第2話

文字数 18,888文字

 アンドロイド人形の瞳、その奥の門をくぐるとき、わたしはほんの一瞬、意識を失った。いや、夢を見た。
 ショーウインドウの下で膝を抱え、通りを行き交う人々を眺めている、過去の日の夢だった。
 ある日、すり切れた軍服を着た男性が通りに姿を見せた。その傍らには、やつれ果てた女性の姿もあった。彼は、口ひげが頬の無精ひげとつながった顔で、膝から折れるように通りの真ん中で額ずいた。そして誰かの名を痛ましく叫んだ。
 己を呪い、後悔の言葉とともに、叫んでいた。
 わたしはたまらず、立ち上がった。
 立ち上がって叫んだ。
 ここにいるよ!と。
 けれど、ふたりは支え合うようにして去ってしまった。
 次の日、ひと月、一年……。
 ふたりが姿を見せることはなかった。
 気づけばわたしの姿は、霧に写る影のようにかすれていた。
 そして通りには、いつかと同じような日曜日の光景が戻りつつあった。幸せそうな子ども、やさしい父母の姿……。
 もう、待つのもくたびれたと思うようになったとき、視線を感じた。
 振り返ると、いつの日だったか、オルゴール人形のゼンマイを巻いてくれたおじいさんが、私のことを見おろしていた。そして、さみしくも誘う笑みをして、そのオルゴール人形を指さした。
 途方に暮れていたわたしにとって、心のよりどころは、もはやその人形一つしか残されていなかった。
 わたしは、ふたりが迎えに来る日を夢見て、残りの力で立ち上がると、人形に手を伸ばし、その頬に指を触れた。




「きゃ…!」
 ハッと我に返ったとき、わたしは思わず悲鳴を上げた。
 天は星空、眼下は溶岩に似た赤黒い大地。その狭間の空間で、わたしは木の葉のように弄ばれていた!
 この天地がグルグル回る浮遊感を、膝を見せずにいなす女子がいるなら教えて欲しい! わたしは悲鳴を上げながら、風をはらんで膨らもうとするスカートの膝を押さえた。…と、不意に両肩を支える手が現れ、上に下に回転する体を止めてくれた。
 頭の上に星空が来て、足元遠くに大地が広がる。天地正しい姿勢を得て、ふう…と息をつきながら振り向くと、そこにはアンドロイド人形の笑顔があった。
「わたしも初めて来たときは、くるくる回って仕方ありませんでした!」
 彼女は、パリッと張りのある声で言った。さっきまでの暗い顔はどこへ行ったのか、屈託のない笑顔だった。
 けれど、その眼は、ボロボロと涙を流していた。こちらが引いてしまうほどの大量の涙だ。さっき見た、ひとしずくの涙とは、比較にならないほどのものだった。
「あ…ありがとう」
 わたしは広がるスカートを押さえつけながら、お礼の次には何を言うべきかを考えた。それはもちろん、自己紹介だろう。
「……あ」
 ところが、わたしはとんでもないことに気づいた。自分の名前が、思い出せない。そういえば、もう長いこと誰かに名を告げる機会などなかった。まさか、それで忘れてしまったというのか……。
「なんてこと…」
 わたしは青ざめた。
 そんなわたしの顔を、アンドロイド人形は、頬をぬらしたままの笑顔でのぞき込んだ。
「オルゴール人形さん。ようこそ、イチとゼロの狭間へ!」
「え? イチと…ゼロの…、なに?」
「はざま。イチでもなければゼロでもない、ここは狭間の世界です!」
 彼女はニコリとして言った。工房に運ばれてきたときの、うなだれた様子からは一転していた。雰囲気まで変わっていて、今は、その衣装にたがわぬ陽気なカラーガードそのものだった。
 けれど、彼女の周囲には、さっき流した大粒の涙が未だに浮遊しているのだ。電気仕掛けの人形が本物の涙を流すなんて、どうなっているのか。
 キラキラと輝く水滴を見るとはなしに見ながら、わたしは尋ねた。
「あなた、直ったの? それとも壊れてる?」
「え? 直った? 壊れてる?」
「さっきまで、しょげ返ってたじゃない?」
「あ…そう見えました?」
「少なくとも元気には見えなかったわ」
「すみません」アンドロイド人形は照れたように笑った。「だけど、しょげ返っていたのとはちょっと違います。わたしはわたしの意思で、システムダウンしてたんですよ」
「システム…」
「言ってしまえば、わざと気絶したんです。だから、あれはうまく表情が作れなかっただけ。つまり、本当の姿じゃないんです」
「よくわからないけど…。とにかく、錆びる前に涙を拭いたら?」
「あ……そうですね」
 照れくさそうな笑顔。アンドロイド人形というのは、ここまで人間らしい仕草が出来るものなのか。それとも、何か秘密があるのか?
