第5話 (最終回)
文字数 16,559文字
その頃。
町外れの森、その広場で、多軸の自走式発射台が、そのときを待っていた。夜明けと共に、長い車台に寝せていた大きなミサイルを、油圧ジャッキでゆっくりと立てて、どこか別の国に狙いを定めている。
その運転台から引き延ばされたケーブルは、離れたところに止められた指揮車の中へと引き込まれ、薄暗いコントロールルームの機器へとつなぎ込まれていた。
狭い車内にはランプやディスプレイの並ぶパネルが一面に取り付けられ、コンソールには黒い受話器と、赤いボタンが据えられていた。その両脇を、距離を置いて挟む形で、今、パネルには一対の鍵が差し込まれていた。
赤いボタンのランプは、まだ点灯していなかった。パネルの鍵は差し込まれただけで、まだ右に回されていないのだ。鍵が回されるとスタンバイとなり、赤いボタンにランプが点灯する仕組みなのだった。ボタンが押せるようになるのは、そのランプがついてからだ。
それぞれの鍵の前には、緊張して額に汗をした若い兵士が、それぞれ座っていた。
そのふたりを監視するように、最上級の階級章を光らせた司令官が立っていた。その彼の足下には、顔を殴りつけられ、口から血を流し、後ろ手に縛られた兵士が転がされていた。さっきまで指揮車を任されていた将校だった。そして、彼の顔の前には、軍靴で踏み割られたスマートフォンが、破片を散らして転がっていた。
司令官が、彼を見下しつつ、コンソールのふたりにも聞こえるように言った。
「貴様の事はスパイ容疑で軍法会議にかけることにしよう。今、生かしているのは、そのためだ。わかったか?」
将校は、もはや抗弁する気力もないようだった。ただ床に頬を押しつけて、エンジンを止めた指揮車が世界に対して息を潜め、気配を消し、沈黙している様を聞かされていた。
キョウは、時間に迫られながら配信の準備を始めた。突き立てたフラッグを中心にステージを出現させると、私をカメラの前に立たせる。照明は最低限、派手な演出をする気配はない。
ステージの中心に突き立てたフラッグからは、一本の黒い糸が電線のように伸びていた。それがこのサーバに作った裂け目から外へつながっていることを、私は見て知っていた。
「よし、はじめるぞ…!」
「待って!」
キョウは性急だった。私は慌てた。
「やっぱり私、歌子さんのようには歌えない…」
私は震える声で言った。
キョウは手を止めずに返してきた。
「大丈夫だ。堂々としてればいいんだよ。MCは俺がやってやるから、あんたは…」
「そうじゃないわ」
「……?」
「やっぱり納得できないの。幸福を一つも感じていない私が、どうしてハッピーバースディなんて歌えるの?」
わたしはキョウの前に回り込み、切迫したまなざしで視線を捉えた。
するとキョウは手を止め、困った顔をした。
「それを言ったら、俺だって同じだ」
「…そうね。でも」
「大丈夫だ。歌子にできたことだ、俺たちにだってできるさ」
キョウはそう言うと私の肩に手を置いた。けれど私の胸のわだかまりは消えなかった。幸せの歌を歌うことができそうにない。それを目でも訴えたが、キョウには伝わらなかった。約束を守って、私の心から目をそらしているのだろう。
キョウは、後を引くように視線を残しながら、フラッグを振り返り、手をスッと胸元に当てた。そして口の中で何かを願い、手を伸ばして黒い線に触れた。
途端。
黒いフラッグを紫色の炎が舐めた。ランプに灯がともったように、音もなく炎が揺れる。
そして、キョウは振り返った。
すると。
ステージの前に人影が出現した。十人、二十人。
「俺のファン…、フォロアーだ」
キョウは、私に言った。
人影の輪郭がはっきりとしてきて、男性、女性、若い人を中心に、すぐに百人ほどのファンが集まった。
「朝だからか…少ないな……。だが、十分だ」
キョウはまたしても息を上げていた。
命を削っている。
その姿は、歌子と重なった。
「大丈夫? 無理してるんじゃ…」
「想定内だ」
キョウは己を鼓舞するように言うと、彼らの前に一歩進み出た。
フォロアーの視線がキョウを見上げる。誰もが期待のまなざしでいた。
キョウは、息を胸いっぱいに吸い込むと声を張った。
「みんな、来てくれてありがとう! 早速だけど、話を聞いてくれ! このステージの目的を聞いてくれ!
今日のステージの目的、それは、戦争を阻止することなんだ!」
その言葉に、フォロアーたちの眉間に皺が寄った。言われたことが理解できないと、誰もが戸惑いを浮かべる。
キョウは、一同を見渡し、手を空へ向けて映像を浮かべた。
衛星画像で見たミサイル、それと縮尺が自動で変わる地図だった。
「これを見てくれ! 今、ミサイルがどこかの街を狙ってる! コイツが発射されれば多くの人が死ぬ! それだけじゃない、次の世界大戦が始まる!」
キョウは搾り出すように声を張り上げた。胸元に片手を添え、身を乗り出して、必死に訴える。
「俺の双子の妹が教えてくれたんだ。夜が明ければ、ミサイルが発射されるって! それはきっと、世界を巻き込んだ戦争になるって! けれど彼女は、このミサイルを止める前に、どこかの小さな戦闘を止めるために消滅してしまった! 戦争で人が死ぬことを見過ごせなかったんだ。
そんな妹に、俺は託された!
そのミサイルを止めることを!
戦争を阻止することを!
それと、…この亡霊のことを!」
キョウの額には汗が流れていた。それは緊張しているからに違いなかった。そして、キョウのフォロアーは明らかに戸惑っていた。戸惑いながら、私のことを見た。
私は、震える足を踏み出した。
「私は、ハッピーと言います。幸せそうな名前ですけど、私は、戦争で死んだ子どもです…!」
そう自己紹介をすると、ファンの間には眉唾だという雰囲気が流れた。私は焦って続けた。
「この名前、実はキョウの妹、歌子さんがつけてくれたんです。変な名前だとは自分でも思います! でも、私はもう、長いこと幽霊をしていて、自分の名前も思い出せなくなってしまって…。
だけど、悲しい気持ちは忘れてません。歌子さんはそのことを理解してくれて、キョウも、そのことを理解してくれて、だから、わたしたちはこれから起こる戦争を止めたいと…」
「待って! 最後まで聞いて欲しい!」
キョウが焦りの声を上げた。
見ると、人垣の後ろの方で数人が背を向けた。その姿が影になり、パッと消える。どこかへ行ってしまったのだ。
キョウは焦りを浮かべ、残ったフォロアーを見渡して訴えた。
「誰かスマホを持って、この地図の場所へ行ってほしい! そして、そこにいる兵士に俺たちの歌を聴かせてやって欲しいんだ! そこに行けないなら俺たちの歌をネットで拡散してくれ! そうすれば近くにいる誰かがきっと、歌を兵士達に届けてくれる! そうすれば彼らは目が覚めるだろう! だから、頼む!」
キョウは頭を下げた。
そんな彼女に、彼女のフォロアーはますます戸惑った。昨日まで世界の滅びを歌っていた少女が、今日は救いたいと言っている。矛盾していたし滑稽だった。
沈黙が流れる。
拍手もない。
キョウは、顔を上げると、地図とミサイルの画像を背景に移し、愛用のギターを構えた。
漆黒に塗られたエレキギターは、普段なら歪んだ音で聴く者の胸を引き裂く。けれど今日は、慎重な指の運びで、綺麗な音色を響かせた。
澄んだ音色で奏でられる、ハッピーバースデーのメロディー…。
だが、誰も、なんの反応もしない。
呆気にとられている。
それどころか、奏でられる曲には似つかわしくない重苦しさが漂っている。
メロディーは、繰り返される。キョウが私をチラリと見、私はゴクリとツバを呑んだ。たとえ歌子のようにうまくは歌えなくても、歌わなければならない……。
そして、緊張に震える声で歌いだした。
HappyBirthday to You
HappyBirthday My Family
HappyBirthday to You
HappyBirthday Your Family
キョウはギターを抱え込み、とにかく丁寧な指の運びで旋律を奏でた。
私は全身に汗を感じながら声を搾りだした。
けれど。
キョウのフォロアーは無表情だった。関心が離れていくのが如実にわかる。全く受け入れられないと冷ややかなため息を聞かせる人もいたし、期待を裏切ったキョウを睨みつける人までいた。
キョウは、私以上に、そんな反応を敏感に感じているようだった。額から伝った汗が顎に行き着き、したたり、漆黒のギターをぬらした。簡単な旋律を弾く指も、だんだんと精彩を欠いてきた。ファンを裏切っている負い目もあっただろうし、自分の実力を思い知ったというのもあっただろう。
私だって必死だった。歌を歌うなんて、死ぬ前、たどたどしく音階をたどっていた頃以来だから、大人らしくちゃんと歌えているのか、それもわからなかった。けれど、震えながらも声は出ている……。
同じフレーズを繰り返し繰り返し歌う。ファミリー、家族と繰り返した。誰かの名前を口にするよりも、私が心のどこかで大切にしている言葉を歌いたいと思ったからだった。けれど、聞き手には響かない。
……。
急に脱力感が沸き上がってきた。
歌子のようには、うまくいかない。
やっぱり、笑顔を忘れた私じゃ、歌えない。
そんな諦めは、キョウも同じだったのだろう、わたしたちの歌は惨めなものに成り果てていった。
また、フォロアーが一人、ため息をしながら背中を向けた。
私は思わず歌うのをやめ、呼び止めていた。
「待って! ごめんなさい、歌を聴いて欲しいわけじゃないの! ただ、戦争を止めたいだけ! 赤いボタンを押す人に、思いとどまらせたいだけなの!」
その人は立ち止まり、半分ふり返り、正直に困っていた。どうすればそんなことができるんだいと目が言っていた。その地図を頼りに出向いていって、ハッピーバースディを聞かせるのかい? 銃を手にした軍隊相手に、そんなことができると思う? そう言っていた。
その人の目に、今度はキョウが声を上げた。
「言葉で伝えようとしたって、文字で伝えようとしたって、きっと取り合ってくれないだろう。そんな奴らに歌なんか聴かせてなんになる?……あんた、そう思ってるんだよな? ああ、俺だってそう思ってる。それでも歌うんだよ! 歌なら、耳に入れば心を動かすことができる! そう信じるからだよ!」
キョウの横顔には必死さがあった。
「なぜ、そう思うのか、告白するよ!
