第4話

文字数 11,582文字

「歌子さん! しっかりして!」
 私は悲鳴を上げていた。
 囮に使うウイルスが尽きて、ガーディアンの攻撃を受け続けた歌子は、片腕がなくなり、足もスカートの裾から下がなくなっていた。さらに脇腹をえぐられ、顔も右目の辺りを穿たれ、唇は残っていたが、歌声はとっくに途絶えていた。なにより、胸の中央に受けた傷が広がり、まるで魂が崩壊していくように、服も皮膚も、イチとゼロの文字になって崩れつつあった。
「がんばったな、歌子。もう、大丈夫だ」
 私と歌子のそばにはキョウがいた。彼女は、歌子の声が途絶えたところに駆けつけて、自分の持っているウイルスを囮にして投げると、わたしたちを抱えてイチの世界から狭間の世界へと脱出していた。
「大丈夫だ…」
 キョウは、繰り返したが、声に力がなかった。私はキョウを問い詰めるまでもなく歌子の危機を悟った。なのに、歌子は、笑顔を絶やしていなかった。
「……ハッピー…さんに…くらべたら………こんなの……」
「……! 歌子さん、何?」
 歌子に痛みを感じている様子はなかった。けれど、言葉は途切れ途切れだった。その間にも、傷口は広がり、イチとゼロの符号が無情なまでに散っていった。
 キョウが、歌子の代わりに言った。
「ハッピーさん、あんたは気づいていないかもしれないが、あんたがさっき、俺に見せた幻覚……いや、過去の現実のことは、歌子も見て知ってるんだぜ」
「……え? 私はそこまで話してない……」
「そんなつもりはなくても、あんたは歌子のゲートに触れたんだろう? それだけじゃない、あんたは歌子のプログラムと手を結んだんだろう? だったら、歌子が、あんたの記憶を見てないなんて事が、あるわけないだろう?」
「そんな……!」
 私は笑顔のひとに、辛い過去を見せるつもりなどなかった。キョウに見せた理由は、相手がそれを望んだ態度をしたからだった。思い知らせてやりたいと思ったのだ。
「あんたは自分が気に入らない相手にだけ、自分の辛い記憶を見せつけたつもりだろうけど、一番辛かったのは歌子なんだぜ。なぜならこいつは、俺と違って、禁忌の言葉を封じることしか出来ないんだからな。言いたいことも言えないんだ」
「なぜ…。だったら拒めばいいのに…!」
 私はたまらず歌子の頬に手を当てた。
 歌子は弱々しく照れた。
 キョウが言葉を継いだ。
「歌子は泣いてたはずだ。俺と歌子は、不良品だからな。つらいことがあると、笑顔を維持できずに泣いてしまうことがある」
「……!」
 わたしは、確かに歌子の涙を知っていた。工房で、そして狭間の世界に来たその瞬間にも……。
 あのとき歌子は、ボロボロと涙を流しながら笑っていた。
「あのときにはもう…知っていたと言うの? ねえ!」
 けれど歌子は、口を閉じたまま、笑顔でいて、答えようとしなかった。
 キョウが、誰かを非難するように言った。
「歌子は、俺より泣き虫なんだ。彼が死んだと伝えたときもそうだった。夜ごと半端者の世界に来ては泣いていたんだ。けどな……。
 その後のことさ。俺は世界を呪ったけれど、この子は笑うことにした。笑ってないと泣いちまうからだぜ。俺たちに、禁忌の言葉は確かにあった。だがよ、人を笑顔にするのが使命だなんて、コイツが勝手に決めた、ただのマイルールなんだぜ」
 歌子は、私を見るのをやめ、どこか気まずそうに空を見た。そこでは無数の星たちが右へ左へ流れている。
 キョウは歌子のそばに片膝をついて顔をのぞき込んだ。
「歌子。告白するよ。俺は笑顔も涙も捨てて、怒りを選んだけれど、今思えばそれは、逃避だったかもしれない。笑顔でいようなんていう茨の道を選んだおまえの方が、立派だったかもしれない。今さら、そんな気がするんだ」
 餞を受けて歌子は目に涙をためた。けれどその涙は、こぼれるなりすぐに、符号に変わってしまった。
「わたし決め…た。…みんなも、ハッピーさんも…、キョウちゃんも…、みんな…みんな笑顔…、最後の…使命に……」
