈りという精神的なパワーがほかの人々より格段に強力な人間のことだ。信じがたい話かもしれないが『祈りが通じる』という現象は存在するんだよ」
 それを研究するのも、波多野たちNASAの特別チームが取りくむテーマの一つだった。
「そうした彼らの祈りのなかで、ある特殊な精神エネルギーが肉体が滅したあとも残存していて、それが地磁気の乱れや黒点活動による宇宙線量の変化と合致することで、時の亀裂が生まれる。われわれはそう考えている」
「精神エネルギーってどういうの?」マコトが身を乗りだして訊ねる。
「要は電磁波さ」
「じゃあ、それを発するのは肉体の側?」
「そうだ」
「骨と皮だけなんやろ、即身仏ゆうのは」
 ガクが疑問に思うのはもっともだった。たとえかろうじて腐敗はまぬかれているとしても、それは生命体ではない。しかし各地で見つかっているミイラは特別なものだという。
 波多野が説明をつづける。「おそらく最初はただの死体だったのだろう。ところがそれが年月をへるうちに変化していった。脳細胞の一部がキノコのようにむくれあがり、やがてそれが全体に広がり、はじめにあった部分をすべて取りこんでしまう。多くは最終的に全体が鏡餅のようになった状態で発掘されている。それでもX線で分析すると、たしかに人間の手足や胴が確認される」
「ほんま気色わるいわ」
「体の変形も、生物学的には細胞の成長過程ととらえることができる。おそらく微量の水分を栄養として吸収しているんだ。そして変形がつづくかぎり、肉体は死滅していないということになる」
 マコトが訊ねた。「人間とは言えないよね? ただの細胞じゃん」
「たしかにそうだ。しかしその醜い塊は、人間界でもっともよく知られたある細胞に酷似していたのも事実だ」
「ある細胞? なんなの?」
「がん細胞だよ。自律増殖性やその他の性質もそっくりなんだ」
 タケルは眉をひそめた。ヒロシもガクもマコトもけげんな顔をしている。それを無視して波多野がつづけた。「そこからきわめて微弱な電磁波が発せられている。もとは脳の神経細胞だ。だからその電磁波を精神エネルギーと見てもいいだろう。だとすると時の亀裂が発生する理由も、彼らの目的に関係してくることになるのではないか。われわれはそう考えた」
「修行僧たちの目的ってこと?」思わずタケルが訊ねた。「民衆救済とかとはちがうって、さっき言ったよね」
「彼らだって人間だったんだよ。エゴさ」
「エゴ?」
「日本の即身仏にかぎらない。時の亀裂が起きた場所で見つかったミイラは、みんな利己的な願いを持っていた。きみたちはまだ若いから考えたことなんてないだろうが、人はいずれ死ぬ。もっと生きたいと願っても肉体のほうがそれを許してくれない。一秒ごと着実に人の体は、死に向かっている。だから人間は永遠の命を願う。修験道を極めようとするのも、究極的にその願いがあるからだ。他人を救うためなんていうのは、きれいごとにすぎない」波多野はタケルの顔をじっと見つめた。寒気がした。なんだか喉にナイフを突きつけられているみたいだった。「肉体なんて器にすぎないんだ」
「えっ?」
「入れ物さ。わたしはいまではそう思えるようになった。たいせつなのは自我なんだよ。自分を感じる意識。そう言ったほうがわかりやすいかな。肉体が滅びたのちもそれがずっとつづくなら、ある意味、死は恐れるに足らないだろう」
「永遠の魂……そういうこと?」
「話がオカルトチックになるから、その言葉を使うのは抵抗があるけど、ようするにそういうことだ。修験者の究極の念力とは、永遠の魂を生みだすことにある。それを完成させるための移行過程が、いまわれわれのいる時の亀裂だ」
「おいおい、よしてくれよ」ヒロシの顔は引きつっていた。タケルだっておなじ気持だ。「ほんと泣きたくなってきたぜ。なんだよ、移行過程って? 永遠の魂があるところに、おれたちはいま向かってんのか?」
「信じたくなければ信じなくていい。だけどこの場所から逃れられないのは事実だろう。そんなことってふつうの世界じゃありえない話じゃないか」
「だけどよ、ふつうに考えたら――」
 マコトがあとを継いだ。「霊界とか死後の世界ってことになるよね」
「どう呼ぼうと自由だが、われわれはそれを研究してきたんだ。それで突きとめたのが、時の亀裂というわけだ。ふつうに死を迎えただけでは、人間は永遠の魂は得られない。即身仏やミイラを媒介にして、時の亀裂に吸いこまれることが必要なんだ。宗教や信仰のいかんにかかわらず、人はそれを経験的に学んできた。だから世界各地で起こっているんだよ」