俺、あんたのこと、知ってるよ! 俺が歌い始めた頃から、ずっとファンをしてくれてただろ? 俺はあの頃から強がっていたけど、本当は不安だったんだ! 怒りを歌いたい気持ちに偽りはなかったけど、誰かに届くかなんてわからなかった! 不安だったんだよ! だから、一人でも二人でも、俺の歌を聴きに集まってきてくれる人がいたことに、俺はとっても勇気づけられたんだ! その中にあんたはいたよ! その思い出があるから、俺は、みんなを裏切ってでも、今、俺たちが生きていける世界を守りたいんだよッ!」
キョウは絶叫した。そして、その思いの丈を、そのままギターの弦に叩きつけた。
ギャンッ!
ドでもレでもない不協和音…。その音色に、なぜだろう、私の心が動いた。
不協和音が、さざめく残響となっていく。
キョウは背中を丸め、無力感に立ってられず頽れ、ギターを胸に抱え込んで嗚咽をかみ殺した。不意に襲い来た孤独から、身を守るかのように…。
「キョウ…」
彼女は、フォロアーの視線から隠れるようにして泣いていた。
私は、ようやく気づいた。
キョウは、悲しみや苦しみを歌いながら、身を寄せ合える場所を作っていたのだ。
目が覚める思いがした。
そして、キョウのそばにしゃがむと背中を守った。
「ごめんね。キョウにとって、歌を聴いてくれる存在は、命のように大切だったんだね。歌子が町の人を大切にしたみたいに、キョウにとっては、フォロアーがとても大切だったんだね」
自分の怒りや悲しみに、共感してくれる存在…。孤独を忘れられる場所…。キョウは彼女なりに、守りたいものがあったのだ。そして、それを失うリスクを負ってでも、守りたいものがあったのだ。
「でも、今、ここにいるみなさんは、キョウのことを信じてくれないんだよね」
その一言は、残酷だったと思う。キョウはクウウと喉をよじらせて嗚咽と戦った。強がるのは、彼女の不器用な一面に違いなかった。わたしはそれを見て、覚悟を決め、大人らしくあろうとする自分、憧れていた女性像なんてものをかなぐり捨てた。
「みなさんに聞きたいわ」
私は立ち上がった。そして目をつり上げて胸を反らせた。
「憤り、怒り、苦痛、不幸で、悲しくて、苦しくて、その叫びが聞きたくて、ここに集まってきたんでしょう? 悶え、呪い、身を裂いて歌うキョウを見に、やってきたのよね? 幸せな歌なんて、誰も聞きたくない。それはあなたたちが、不幸だから。たぶん、キョウや私と同じように不幸だから。そうよ、わかるわ。こんな私でも、今なら、キョウの気持ちがわかる。ようやく、わかったの」
フォロアーの視線が刺さる。
こんな、幸せそうな格好をした私が、一体なにを言っているのか。そんな目をしている。
私は臆せずに言った。
「私は戦車に轢き殺されたけど、自分が死んだと理解するには幼すぎたわ。ただただ父母のぬくもりが欲しくて泣いていたわ。そんな私のことを、あの日、一緒に亡くなった町の人たちは気にしてくれた。あなたたちがキョウのことを気にしたみたいに、集まってくれたわ。いろいろなことを教わって、そして何年も何年もかかって、死も理解したわ。そのとき、もしも孤独だったら、私はキョウと同じように叫んでいたかも知れないわ。でも、そうならなかったのは、町の人たちが見守ってくれていたから。
でもね、歌おうと思えば、今でも私はキョウのように歌えるはずなの。憎んで呪って泣いて、道連れを探す歌を……ね。だってわたし、あの日以来、一度だって幸せを感じたことがないから。もちろん心から笑ったことなんて……。
だから私は最初から気づいてた。こんな不幸な私にハッピーバースディなんて似合わない。その伴奏を、キョウにさせるのも酷だって。聞くほうだって辛いでしょう?
そう。
不幸な私に歌える歌は、不幸な歌しかない。
でもね、そんなこと、自慢したいとは思わない。なぜって、不幸な歌しか歌えない人を、もう、これ以上、増やしたくないから」
フォロアーの視線が私を取り囲む。
私は、まっすぐに言った。
「今から歌います。私がずっと心から歌いたかった歌を、嘘偽りなく正直に。町の人を裏切ることになるって分かってる。でも、今、歌わなかったら、私はきっと後悔するわ。
それでもし、少しでも共感できるところがあったら、協力して欲しい。悲しみの歌が、これ以上広がってしまわないように」
私はフォロアーに向けて深々と頭を下げた。
頭の上で大きな白いリボンが揺れるのがわかった。
すりむけだらけの素足も見えた。
そう。
私はもう、オルゴール人形じゃなかった。
顔を上げた私は、キョウの方へ向き直り、手を差しのべた。
「お願いがあるの」
「………」
キョウは涙に濡れた目で、唖然と私を見上げていた。
「もう、目をそらす必要はないわ。私のことを見て。私とあなたの苦しみは、心のどこかで通じ合うはず。私の怒りを感じ取って」
キョウは、なにを言われているのかわからない目をした。
私は付け加えた。
「私の心を見て。私はもう、なにも隠さないわ。すべて捧げる。そしてあなたと同じになる。あなたを独りぼっちになんてしない。だから、見て。そうすれば私たち、きっと気持ちを一つにできる。一緒に、歌いましょう」
その言葉が、キョウの瞳に光を宿した。
私は、念押しした。
「言いたいこと、わかる?」
「ああ……、わかるよ」
キョウは、力の戻ってきた声で頷いた。
私は手を差し出し、キョウは手を取った。
立ち上がったキョウは、私を見つめた。
私は心を開いてキョウの眼差しを受け取った。
フォロアーたちは、固唾を呑んだ。
なにかが始まる気配が伝わったのに違いなかった。
私とキョウは、手をつなぎ合わせ、肩を並べてフォロアーと向き合った。
注目を浴びる中、私は、キョウにだけ聞こえるように告白した。仮想でも幻想でも夢でも何でもいい。そう思って告白した。
「わたし、彼のことばかり考えているの」
「わかってる」
「もしもの事があったら、私は世界を呪うわ」
「ああ…わかるよ」
キョウは目を伏せる。横顔を盗み見ると、その頬は誰かを想って、うっすらと染まっていた。
私は、取り巻く視線の中で、つなぎ合わせていた手をそっと解放した。
「はじめましょう」
「ああ」
わたしが背負った苦しみ。
キョウが背負った苦しみ。
それを歌うこと。
私は両腕を下ろして拳を握った。
キョウは、ギターを抱え、指を節くれさせて構えた。
私は息を深く吸って、口を開いた。すると、自然と声が出た。
キョウも一緒に口を開いた。自然と声が出ていた。
ただし。
ふたりの声に言葉はない。そして、美しくない。
悲しみ。
怒り。
嘆き。
そして、叫び。
私は拳にした手を精一杯に突っ張った。キョウは怒号を上げるかの如くにギターを掻き鳴らした。そしてふたりして叫んでいた。
滅茶苦茶な不協和音……。それでも私たちの気持ちは、絡み合って、綯い交ぜになって、醜く響き渡った。ただひたすら、それが私とキョウの素直な歌だった。