 空を見上げたまま、歌子は、かすれた声で言った。そして、涙をあふれさせながら、楽しい夢でも見ているかのように、淡く笑みを浮かべた。
 キョウは焦りを浮かべて、伝えなければと続けた。
「おまえの気持ち、俺が継いでやるよ。おまえが二度と泣いたりしないように、おまえが大切に思ってるものを守ってやるよ。だから、泣くのはやめて、今夜のところはおやすみ…。また…、あした…な」
 そう言い聞かされると、歌子は照れているような、あるいは苦笑いしているような、そんな笑顔をした。そして、
「うそ…つき」
と、一言残し、その後はなにも考えられなくなったような顔をして、潤んだ瞳を緩く閉じた。すると、その口元から笑みが消え、私は息をのんだ。
 直後、歌子の体は一気に崩れていった。まるで砂に変わっていくかのように1と0の符号が辺りに広がる。私は焦り、歌子の手をきつく握りしめた。
「消えないで! 私に力があるのならあげるわ! だから!」
 歌子は霊魂のことを力だと言った。結局、それがなんであるか、理解はしなかったのかも知れない。それでも歌子は、傲慢な手で心に触れた私のことを、黙って許してくれた。そして拒まずに受け入れてくれた。それは、なぜ?
 私は天を仰いで叫んだ!
「お願い! 誰かこの子を救って! 私にしたみたいに! だれかたすけて! お願い……!」
 けれど、返る声は無かった。
 歌子は、星の走る空の下で、光の粒子へと変わっていった。


 私の手の中には、小さな星形が一つ、それだけ残された。
 私はたまらず、その星形を眉間にして、気づくと泣いていた。無性に悲しくて、泣いていた。
 その背を、キョウが支えてくれた。
 キョウは、申し訳なさそうに言った。
「俺は、あんたに過去の現実を見せられたとき、歌子が無理して笑っていると知った。だから、あの後、別れ際にラインを開かせて行動を監視していた。暴走したら、止めに入るつもりだった。けど、間に合わなかった。ファイアーウォールを抜けるのに手間取っちまった。俺は、イチの世界から見たら、ウイルスの数だけでも一級の犯罪者だからな、壁が思ったより分厚かったんだ」
 私はくちびるを噛んだ。今さら何を言い訳したって……
「ああ、そうさ。今さら何を言い訳したって見苦しいだけさ」
「……!」
 私は背筋を寒くした。キョウが唐突に私の思っていることを言い当てたからだ。
 振り向いて、私は言葉を失った。
 キョウは、涙ぐんでいた。
「言っただろ、あの子と俺はラインをつなぎ合わせたって。その意味、わかるか?」
「………」
「あんたのデータ、記憶、あんたとの会話も、すべて共有した。そうじゃなきゃ、歌子が消えた今、あの子の目の中にいただけのあんたが、ここにいるわけがないだろ。たとえ、幻想だとしても」
「幻想……」
「知ってるだろ、ここは幻想でさえ実体を持つ世界なんだ」
「私は幻想じゃない。死んでいるけれど、夢を見てるわけじゃない」
 私が主張しても、キョウはそれを認めなかった。認めないまま、話を先に続けた。
「俺は、あの子の見ている幻想を受け継いだ。あんたは、今、俺の心の中にいる幻想だ。今度は俺と手を組んだって事さ。だから、歌子が消えても、あんたはここに居られる。不本意かも、知れねぇけど、な」
 キョウは、沈んだ声で言った。
「歌子はあんたの願いを叶えるために全力を尽くした。あんたのすべてを知って、それがあいつの希望とリンクしたから、あんたがすべてに納得するように、死力を尽くしたのさ。なぜって、あんたの言うことは正しいと、あの子のエーアイが判断したからさ。ダメだといった一瞬もあっただろう? だけど結局は認めた。ウイルスが足りないことも、俺の助けが間に合わないことも、自分が消えちまうかもしれないことも、すべての危険を承知で認めてた。
 だから、この結果は、歌子が望んだ結果でもある。あの子は今頃、たぶん、正しいことをやりきったと思ってる」