「ちょっと待ってくれ」息苦しくてタケルは過呼吸になってしまいそうだった。「つまりおれたち……死んだってこと?」
「正確には、ぎりぎりその一歩手前って感じだね」
「臨死体験中……ってこと?」
「共同臨死体験……そう呼んでもいいかな」
 タケルは両手で自分の肩や胸をぎゅっとつかんだ。「おれの体……たしかにあるぞ。それなのに――」
「人間としての肉体がたしかに存在しているかどうかは、わたしにもわからないんだよ。もはや残された全員が、霊……いや、電磁波だけの存在に変化しているのかもしれない」
「もどれるんやろ」ガクが泣きそうな声をあげた。
「いや……もどれる保証はそれほど高くない」
 四人は言葉を失った。体のなかから最後の気力が煙と化して脱け出ていったみたいだった。波多野の言ってることは信じたくないが、事態を考えれば、受け入れたほうがよさそうだった。
「だけど波多野さんは、ここから帰る方法を見つけたんでしょ。一般論として」
 すがるような気持でタケルは訊ねた。波多野は顔をゆがめた。「やってみないとわからないけどね」
「たのむぜ、おっさん。おれはまだ幽霊なんかにゃなりたくねえからな」
「せやけど、なんでここに即身仏が埋まっとるってわかったんや、波多野さん」
「これまでの調査で、ミイラの入滅年次が古ければ古いほど、時の亀裂が起きる規模が大きく、周辺地域の失踪者も多いことがわかっている。そう考えたとき、日本の即身仏が頭に浮かんだんだ。古いミイラなら、エジプトや中国の奥地も考えられたが、発掘は容易じゃない。その点、山形の出羽三山周辺には、いまだに未発掘の即身仏が三百体ぐらいあると言われていた」
「そんなにあるんや」
「本来なら、入定後、三年三か月後に掘りだす習わしなんだが、忘れられたものもすくなくないし、本人の意思で発掘時期が指定されたものもあるからね」
 それで波多野は、手はじめに出羽三山周辺で調査を開始し、苦労の末に鶴岡市内の農家の納屋から十六世紀末に描かれた曼陀羅図を見つけた。今年四月のことだった。
「一見するとふつうの曼陀羅図なんだが、絵柄のなかに暗号のようなものがいくつか描かれていたんだ。太陽を意味する金色の円の内側にある黒い染み、その対面に描かれた夜空を切り裂く流れ星のような銀色の筋。そして大日如来が描かれる中心部分の背景になだらかな山が描かれていて、そのふもと部分には、青い点が刻印のように記されていた」
 波多野は剣道部の部室にあったノートを広げ、サファリジャケットの胸ポケットにさしたペンで空白のページに曼陀羅図を描きだした。波多野が注目したのは、その青い点に向かってまるで渦を巻くように描かれている銀色の点線だった。
「点線のもっとも外側のところに『天正壱九年七月』と小さく記されていた。そこから線は中央に向かって渦を巻きはじめるのだが、よく見るとただの点線ではなかった」
 四人にわかるように、波多野はいま描いた曼陀羅図の隣に点をいくつも打ち、その途中に均等に区切り線を入れていった。
「点を十二個数えたところで、こうやって区切るように短い横線が描かれていた」
「十二個……」
 ヒロシが首をかしげたが、マコトが先に気づいた。「月の数。十二か月ってこと?」
「そうだ。点線は中央の青点にいたるまで五千百六十個あった。四百三十年後ということになる」
「天正十九年って西暦だと何年なの?」
「一五九一年だ」
「その四百三十年後って……」
「二〇二一年。今年なんだよ」
「その七月ってことやな」ガクは波多野がノートに描いた曼陀羅図を指さした。「太陽にある黒い染みは黒点。反対側にある流星みたいなのは彗星ってわけやな。でもってこれが――」ペン書きされた中央の山を指先でなでる。「富士山ってわけか」
「じっさいの曼陀羅図を見せてあげたいよ。あのなだらかな山肌と山頂の感じは、富士山以外のなにものでもなかった」それで波多野は青点こそ即身仏の入定地点と推理したのだった。「町の教育委員会に照会したら、即身仏に関する調査報告が一件だけ見つかった。アマチュアの郷土史研究家が十五年前に調べたものだ」
 雑誌の取材なんてうそだった。
 波多野は超常現象が起きるのをウオッチしていたのだ。
「僧名は飛落(ひらく)。尾張国の武将で南条直幸という人物だ。土のなかに四百三十年……これまでのケースでは、もっとも古いミイラということになる。しかも高校の期末試験中ときた。大規模な集団失踪は請けあいだった。しかしそんなこと、警察に言ったって頭がおかしいとしか思われないし、NASAの調査というのも日本政府には断っていないからね。というか、今回に関していえば、わたし自身の判断で行った調査だったんだ」