そして。
ひとり、またひとりと、ステージにカメラを向ける人が現れた。それから程なくして、どこかにつながった回線をたどって、不協和音が押し寄せてきた。
ステージに悲憤と憎悪の音が満ちる。
嵐のように渦巻く。
その中で、キョウの掻き鳴らすギターは、気づけばたくさんの不協和音に飲み込まれていた。私の歌声も、気づけば大きくうねる感情に飲み込まれていた。けれど、それでよかった。
一気に人が集まり、輪が大きくなり、ステージの輪郭が曖昧になった。
私たちのまわりに、知らない人たちが集まってくる。キョウのフォロアーも、それ以外の人も、判別できなくなった。そして、誰もが胸を裂いて、ただひたすらに叫んでいた。
誰ひとり、幸せの歌など歌っていない。おびえ、迫られ、あるいは心を切り刻まれながら、悲しみを歌っている。
そう。
私たちには、不協和音しか歌えない。
町外れの広場、陸上トラックの真ん中で、迷彩色のミサイルは天を見据え、そのときを待っていた。
それを、指揮車の小窓から覗き見る目があった。
辺りを見ると、黒い森の中には、護衛の装甲車が数台と、銃を携えて周囲を警戒している兵士の姿があった。
司令官は、木々の向こうに見える発射台に異常がないことを確認すると、窓から顔を離し、振り返り、コンソールと向き合う部下たちを見渡した。
指揮車の中は、重く沈黙していた。コンソールと向き合った彼らは、額に汗を浮かべて震えていた。今から、自分が何をするのか、予感していたのだ。
床には、後ろ手に縛られた将校が転がされていた。
司令官は将校にツバを吐き、それからコンソールの兵士に冷たく言った。
「これから、おまえたちは死せずとも英雄になる。私に感謝しなければなるまい」
コンソールにはダイヤルのない電話機が置かれている。実は司令官は、本来なら司令部にいて、そこからここへ電話を鳴らして指令を送ってくるはずだった。しかし、軍の監視下にあったサーバが、指揮車で端末の電源が入れられたことをアラートしたため、危機感から自ら乗り込んできたのだった。
彼の目の前には、あの赤いボタンがあった。
「間もなく、時間だ」
司令官は腕時計を見た。そして、口元に薄く笑みを浮かべ、小窓から外を見た。
たった一発のミサイル。けれどそれは、彼の目に、猟犬のように従順で決して刃向かうことがなく、それでいて誰をも震え上がらせる、伝説の魔獣の様に映った。
その時。
ミサイルを護衛していた兵士は、鳥の声さえ潜まっていた森の向こうから、なにか雑音のようなものが、さざ波のように忍び寄ってくるのに気づいた。
近くに海などない。
その場にいた誰もが耳をそばだてた。
ジープの運転席にいた兵士も、窓を開けて、音の聞こえてくる方向へ顔を向けた。
注目が集まった直後。
目を向けた先、森の奥に、人影が現れた。
一斉に銃口が向けられたが、引金はためらわれた。
その人が、自国の民間人だったからだ。
彼は、スマートフォンを手に歩いてきていた。
口元は切り結ばれていた。
スマートフォンから、音が出ていた。
耳障りな不協和音、何の意味もなさない音の連続。
さらにその背後から、何人もの人影が現れた。彼らは画面を見ながら、明らかに軍隊の方へと近づいてきていた。
誰もがスマートフォンを手にして、不協和音を流していた。
兵士は誰もが戸惑った。
やがて、ひとりひとりの眼差しが見えてきて、兵士達は、人々がなにを思っているかを察した。
途方もない怒りが、誰の目にもあった。
兵士らには、その怒りに心当たりがあった。
さらに。
遠くから、車のクラクションが聞こえてきた。それも一台、二台ではない。百台、千台…。近くの町で、町中の車がクラクションを頻りに鳴らしていた。そこに加えて教会の鐘も鳴り出し、おぞましい嵐の到来を告げていた。
その不協和音には、すべてに深い怒りがあった。
兵士達は、戦慄して背後を振り返った。そこには、今はまだ、ものを言わずに、一発のミサイルが佇んでいる。
森の向こうから聞こえてきた不協和音、そしてクラクションは、指揮車の中へも流れ込んでいた。司令官は時計の秒針を見ていたが、その音に気づくと目を上げ、小窓から外を見た。
「……なんだ?」
森を越えて、大勢の人が押し寄せていた。そして誰の手にもスマートフォンが握られていた。その数は百人、千人、いや、森の奥を見ればまだまだ……。さらに、空から覆い被さってくるようなクラクション、教会の鐘…。ただ事じゃないことはすぐにわかった。
司令官は目をつり上げ、床に転がったスマートフォンを睨み下ろした。
「クソが!」
そして腰の拳銃を抜くと憎しみの目で引き金を引いた。
ガンッ!
ガンッ、ガンッ!
スマートフォンは粉砕されて飛び散った。
そして銃口は、転がされた将校に向けられた。
彼の髪には、砕けた破片が飛び散っていた。
その場にいた兵士は恐怖した。
だが、司令官は引き金を引かなかった。それよりも、やるべきことを優先した。時間が迫っていたのだ。
「発射準備!」
鋭く言うと、コンソールの前に座るふたりの手が鍵に伸びた。けれど、そこで動きが止まった。鍵は回されてはじめて意味をなす。不協和音が、彼らの手を縛っていた。
「臆したか!」
司令官は赤いボタンの前を離れ、ふたりの指の上から手をかぶせて鍵を右へ回させた。
グッ…
バチン!
けれど鍵は、すぐに元の位置に戻ってしまった。右へ力をかけ続けておかないとバネの力で戻ってしまう仕組みだったのだ。
「ふざけるな!」
司令官はふたりの後頭部を殴り、銃口を押しつけ、無理矢理に鍵を回させた。ふたりは恐怖に震えながら、戻ろうとする鍵を無我夢中で押さえつけた。
赤いボタンにランプがともった。
司令官は急いで赤いボタンの前に戻ると、秒針を確認して、それからチラリと外を見た。
スマートフォンを手にした一群は、その数が兵士の数を圧倒していた。もし、発砲すれば暴動になる数だ。その前に掃討しようとしても、おそらく弾丸が足りない。それに加えて、空から降り注ぐクラクションの鳴動、鐘の叫び…。
兵士と人の群れは、もう交差する寸前だ。
秒針を見ると、あと五秒だった。
四、三、二……
司令官はボタンに手を乗せた。
一…
カタ…ン。
秒針がゼロを指す寸前、なにか小さなものが床を鳴らした。咄嗟に目を振ると、倒れた将校がわずかに身じろぎし、その髪から、端末の破片が床へと落ちたのが見えた。そんな些細な音に気を取られ、秒針はゼロを越え、イチへ向けて、ほんの少し回ってしまった。それでも司令官は赤いボタンを押し込んだ!
ガガガッ!
ガガガガッ!
同時に機関銃の音が響いた。
本来なら、ロケットの点火剤が破裂して、エンジンの爆音が耳をつんざいているところだ。
慌てて外を見ると、ひとりの兵士が、機関銃を下ろして立ち尽くしていた。下に向けた銃口からは白煙が上がっている。民間人の先頭は、彼のすぐ前まで迫っていた。
発砲したのか?