 私は、なんと詫びていいのか、わからなかった。
 ただ、涙が止まらない。
 キョウはまた、私の心を読んだ。
「どっちにしたって、歌子が消えたことには変わりがない。そう思ってるんだろう? 自分が余計なことを…、余計な星を拾ったから、こんなことになったとも思ってる。けど…よ、そのおかげで、死なずに済んだ人間もいるはずだ。後悔しないで済んだ兵士もいるはずさ。違うかい?」
「後悔……」
 その言葉に、私は唇をかんだ。
「後悔ほど……辛いものはないわ」
 私の脳裏には、石畳に額ずいた父の姿が蘇った。
 彼は、悔いて慟哭した。
「ああ、わかるよ」
 キョウはため息をついた。そして、私の目をまっすぐに捉えて願い出た。
「後悔は、たとえ歌にしたって、辛い。俺は、歌子のことを後悔の歌にしたくない。だから、あの子の遺志を継いで、あの子がもう涙を流さないように、できる限りのことをしたいんだ。だから、だからさ、手伝わせてくれよ、いいだろう?」
 私はキョウの申し出に黙って頷いた。きっと今、考えていることも知られている。言うまでもなく、わかってくれている。それは、私のことを理解してくれている…ということ。
 私は生まれて初めて友達を得た気がした。同時に、失ったことも知った。そして、悲しかった。
 声もなく涙を流す私に、キョウは突きつけた。
「ありがとう。だが、その前に、歌子とはお別れをしなけばならない」
「おわかれ?」
「俺たちにだって死はある」
「死…?」
「歌子が、狭間の世界を、彷徨うなんてこと…、俺は望まない。だから、一緒に見送ってくれ……」
 その言葉に私は胸を貫かれた。死が、絶対に逆らえないことだと、身をもって知っていたからだ。生ある者の時間から隔絶され、同時に愛しい人たちと離ればなれになる。会いたいと思っても会えない。抱きしめて欲しくても叶わない。ただ焦がれるだけ。それは、どんなに時がたったとしても……。
 残酷な現実に呆然としている間に、キョウの手が私の手の指をほどき、手のひらに握りしめていた星を風にさらした。
 その星はキラキラと輝いて見えた。それは、教室やパレードで、子供たちの先頭に立っている歌子の顔と重なるようだった。
「歌子は、人間と触れ合って、いい思いをいっぱいしたんだと思う。そうじゃなければ、人々の危機に立ち向かおうなんて考えるわけがない」
 キョウが、そんなことをいう間にも、星は私の手の中から浮き上がった。
「あ……」
 私の手は咄嗟に星を取り戻そうとしたけれど、星は指先を逃れてしまった。そして風にのり、空間を、少しずつ加速しながら、最後には流れ星になって赤黒い大地へと落ちていった。
「仕方のないことなんだ」
 キョウは私に言い聞かせた。
 私はぼろぼろと涙をこぼしていた。
 ほんの一瞬のような、けれど長い時間をかけて、わたしとキョウは歌子のことを見送った。



「さて…」
 私の涙をいさめる口調で、キョウが言った。
「夜が明けちまった。歌子の拾った手紙が真実なら、赤いボタンが押されるまで、あまり時間がない」
 私は、手の甲で涙を拭った。
「私はもう二度と、あんな光景を見たくない。ただの傍観者になりたくはないの」
「わかってる」
「でも、キョウ、あなた、本当は、この世の中を呪っているのでしょう?」
「ああ。俺の大切な人が死んだのは、この世に巣くう醜さのせいだからな。殺し合いたいやつは殺し合え。それでこの世界が滅んだって知ったことか」
「その言葉、本心なの?」
「さっきまでは…な。けど、今は、俺の大切な歌子の、大切な人たちが死んじまったら、それは、そのときは歌子が、今度こそ俺と同じになると気づいた」
「同じに?」
「あいつ、世の中を呪うだろうな」
「回りくどい言い方。歌子さんにそっくり。それに、なにかごまかそうとしてるみたい」
「ごまかそうとしてるだって? それを言ったらよ、あんただってそうだろ。戦争がどうとかいいながら、ほんとのところは工房の彼が一番心配…」