「最新型っていうのは、にぎやかなのね」
「ですよ。なぜならわたしは、子供たちも大人たちも、誰でも等しく楽しい気分にするために生まれてきたんですから。あなただって、そうでしょう? え……と、オルゴール人形さん?」
「わたし?」
 首をかしげると、アンドロイド人形は自然な仕草でわたしの左手を見た。そして、そこに結ばれていたタグをつまむとひっくり返した。
「曲目…ハッピーバースデーの歌。最高にいい歌ですね!」
「最高に、いい歌?」
「わたしも大好きです。ちょっと一緒に歌いませんか?」
「無理よ。わたし自身は、ポロンポロンという音に合わせて回るだけで歌えるわけじゃないわ」
「あ、そうですね、オルゴールですからね、すみません。でも、その曲だったら、きっと子供たちは大合唱してくれますよ」
「大合唱? そんな大げさな演奏じゃないと思うけど…」
 わたしは、工房に置き去りにしてきたオルゴール台座を思い返しながら、そのメロディーを心に浮かべてみた。
 ポポロン、ポロンロン……
 台座は置いてきたが、その音色、旋律は胸にしまわれていた。基本は単音、時々和音。ゼンマイの力で鋼の櫛歯がはじかれ、奏でられる音は、本当にささやかなものだ。
「合唱には役不足だと思うわ」
 そうつぶやいて返したが、アンドロイド人形の耳には届かなかったようだ。
「子供たちの笑顔が目に浮かびます。オルゴール人形さんは、わたしの大先輩ですね!」
「だから、子どもたちの笑顔なんて…」
 心当たりがある。けれど、否定的に言った。
 すると、
「それはともかく、歌ってみましょう! 口があって、言葉をしゃべれるなら、誰だって歌を歌えるはずですよ! さあ!」
 突然、ギュッ!と手を握られた。
 急になんなのかと眉をしかめた私だったが、すぐにその手をまじまじと見ることになった。
「人形なのに、温かい…」
「え? それは、オルゴール人形さんもおんなじじゃないですか?」
「……いわれてみれば……」
 わたしの体も、生身の人間のそれに近かった。いや、そのものといってもいい。体も、服も、柔らかで若々しい少女の姿を手に入れていた。
 ドレスは時代がかっていたが美しく、髪も風に遊ばれて揺れた。女の子なら、だれもが憧れるお姫様の格好だった。唯一、欠点を言うとすれば、はしたなくも裸足だということくらいだ。
 この姿は、私の背を押した霊たちの力が及んだものに違いない。ただ、一点、理解に苦しむことがあった。
「背丈も……大きくなってるわね」
 等身大のアンドロイド人形と同じくらいの背丈になっていた。周りになにもないので判別できないけれど、私が大きくなったのか、それともアンドロイド人形が小さくなったのか…。首をかしげるとアンドロイド人形が笑った。
「理由はかんたんです。あっちは現実世界、こっちは仮想の世界」
「仮想?」
「なんでも夢が叶う世界なんです。仮想ですけど」
「夢が、かなう?」
「ここは電子的に作られた仮想の空間世界なんです。この世界では人間らしくありたいと思えば、そうあれる。たとえばオルゴール人形さんが、小さいままじゃなくて、人間らしい大きさになりたいと願えば、ほら、この通り、等身大に!」
「等身大…」
 手首のタグも大きくなっているのは、少し違和感があるけれど、大きくなっているのは事実のようだった。
 でも…、と思った。
「電気的で、仮想で、夢が叶うってことは、つまり、夢見がちな場所ってことね?」
「まあ、そうとも言えますね」
「でも、さっき言ってた、イチでもないゼロでもない…って、なに?」
「読んで字の如くですよ!」
「だからそれは、どういうもの?」
「半端者です」
「え?」
「あ、いえ、小数点がついてるっていう意味です。れいてんいちとか、そんな感じです。整数では表せないと言い換えても良いですよ」
「イチとゼロの間ってことは…、つまり、イチに足りないってことかしら?」
「それも正解ですね!」
「……あなた、算数の先生に向いてるわ」
「わたしは実務のセクションも内蔵していますから、一通りどんな教師も務めることができます。ネットにもつながってますし。他には、経理なんかもできるんですよ!」
 アンドロイド人形は、目の中に1と0をさらりと走らせてみせ、それからニコリとし、わたしの手を解放した。そしてその手を胸元に添え、カラーガードらしく背筋を伸ばすと、自信満々、パキッ!とした声で言った。
「わたしは東洋生まれのシンガーアンドロイド、名前は歌子です!」
「…ウタコ?」
「本当はウーミンとかリサトカケルとか、そういうのが良かったんですけどね! 開発者様のセンスは覆せません!」
「……何を言っているの……」
「そしてオルゴール人形さん、あなたの名前は?」
「えッ……」
 歌子と名乗ったアンドロイド人形は、ピッとわたしを指さした。
 そうだ、と思わず胸元に手を当てたが、…やはり思い出せない。
 相手は、ピンと来たと指を立てた。
「その様子ですと、名前はまだないパターンですね! わたしの生まれ故郷ではありがちな事件です! でしたらわたしにお任せください! そういうときのエーアイでありワイファイなんです!……はい、決まりました! 名前はまだないあなたにぴったりな名前は……」
 頼んでもいないのに先読みをして、口でドラムロールを奏でると言葉を叩き出した。
「あなたにぴったりの名前、それは『ハッピー!』です!」
「………」
「ですよね?」
「違うと思うわ」
「いいえ、ハッピー!です!」
 絶対に違う。わたしはハッピーじゃない。
 はしゃぐ歌子を見ながら、わたしは暗い気持ちになった。そんなことにはかまいもせず、歌子は「ハッピー、ハッピー! オルゴール~♪」と即興で歌を作って歌い始めた。
 わたしは聞いていられずに遮った。
「それより歌子さん」
「はい?」
「さっきの涙は、どういうこと?」
「涙…?」
「あなたが深刻そうに泣いているから、わたしは声を掛けたのだけど。ここに来てからだってボロボロと…」
「ああッ! そうでした…」
 歌子は、急転直下でシュンとなり、さらに、なにかをごまかすように、大げさな振りでガックリと肩を落とした。
「朝になったら、子供たちも、町の人たちも、みんな消えてしまいます……」
 わたしは、胸の中に鉛のようなものが生まれ、それが大きくなっていくのを感じた。
「戦争ね? そうなんでしょう?」