しかし、誰も倒れてはいなかった。
だが確かに、機関銃は白煙を立ち上らせている。
よく見ると、その兵士の足元には、指揮車と発射台を結ぶケーブルが這っていた。
「……!」
ケーブルは弾丸に撃ち抜かれ、ちぎれてはじけ飛んでいた。
兵士の機関銃は、地面に向けて引き金を引かれたのだ。彼は人を撃ったのじゃなく、ケーブルを撃ったのだった。
赤いボタンのトリガーは、発射台に届く寸前で絶たれていた。
ミサイルは、従順な下僕の姿勢で佇んだままだった。
それを見た瞬間、司令官は目を剥き、小窓を突き開けて拳銃を兵士に向けた。
彼は怒りに目を血走らせて指を引き金にかけた。
それを聞きつけたように、兵士は司令官を振り向いた。そして、おもむろに制帽を脱いで顔を明らかにした。
その途端、司令官の指は固まってしまった。
なぜなら、口ひげを蓄えた兵士の、その瞳が、この世のどんな男の目よりも、とてつもなく悲しげだったからだ。
私とキョウは、形のあるもの、ないもの、様々な不協和音に取り巻かれて、歌い続けていた。人の命が奪われて、悲しむ人たちの怒りが私たちを取り巻いていた。怒りも、悲しみも、今まで一度だって消えたことはないと、誰もが叫んでいた。私とキョウも、気づけば無心になって叫んでいた。歌とは言えなかったかも知れない。けれど、気持ちが一つになる。それは、やはり歌だった。
気づくと、遠くから、空がイチとゼロに分解されながら落ちてきていた。横一線に広がって迫ってくる。
時間が来たのだと、わかった。
私は、歌うのをやめ、キョウに異変を知らせた。
キョウは汗だくになってギターを叩き続け、涙をすっかり枯らしていた。
押し寄せた不協和音は、私たちが歌いやめても続いていた。そしてもう、私たちには関係なく、止めどなくつづくように思えた。
「キョウ……」私は落ちてくる空を見やりながら、ぼんやりと言った。「私たちの苦しみは、これからも続くのかしら」
「終わりなんて、ないぜ」
「歌子さんも、そう思ってたかしら」
「あいつなら、とっくにわかっていたと思う」
「そう」
空が落ちてくる向こうには、まるで朝が来るかのように白い世界が広がっている。
恐怖は、感じていなかった。
「だから、逃げ出さなかったのね」
「歌子のことか?」
「ええ」
キョウも、恐怖は感じていないようだった。
そして、言った。
「苦しみに、終わりはない。それなのに……」
「それなのに?」
「子どもたちが死んじまったら、今度こそ、越えられない。俺と同じになる。そう思ったら、あいつ、怖くなったんだろうな。笑えなくなるって思って、さ。だから、逃げ出さないで戦ったんだ」
思い返せば歌子は、キョウの本心を知った後、フラッグを引きずり歩き、ほんの短い間、笑顔を忘れていた。思えばあれが、歌子の本当の姿だったのかもしれない。
キョウは言った。
「最後、あいつ、なんとなく嬉しそうだっただろ。なんでだか、わかるか?」
「エーアイで、この結末を知っていたから?」
「違うぜ」
「違うの?」
「あいつ、信じてたんだ」
「信じてた?」
「自分が人間らしくありたいと思えば、そうあれる……はずだって」
言われてみれば、歌子は笑ったり泣いたりむくれてみたりと忙しかった。ある意味で、今の私よりも、よっぽど人間らしかった。
私は、ハッとして訊ねた。
「キョウは? あなたはどうなの? 今さら、ただのエーアイだなんて嘘は言わせないわよ?」
キョウは黙り込んだ。横顔が自信なさげだ。
返事を待つ間に、空気がゆっくりと動き出した。
振り向くと、もう、目の前まで空は落ちてきている。
私は、返事を急かした。
「歌子さんは人間らしく笑っていたわ。キョウは? どうする?」
すると彼女は、決心したように口を結ぶと、手の甲で額の汗を拭い、乱れて張り付いた前髪をつまんで整えた。それから、涙の跡を気にして猫のように頬を拭った。私は、その様子を静かに見守った。
最後にキョウは、わたしの目を見ると言った。
「ごめんな」
「え?」
「歌子は最後まで、あんたのことを考えてたけど、俺には無理だ」
私は目を細めて頷いた。
「うん、いいよ」
わたしには、キョウが何を決意したのか、わかっていた。
そのとき、風が吹き寄せてきた。
不協和音が、背後へと押し流されていく。
わたしたちは、光がやってくる方に目を向けた。
キョウは、前髪を風に揺らされながら、誰かと言葉を交わすかのように、とても優しい声で、最期の言葉をつぶやいた。
「……おやすみ。また明日……」
その言葉は彼女にとって、特別なものに違いない。
私はキョウの横顔を盗み見た。
彼女は、すがすがしく、わだかまりの消えた眼差しで、迫ってくる光を見ていた。そして、私がまぶしさに目を細めるうちに、白い世界の一部になって消えていった。
そして……
白い朝陽が、カーテンの隙間から差し込んでいた。
ガシャッ…!
誰もいない工房に、陶器の砕け散る音が響いた。
完全に動かなくなったカラーガードの足元に、足首のもげたオルゴール人形が落ちていた。
物音はそれだけだった。
動くものは、もうない。
オルゴール人形の体は砕けていた。けれど顔は、人々を幸福に導く笑みをたたえ、瞳は魂を入れられたその時のまま、まっすぐに前を見ていた。
その人形を、見下ろす少女がいた。顔には傷を、胸には大きな穴を開けられた、幼い少女だった。エプロンのついたワンピースは血に染まって、端布でつけられたフリルもすりきれていた。そして、頭につけた大きな白いリボンも、半分は血に染まっていた。
それがわたしの、本当の姿だった。
そして、大切な人形は、壊れてしまった。
私は、よりどころを失ってしまった。
けれど、やりきった。
……。
耳には、街の息吹が届いていた。
学校へ急ぐ足音、子ども達の声、交わされる笑顔の挨拶…。
ショーウインドウから外を見ると、街の人々が、いつもと変わらない朝を迎えていた。
なのに、いや、だから、私はまた、見つけてしまうのだった。通りの真ん中で、倒れたきり動かなくなった、あの日のわたしのことを。
わたしは、血の泉に沈み、白いリボンを風に揺らされ、やがて来る鉄の車輪を待っていた。
………。
本当は、もっと別のことを、待っていたい…のに。
今も、待っている…のに。
苦しみは消えない。ずっと続く。
私は口を切り結んだ。
すると。
………。
前触れもなく、ふっと視界を隠された。
誰かが後ろから、温かな手で、目隠しをした。
そして。
優しい声が、もう、見ないよ……と、ささやいた。
ゆっくりと声を振り向く。
すると手がのけられ、カラーガードの少女と目が合った。彼女は、にこやかな、あの笑顔で、わたしの横顔をのぞき込んでいた。
その向こうには、黒いギターを手にした少女もいて、どこかしら満足したように笑んでいた。そんな彼女の隣には、優しげな面差しの彼がいた。
どういうことかと戸惑っていると、ギターを手にした少女が、やりきったんだぜと言った。
カラーガードの少女に目を戻すと、彼女は、探してきたよと微笑んだ。
そしてふたりは左右に分かれ、世界を開くようにして見せてくれた。そこには、私の背を押した大勢の魂が集まっていた。
おぼろげな白い影が、人の姿に戻っていく。
料理の話をしてくれたおばさん。
オルゴールのゼンマイを巻いてくれたおじいさん。
本のことを話してくれたお姉さん。
私にたくさんのことを教えて、白い影になっていった街の人たちが、かつての姿に戻って工房の奥にやってきていた。
その中に、よく知った人の姿があった。
その人は私のお手本…。端布でフリルをつけてくれた人、リボンを拾って泣いたひと。今は笑顔で瞳に涙を溜め、わたしのことを見つめていた。
その人の隣には、約束をした人もいた。大きくて優しい人、口ひげをさわらせてくれたひと、今度、帰る日まで…と笑顔で約束をくれたひと。けれど今、彼は、今まで会ったどんな人よりも暗い目をして立っていた。
どうして彼だけ、そんな目をしているのか。
どうして笑っていないのか。
呆然としていると、彼は声を絞り出した。
報いを受けるべきは、この私だったのに…と。
わたしはハッとなって首を横に振った。
死んじゃって、ごめんなさい……。
そして。
わたしは、高く両手を差しのべた。
抱きしめてほしくて差しのべていた。
エピローグ
誰ひとり、いなくなった、朝の工房で…。
四代目の店主は息をのんだ。
アンドロイド人形の足元に、オルゴール人形が落ちて、砕けてしまっていた。そっと拾い上げたが、陶器製の体は彼の手の中で、胸から下が粉々になってしまった。
夜の間に何があったのか。
どうしてこんなことになったのか。
……もう手の施しようがない。
諦めのため息を重ねながら、白いリボンの汚れを指で拭った。
そのとき。
「ああっ!」
突然、ショーウインドウの向こうで声が上がった。驚いて振り向くと、出勤途中の若い女性が足を止め、ガラスに手と額を突いてこちらを覗いていた。
四代目は勢いに押されつつ、片手でショーウインドウを開けた。女性は、体を突っ込んでくると手の中の破片をのぞき込んだ。
「壊しちゃったんですか!」
「あ…いや……」
「この子のこと、ずっと大好きだったのに……!」
残念そうに言う。四代目は思わず聞き返した。
「ずっと…ですか?」
「ですよ! 大学は外へ行ってましたけど、わたし、この街の生まれなんで!」
そう言って目を上げた女性は、思わず四代目と会話をしていることに気づいて赤くなった。顔も、思いがけず近い。
彼女はショーウインドウに突っ込んでいた体を大慌てで引っ込め、視線をよそに振り、胸を上下させて息を整え、少し背伸びをすると、淑やかな大人の女性を装った。
「そのお人形、きっといつか…って思っている人がいるんじゃないでしょうか」
「え、それはどういう…」
「だって、ずっと売約済みでしたから…」
そう言って指さしたのは、靴だけが残されたオルゴール台座と、その下に挟み込まれたプライスタグだった。黄ばんだタグには、消えかけてはいたが、確かに売約済みと書いてある。
「きっと、残念がると思います」