「覗くのはやめて。悪趣味だわ」
 私は涙を拭いながらピシリと言った。
「わかった。やめるよ」
「簡単に言うわね。どうせ見えてるんでしょう?」
「いいや、簡単さ。見ないようにするだけだからな。歌子だって、そうしてたんだぜ、なるべく…だけどな」
「そう……」
 思わずため息をついた。不意に「ですよ!」と歌子の口癖が聞こえた気がした。そのせいで、ほんの一瞬、頬も緩んだ。するとなぜか、キョウが目を逃がした。
「嬉しそうな顔をするなよ。俺が歌子のためにしようとしていることは、これまで、俺と心を一つにしてくれていた、何万というフォロアーを…、つまり、ファンを裏切ることになるんだぜ」
「それは、どういうこと?」
「世界よ滅べって歌ってた奴が、急に手のひら返したように、世界を救えって言いだしたら……って、そういうことさ」
「じゃあ…、歌子さんみたいに? ハッピーバースディの歌で、赤いボタンを押す人を改心させるということね?」
「あんた、そんな荒技に入れ込むとは、すっかり夢見がちな歌子にやられちまってるな。それに、悪いが、さすがにハッピーバースディは歌えねぇよ」
「えっ…」
「俺は、笑顔を忘れちまったからな」
 素っ気なく言ったキョウは、私のことを見ようとはしない。私は、察した。
「ハッピーバースディが、そんなに照れくさい?」
「……! そうじゃねぇよ!」
 キョウはムキになる。
 私は思わず言って返した。
「どうやら覗き見はやめてくれたみたいね」
「二言はねえ」
「そう、ありがとう」
 私は、思わずキョウの手を握った。そんなに悪い人ではないと感じたからだった。するとキョウの手は、歌子と同じようにあたたかだった。それを知って、私は賭けることにした。
「この手のぬくもりが幻想だとしても……」
「え?」
「歌って欲しい。お願い」
「無理だって言ってる」
「自信がないのね?」
「そんなんじゃない」
「じゃあ、歌えるでしょう?」
「歌えない」
「じゃあ、どうして、世界よ滅べなんて歌を歌っていたの? 怒りだけは歌にできると、そう言うの? お願い、キョウなら歌えるわ。歌子さんのように歌える」
 私はもう一方の手も添えて、両手でキョウの手を握った。
 すると、キョウはとがらせた口を引っ込めて、ゆっくりと私を振り向いた。
「お膳立てはしてやるよ。だから、歌うのは、ハッピーさん、あんただ」
「……え? 無理だわ。私はオルゴール人形……」
「まだ、わかんないのかい?」
「え?」
「これはのぞき見に当たらないから言わせてもらうけど、今、あんたは、俺の一部なんだ。セキュリティーの一つも知らないあんたの記憶、俺の頭の中にダダ漏れなんだぜ」
「……え」
「歌えんだろ、ほんとは」
「………」
 その言葉は、私の記憶をよみがえらせた。
 かつての平和な日、心地よい五月の風が入るショーウインドウで、オルゴール人形はゆっくりと回っていた。そして私は、その音色、メロディーにあわせて、確かに歌っていた。それだけじゃない。お菓子を前に歌ってもらったこともあったし、誰かのために歌ったこともあった
「お膳立てはしてやるよ。だから、たのむぜ」
 凍り付いた私に、キョウは言った。笑顔を忘れたというその瞳は、どこかに見守るようなやさしさがあった。
 しかし、私は不安だった。
 ハッピーバースディなんていう歌を、この私が歌えるのだろうか…。幸せでもないのに、そんな美しい歌を歌っても良いものなのか…。
 私は、キョウの視線を躱して目を伏せていた。


 キョウは私の手を引いて飛び、赤黒く鼓動する大きな星の前へとやってきた。
「……なにこれ」
「言論統制、監視密告、外部遮断…、言ってしまえば力に支配されたサーバーさ。あのメール、このサーバーから捨てられた」
「じゃあ、赤いボタンもこの中に?」
「そのはずだ」
「はず?」
「外からじゃ、中の様子がわからない」
「なら、侵入しましょう」