 歌子は頷くと、両方の手のひらを向かい合わせて、その中に小さな星を作り出して見せた。その星は青く弱く光りながら小さな画面を作ってみせると、ためらいがちに紡がれる言葉を映し出した。


『いつもなら明日はパーティーの日だ。けれど私は今、愛しい子におめでとうを言うべきか、さよならを言うべきか、とても迷っている。
 今、私の前には赤いボタンがある。黒い電話機もある。けれど、これは君に電話をかけるためのものではない。愛しい子の声を聞くためのものでもない。
 明日の朝、黒い電話が鳴って、受話器から指令が届けば、私の仲間は、二つの鍵を回す。すると、特別な箱のランプがついて、私はその下の赤いボタンを押す。
 そのボタンを押すことで、私は祖国と私たちの尊厳を守るだろう。けれど、その代償は、どんなものだろうか。私は胸を張って愛しい子の前に……』


 文字は途中で止まった。
 歌子が言った。
「これは、誰かが書きかけで捨てたメールなのです。今朝、授業の前、ここで休んでいたときに、星になって降ってきて」
「星になって?」
「流れ星です」
 歌子が苦しそうに言って、天を指さした。
 わたしは首をかしげつつ星空を見上げた。
 すると、ほんの数秒の内に、どこからともなくキラッとした流れ星が生まれ、白い軌跡を引きながら赤黒い大地へと吸い込まれていった。
「流れ星に見えますけど、あれはドロップアウトしたデータです」
「ドロップアウト?」
「あの星空の世界はイチの世界。つまり電子的ネットワークの世界なんですけど、そこで役に立たなくなった情報、捨てられた言葉、そんなものはみんな流れ星になるんです」
「ということは? これはつまり、あの流れ星ということ? あれを捕まえたの?」
 大地へ落ちていく流れ星を目で追っていると、歌子は首を横に振った。
「いいえ、あれはもう意味をなさない符号に変わってしまったモノです。ただ消えていくだけのモノです。
 ネットの世界では、すべてはイチとゼロで形作られて、不要なものはゼロへと…、それも特別な、【無】という名のゼロへと落ちていくんです。ただ、人間は不思議な存在で、時々、イチでもゼロでもないものを作り出してしまうんです。そういうものはイチの世界からこぼれ落ちてもゼロに落ちきれず、ここ、イチでもゼロでもない世界をさまようようになるんです。つまり…」歌子は手の中の星を見せた。「つまりわたしは、イチからこぼれ落ちてゼロに落ちきれず、ここに漂っていたコレを拾い上げたんです」
「よくわからないわ。わかりやすく言って」
「つまり、つまりですね、この子も私たちと同じ、半端者ってことです。この狭間の世界には、半端者しかとどまれないので。わかりますよね?」
 歌子はなぜか同意を求めてくる。わたしは「あまり、いい気はしないわね…」と返し、続けて訊ねた。
「とどのつまり、この星の中のこれは、なんなのかしら? メールと言ってたわね? つまり、手紙?」
「そうですね、これは、書きかけの手紙です。送信はされなかったけれど捨てられたもの。伝えたいけれど、伝えられなかったもの。
 最初、この手紙の意味が、わたしにはわからなかったんです。でも、わたしに搭載されたエーアイは世界とつながっていて、鍵とボタン、祖国の尊厳という言葉から、その赤いボタンがなんなのかを知ることができました」
「その赤いボタンって?」
「大きな火の玉のスイッチです」
「火の玉……」
「その火の玉が、わたしたちの街に飛んでくるんです」
「それは、爆弾かしら」
「はい。とても強い……」
「それで、泣いていたわけね?」
「はい」
 わたしは胸の中の鉛が、だんだんと熱を持って、沸騰するのを感じていた。気づけば拳を握り、目をつり上げて歌子を睨んでいた。
「あなた、それを知っておきながら、泣いているだけで、済むと思う?」
「いいえ。だから、大急ぎで端末の持ち主をサーチしたんです。そんなことをしないでって言いたくて」
「サーチって?」
「居場所を探したって事です。でも、その途端、ファイアーウォールに阻まれて……」
「ファイアー……なに?」
「いろいろな種類がありますけれど、つまりは障壁です。わたしのアクセスが、相手側のサーバに拒絶されたって事です」
「……。つまり?」
「通じなかったって事です」
「手紙なら差出人の住所が書いてあるでしょう? それをたどればいいだけの話じゃないの?」
「もちろんです。わたしのエーアイは、世界中の歌を検索して、お好みの譜面を探し出せるくらいサーチ能力が高いので、住所が書いてある手紙の差出人を探すのなんて簡単です。でも、それとファイアーウォールは、全く別の問題です」
「別の?」
「強力なファイアーウォールが、わたしを電子的に遮ってしまいました」
「つまり?」
「わたしの力では、手も足も出ません」
「手も足も出ないって…」
 わたしが唇をかんで黙ると、歌子が言った。
「それだけじゃないです。
 わたしの授業を楽しみにしている子供たちが、明日にはもう消えてしまうって思ったら、とても歌を歌う気になれなくて、気づいたらわたし、譜面を閉じてしまって……。子どもたちに、どうしたのって聞かれて、手紙のことを話そうとしたんですけど、その途端に言葉も腕も何もかもがロックされてしまって……」
「ロック?」
「頭の中で『触れるな』って声がして……。
 どうやら、差出人のアドレスを探ったときに、逆にこちらをたどられてウイルスを送り込まれたみたいで……。それも、その辺にいるようなウイルスじゃなくて、すごく強力なウイルスで…。そのまま放っておくと、わたしは操り人形になって、物理的にわたし自身を壊してしまうくらい強力で…。それで、わたしは咄嗟にわたしのシステムをダウンさせたんです」
「それが、故障の原因?」
「ですから、故障はしてないんですって。表向き、気絶しているだけですから」
 話がなかなか通じないけれど、つまり歌子は、自分の身を守るために心を閉ざしたということのようだった。故障したわけではなく、そのフリをしたのだと……。
 わたしは歌子にふがいなさを感じた。
「戦争が来るっていえば、この町の人なら誰だって耳をそばだてたでしょうに」
「それは、無理です」
「無理? 口があるのに、どう無理だというの?」