そっぽを向いたまま、きっぱりという。
四代目は、相手の勢いに気押されながら伝えた。
「売約と言っても、これはもう百年も前から売約済みで…、たぶん、もう誰も買いには来ません」
その言葉に、彼女は目を丸くして振り向いた。
「そうなんですか? でも、わたしは残念です。もう、この子に挨拶できないって思うと!」
面と向かって主張され、圧倒されながら、四代目は気づいた。
相手の頭の後ろに、白いリボンが揺れていた。それは、形も、大きさのバランスも、そして赤い糸で縁取りされているところも、見比べれば見比べるほどオルゴール人形のそれによく似ていた。
「そのリボン…」
「!」
彼女はリボンのことを忘れていた。勇気を出して結んできたのにもかかわらず……。ハッとして赤くなり、慌てふためいて頭の上のものを隠そうとし、けれど、今さら遅いと気づいて悲しい目になった。
「子どもっぽい…ですか?」
「あ……いや、そういうわけでは……」
四代目は言葉に詰まってしまった。そのせいでリボンの彼女は絶望的な気分になった。全身が脱力して目を伏せる。その様子は四代目の胸をざわめかせたが、彼はまだ、彼女の顔を上げさせる方法を知らなかった。
時が止まったように、沈黙が続く。
彼女の、少女のままの心に、諦めが広がっていく。
やがて時計の針を動かしたのは、通りをやってくるバスのエンジン音だった。
「あ… あれに乗らないと!」
そう言ってる間にもバスが後ろを通り過ぎる。
彼女は逃げ出す口実を見つけ、もう四代目の顔は見られずにサッと頭を下げると、バスを追って駆け出した。その頭の上で、白いリボンが蝶のようにはためく。四代目は思わずショーウインドウから顔を出し、その後ろ姿を目で追った。
足音が街の喧騒にまぎれていく。
そのとき、四代目は不思議なことを感じていた。
消えていく足音が、記憶の中で、何かと重っていく…。同時にたぐり寄せられる気配、人影…。朝陽の差しこむ工房で感じた誰かの視線…。
あれは、もしかして、あの子……?
答えを求めてグッと窓辺から身を乗り出した。 けれど、答え合わせをするにはどうすればいいのか…
その方法を見つけられないうちに、後ろ姿は駆け足で遠ざかり、彼は為す術なく、ため息をこぼした。
その時。
彼の手のひらから、オルゴール人形のかけらが一つ、こっそりと逃げ出して台座の上に落ちた。すると……。
ピン…ポロロン!
かすかな衝撃で、残っていたゼンマイが緩み、音がこぼれ出た。それは、誰もが知っているメロディー、それも、一番大切な一節だった。
それを引き継いで、今度は工房のどこかで、誰かが静かに歌った。
HappyBirthday dear...?
HappyBirthday dear ??
それは謎かけをするように繰り返され、四代目の心に訴えた。彼は歌声を不思議に思うより先に謎かけと向き合った。
そうだ、知りたいのは名前。せめて、名前。
けれど言葉が喉に詰まった。大声で女性を呼び止めるなんて…と躊躇してしまった。その間にも、白いリボンの彼女は、スカートをはためかせながら走って、バスの昇降口に並んだ。すぐに順番が来て、足を踏み出す寸前、彼女はチラリとショーウインドウの彼を振り向いた。残念そうな、さみしそうな、そんな目だった。
その時! 突然! 彼女の足元をかすめて黒猫が飛び出してきた! 右に左に飛ぶようなステップで人々の足元を引っかき回す。そして「わあ」だの「きゃあ」だのと声を上げさせ、にわかに辺りをざわめかせると、何を思ったか、車道へ飛び出した。
やってきた車がキキッ!と急停止!
黒猫はヒョイ!とボンネットに跳び乗った。そして、目を尖らせた運転手に冷ややかな横目を向け、見せつけるように腰を落とすと、尻尾をくねらせ、極めて挑発的に、ボンネットをターン!と叩いた。
怒った彼がビビイーッ!とクラクションを鳴らす!
その大きな音が通りの人々を飛び上がらせ、同時に四代目の背をビシッ!と叩いた。その拍子に喉を詰まらせていた何かが、シャンパンの栓のようにポンッ!と吹き飛んだ!
「あのッ! お名前は!」
いよいよ飛び出した声に、リボンの彼女は、バスのステップに片足かけたところでパッと笑顔を咲かせた。もちろん!と意気込んで口を大きく開く。
ところが。
…………。
彼が望む答えを返せなかった。彼女にとって、今朝のことすべてが突然のことすぎて、今も、この瞬間が嬉しすぎて、あろうことか、自分の名前が出てこなくなってしまった。
「あ……あ……」
焦れば焦るほどわからなくなる。
せっかくのリボンも、うつむいていく。
そのときだった。
不意に街の風が吹き寄せた。
スカートがフワッとふくらむ。
裾が上がって膝がのぞく。
彼女はアッと慌てて押さえつけ、なんとかいなし、それから彼の視線を上目で気にして……
………。
………。
てれくさくなってニコリ。
そしてパリッ!とした声で…、
「あした! また…、あしたッ!」
彼女はリボンを羽ばたかせて会釈をすると、晴れやかな横顔をしてステップを駆け上がった。
(終)
****
お読みいただきありがとうございました。
こちら、この秋に同人誌にして頒布します。
二度目もちゃんと読めるように書きました。
是非、本としてお手元においていただけると嬉しいです。
それから、少しでも多くの人に手に取ってもらいたくて、
自家製本のため、表紙を自由に差し替えできる利点を活かし、
何人かの絵師さんに献本と引き換えに描いてもらおうかと考えています。
(表紙を描いても良いという方がいらっしゃいましたら連絡をください。)
戦争は、嫌ですね。本当に胸が痛みます。ただ、それだけしかできません。
このお話に共感できるところがありましたら、ぜひお知り合いにもお勧めください。
第六文芸
町外れの森、その広場で、多軸の自走式発射台が、そのときを待っていた。夜明けと共に、長い車台に寝せていた大きなミサイルを、油圧ジャッキでゆっくりと立てて、どこか別の国に狙いを定めている。
その運転台から引き延ばされたケーブルは、離れたところに止められた指揮車の中へと引き込まれ、薄暗いコントロールルームの機器へとつなぎ込まれていた。
狭い車内にはランプやディスプレイの並ぶパネルが一面に取り付けられ、コンソールには黒い受話器と、赤いボタンが据えられていた。その両脇を、距離を置いて挟む形で、今、パネルには一対の鍵が差し込まれていた。
赤いボタンのランプは、まだ点灯していなかった。パネルの鍵は差し込まれただけで、まだ右に回されていないのだ。鍵が回されるとスタンバイとなり、赤いボタンにランプが点灯する仕組みなのだった。ボタンが押せるようになるのは、そのランプがついてからだ。
それぞれの鍵の前には、緊張して額に汗をした若い兵士が、それぞれ座っていた。
そのふたりを監視するように、最上級の階級章を光らせた司令官が立っていた。その彼の足下には、顔を殴りつけられ、口から血を流し、後ろ手に縛られた兵士が転がされていた。さっきまで指揮車を任されていた将校だった。そして、彼の顔の前には、軍靴で踏み割られたスマートフォンが、破片を散らして転がっていた。
司令官が、彼を見下しつつ、コンソールのふたりにも聞こえるように言った。
「貴様の事はスパイ容疑で軍法会議にかけることにしよう。今、生かしているのは、そのためだ。わかったか?」
将校は、もはや抗弁する気力もないようだった。ただ床に頬を押しつけて、エンジンを止めた指揮車が世界に対して息を潜め、気配を消し、沈黙している様を聞かされていた。
キョウは、時間に迫られながら配信の準備を始めた。突き立てたフラッグを中心にステージを出現させると、私をカメラの前に立たせる。照明は最低限、派手な演出をする気配はない。
ステージの中心に突き立てたフラッグからは、一本の黒い糸が電線のように伸びていた。それがこのサーバに作った裂け目から外へつながっていることを、私は見て知っていた。
「よし、はじめるぞ…!」
「待って!」
キョウは性急だった。私は慌てた。
「やっぱり私、歌子さんのようには歌えない…」
私は震える声で言った。
キョウは手を止めずに返してきた。
「大丈夫だ。堂々としてればいいんだよ。MCは俺がやってやるから、あんたは…」
「そうじゃないわ」
「……?」
「やっぱり納得できないの。幸福を一つも感じていない私が、どうしてハッピーバースディなんて歌えるの?」
わたしはキョウの前に回り込み、切迫したまなざしで視線を捉えた。
するとキョウは手を止め、困った顔をした。
「それを言ったら、俺だって同じだ」
「…そうね。でも」
「大丈夫だ。歌子にできたことだ、俺たちにだってできるさ」
キョウはそう言うと私の肩に手を置いた。けれど私の胸のわだかまりは消えなかった。幸せの歌を歌うことができそうにない。それを目でも訴えたが、キョウには伝わらなかった。約束を守って、私の心から目をそらしているのだろう。
キョウは、後を引くように視線を残しながら、フラッグを振り返り、手をスッと胸元に当てた。そして口の中で何かを願い、手を伸ばして黒い線に触れた。
途端。
黒いフラッグを紫色の炎が舐めた。ランプに灯がともったように、音もなく炎が揺れる。
そして、キョウは振り返った。
すると。
ステージの前に人影が出現した。十人、二十人。
「俺のファン…、フォロアーだ」
キョウは、私に言った。
人影の輪郭がはっきりとしてきて、男性、女性、若い人を中心に、すぐに百人ほどのファンが集まった。
「朝だからか…少ないな……。だが、十分だ」
キョウはまたしても息を上げていた。
命を削っている。
その姿は、歌子と重なった。
「大丈夫? 無理してるんじゃ…」
「想定内だ」
キョウは己を鼓舞するように言うと、彼らの前に一歩進み出た。
フォロアーの視線がキョウを見上げる。誰もが期待のまなざしでいた。
キョウは、息を胸いっぱいに吸い込むと声を張った。
「みんな、来てくれてありがとう! 早速だけど、話を聞いてくれ! このステージの目的を聞いてくれ!