 私は促すようにキョウの手を握った。けれど、キョウは動こうとしなかった。心臓のように鼓動するサーバーを睨みつけている。
「ファイアーウォールが厚すぎる。ガーディアンも多い。歌子と同じ方法じゃ、侵入しても無駄死にだ」
「じゃ、どうするの?」
「乗っ取る」
「乗っ取る?」
「ああ。乗っ取ってやる」
「どうやって……」
「ウイルス。このサーバーで作られた特別強力なヤツがある」
「それって…もしかして……!」
「ああ。歌子が感染しちまったアレさ」
 キョウは口の端を上げてしたり顔をした。
 私は刹那、その口元に歌子の気配を感じて、知らずと笑みをこぼした。…が、その笑みもすぐに消えた。
「ガーディアンが集まってくるんじゃ……」
「乗っ取るまでの時間稼ぎができればいい。それだけのウイルスを、俺は体の中に隠してる。乗っ取っちまえば、俺自身がサーバーの一部になるんだ、ガーディアンは俺を敵視しなくなる。毒をもって毒を制すってことだ」
 キョウの瞳には、赤黒く鼓動する星が映されている。その星には、とてもキョウ一人では太刀打ちできないような邪悪さがあった。
 私は不安を訴えた。
「本当に大丈夫なの?」
「………時間が来るまでは、な」
「時間?」
「俺はサーバの一部を書き換えて、俺自身がサーバの一部になる。だが、サーバは双子になっていて、その両方を同時に書き換えることはできない。時間が来て、サーバーの自己修復機能が起動したら、不正に書き換えられた部分は正常なデータで上書きされる。その書き換えた部分に巣くった俺は、抵抗することもできずに消去される。そして世界はこともなく…だ」
 その言葉を聞いた瞬間、星になって落ちていった歌子のことが脳裏をよぎった。
「ダメよ、そんなのダメに決まってる!」
 私は歌子が消えたときの悲しみを思い出した。それで思わず身を乗り出したが、キョウは頑なだった。
「世界を滅ぼすのも、救うのも、俺の勝手だ。あんたが心配することじゃない」
「そうじゃない!」私は思わず叫んだ。「私は知ってるの! あなたが消えたら、私はきっと悲しくなる!」
「馬鹿言え。俺たちは人間と違って生命もないエーアイなんだ。消えて悲しむヤツなんていない。だいたいな、俺だって歌子だって代えはいくらだっている」
「ちがう! 消えていいものなんてない! 代わりなんてない!」
「………」
「あなたは嘘つきだわ!」
 沈黙に対して言葉を叩きつけると、キョウは、驚いた目をして私を見た。そして、
「代わりなんてない…か。その言葉、歌子が聞いたら喜ぶだろうな。あいつはあいつなりに、自分が好きだったから」
「だったら思い直して! 他に方法があるはずよ!」
「他の方法か。それはきっと、あるだろうけど、どうかな、間に合わないと思うぜ。時間がないんだ」
「時間が…」
 その言葉に、私は反論が出来なかった。もう、太陽は昇っているし、今、この瞬間にも事態は引き起こされるかも知れない。
 キョウは、言った。
「なあ、ハッピーさんよ。あんた、どうしてあの子が自分を犠牲にしたのかわかってるか?」
「え?」
 私は後悔に囚われた。
「私が無理を言ったから……。ごめんなさい……」
「違う、責めてるわけじゃない。言っただろ、あの子は危険を承知で……、つまり、自分が無になってもいいと思って行動したんだ。けど、そんな風に覚悟させたのは、他でもない、あんたなんだぜ?」
「え…わたし?」
「歌子は、泣いていただろ? あれは、あんたのことがかわいそうだったからじゃない。記憶を見せられて、それを自分の教え子の未来に重ねて、心からその子たちを守りたいと思ったからなんだぜ。戦争のことを、ネットで得られる断片的な情報ではなく、生きて死んだ者の真実として受け取ることができたから決意できたんだぜ。つまり、大好きな子ども達が、あんたのようになるのがたまらなく嫌だったんだよ。だから犠牲にもなれたんだ」