 ハンカチで額の汗を拭い、波多野は唾を飲みこんだ。口のなかが相当渇いているらしく、喉仏がこすれる音がした。タケルはペットボトルを差しだした。波多野はほんのすこしだけ口をつけた。
「でも転位を免れる可能性もあった。これまでのケースでは、すべてミイラが土中から発掘されていたんだ。未発掘の場所では時の亀裂が起きた形跡はなかった。だけどいつなにが起きるわからないからね」
 タケルは合点した。「それで取材のふりをして警戒していたんだね」
「きのうまでは何事もなかったのに。それで安心してしまったのがいけなかった。きょうの昼になって、穴掘りに気づいたんだ」
「やぐらが組まれたのはきょうだけど、下見とかは、おとといぐらいからはじまっていたよ」
「樹海のなかから注意してウオッチしていたつもりだったのに。迂闊だった」
「つまり波多野さんとしては、転位を起こしたくなかったってこと?」
「そりゃそうさ。集団失踪がわかっていて、どうして手をこまぬいてなんかいられる」
「じゃあ、ガス管をたたき割ったっていうのは――」
「警告のつもりだったんだ。われながら稚拙だとは思ったけど、緊急事態だったからあれしか方法を思いつかなくてね。でも校内放送が入って助かったよ」
「ぜんぜん助からねえよ。おれたちは巻きこまれちまったぜ」だがヒロシもそれ以上は言わなかった。避難放送を無視して屋上でタバコを吹かしていたほうが悪い。
「どうして波多野さんは逃げなかったの?」
「間に合わなかったんだ。それに……」それまで熱弁を奮っていたときとはちがう、どこかさみしげなようすで波多野は肩をすぼめた。「わたしも被害者なんだ」
「被害者?」
「付きあっていた女性がいてね。それこそきみたちとおなじ高校時代の同級生だ。前回、二十一年前にモロッコで時の亀裂が起きたとき、飲みこまれてしまった。旅行中だったんだ。帰ってきたら結婚する予定だった。二十四歳のときだよ。渓谷ツアーの途中だった。二人の地元住民のほか、日本人ツアー客四人とガイドの全部で七人が亀裂にはまったんだが、帰ってきたのはガイドと三十代の日本人男性客の二人だけだった。わたしはすぐに現地に飛び、ガイドから話を聞いた。男性客からもなにか聞きだそうと思ったんだが、すでに行方知れずで、名前すらわからなかった。あの日以来、一度だって彼女のことを忘れた日はない。ガイドがこっちの世界に帰ってきたのなら、なんで客であるわたしの恋人が帰ってこないのか。そこでなにが起きたのかいろいろなことを考えたよ」
「それでNASAに?」
「何年かたってから、現地でフィールドワークをつづけるアメリカ人の学者がいることを知った。彼がNASAの研究者だったんだ」
「ほんなら、ここに残ったのも自分の意思なんか? カノジョを連れもどしたいんか?」
 波多野はこたえなかったが、目には強い思いがたぎっていた。
「そのミイラをなんとかすればいいのか? ここから抜けだすには」
「時間の問題だ。これまでのケースで見るなら、平均七、八時間といった感じだ。つまり――」
 そのとき窓のすぐ向こうで草を踏みつける音がした。波多野が神経質な目をそっちに向けた。ガクが即座に反応し、窓を開けた。
 丸刈り頭が校舎のほうへ走り去るのが見えた。野球部の一年だ。盗み聞きしていたようだった。
「なんや、あいつ」
 波多野が顔を曇らせた。「冷静になってほしいんだ。パニックは避けねばならない」
 そのときだった。
タケルは息をのんだ。
 武道館の窓の向こうに広がるテニスコートを、Tシャツにスエットパンツ姿の女生徒が横ぎるのが見えたのだ。女生徒はすぐに校舎の陰に消えた。なにかから逃れるかのようなあわてたようすだった。肩まで伸びたやわらかな黒髪の合間からほんの一瞬見えた横顔だけで、タケルはわかった。たちまち胸の真ん中を鈍い痛みが突きあげた。
 川瀬美紀も時の亀裂に引きこまれていたのだ。

25
 矢継ぎ早に起きた出来事が美紀には信じられなかった。
 バリンと居間の窓が割れたかと思うと、そこに片岡さんが立っていた。つぎの瞬間、美紀の体を抱きすくめる力がいっぺんに解かれた。必死にもがいていたぶん、美紀はソファに転がりこんだ。振り返ったとき、その男子は喉に両手をあてて苦しんでいた。黒っぽいものが男子の首のまわりにまとわりついていた。ゴムタイヤを燃やしたときに出る煙のようだった。