今日のステージの目的、それは、戦争を阻止することなんだ!」
その言葉に、フォロアーたちの眉間に皺が寄った。言われたことが理解できないと、誰もが戸惑いを浮かべる。
キョウは、一同を見渡し、手を空へ向けて映像を浮かべた。
衛星画像で見たミサイル、それと縮尺が自動で変わる地図だった。
「これを見てくれ! 今、ミサイルがどこかの街を狙ってる! コイツが発射されれば多くの人が死ぬ! それだけじゃない、次の世界大戦が始まる!」
キョウは搾り出すように声を張り上げた。胸元に片手を添え、身を乗り出して、必死に訴える。
「俺の双子の妹が教えてくれたんだ。夜が明ければ、ミサイルが発射されるって! それはきっと、世界を巻き込んだ戦争になるって! けれど彼女は、このミサイルを止める前に、どこかの小さな戦闘を止めるために消滅してしまった! 戦争で人が死ぬことを見過ごせなかったんだ。
そんな妹に、俺は託された!
そのミサイルを止めることを!
戦争を阻止することを!
それと、…この亡霊のことを!」
キョウの額には汗が流れていた。それは緊張しているからに違いなかった。そして、キョウのフォロアーは明らかに戸惑っていた。戸惑いながら、私のことを見た。
私は、震える足を踏み出した。
「私は、ハッピーと言います。幸せそうな名前ですけど、私は、戦争で死んだ子どもです…!」
そう自己紹介をすると、ファンの間には眉唾だという雰囲気が流れた。私は焦って続けた。
「この名前、実はキョウの妹、歌子さんがつけてくれたんです。変な名前だとは自分でも思います! でも、私はもう、長いこと幽霊をしていて、自分の名前も思い出せなくなってしまって…。
だけど、悲しい気持ちは忘れてません。歌子さんはそのことを理解してくれて、キョウも、そのことを理解してくれて、だから、わたしたちはこれから起こる戦争を止めたいと…」
「待って! 最後まで聞いて欲しい!」
キョウが焦りの声を上げた。
見ると、人垣の後ろの方で数人が背を向けた。その姿が影になり、パッと消える。どこかへ行ってしまったのだ。
キョウは焦りを浮かべ、残ったフォロアーを見渡して訴えた。
「誰かスマホを持って、この地図の場所へ行ってほしい! そして、そこにいる兵士に俺たちの歌を聴かせてやって欲しいんだ! そこに行けないなら俺たちの歌をネットで拡散してくれ! そうすれば近くにいる誰かがきっと、歌を兵士達に届けてくれる! そうすれば彼らは目が覚めるだろう! だから、頼む!」
キョウは頭を下げた。
そんな彼女に、彼女のフォロアーはますます戸惑った。昨日まで世界の滅びを歌っていた少女が、今日は救いたいと言っている。矛盾していたし滑稽だった。
沈黙が流れる。
拍手もない。
キョウは、顔を上げると、地図とミサイルの画像を背景に移し、愛用のギターを構えた。
漆黒に塗られたエレキギターは、普段なら歪んだ音で聴く者の胸を引き裂く。けれど今日は、慎重な指の運びで、綺麗な音色を響かせた。
澄んだ音色で奏でられる、ハッピーバースデーのメロディー…。
だが、誰も、なんの反応もしない。
呆気にとられている。
それどころか、奏でられる曲には似つかわしくない重苦しさが漂っている。
メロディーは、繰り返される。キョウが私をチラリと見、私はゴクリとツバを呑んだ。たとえ歌子のようにうまくは歌えなくても、歌わなければならない……。
そして、緊張に震える声で歌いだした。
HappyBirthday to You
HappyBirthday My Family
HappyBirthday to You
HappyBirthday Your Family
キョウはギターを抱え込み、とにかく丁寧な指の運びで旋律を奏でた。
私は全身に汗を感じながら声を搾りだした。
けれど。
キョウのフォロアーは無表情だった。関心が離れていくのが如実にわかる。全く受け入れられないと冷ややかなため息を聞かせる人もいたし、期待を裏切ったキョウを睨みつける人までいた。
キョウは、私以上に、そんな反応を敏感に感じているようだった。額から伝った汗が顎に行き着き、したたり、漆黒のギターをぬらした。簡単な旋律を弾く指も、だんだんと精彩を欠いてきた。ファンを裏切っている負い目もあっただろうし、自分の実力を思い知ったというのもあっただろう。
私だって必死だった。歌を歌うなんて、死ぬ前、たどたどしく音階をたどっていた頃以来だから、大人らしくちゃんと歌えているのか、それもわからなかった。けれど、震えながらも声は出ている……。
同じフレーズを繰り返し繰り返し歌う。ファミリー、家族と繰り返した。誰かの名前を口にするよりも、私が心のどこかで大切にしている言葉を歌いたいと思ったからだった。けれど、聞き手には響かない。
……。
急に脱力感が沸き上がってきた。
歌子のようには、うまくいかない。
やっぱり、笑顔を忘れた私じゃ、歌えない。
そんな諦めは、キョウも同じだったのだろう、わたしたちの歌は惨めなものに成り果てていった。
また、フォロアーが一人、ため息をしながら背中を向けた。
私は思わず歌うのをやめ、呼び止めていた。
「待って! ごめんなさい、歌を聴いて欲しいわけじゃないの! ただ、戦争を止めたいだけ! 赤いボタンを押す人に、思いとどまらせたいだけなの!」
その人は立ち止まり、半分ふり返り、正直に困っていた。どうすればそんなことができるんだいと目が言っていた。その地図を頼りに出向いていって、ハッピーバースディを聞かせるのかい? 銃を手にした軍隊相手に、そんなことができると思う? そう言っていた。
その人の目に、今度はキョウが声を上げた。
「言葉で伝えようとしたって、文字で伝えようとしたって、きっと取り合ってくれないだろう。そんな奴らに歌なんか聴かせてなんになる?……あんた、そう思ってるんだよな? ああ、俺だってそう思ってる。それでも歌うんだよ! 歌なら、耳に入れば心を動かすことができる! そう信じるからだよ!」
キョウの横顔には必死さがあった。
「なぜ、そう思うのか、告白するよ!