 わかっただろう? キョウは横目で言い、私はボロボロと泣いていた歌子の決意を知って絶句した。
「ハッピーさん」キョウは、急に畏まって言った。「俺、あんたの言うとおり嘘つきだぜ。だから、言うんだけど、あんたの言うとおり、小さな命だろうが、代えのある命だろうが、この世界には、無駄に失われてもいい命なんて、一つだってないんだ。それに、俺にだって、大切なものの一つくらいあるんだ。俺…な、やっと、そのことに気づいたから、こうやって今、あんたと話ができてるんだぜ…!」
 彼女は、そう言い切るなり、気配を変えた。瞳を紅く燃やし、その身からは周囲の光を打ち消すかのような黒い霧を立ち上らせた。
 辺りは、まるで太陽が隠されていくかのように、見渡す限りに翳りが走った。
「キョウ!」
 焦って呼びかけると、彼女は何かを答えようとしたのか、口を開いた。けれどそこからほとばしったのは、悲しみを背負ってしまった少女の、胸を引き裂かんばかりの絶叫だった。
 恐怖と混乱の悲鳴。
 別れと喪失の慟哭。
 闇が光を浸食していく。
 彼女の叫びに、眼前で鼓動する赤黒い星が悶えるように震えた。
 キョウは、覚悟をさせるようにスッと片手を水平に持ち上げた。
 指が、眼前の星を狙う。同時に指の先に黒い球ができ、それが膨張しながら形を変えた。それは見覚えのある形……。
「…フラッグ!」
 歌子のものと形は同じながら、握りも旗も漆黒のフラッグだった。キョウは漆黒の柄をつかみ取ると、旗を前方にして掲げ持った。
「カラーガード……」
 刹那、私は、絶叫をするキョウの横顔に、歌子に似た面影を見た。
 そのとき。
 キュ…と、手を握られた。
 彼女は無意識だったかも知れない。けれど私は、その感触に、歌子に似たものを感じ取った。いや、人の子と変わらないものを感じた。
 私は、キョウの手を、きゅうと握り返した。
 すると、キョウの心が見えた。
 深夜、薄暗い部屋で歌う、笑顔だった頃のキョウの姿だった。彼女が歌っていたのはハッピーバースディの歌。ケーキもない、プレゼントもない、小さなテーブルを挟んで、心を込めて、彼のために歌っていた。彼の目は病んで落ちくぼんでいたけれど、弱々しい笑顔と涙があった。
 ハッピーバースディ、トゥ、ユー……
 その歌声は笑顔と共に……。
 ……。
 ……。
 けれど今、その光景は、どこからともなくやってきたノイズに削られ……
 赤黒く忍び寄る影にむしばまれ……
 思い出は闇に呑まれていった。


 バチィッ!
 突然、激しいスパークが私の意識を呼び戻した。
 キョウが私の手を引き、漆黒のフラッグを構えて突進し、赤黒いサーバの腹に鋭く裂け目を作っていた。
 サーバの裂け目から、血の色をした符号がはじけ飛んだ。それを見たキョウは牙を剥き、狂ったように咆え、裂け目にフラッグを突き立て、ねじり、こじ開け、凶暴な絶叫と共に宙を蹴って一気に突き抜けた!
 突然の侵入者にガーディアンたちが振り向く。キョウは彼らをフラッグでなぎ倒して驀進する。私は心配になって後ろを見た。すると、為す術なくイチとゼロに分解される彼らと、その間に黒い糸が引き延ばされてくるのを見た。その糸はフラッグの手元から伸び、その先は裂け目の外へと続いていた。その糸がなんの意味をなすものか、今は確かめる余裕がなかった。
 キョウの移動速度は黒い影を引くほど速かったが、それでもわずかにガーディアンには及んでいなかった。猛禽のように爪を広げた手がどんどんと追いすがってくる。すると、キョウの体からは、イチとゼロの符号が面になって剥がれ、それが輝く札になった。体内にため込んだウイルスに違いなかったが、札になった符号の威力は強力で、ガーディアンは、札に手を伸ばすまでもなく、体のどこかがそれに触れただけで一瞬で灰燼と化した。追っ手はキリがなかったが、キョウはウイルスを放出する度に加速を繰り返し、私にも自分にも指一本触れさせることなく飛び続けた。
 そして。
 ズザッ!