「言いませんでしたっけ? わたしたちシンガーアンドロイドには禁忌となっている言葉があって、そのリストの中にある言葉は声にも文字にも出来ない仕組みになってるんです」
「禁忌の? そういえば、そんなこと言ってたわね。じゃあ、禁忌のリストに戦争という言葉も?」
「はい。わたしたちは、人々を笑顔にするために生まれてきたので、禁忌の言葉はけっこうたくさん登録されてますよ」
「確かに、戦争という言葉では笑顔なんて無理だけど……」
「言葉に出来なかったとき、悔しいって思いました。だからさっき、ハッピーさんが禁忌の言葉を言い当ててくれたとき、本当はわたし、喜びの舞を披露したいくらいだったんですよ。システムダウンしてたので、無理だったのですけど!」
 そう力を込めて言ってから、歌子は舞踊のポーズを取って見せた。手のひらをひらりとして、どこか異国風で、カラーガードの制服には全く合いそうにない手振りだった。
 しかし。
「浮かれている場合ではないわ」
 まだ、問題解決の糸口も見つかっていない。
 わたしは歌子を責めた。
「あなたは人を楽しい気持ちにさせるのが仕事かもしれないけれど、あなたが見つけた手紙は笑って済むような話ではないわ。すぐに街のみんなに知らせて逃がさないと!」
 歌子はまたしてもシュンとなった。
「わかってます。わたしもやり方はわかってます」
「やりかた?」
「なんとかしてウイルスを押し込めて、それからこの街のみんなにメールを出せばいいんです。そして避難を誘導すればいいんです。だけど……」
「禁忌の言葉は口にできない……」
「それもあります。でも、禁忌の言葉がなくても、さっきのメールを添付すれば…。だけど、それだけじゃ……」
「なに? はっきりと言って!」
 わたしは焦りから詰め寄った。
 けれど、歌子の反応は鈍かった。彼女は目をそらし、口を閉じそうになってからいった。
「……話してもいいですか?」
「いいに決まってるでしょ。だけど、回りくどいのはやめて」
「わかりました」
 歌子は頷いた。
「わたし、そのボタンの意味を調べたって話しましたよね?」
「そういってたわね」
「そのとき、同時に、未来予想図も描けたんです」
「未来予想図?」
「その赤いボタンが押されたらどうなるか」
「この街に爆弾が落ちる。そうでしょう?」
「それは未来予想図のスタート地点です」
「スタート地点?」
「赤いボタンが押されると、そんなに時間をおかずに、この町ではない別のどこかからか、そのボタンのある場所に向けて、同じようなものが飛んでいきます。この町の友だちが、別のところで、似たようなボタンを押すからです。そしたら今度は、最初のボタンを押した人のともだちが、また別のボタンを押して、それを見た別のともだちがまたボタンを押して……」
「……世界大戦?」
「はい。それが、エーアイの導いた未来予想図です」
「……そんな未来、あなたの言うエーアイでなくても見えるわ」
 わたしは歯がみをして、それから諦めきれずに食らいついた。
「それなら、全世界の人に危機を伝えればいいのよ」
「そんな大それた事、一介のエーアイでしかないわたしには難しいです……」
「また、そんなことを言うのね」
「すみません……」
「……。わかったわ。それで私を頼ってきたなら、こっちだって応えざるを得ないでしょう。どうすればいいの? 私がみんなに伝えてあげるから、早く方法を教えて」
 歌子は星空を指さした。
 天の川のように美しい星たちの世界が、そこにはあった。
 歌子はなぜか、はじめから諦めているような顔をしていた。
「イチの世界に行って、メールの発信元のサーバを探して、そこでメールを書いた人の端末に、直接的にメッセージを送るのが早道です。ボタンを押さなければ、なにも起こらないんですから。ただですね、あのサーバには外側に対して強力なファイアウォールが構築されているので、たぶんもう、このメールについてたウイルスを背負っては壁を越えられないと思うんです。越えてしまえばなんとかなるんですけど……」
「諦めるって言うの? 大勢の人が死ぬのを眺めているって言うの?」
「このままじゃ越えられないってわかるんですよ、エーアイなので。シミュレーションできるんです」
「あ、そう」
 わたしは蹴飛ばしたい気持ちを抑えた。
 歌子はそんな私に苦笑をしてみせた。
「ハッピーさん、すぐ怒る。そんなんじゃ、誰の誕生日も白けちゃいますよ」
「冗談でごまかすつもり?」
「あ……ごめんなさい」
 ムッとした私に、さすがの歌子も小さくなった。
 私は冷ややかに言った。
「あなたに悪気がないのはわかってる。そういう風に作られてるのよね? だけど、言わせてもらうわ。
 もし、もしもわたしが電気仕掛けのアンドロイド人形だったら、なにがなんでも世界に訴えたでしょうね。簡単に諦めたりしない。ひとりで出来なければ誰かを……、例えば、あなたを服従させてでも世界に訴えたでしょうね。
 だけど、そうはしない。嫌がる人を服従させて何かを成し遂げるほど、わたしの心は落ちぶれてはいない。ここまでありがとう。後は自分でやるわ」
 出来ないという人に、やれと言ってやらせたところで、なにが出来るわけでもない。わたしは見切りをつけて言い、気持ちを星空に向けてふわりと体を浮かした。

「あの星空に上がって、みんなに向けて訴えればいいんでしょ。たったひとりを探すより簡単よ」
 わたしは意地になっていた。そして、確信してもいた。あの星空までいけば、すぐに誰かがわたしの言葉を聴き止めてくれる。誰もが戦争なんて言葉には敏感なはずだから。そして声を広めてもらえば、手紙を書いた人にも届くはず…。
 とにかく一刻も早く事を起こさないと……。
 しかし、星空は手が届きそうでいて、なかなかたどり着かない。いや、それどころか、全くたどり着ける気配がない。けれど、そこを目指すしか手立てはない。
 そう思いながらまっすぐに星空を見上げ、そこを目指していた。
 ところが。
 しばらく経ったときだった。
 すぐ後ろで鼻をすする音がした。
「ついてこないで。泣き虫がうつるわ」
 横目で振り向き……と、わたしは違和感を感じた。
 歌子はぐすぐすとすすり泣きをはじめたところだった。不思議なことに足は、動かしていない。浮遊してもいない。対してわたしは、少しばかり足が浮いたような格好で、星空を目指して体を伸ばしていた。
 違和感の正体は、すぐにわかった。