俺、あんたのこと、知ってるよ! 俺が歌い始めた頃から、ずっとファンをしてくれてただろ? 俺はあの頃から強がっていたけど、本当は不安だったんだ! 怒りを歌いたい気持ちに偽りはなかったけど、誰かに届くかなんてわからなかった! 不安だったんだよ! だから、一人でも二人でも、俺の歌を聴きに集まってきてくれる人がいたことに、俺はとっても勇気づけられたんだ! その中にあんたはいたよ! その思い出があるから、俺は、みんなを裏切ってでも、今、俺たちが生きていける世界を守りたいんだよッ!」
キョウは絶叫した。そして、その思いの丈を、そのままギターの弦に叩きつけた。
ギャンッ!
ドでもレでもない不協和音…。その音色に、なぜだろう、私の心が動いた。
不協和音が、さざめく残響となっていく。
キョウは背中を丸め、無力感に立ってられず頽れ、ギターを胸に抱え込んで嗚咽をかみ殺した。不意に襲い来た孤独から、身を守るかのように…。
「キョウ…」
彼女は、フォロアーの視線から隠れるようにして泣いていた。
私は、ようやく気づいた。
キョウは、悲しみや苦しみを歌いながら、身を寄せ合える場所を作っていたのだ。
目が覚める思いがした。
そして、キョウのそばにしゃがむと背中を守った。
「ごめんね。キョウにとって、歌を聴いてくれる存在は、命のように大切だったんだね。歌子が町の人を大切にしたみたいに、キョウにとっては、フォロアーがとても大切だったんだね」
自分の怒りや悲しみに、共感してくれる存在…。孤独を忘れられる場所…。キョウは彼女なりに、守りたいものがあったのだ。そして、それを失うリスクを負ってでも、守りたいものがあったのだ。
「でも、今、ここにいるみなさんは、キョウのことを信じてくれないんだよね」
その一言は、残酷だったと思う。キョウはクウウと喉をよじらせて嗚咽と戦った。強がるのは、彼女の不器用な一面に違いなかった。わたしはそれを見て、覚悟を決め、大人らしくあろうとする自分、憧れていた女性像なんてものをかなぐり捨てた。
「みなさんに聞きたいわ」
私は立ち上がった。そして目をつり上げて胸を反らせた。
「憤り、怒り、苦痛、不幸で、悲しくて、苦しくて、その叫びが聞きたくて、ここに集まってきたんでしょう? 悶え、呪い、身を裂いて歌うキョウを見に、やってきたのよね? 幸せな歌なんて、誰も聞きたくない。それはあなたたちが、不幸だから。たぶん、キョウや私と同じように不幸だから。そうよ、わかるわ。こんな私でも、今なら、キョウの気持ちがわかる。ようやく、わかったの」
フォロアーの視線が刺さる。
こんな、幸せそうな格好をした私が、一体なにを言っているのか。そんな目をしている。
私は臆せずに言った。
「私は戦車に轢き殺されたけど、自分が死んだと理解するには幼すぎたわ。ただただ父母のぬくもりが欲しくて泣いていたわ。そんな私のことを、あの日、一緒に亡くなった町の人たちは気にしてくれた。あなたたちがキョウのことを気にしたみたいに、集まってくれたわ。いろいろなことを教わって、そして何年も何年もかかって、死も理解したわ。そのとき、もしも孤独だったら、私はキョウと同じように叫んでいたかも知れないわ。でも、そうならなかったのは、町の人たちが見守ってくれていたから。
でもね、歌おうと思えば、今でも私はキョウのように歌えるはずなの。憎んで呪って泣いて、道連れを探す歌を……ね。だってわたし、あの日以来、一度だって幸せを感じたことがないから。もちろん心から笑ったことなんて……。
だから私は最初から気づいてた。こんな不幸な私にハッピーバースディなんて似合わない。その伴奏を、キョウにさせるのも酷だって。聞くほうだって辛いでしょう?
そう。
不幸な私に歌える歌は、不幸な歌しかない。
でもね、そんなこと、自慢したいとは思わない。なぜって、不幸な歌しか歌えない人を、もう、これ以上、増やしたくないから」
フォロアーの視線が私を取り囲む。
私は、まっすぐに言った。
「今から歌います。私がずっと心から歌いたかった歌を、嘘偽りなく正直に。町の人を裏切ることになるって分かってる。でも、今、歌わなかったら、私はきっと後悔するわ。
それでもし、少しでも共感できるところがあったら、協力して欲しい。悲しみの歌が、これ以上広がってしまわないように」
私はフォロアーに向けて深々と頭を下げた。
頭の上で大きな白いリボンが揺れるのがわかった。
すりむけだらけの素足も見えた。
そう。
私はもう、オルゴール人形じゃなかった。
顔を上げた私は、キョウの方へ向き直り、手を差しのべた。
「お願いがあるの」
「………」
キョウは涙に濡れた目で、唖然と私を見上げていた。
「もう、目をそらす必要はないわ。私のことを見て。私とあなたの苦しみは、心のどこかで通じ合うはず。私の怒りを感じ取って」
キョウは、なにを言われているのかわからない目をした。
私は付け加えた。
「私の心を見て。私はもう、なにも隠さないわ。すべて捧げる。そしてあなたと同じになる。あなたを独りぼっちになんてしない。だから、見て。そうすれば私たち、きっと気持ちを一つにできる。一緒に、歌いましょう」
その言葉が、キョウの瞳に光を宿した。
私は、念押しした。
「言いたいこと、わかる?」
「ああ……、わかるよ」
キョウは、力の戻ってきた声で頷いた。
私は手を差し出し、キョウは手を取った。
立ち上がったキョウは、私を見つめた。
私は心を開いてキョウの眼差しを受け取った。
フォロアーたちは、固唾を呑んだ。
なにかが始まる気配が伝わったのに違いなかった。
私とキョウは、手をつなぎ合わせ、肩を並べてフォロアーと向き合った。
注目を浴びる中、私は、キョウにだけ聞こえるように告白した。仮想でも幻想でも夢でも何でもいい。そう思って告白した。
「わたし、彼のことばかり考えているの」
「わかってる」
「もしもの事があったら、私は世界を呪うわ」
「ああ…わかるよ」
キョウは目を伏せる。横顔を盗み見ると、その頬は誰かを想って、うっすらと染まっていた。
私は、取り巻く視線の中で、つなぎ合わせていた手をそっと解放した。
「はじめましょう」
「ああ」
わたしが背負った苦しみ。
キョウが背負った苦しみ。
それを歌うこと。
私は両腕を下ろして拳を握った。
キョウは、ギターを抱え、指を節くれさせて構えた。
私は息を深く吸って、口を開いた。すると、自然と声が出た。
キョウも一緒に口を開いた。自然と声が出ていた。
ただし。
ふたりの声に言葉はない。そして、美しくない。
悲しみ。
怒り。
嘆き。
そして、叫び。
私は拳にした手を精一杯に突っ張った。キョウは怒号を上げるかの如くにギターを掻き鳴らした。そしてふたりして叫んでいた。
滅茶苦茶な不協和音……。それでも私たちの気持ちは、絡み合って、綯い交ぜになって、醜く響き渡った。ただひたすら、それが私とキョウの素直な歌だった。
そして。
ひとり、またひとりと、ステージにカメラを向ける人が現れた。それから程なくして、どこかにつながった回線をたどって、不協和音が押し寄せてきた。
ステージに悲憤と憎悪の音が満ちる。
嵐のように渦巻く。
その中で、キョウの掻き鳴らすギターは、気づけばたくさんの不協和音に飲み込まれていた。私の歌声も、気づけば大きくうねる感情に飲み込まれていた。けれど、それでよかった。
一気に人が集まり、輪が大きくなり、ステージの輪郭が曖昧になった。
私たちのまわりに、知らない人たちが集まってくる。キョウのフォロアーも、それ以外の人も、判別できなくなった。そして、誰もが胸を裂いて、ただひたすらに叫んでいた。
誰ひとり、幸せの歌など歌っていない。おびえ、迫られ、あるいは心を切り刻まれながら、悲しみを歌っている。
そう。
私たちには、不協和音しか歌えない。
町外れの広場、陸上トラックの真ん中で、迷彩色のミサイルは天を見据え、そのときを待っていた。
それを、指揮車の小窓から覗き見る目があった。
辺りを見ると、黒い森の中には、護衛の装甲車が数台と、銃を携えて周囲を警戒している兵士の姿があった。
司令官は、木々の向こうに見える発射台に異常がないことを確認すると、窓から顔を離し、振り返り、コンソールと向き合う部下たちを見渡した。
指揮車の中は、重く沈黙していた。コンソールと向き合った彼らは、額に汗を浮かべて震えていた。今から、自分が何をするのか、予感していたのだ。