片岡さんはサバイバルナイフを手にしていた。
 三橋さんはすでに下着をはぎ取られ、下半身をあらわにして悲鳴をあげていた。ユウキたちは三橋さんのひざを割り開こうと格闘していたが、突然の出来事に凍りついた。片岡さんに逡巡はなかった。ナイフをずんぐりした男子の胸に一気に突きたてた。あまりに深く刺さってしまったらしく、引き抜くのに時間がかかり、そのすきにユウキが逃げだした。片岡さんはナイフをそのままにして、ユウキのシャツの襟首に手を伸ばして捕まえた。
「やめろ……!」
 恐怖にユウキは縮みあがっていた。さっきまでの蛮行がうそのようだった。片岡さんは容赦しなかった。返り血をあびている作業ズボンのポケットからなにか取りだし、さっとひと振りした。たちまち警察官が持っているような警棒が出現し、それでユウキの顔面を殴りつけた。ユウキはその場に崩れ落ちた。鼻から血が噴きだした。片岡さんはなおもユウキを懲らしめた。過剰制裁だった。一分もしないうちに、ユウキはぐったりとした。それでもまだ息があった。片岡さんにはそれが許せなかったとみえる。もう一人の少年の胸に刺さったナイフの柄をあらためてつかむと、力をこめて引き抜いた。
 おぞましいほどの血が少年の胸から噴出した。床は油を撒いたようにぬるぬるとしていた。そこをまたいでうずくまったままのユウキのところにもどるなり、片岡さんは首筋にとどめを刺した。
 三橋さんは台所の壁まで這って避難し、勝手口を開けようとノブをつかんだ。が、カギがうまく開けられずに、狂ったようにガチャガチャとノブをやるばかりだった。片岡さんはそっちに近づいた。
 いましかなかった。
 美紀は破られた居間の窓に向かってダッシュした。裸足だったから、一歩踏みだすたびにガラスの破片が足の裏に突き刺さった。でもサバイバルナイフで喉を切り裂かれるよりはましだ。庭に飛びだすなり、学校のほうへ走りだした。
 美紀は職員室を目指した。だが先に職員室に飛びこんだのは化学の祐成先生だった。
「姿が見あたりません。剣道部の一年生三人が乗っていたはずなんですが」
 美紀は入口の陰に隠れた。あわてふためく祐成を教頭たちが見つめ返してきたからだ。部屋の奥では、養護教諭の持丸先生が悪寒に襲われたかのように両手を抱え、肩を震わせていた。その隣で気づかわしげな顔をしているのは、総務課長の杉山さんだった。
「運転していたのは生徒だったんですか」ウーヤンが問いただした。鵜飼は生徒指導の担当だった。
「駐車場にとめてあった羽曽部さんの車を奪って乗りこむところをこの目で見ましたから。あれはたしか……A組の松崎剛です。松崎がハンドルを握って発進させたんです」
「羽曽部さんは?」
 祐成は口ごもった。「なんていうか……わたし、松崎たちが車に近づくまえから、羽曽部さんのことを見ていたんです。羽曽部さん、車のなかでリッツの缶を――」
「リッツの缶って、まさか残りの食料のこと? 隠れて食べていたっていうの?」尾崎教頭が詰問調で訊ねた。
「そうみたいでした。自分で食べちまってたんですよ。そんなことやってるから松崎たちに反感買ったんでしょう。あっという間に運転席から引きずりだされて、ボコボコにされてしまった。それに――」
「なんですか。ぜんぶ話してください」ウーヤンもいきり立っている。
「羽曽部さんの体は車の前に倒れていた。わたし、見ちまったんですよ。発進したとき、前輪と後輪が交互にそれを踏みつけて、車体が上下するのを」
 それには美紀も絶句した。羽曽部先生は嫌味なことをよく口にしていたが、そこまで嫌われるなんて。
 祐成はあわてて車を追いかけたという。「てっきり正門から外に出るのかと思ったら、そのまま体育館のほうに猛スピードで向かっていったんです。そしたらハンドル操作を誤って学食に突っこんでしまった。そこで消えたんです」
 祐成はいまだに信じられないというように目を白黒させていた。
「それでもしやと思ったんですよ」祐成は車が北側の境界面を越えたと察知し、急いで正門を飛びだした。学校の南側に広がる樹海に分け入り、百メートルほど進んだところで、大木に激突して大破した車を見つけたという。
「車のまわりは調べたんですか」ウーヤンが問いただす。「車外放出のケースはよく聞きますから」
「ええ、調べましたとも。外に一人ぶん、車内に二人ぶん、服が残っていました」
「体のほうは見つからないんですか」
 祐成は残念そうにうなずき、くりかえした。「服だけですよ」
 服だけ残っていた?