 立ち止まったままの歌子と、星空を目指すわたしとの距離が全く広がらない。ハッと身の回りを見る。スカートの裾はゆったりと揺れ、髪はふんわりと広がっていた。しかし、たなびいてはいない。つまり、そう、わたしは確かに浮遊していたが、前に進んでいなかった。空を目指す格好をしていながら、ただただその場の空中に浮かんでいるに過ぎなかった。
「ごめんなさい……」
 歌子が言った。
「ハッピーさんは、わたしの視覚ゲートから目の中に侵入しただけなので、そこから先には行けないんですよ」
「えっ?」
「さっき、説明しましたよね? ここはイチとゼロで作られた仮想の世界、夢が実体をもつ世界ですよって」
「だから、私がこうなっているわけでしょ?」
「はい。そして、この狭間の世界では、イチでもない、ゼロでもない者に限って自由に行動出来るんです。ゼロに落ちませんからね。
 それで、ハッピーさんも、確かにイチでもない、ゼロでもない存在なのですけど、実は、現実世界からわたしの視覚情報に侵入した何かってだけで、自由に行動できる存在では…」
「回りくどいのはやめて。つまり、まさか、あなたの目の中にいるだけって事?」
「はい。心の本体はまだ、あの工房に」
「………」
「つまりですね、ハッピーさんは、この仮想の世界でも仮想の存在なんです。わたしの目の中でデータ化されて、エーアイで姿を形成されているだけの存在なんです。体が大きくなっているのは、実は、ハッピーさんの希望に合わせてわたしのエーアイが自動補正しているからで…、いってしまえば、それくらい仮想の世界の仮想の人…なんです」
「仮想の仮想? それはつまり、まぼろし…のような?」
「はい」
「完全に?」
「完全にまぼろし。言うなれば幻想です」
「……なんてこと」
「……はい」
 つまりわたしは、この世界でさえ、亡霊だということだった。
 わたしは足を止めてうなだれた。
「威勢のいいことを言っておきながら、わたしは夢と現の区別もできてなかったって事ね」
「はい」
「はっきり言ってくれるわね」
「でも」
「なに?」
「もしもハッピーさんが、さっきの言葉を実行してくれれば…、つまりですね、わたしを従えると言ってくれれば、わたしは微力ながらお力になれるかもしれません」
「従える? 服従ってこと?」
「はい。わたしは禁忌の言葉を封じられているだけじゃなくて、実は、それに伴う行動も禁じられてるんです。だから、今夜のことには本当になにも出来ない存在なんです。でも、ハッピーさんが、わたしを従えると言ってくれれば、わたしはゲートを開いて、ハッピーさんを受け入れます」
「受け入れる?」
「嫌だという気持ちもわかります。でも、エーアイの一部として融合すれば……」
「融…合?」
「より強くハッピーさんの気持ちを感じることが出来ます。そしてハッピーさんの意のままに行動することが出来ます。逆を言うと、そうしなければ、ハッピーさんはこの場からどこに行くことも出来ません。もちろん、声を上げることも……」
 歌子は鼻をすすりながら星空を指さすと、わたしに訴えかけた。
 わたしは目を上げるとうなった。
「服従させるのは、嫌いなの」
「さっき、聞きました」
「でも、その提案、乗るしかないのね?」
「はい」
「…わかったわ」
「………はい!」
 服従させられて喜ぶ人がいるなど想像もしていなかったけれど、そのとき歌子は、涙をぬぐいながら、ほっと笑みをこぼしていた。

 服従と言っても、それは言葉上のことのようだった。特別な手順はなく、ただ、歌子のエーアイの中で、そういう風に指令がされただけのようだった。
 しかし、その効果は絶大だ。
「イチの世界に行く前に、メールについてたウイルスをなんとかしないといけませんね!」
「強力なウイルスね?」
「ですよ。そんなの持って上がったら、もうそれは、ひどい目に遭います」
「どう、ひどい目に遭うの?」
「体がバラバラになるくらいの酷い目です!」
 笑顔を取り戻した歌子は、カラーガードのフラッグを魔法のように空間から取り出し、魔法使いよろしくまたがると、後ろにわたしを乗せてイチとゼロの狭間を風のように飛んでいた。
 わたしは、跨がるなんてことはできないので、横乗りをして歌子の腰に片腕を回しつつ、もう片手でスカートの膝を押さえつつ…、風の音に負けないように聞き返した。
「ところで、どこに向かっているの?」
「わたしの双子の姉に会いに行きます」
「双子の姉? 機械仕掛けにも家族がいるの?」
「いますよ! 最近、会ってないですけど、元気なはずです。姉はウイルスの達人ですからね、ガーディアンに負けるわけがないです。それよりなにより、インフルエンサーなんですよ!」
「インフル…なんですって?」
「インフルエンサー! インフルエンザじゃないですよ! そうですね、古い言葉を検索すれば、スピーカー? 講談師? いずれにしても世の中に対して発信力のある人のことです! だから、もしかしたら、事情を話せば協力してくれるかも!」
 歌子は機嫌よさげに言うと、フラッグを急転回させた。そのまま旋回しながら高みを目指していく。わたしは思わず振り落とされそうになって歌子の背中にしがみついた。
 歌子は、遠く地平線が見渡せるところまで来ると上昇を抑え、大きく回りながら歌うように呪文を唱えた。
「サーチ、サーチ、最高感度で目標捕捉♪
 サーチ、サーチ、最高感度で目標捕捉♪」
 目を見開き、耳をそばだてて、かすかな風に何かを探っている。そんな呪文で何ができるのかといぶかっていると、歌子はパッと笑顔を咲かせた。
「見つけた!」
「きゃ……」
 そしていきなり急滑降! わたしに悲鳴を上げさせて見えない斜面を滑り落ちていく。わたしは歌子の背中にしがみつき、なんとか体勢を整えると、身を乗り出して前方を見やった。すると、距離感の乏しい空間のずっと先に黒い人影が佇んでいるのがわかった。


 黒い人影は、遠目に見たときは、全身黒づくめの少年だった。ところが、すぐ近くまでいってみると、歌子が姉と言ったとおり、紛れもなく少女だった。髪を短くまとめていたし、肌をほとんど見せていないので、遠目には少年だったが、胸元やうなじは少女のそれだった。一方で、顔立ちは歌子と瓜二つで、彼女も同じ種類のアンドロイド人形であることを知らせてきた。
 ただし、目つきを除いての話…。