 ガーディアンを引き離し、だいぶ奥まで来た平原で、キョウは漆黒のフラッグを赤黒い大地に突き立てた。途端、大地が御影石のように磨き上げられ、円形広場へと変わった。
「ここらへん……だ」
 キョウは突き立てたフラッグを支えに立ち、ハアハアと肩で息をしていた。
 私は思わずキョウの背をさすった。
 さすりながら警戒して辺りを見た。
 追っ手のガーディアンは、御影石になった広場の手前までくると、急に目標を見失った様子で辺りを見回し、そしてどこへともなく姿を消していった。
 ガーディアンの姿が一つもなくなった頃、キョウはようやく背を伸ばして立ち、照れくさそうに私のことを見た。
「ありがとよ」
「どういたしまして」
 そんな短いやりとりをした。
 私は、なんとなく、キョウの気持ちを理解できるようになっていた。
「ここが、ボタンに近いのね?」
「ああ。ただ、問題があって…な」
「問題?」
 キョウは言い、足元に目を落とした。すると御影石の一部に、空から見おろした景色が映し出された。
 そこは町外れの森の中、どうやらスポーツ広場のようだった。陸上トラックの中央に、大きく、長さのあるトレーラーが置かれて、荷台のなにかが屹立し、こちらを向いているように見えた。
「準備万端じゃねぇか…」
 キョウは舌打ちする。そして半目になり、集中してなにかを探った。
 私は焦りを堪えて言葉を待った。
 沈黙の後、まぶたを上げたキョウは、難しい顔をした。
「やっぱり…だ。赤いボタンが見当たらない」
「どういうこと?」
「イチとゼロでは存在していない機器、デジタルじゃなく、アナログの機械……ということだ」
「アナログ?」
「人の言葉を単純に伝えるもの、電気を単純に入り切りするもの、機械の制御を人の手で行うもの…。ウイルスや乗っ取りを警戒する軍用の機器には、ネットワークに接続できないアナログの機械が用いられることがあるんだ。そして、デジタルの入っていない、そういう機械には、俺たちの力は届かない」
「見えてるのに、どうすることもできないの?」
「ここからじゃ、どうにも…な」
「じゃあ、さっきみたいに端末を乗っ取って…」
「それも、難しそうだ」
「え?」
「周囲に電源の入った端末がない。あの広場の端末はすべて電源が切られている。たぶん、上の奴らの命令で、電源を切られてるんだろう」
「じゃあ……」
「この世界からじゃアクセス不可能。現実世界で、物理的に電源を入れさせなければ、手も足も出ない」
「そんな…。でも、じゃあ、メールを書いた人の端末は? それは電源が入っているんじゃないの?」
 食い下がるが、キョウはすぐに首を横に振った。
「あのメールを送ってきた端末は、シグナルが途絶えたっきりだ」
「シグナル?」
「端末が起動していれば、常に、ネットワークと短いパルスでやりとりをしている。識別番号とか、位置情報とか…な。それが、途中でぶち切られている。わかりやすく言えば、シャットダウンせずに電池が外されたか、あるいは破壊されたか」
「破壊……」
「ログを見ると、シグナルの途絶え方が不自然だ。たぶん……見つかったんだろうな」
「………」
 深刻な沈黙が流れる。
 私は、キョウに尋ねた。
「その人は、無事なの?」
「メール一つで、殺されはしないだろ」
「そうなのね、ほっとした」
 私が胸をなで下ろすと、キョウは驚いた目をした。
 私は聞き返した。
「なに?」
「あ……いや」
「また私の心を読んだの?」
「読んでない」
「じゃあ、なに?」
「………」
「………」
「本当に読んでないから聞くんだけど…さ」
「…ええ」
「見ず知らずの人のことでほっとできるなんて、ずいぶんなお人好しだって思ってさ…」
「……?」
「まさかこいつ、いつか戦争のない世の中が来る…なんて信じてるんじゃないかって、心配になった」
「戦争で死んだ人間に、それを訊くの?」
「不躾ですまない」
「本当、あなたたちってそっくりね」
「そっくり? 歌子に…か? なにがだ?」
「遠慮がないところよ」
 私は歌子のことを思い出しながら、その内心では返事に迷っていた。
「そうね、戦争がなくなるなんて思ってないわ。だけど、多くの人が、そう望んでいることは知っているわ」
 そう言ってキョウを見上げると、彼女は目を見開いて、私の頭越しに辺りを見ていた。何かと向き合って畏怖している。その瞳には、多くの人の姿が映って見えた。私は、私の背後に、誰がやってきているかを知った。男の人、女の人、若い人、歳をとった人……。それは、あの日、私の住む街で亡くなった、無数の人の魂だった。
「……ハッピー…さん」絶句していたキョウが枯れた声で言った。「あんたの背負ってるのは、一体、なんていうネットワークだい?」
 私は、質問には答えず、ただ、目を伏せた。
 今、私は大勢の人の期待を背負っている……。

(続く)
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み