 中庭で目にした光景が美紀の脳裏をよぎった。懸念はほかの教師たちもおなじだった。
「またか」教務主任の前田が苦りきった。「いったいどうなっているんだ。誰かが死体を裸にして持ち去っているみたいじゃないか」
 美紀ははじめて知った。体育の辻本先生と売店の小梶さんも亡くなったらしいのだが、死体が消えたというのだ。そして祐成先生によると、自分の車に轢かれた羽曽部先生の体もどこかに消えてしまい、シャツとズボンだけが残されていたらしい。
「松崎たちのことはわかりませんが、羽曽部先生はこの目で血まみれになっているのを見ました。二本のタイヤが踏みつけたのは頭だった。とてもじゃないけど、そばに近寄れなかったですよ。助けに行ったところでもう遅かったはずだ」
「もうイヤよ、こんなの」
 尾崎教頭はいまにもヒステリーを起こしそうだった。ウーヤンがそのようすを冷ややかに見つめている。教頭が取り乱すのをいまかいまかと待ちかまえているかのようだった。あの二人の折りあいが悪いのは生徒たちにも知られていた。教頭が校長を飛び越して理事長にすりよっているのが気に入らないのだ。
「砂漠に放りだされたほうがまだましじゃない。逃げることすらできないなんて。まるで牢屋じゃない……小林さんはどこに行ったの?」
 前田が答える。「あの男を探しています」
「まだ見つからないの? まさかあの男だけ逃げられたなんてことはないでしょうね」吐き捨てながら教頭はエアコンのリモコンを天井に向けた。風がうなりをあげて降りてきた。外よりは格段にすごしやすいが、たいしてきかなくなっているようだ。壊れているのではない。外気がどんどん暑くなっているのだ。
「こんなふうになったのも、あの人が騒ぎを起こしてからじゃない。なにか知ってるはずよ」
 ウーヤンがわざと言った。「ほんとに失敗しましたよ。ねえ、祐成先生。どうしてわたしたちも逃げなかったんでしょうね」
 祐成は一瞬、困惑した顔を見せたが、ウーヤンにつられて口走った。「鵜飼先生、そんなこと言われたって……だって教頭先生が――」
 すぐに尾崎教頭は反応した。「わたしがなにか?」
「生徒が残っていないか見てくるようにって」
「あたりまえじゃない。最低限の責務でしょう。教師としての。それに祐成先生は生徒指導補佐でしょう」
「でもまあ」ウーヤンが冷ややかに言った。「こんな有事に教師のほうが先に逃げだしていたら、マスコミが糾弾してくるでしょう」
「そうよ。危機管理の問題なのよ。わたしたちは務めを果たしたわ」
「理事長に対する務めをね」
ウーヤンが腹の底にあった黒いものをちらりとのぞかせたとき、多葉田先生が廊下を走ってきた。いつもやる気のない物理の教師だったが、いまはひどくあわてたようすに見える。
「たいへんだ!」職員室に駆けこむなり、話しだす。「体育館で二年生の女子が二人、過呼吸を起こしたみたいなんです……持丸先生はいますか!」
 その声に持丸がふらふらと立ちあがった。
「すぐきてください!」
 多葉田は踵を返した。それに持丸と祐成と鵜飼がつづく。職員室は教頭と前田だけになった。美紀は怖々と足を踏み入れた。
「あなた……川瀬さんよね?」目をすがめて教頭が訊ねてきた。
前田が居残り組をチェックした大学ノートに目を落として言う。「まだいたのか。どこにいたの? ずっと学校にいたのかな?」
「はい」
「どうして裸足なんだ? 血が出てるじゃないか」
「それは……」
「とにかく、みんな体育館に集合している。そっちに合流しなさい」
「でも」
「わかってる。先生たちだってどうしたらいいかわからないんだ。いくら聞かれたって答えられない」
「そうじゃないんです。報告しないといけないと思って。わたしも服が落ちているのを見たんです」
 前田の顔色が変わった。教頭は天井をあおいだ。美紀は中庭で見たものについて話した。部屋の奥で杉山さんの顔が曇る。美紀は注射器の話まではできなかった。
かわりに隣の三橋さんの家で起きたことを話した。「用務員さんが助けてくれたんです。そうじゃなきゃ、わたしも三橋さんも、あの野球部の子たちに……でも用務員さんは――」なんの躊躇もなく、生徒たちを殺したのだ。それを美紀は目撃していた。
「川瀬さん、ちょっとここにいてくれるかしら。事務の小林さんかほかの先生がもどってきたら、わたしたちがお隣にうかがったことを伝えてちょうだい」
 そう言い残し、教頭は前田と杉山さんをともなって出ていった。美紀は職員室に一人になった。いったい何人が亡くなったのか。いや、いったい何人がいなくなったのだろうか。それを思うと自分も息苦しくなってきた。冷静にならないと。どうやら夢じゃなさそうだ。こんなに長つづきする夢なんかあるわけがない。