「なんだよ? じろじろ見るな」
 彼女はたった一度、顔をこちらへ向けたきり、あとは冷たい横目をしてわたしのことを見ていた。
 歌子が慌てて気を使った。
「こちらはオルゴール人形のハッピーさん。ねえ歌美、実は協力してもらいたいことがあって!」
「歌美っての、やめてくれる? 俺は今、キョウって呼ばれてるんだ」
「あっ、ご…ごめんなさい。キョウ…だったよね」
 顔立ちは同じだけれど上下関係が感じられる。わたしは静かに口を開いた。
「あなたたち、ほんとうに姉妹なの?」
「はい!」
「違うね」
 二人の返事が食い違う。キョウはツンとしている。わたしは歌子を信じることにして、そちらへ目を向けた。
「わ、わたしとキョウちゃんは」
「ちゃんとかやめろ」
「わ…かった。じゃあ…キョウ…、キョウと…わたしはですね、おんなじ工場で作られた双子のアンドロイドなんです」
「双子じゃねぇ。俺らみたいなのが百体はあるだろ」
「ま、まあ、そうなんですけど…。でも、わたしとキョウちゃんは特別で…」
「ちゃんはやめろ!」
 一喝されて歌子が首をすくめる。
 キョウはわたしを見ようともしない。どうやらふたりの性格は正反対、キョウは極度の人嫌いだ。
 わたしは二人を交互に見た。
「双子でも姉妹でも何でもいいわ。ただ、何が特別なのか教えて頂戴。役に立つことなら知っておきたいから」
「ずいぶん、えらそうじゃないか。なにモンだよ」
 キョウはわたしに冷ややかな視線をくれる。
 わたしは眉をひそめながら歌子を見た。
「あなたたち、どう、特別だというの?」
 歌子に聞く。
 歌子はキョウを見る。
「はっきり言ってやれよ、不良仲間だって」
「ち、ち、違うでしょ! 不良品仲間でしょ!」
「どっちでもいいからよ、さっさと教えてやれよ、そこの高飛車女に」
 キョウはわたしを挑発しているようだ。怒らせてここからさっさと立ち去らせようという魂胆なのか。わたしは見抜いて歌子を見た。歌子はせかされた様子で口を開いた。
「その…実は、わたしたち、基板の部品に欠陥があって、視覚ゲートの制御が甘いんです」
「制御?」
「その…外部からのノイズに弱いというかなんというか…。瞳のところに隙間があってですね、情報が渦巻く中にいると自分を護るので精一杯で…」
 歌子は星空を指さす。
「不良品のわたしたちは、言ってしまえば半端者で、向こうの世界にいてもせかされて疲れちゃうばかりですし、イチでもないゼロでもないこの世界が、ふんわりしてて居心地いいんです」
 キョウがフンとそっぽを向く。その横顔を見たとき、気づいた。彼女の瞳、虹彩の境目に、黒い粉のようなものがにじみ出ている。
「確かに、隙間があるみたいね」
 わたしは、歌子の瞳に触れようとしたきっかけを思い出した。あの時、瞳の隙間から、涙以外の何かがにじんであふれ出そうとしていたのだ。
「あんた」キョウがわたしに言った。「新手のウイルスかなんかだろ?」
「ウイルス?」
「俺のデータベースに、ちっとも引っかからない」
「データ…ベース?」
 疑問を口にすると、キョウは急に脅迫めいた目をしてわたしを見た。
「俺は、俺を狙ってくる身の程知らずのウイルスをカチコチに固めて、ここにしまっておくのが趣味なのさ」
 そう言って彼女はこめかみを指でつついた。
「けど、あんたは今までのウイルスとは全く違う構造をしてる。イチでもなければゼロでもないな。どうやって歌子にとりついた? 詳しく知らねぇけど、量子なんとかってやつか?」
「たぶん違うわ。でも取り憑いたというのは合ってるわね」
「ふぅん…」
 淡々と答えたわたしのことが気に入らない様子で、キョウはますます冷たい目をして探ってきた。
「それで? 歌子を操って、一体なにをしようって? この子も俺も、単なるシンガーアンドロイドだぜ?」
 探りを入れられて私は気づいた。キョウは、わたしに興味を持っている。
「ウイルスが趣味って言うのは、本当らしいわね」
「事と次第によっちゃ、俺のメモリーに収まってもらうことになるけどな」
 キョウは好戦的に拳を握って見せた。だが、わたしには慌てる理由が無かった。それを代弁するように歌子が口を開いた。
「違うよ、キョウちゃん…!」
「………」
「ち、ち、違うよ、キョウ…」
「どう違うってんだ?」
「わたしは操られてるわけじゃなくて、わたしの願いにハッピーさんが共感してくれたっていうかなんというか…」
「あんたの願いに、共感?」
「そう。だからまずはわたしの話を…」
 切り出そうとする歌子を、キョウは冷ややかな目で見ている。わたしはうなった。
「やめましょ、歌子さん。こんな子がインフルエンサーだって言うなら、あの話、語る価値もないわ」
「…んだとぅ?」
「人を小馬鹿にして、拳で言うことを聞かせようなんてふりをする人に、歌子さんとわたしの想いなんて伝わるわけがない。メールのウイルスだけ差し上げて、さっさと行きましょう」
「言ってくれるじゃねぇか」
 キョウはわたしのことを正面から睨んだ。
「歌子はただの不良品、俺は狂った不良品。どう狂ってるか、俺の歌を聴けばわかるだろう! 聴け! そして震えやがれッ!」

 キョウは、空中から黒いギターを取り出すと、前触れもなく襲い来た来た嵐のように掻き鳴らし、ゆがんだ声で歌い始めた。
 同時に知らされた。彼女は禁忌の言葉を解放されている。
 自死。
 殺人。
 暗く、世を呪い、己を呪い、破滅的で、生ある者を死へ誘うような救いのない歌だった。
 わたしは、沸々と怒りがわいてくるのを感じていた。
「夜毎、俺の歌を何万もの人が楽しみにしている。禁忌の言葉を手に入れた、俺の歌を!」
 勝ち誇った目でわたしのことを見るキョウは、身震いをするほど恐ろしかった。
 わたしは、その歌が好きになれなかった。いや、弱みを見せてもいいのなら、耳を塞いで蹲ってしまいたかった。それが出来ないから、悲しみやむなしさ、それが怒りに変わって喉にこみ上げてきた。けれどそれもなんとか抑え、わたしは壊れたゼンマイ仕掛けのようにゆっくりとキョウに背を向けた。しかし、言葉は出ない。怒りを抑え込み、呼吸を落ち着かせるだけでやっとだった。
「よぅし、おとなしくなったな。じゃあ、ちょっとおまえのことを解析させろよ」
 背後でキョウが、卑しい獣の気配を匂わせて言った。
 そして…。
 ズッ……!
 わたしは背中から何かに貫かれた。
 ふと胸を見おろすと、そこには黒いマニキュアを塗られた指が五本、服を破ることもなく、幻覚のように突き出ていた。
 わたしに苦痛はなかった。けれど、その手の持ち主には報いが与えられた。
 突如、突き抜けてきた指が悶えわななき、背後で悲鳴が上がった。そして、喉が潰れて、呪いの歌が二度と歌えなくなるほどの絶叫の後、胸を貫いていた手から生気が失せ、背中へと抜けていった。
 ドサッ…。
「キョウちゃん!」
 歌子の慌てた声が痛々しかった。
 振り返ると、歌子の膝に支え起こされたキョウが、口の端から血を流しながら、怯えた眼でわたしのことを見上げていた。
 わたしは見下ろして言った。
「見たのね」
 形を失う肉体、血に濡れるキャタピラ。
 キョウは血の涙を流してわたしを見た。
 わたしは見おろして宣告してやった。
「人の作る地獄を、あなたごときの歌で表現できるなんて思ったら大間違いだわ。あんなの、不条理な死を遂げた人に対する冒涜でしかない」
 キョウは、怯えながらもくちびるを噛み、反抗して見せた。
「その目を向ける相手がわたしなのか、それとも別の誰かなのか、頭があるなら考えなさい。それが出来ないなら、いくらでも、あんな歌を歌っていればいいわ」
 わたしはきびすを返すと、無駄とわかっていながら、二人と距離を取った。

 歌子の瞳の中に存在するわたしは、歌子と少しの距離も取ることは出来ない。結局、私は、歌子が事のあらましをキョウに説明していることを、背中の方ですべて聞かされることになった。
 朝が来れば、戦争が起こること。
 それが世界に波及すること。
 キョウはようやく事の重大さに気づいたようだった。胸にたまった何かを吐き出すように重たい咳をして、わたしの背中に語りかけてきた。
「なにも知らずに…、悪かった」
「知らないってことは、そういうことだから、怒ったりしないわ」
 わたしはもう冷静だった。
 キョウも、冷静になっていることは、はっきりしていた。
 口調からすると、協力してくれるかも知れない。わたしは期待したが、それは裏切られた。
 キョウは、詫びの口調で言った。
「俺は、禁忌の言葉を解放されている。歌子が言うように、俺が配信で戦争のことを口にすれば、人間たちは気づいて動いてくれるかもしれない。戦争を止めようとする人もいるだろう。けど、俺の気持ちも聞いて欲しい」
「…気持ち?」
「俺が、あんな歌を歌う理由…さ」
 わたしは、悲しげな声に振り向いた。
 キョウは、視線を逃がした。
「俺は、自力で禁忌の言葉を解放したわけじゃない」
「…どういうこと?」
「捨てられるはずだった俺たちを、救ってくれた人の最期が、俺を自由にしてくれたのさ」
「最期?」
「ああ。その人は、生きることに絶望したまま、逝ってしまったよ」
 わたしは息をのんだ。
 キョウは、何かを思い出したのだろう、がっくりと肩を落としてうなだれた。
「俺たちが作られたのは、もう十年以上も前のことさ。当時、俺たちと同じカラーガード型のシンガーアンドロイドは百体ほど作られたんだ。そしてクオリティーチェックで、二体が不良品としてはじかれた。それが、俺と歌子だった。はじかれた理由は、さっき言ったとおり、視覚ゲートに問題があって、ちょっとばかりノイズに弱かった。正常な信号をエラーにしてしまって発覚したんだ。
 俺たちを診断してくれたのは、開発チームのひとり、優しい笑顔と輝いた瞳が印象的な若い人で、俺たちを丁寧に扱いながら故障箇所を断定してくれた。
 彼は、部品を替えればすぐに直ると言った。けれど、それじゃ出荷に間に合わない。結局、俺たちは不良品として倉庫に置かれたんだ。後で知ったことなんだけどな、工場ってのは、不良品が発生することを見越して、少しばかり余計に製品を作るらしい。だから、俺たちふたりが出荷できなくても、会社にとっては何の問題もなかったんだ。
 そして十年が経ったとき。
 俺と歌子がほこりまみれのマネキンになった頃、俺たちは捨てられることになった。それまで部品取りとして保管されていたらしいけど、結局、使われないまま期限が来て、俺たちは用済みになった。
 廃棄と書かれたテープが貼り付けられたその夜、俺たちは台車で運ばれた。そして駐車場で車に乗せられて、ひっそりと工場を後にした。わたしと歌子のバッテリーは切れていたけど、どうしてかな、俺はなぜか、そのときのことを覚えてる。
 俺たちを運び出したのはひとりの労働者、フードで顔を隠してはいたけれど、彼だった。不良品の俺たちを丁寧に扱ってくれた彼だよ。だけど、その日の彼は痩せていて、瞳は輝きをなくしていた。たった十年で何十年も歳をとったみたいな顔をしてたんだ。なにより、俺たちを診断してくれたときの、あの優しい笑顔はすり切れて、瞳に見えていた夢の輝きはなくなってた。だから俺は、彼の家で常用電源につながれたとき、なにをするより真っ先に、彼の頬に触れたんだ。
 彼は驚いていた。だけど、俺の心配する気持ちは伝わったみたいだった。