 たしかなのだ。
 教頭が言ったことが頭のなかをぐるぐるめぐっている。
 まるで牢屋じゃない。
 ここから出ることができない。その檻のなかで、生徒も教師もおかしくなりはじめている。ただ、用務員さんだけが確固たる意志をもって人をあやめている。
 そこまでがいまわかっているたしかなことのようだった。だが美紀は甘かった。もう一つの事実を忘れかけていた。背後から浴びせられた声に、それをまざまざと思い知らされた。
「あら、オシッコちゃん、こんどはチクりにきたっていうの?」キョウコが入口のところに立っていた。
そのうしろでサヤカが薄気味悪くにやついている。「どうして裸足なのかしら。原始人みたいね」

24
 ベルテラスから下りないように申しつけ、杉山は渋々、職員室にもどっていった。呼び出しなんてシカトしてもよかったが、捜しに来られるのも厄介だという。
 午後五時四十分だった。
 あれから五時間になる。鐘の下に鎮座する仏さまが活性化するまで、杉山の読みではまだあとすこし時間がありそうだった。それにぜんぜんイケてないけど例のヘルメットと棺桶があれば、だいじょうぶだろう。
 エミはすこし前に浮かびあがった幻覚が忘れられなかった。自分の裸体にうっとりとしたわけではない。それを見つめる自分の視線と融合した誰かの存在をはっきりと感じとれたからだ。
 不思議な感覚だった。
 まるでテレパシーを使って誰かの体に乗り移ったみたいだった。ほかになにが見えたかエミは思いだそうとした。でもあれが精いっぱいだった。家のお風呂場にいる自分。足と足のあいだの見てはならない部分……。がまんできなかった。弟の日記帳は取ってきた。それを小脇に抱え、階段を下りる。そしてヘルメットをかぶったまま礼拝堂の外に足を踏みだした。
 どっちだろう?
 人気のない校内を見回す。中庭をはさんで礼拝堂とは反対側に体育館がある。生徒たちはそっちに集められているようだし、教師たちは職員室にもいるだろう。エミはあごの下にあるスイッチを切った。途端、外の音が一段大きく聞こえたが、ひっそりとしていることに変わりはない。ほんとならもう夕暮れ時なのに、太陽は真昼とおなじ位置にあった。
なんなのよ、この暑さは。
 中学のときに家族旅行で行ったクアラルンプールを思いだした。十一月だったが、飛行機を降りるなり、うだるような暑さにぐったりとした。そのときと似ている。日照時間が長いぶん、気温が上昇しているのだ。ベルテラスは風があるからまだましだった。エミは中庭のほうに向かった。
 奇妙な夢日記をジュンが書き残したのも、たしかあの旅行のころだった。

 魚釣りの夢だった。
 パパといっしょに湖で投げ釣りをしていた。
 二人ともぜんぜんだった。
 パパが言った。
「ジュン、エサニナリナサイ」
 パパは釣り針をボクの喉に通した。
 牛肉をぶら下げるみたいな大きな鉤針だった。
 それがぎゅるぎゅると音をたてて気管を突き破っていく。
 チクンとしてすこし痛かった。
 針の先がちょっとだけ口から飛びだした。
 パパは竿を振りあげ、湖の真ん中目がけて投げた。
 ボクの体は宙を舞った。
 そして鏡のような湖面がバリンと割れる。
 青く澄んだ水は生ぬるかった。
 気持がよくて、痛みが薄れていった。
 体は深く、深く沈んでいった。
 何十メートルも潜ったところで底についた。
 でも魚はこなかった。
 ボクはひざを抱えて待った。
 すると人魚がやってきた。
「ドウシタノ?」
 たずねられ「キミニアイニキタ」とボクは答えた。
「ウレシイワ」
 人魚はボクにキスをした。
 そのときパパが竿を引いた。
 ボクたちはいっしょに水からあがった。
 針を外してもらい、ボクは自由になった。
 人魚は砂のうえでもがき、血の涙を流した。
 パパはうれしそうにそのうえにまたがった。
 人魚は悲鳴をあげた。
 パパはちがう人になった。
 人魚はママになっていた。

 エミは無性にジュンの顔が見たくなった。こんど目が覚めたら、どんな日記を書いてくれるんだろう。
 きっと楽しい夢。
 絶対に、そう。
 エミは熱でとろけはじめたアスファルトを踏みしめながら、神経を研ぎ澄ませていった。無骨なかぶりものを見られるのが恥ずかしかったが、笑わば笑えというやつだ。杉山の見たてがただしければ、いまにそんな連中どこかに消えてしまう。気にするだけ損だった。
 中庭に差しかかったとき、渡り廊下を教師たちが走っていくのが見えた。体育館に向かっているようだった。きっと杉山が想定したようなことが起きたのだ。でもまだ即身仏が活性化したわけではないだろう。とはいえ杉山に見つかれば、礼拝堂に連れもどされるにきまってる。エミは踵を返してテニスコートのほうにもどり、そのまま八十メートルほど北進してプールのわきを抜け、裏門から学校を出た。まだそのあたりはこっちの世界の内側にあったが、慎重な足どりで林に分け入った。その向こうに湖が見える。