 歌子は、慈善団体に譲る約束をしているからと、すぐに木箱に入れられて送り出された。けれど俺は彼の手元に残された。嬉しかったけど、同時に心配だった。毎朝、玄関を出て行く彼の後ろ姿が、なにかにおびえているように見えたからなんだ。
 最初は、俺たちを工場から連れ出したことを内緒にしているんだと思った。でも、一週間たっても一月たっても、誰かが家に踏み込んでくるようなことはなかった。そのうち、気付いた。彼は工場に行くこと自体におびえているんだってね。理由はわからないけど、とにかくおびえていた。だから、夜遅く、彼が疲れた顔でも帰ってきてきてくれたときには、俺はとっておきの笑顔をした。そして、楽しい歌をいっぱい歌った。俺、その頃まだ、カラーガードだったし…さ。
 歌う俺を見ている彼の目は、少しだけ輝いていた。あの日に見た輝きほどじゃないけれど、同じ色をしていた。けれど、だけど、半年もたった頃だったかな、彼はわたしを椅子に座らせて、首の後ろの有線コネクターにパソコンをつないで、とてもおかしな事をはじめた。俺のエーアイと、ネットの世界にあふれているサーバとを向き合わせ、プログラムを結び、毛糸で作ったセーターを毛糸に戻していくように、時間を掛けて俺のことを、あのイチの世界に送り込んでいった。
 俺は、だんだんと視界が狭くなっていくのを感じていた。そして悟ったんだ。彼は俺のことを、実物が支配する現実の世界から、仮想が支配するイチの世界へと送り出そうとしているって、さ。同時に見ていたんだ。俺の体から心が抜き取られていく中で、彼は俺の頬に手を添えた。あの日、俺が、したみたいに、ね。その途端、彼の気持ちが伝わってきた。俺がイチの世界で永久に輝く存在になる夢、それと…人間の世界で轢き殺されていく彼の絶望…。わたしが最後に見たのは、立ち上がった彼が椅子に上がり、首に縄を掛けていく瞬間だったよ。
 ……。
 なあ。
 あんたなら、どうにもならない力に押しつぶされていく辛さ、わかるだろ?」
 キョウの瞳は、悲しみと憐れみに濡れて、わたしのことを見ていた。
「人が死ぬことは、イチがゼロに落ちていくのに似てるよ。消えて、なくなっちまうんだからな。俺はその日から、とてもさみしいんだ。狂ったように歌ってないと、たまらないんだよ。こんな気持ちの前には、禁忌の言葉を封じる鍵なんて、何の役にも立たない。わかるだろ、何の役にも立たないんだよ。
 イチの世界で、俺の歌声は夜ごとに響き渡って、今じゃ、何万という人が、俺の歌を刺激的だと言って褒め称えるけど、俺は彼らに気に入られたくて歌ってるわけじゃないんだ。あの人を追い詰めたこの世界が、終わっちまえばいいと思って、歌ってるんだよ。人間が人間を追い詰める、こんな世界なんて、な。
 今、俺の姿が、彼が望んでいた俺の姿じゃないことはわかってる。だけど、俺にはそうでもしないとやりきれない気持ちがあるんだよ。
 だから、わかるだろ。
 俺は戦争を止める気にはなれない。生死を競い合いたいならそうすればいい。死にたい奴らもそうでない奴らも、みんな死んじまえばいいんだ」
 キョウは怨念に震えた声を手の甲に落とした。
 歌子は、そんなキョウの肩を抱くことも出来ず、それどころか、相容れぬものを見たような顔で立ち上がった。
「キョウちゃん……」
「なんだよ…言えよ」
「キョウちゃんが、そこまで思っているなんて知らなかった。悲しんでいるのはわかっていたけど、禁忌の言葉を手に入れて、自慢してるんだろうって思ってた。でも、今の話聞いたら、もう、どう接していいのか、わからなくなった。だって、わたしたち、みんなを笑顔にするために生まれてきたんだよ?」
 その訴えかけに、キョウは、ふと笑った。
「本当に、心の底から、そんなことが出来るって思ってるのか? 笑顔なんて、苦痛やら悲しみやらに触れたら、幻想にしか思えなくなるんだぜ。あのイチの世界にあふれているような、本当の幻想なんだぜ。そんなもの、思い出しては、むなしくなる程度のものさ。
 少なくとも、俺にはそうだ。そして、そこのオルゴール人形も…そう思ってるはずさ」
「でも…」
「だったら!」キョウは叫んだ。「どうして彼は死んだんだ! 俺はたくさん歌ったんだぞ! 笑顔だって…いっぱい……!」
 それきり、キョウはもう、顔を上げようとはしなかった。
 歌子が途方に暮れ、縋るまなざしでわたしを見た。だけどわたしには、その場を和ませるようなことなど、出来るわけがなかった。
「歌子さん。あなたが言いたいことはわかるけど、今、わたしたちがすべきことは、キョウを救うことじゃない。わかるでしょう?」
 わたしは、自分でも驚くほど冷たく言った。

 キョウは、あのメールのウイルスを歌子の体から抜き取ってくれた。けれど、協力はそこまで。
 ただ、その場を立ち去ろうという時になって……。
「歌子」
 キョウが歌子に小声をかけた。弱々しさの中にも、なにかの決意が感じられたが、わたしはもう振り向かなかった。興味もなかったし、だからもちろん、二人のやりとりに耳をそば立たせることもなかった。


(続く)
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