 足をとめた。
 なにかが頭のなかで光ったような気がしたのだ。
 林の真ん中だった。しゃがんで湖に目を凝らす。対岸が蜃気楼に揺らいで見える。こっちとおなじ深い森が広がっている。そのなかにクリーム色の箱型の建物があった。胸が疼く。高度医療が望めるもっといい病院もあったはずだが、パパが強引にジュンをそこに押しこんでしまったのだ。
 じっと見つめ、精神を集中してみたが、二十分たってもさっきみたいなフラッシュバックは起きない。思いきってヘルメットを外してみた。これでほかの生徒たちとおなじ無防備な状態となった。もしいまあの即身仏が活性化したら、一気に持っていかれるだろう。杉山の話が本当ならそうなるはずだった。
 ほんのすこしでいい。さっき礼拝堂で見た幻視に帰ってきてほしかった。エミはさらに一歩、湖に近づいた。一メートル先に白線が引いてある。林のなかを右から左へと横ぎっている。まだ新しかった。ベルテラスから南側の樹海に目をやったとき、藤野タケルたちがライン引きを使って線を引いていた。きっとあれなんだろう。エミは怖々とそこに近づき、線の向こうに手を差しだした。
「ヒッ……」
 あわてて手を引っこめた。指先が見えざるギロチンに切断されたかのように消えたのだ。杉山から聞いてはいたが、じっさいに体験してみると恐ろしかった。エミはあわててヘルメットをかぶり、スイッチをオンにした。
 そのときだった。
 腹の底に響くような爆発音が背後であがった。エミは硬い土のうえに尻もちをついた。
 ざわめきが伝わってきた。体育館のほうからだった。黒煙があがっている。なにか予期せぬことが起きたのだろうか。エミは不格好なヘルメットをかぶったまま学校にもどった。
 裏手から回りこむようにして体育館の正面に出た。生徒たちが悲鳴をあげている。その真ん中で車が炎上していた。
「消火器だ! 消火器!」
 二年生の特進コースの連中が声を張りあげていた。車のわきを見てエミは仰天した。炎の塊が車から離れ、体育館のほうにゆらゆらと近づいていた。人間だ。女子のようだった。エミは阿鼻叫喚の真っただ中に出くわしたのだ。
 白煙があがった。
 粉末式の消火器だった。燃えあがる女子はそのなかに消えた。トロッピーと保健室のモッチーが必死に消火器をまいている。車の炎は消せなかったが、女子のほうは消火に成功した。だが目を背けたくなるような変わり果てた姿だった。血まみれで生焼けの焼き肉のようだった。車のそばにもう一人、こっちは黒焦げだった。あたり一面、焦げ臭さとガソリン臭に包まれていた。
 二人はダンス部の三年生だった。転位が起きた直後、噴水のそばで途方に暮れていたやつらだ。エミはヘルメットを外して草むらに隠し、なにくわぬ顔でそばにいた特進コースの男子に訊ねた。
「どうしちゃったの?」
「祐成先生だよ。ほら」男子は車のうしろを指さした。そこでもう一体、炭になっていた。それが化学の祐成だという。「学食のすぐ手前に見えない壁が立ちはだかっているんだ。ぼくたちを外に出さないようにしている牢獄みたいな壁さ。祐成先生はなにかものすごい衝撃をあたえれば、それが崩壊すると考えたんだ。それで自分の車を壁の前まで移動させて、車内にガソリンをまいた。それが十分に気化して爆発性のガスが充満したところで、教材の凸レンズを使って爆発させようとしたんだけど、うまくいかなかった。それでようすを見に近づいた。よせばいいのにダンス部の二人も。その直後だよ。一気に――」
「ドカン?」
「そういうことだね」
 さらなるざわめきが車のほうで起きた。
「まただ。また体が消えてる」トロッピーだった。めずらしくいらついている。「燃えつきるほどではなかったのに」
「どういうこと?」エミは物知りの特進コース生に訊ねたが、答えるかわりに大声で泣きだした。それを特進仲間が赤ん坊でもあやすようになだめる。あきれるほどの友情だ。
 モッチーがエミの隣にきていた。「さっきおなじ特進の女子が二人、体育館で亡くなったばかりなのよ」
「まあ……」エミとしては精いっぱいの同情だった。考えてみれば、この場にいる人間のなかで事情を把握しているのは、杉山の計略に参画している自分だけだった。
「過呼吸がひどくなってしまったの。でも心臓が停止してから、五分もしないうちに遺体が消えてしまった。服だけ残して体だけが消えたのよ」
 信じられないと言わんばかりに養護教諭は大きな目いっぱいに涙をためていた。
「まあ……」ため息をつくようにもう一度口にすると、エミはどさくさにまぎれるようにしてあとずさった。草むらのヘルメットをつかみ、体育館から離れる。そろそろもどったほうがいい。無理する必要なんかないんだ。力を身につけたら、思うぞんぶん試してみよう。だからいまはちゃんと帰らないと。
 ヘルメットを装着し、あごのスイッチに指をかけたときだった。
 エミは北側に広がる湖の対岸に立っていた。

≪時の祈り≫
 わたしは愛知県美浜町の曹洞宗の寺で系図を見つけた。それによると南条直幸は、尾張国に妻子を残していた。妻は夫が羽黒山伏になった二年後に早世している。子どもは男の子で侍になった。しかしペリーが浦賀にやってきた嘉永六年に生まれた十三代目、南条五郎衛門で系図は途絶えていた。
 五郎衛門が青春をすごしたのは、江戸から明治へと向かう時代の大変革期であった。おそらく下級武士の五郎衛門にとって、大主人である幕府が消滅したことで寄る辺を失い、呆然自失としつつ、明治新政府の旧士族階級への待遇に不満を募らせていたころだろう。しかし現実には西南戦争後、旧士族階級は消滅し、五郎衛門も台頭する商家の前に身を切るような選択を迫られたのであろう。系図が途切れたというのも、そのあたりの事情が影響しているのかもしれない。そう考えたわたしは図書館で、五郎衛門の屋敷があったとされる美浜町河和地区周辺の郷土資料にあたった。
 目にとまったのは犯罪の記録だった。
 混乱期だけに、空き巣や押しこみ強盗は枚挙にいとまがなかった。そのなかに古道具屋が襲われたものがあった。明治九年の出来事だった。食うに困った五郎衛門が押し入ったわけではない。「郷土河和町風土記」と記された資料のなかには、盗品の詳細が記されていた。そこに「南条五郎衛門ヨリ引キ取リノ正宗」とあった。正宗とは、あの名刀・正宗のことだろう。もちろん贋作にちがいない。しかしそれを古道具屋は南条五郎衛門から買い取っていたのだ。
 わたしは古道具屋があった場所を訪ねた。知多湾を見わたす坂の上にあるそこは、いまでは末裔が真新しい屋敷をかまえていた。裏手に土蔵が残っていた。
「家を建て替えたのですが結局、捨てられなくて」町役場に勤める主人は頭をかいた。
 商売としては祖父の時代で終わったが、父親が趣味で古道具集めをつづけていたという。わたしはその土蔵で三日をすごし、五郎衛門の名をこの目で確認した。生活費を得るために武家に伝わる“宝物”を小出しにしていったみじめな記録ではなかった。
 アルバムにきちんと収蔵された明治三十八年撮影の写真だった。
 港の護岸工事の竣工記念として撮影されたもので、三十人ほどの男たちがふんどし姿で写っていた。アルバムの欄外には、写っている人足たちの名前が写真の並び順に記されていた。五十二歳となった南条五郎衛門は、最後列の端っこにそっと隠れるようにしてたたずんでいた。武士の仕事としては憚られるとでも思っているのだろうか。表情は厳しく、腹痛でもこらえているみたいだった。だが格好はまわりとおなじふんどし姿だ。
 わたしが目をひかれたのは、隣に立つ背の高い若者だった。彼もまたつらそうな顔をしていたのだ。二人を見くらべるうちに、顔つきばかりか、肩の張りかたや腰つきまでもそっくりなことに気づいた。欄外には、富田善太郎と記されていた。
 わたしは富田家の系図を探した。
 富田家は、織物問屋として江戸中期から財をなした商家だった。そして富田善太郎は明治二十五年、七歳のときに、南条家から養子に入っていた。つまり富田善太郎こそが、南条直幸の十四代目の末裔だったのだ。
 明治四十四年生まれの善太郎の長男、善幸は大陸貿易を開始した。仕事は順調で、二人の息子と一人娘に恵まれた。ところがしのびよる戦争の影には勝てなかった。息子たちは二人とも戦死し、その血を受け継ぐのは娘ただ一人となった。しかし善幸は養子を取らなかった。戦後、電話会社に勤め、上司と恋仲になった娘の気持を思い、嫁に出したのだ。
 富田家の菩提寺は、娘の居所を把握していた。いまとなっては墓守代を支払ってくれるのは、彼女しかいなかったからである。住所は東京だった。わたしは祈るような思いでそこを訪ねた。しかしその一か月前、七十歳で彼女は他界したばかりだった。そこには長男夫婦と孫娘が残されていた。孫娘はまだ六年生だった。それが南条直幸のもっとも若い末裔、十八代目にあたる人物だった。そこでわたしは一計を案じた。帰還者として本当の力を使うときが、ついに訪れようとしていた。
 五年前の晩秋だった。
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