床には、後ろ手に縛られた将校が転がされていた。
司令官は将校にツバを吐き、それからコンソールの兵士に冷たく言った。
「これから、おまえたちは死せずとも英雄になる。私に感謝しなければなるまい」
コンソールにはダイヤルのない電話機が置かれている。実は司令官は、本来なら司令部にいて、そこからここへ電話を鳴らして指令を送ってくるはずだった。しかし、軍の監視下にあったサーバが、指揮車で端末の電源が入れられたことをアラートしたため、危機感から自ら乗り込んできたのだった。
彼の目の前には、あの赤いボタンがあった。
「間もなく、時間だ」
司令官は腕時計を見た。そして、口元に薄く笑みを浮かべ、小窓から外を見た。
たった一発のミサイル。けれどそれは、彼の目に、猟犬のように従順で決して刃向かうことがなく、それでいて誰をも震え上がらせる、伝説の魔獣の様に映った。
その時。
ミサイルを護衛していた兵士は、鳥の声さえ潜まっていた森の向こうから、なにか雑音のようなものが、さざ波のように忍び寄ってくるのに気づいた。
近くに海などない。
その場にいた誰もが耳をそばだてた。
ジープの運転席にいた兵士も、窓を開けて、音の聞こえてくる方向へ顔を向けた。
注目が集まった直後。
目を向けた先、森の奥に、人影が現れた。
一斉に銃口が向けられたが、引金はためらわれた。
その人が、自国の民間人だったからだ。
彼は、スマートフォンを手に歩いてきていた。
口元は切り結ばれていた。
スマートフォンから、音が出ていた。
耳障りな不協和音、何の意味もなさない音の連続。
さらにその背後から、何人もの人影が現れた。彼らは画面を見ながら、明らかに軍隊の方へと近づいてきていた。
誰もがスマートフォンを手にして、不協和音を流していた。
兵士は誰もが戸惑った。
やがて、ひとりひとりの眼差しが見えてきて、兵士達は、人々がなにを思っているかを察した。
途方もない怒りが、誰の目にもあった。
兵士らには、その怒りに心当たりがあった。
さらに。
遠くから、車のクラクションが聞こえてきた。それも一台、二台ではない。百台、千台…。近くの町で、町中の車がクラクションを頻りに鳴らしていた。そこに加えて教会の鐘も鳴り出し、おぞましい嵐の到来を告げていた。
その不協和音には、すべてに深い怒りがあった。
兵士達は、戦慄して背後を振り返った。そこには、今はまだ、ものを言わずに、一発のミサイルが佇んでいる。
森の向こうから聞こえてきた不協和音、そしてクラクションは、指揮車の中へも流れ込んでいた。司令官は時計の秒針を見ていたが、その音に気づくと目を上げ、小窓から外を見た。
「……なんだ?」
森を越えて、大勢の人が押し寄せていた。そして誰の手にもスマートフォンが握られていた。その数は百人、千人、いや、森の奥を見ればまだまだ……。さらに、空から覆い被さってくるようなクラクション、教会の鐘…。ただ事じゃないことはすぐにわかった。
司令官は目をつり上げ、床に転がったスマートフォンを睨み下ろした。
「クソが!」
そして腰の拳銃を抜くと憎しみの目で引き金を引いた。
ガンッ!
ガンッ、ガンッ!
スマートフォンは粉砕されて飛び散った。
そして銃口は、転がされた将校に向けられた。
彼の髪には、砕けた破片が飛び散っていた。
その場にいた兵士は恐怖した。
だが、司令官は引き金を引かなかった。それよりも、やるべきことを優先した。時間が迫っていたのだ。
「発射準備!」
鋭く言うと、コンソールの前に座るふたりの手が鍵に伸びた。けれど、そこで動きが止まった。鍵は回されてはじめて意味をなす。不協和音が、彼らの手を縛っていた。
「臆したか!」
司令官は赤いボタンの前を離れ、ふたりの指の上から手をかぶせて鍵を右へ回させた。
グッ…
バチン!
けれど鍵は、すぐに元の位置に戻ってしまった。右へ力をかけ続けておかないとバネの力で戻ってしまう仕組みだったのだ。
「ふざけるな!」
司令官はふたりの後頭部を殴り、銃口を押しつけ、無理矢理に鍵を回させた。ふたりは恐怖に震えながら、戻ろうとする鍵を無我夢中で押さえつけた。
赤いボタンにランプがともった。
司令官は急いで赤いボタンの前に戻ると、秒針を確認して、それからチラリと外を見た。
スマートフォンを手にした一群は、その数が兵士の数を圧倒していた。もし、発砲すれば暴動になる数だ。その前に掃討しようとしても、おそらく弾丸が足りない。それに加えて、空から降り注ぐクラクションの鳴動、鐘の叫び…。
兵士と人の群れは、もう交差する寸前だ。
秒針を見ると、あと五秒だった。
四、三、二……
司令官はボタンに手を乗せた。
一…
カタ…ン。
秒針がゼロを指す寸前、なにか小さなものが床を鳴らした。咄嗟に目を振ると、倒れた将校がわずかに身じろぎし、その髪から、端末の破片が床へと落ちたのが見えた。そんな些細な音に気を取られ、秒針はゼロを越え、イチへ向けて、ほんの少し回ってしまった。それでも司令官は赤いボタンを押し込んだ!
ガガガッ!
ガガガガッ!
同時に機関銃の音が響いた。
本来なら、ロケットの点火剤が破裂して、エンジンの爆音が耳をつんざいているところだ。
慌てて外を見ると、ひとりの兵士が、機関銃を下ろして立ち尽くしていた。下に向けた銃口からは白煙が上がっている。民間人の先頭は、彼のすぐ前まで迫っていた。
発砲したのか?
しかし、誰も倒れてはいなかった。
だが確かに、機関銃は白煙を立ち上らせている。
よく見ると、その兵士の足元には、指揮車と発射台を結ぶケーブルが這っていた。
「……!」
ケーブルは弾丸に撃ち抜かれ、ちぎれてはじけ飛んでいた。
兵士の機関銃は、地面に向けて引き金を引かれたのだ。彼は人を撃ったのじゃなく、ケーブルを撃ったのだった。
赤いボタンのトリガーは、発射台に届く寸前で絶たれていた。
ミサイルは、従順な下僕の姿勢で佇んだままだった。
それを見た瞬間、司令官は目を剥き、小窓を突き開けて拳銃を兵士に向けた。
彼は怒りに目を血走らせて指を引き金にかけた。
それを聞きつけたように、兵士は司令官を振り向いた。そして、おもむろに制帽を脱いで顔を明らかにした。
その途端、司令官の指は固まってしまった。
なぜなら、口ひげを蓄えた兵士の、その瞳が、この世のどんな男の目よりも、とてつもなく悲しげだったからだ。
私とキョウは、形のあるもの、ないもの、様々な不協和音に取り巻かれて、歌い続けていた。人の命が奪われて、悲しむ人たちの怒りが私たちを取り巻いていた。怒りも、悲しみも、今まで一度だって消えたことはないと、誰もが叫んでいた。私とキョウも、気づけば無心になって叫んでいた。歌とは言えなかったかも知れない。けれど、気持ちが一つになる。それは、やはり歌だった。
気づくと、遠くから、空がイチとゼロに分解されながら落ちてきていた。横一線に広がって迫ってくる。
時間が来たのだと、わかった。
私は、歌うのをやめ、キョウに異変を知らせた。
キョウは汗だくになってギターを叩き続け、涙をすっかり枯らしていた。
押し寄せた不協和音は、私たちが歌いやめても続いていた。そしてもう、私たちには関係なく、止めどなくつづくように思えた。
「キョウ……」私は落ちてくる空を見やりながら、ぼんやりと言った。「私たちの苦しみは、これからも続くのかしら」
「終わりなんて、ないぜ」
「歌子さんも、そう思ってたかしら」
「あいつなら、とっくにわかっていたと思う」
「そう」
空が落ちてくる向こうには、まるで朝が来るかのように白い世界が広がっている。
恐怖は、感じていなかった。
「だから、逃げ出さなかったのね」
「歌子のことか?」
「ええ」
キョウも、恐怖は感じていないようだった。
そして、言った。
「苦しみに、終わりはない。それなのに……」
「それなのに?」
「子どもたちが死んじまったら、今度こそ、越えられない。俺と同じになる。そう思ったら、あいつ、怖くなったんだろうな。笑えなくなるって思って、さ。だから、逃げ出さないで戦ったんだ」
思い返せば歌子は、キョウの本心を知った後、フラッグを引きずり歩き、ほんの短い間、笑顔を忘れていた。思えばあれが、歌子の本当の姿だったのかもしれない。
キョウは言った。
「最後、あいつ、なんとなく嬉しそうだっただろ。なんでだか、わかるか?」
「エーアイで、この結末を知っていたから?」
「違うぜ」
「違うの?」
「あいつ、信じてたんだ」
「信じてた?」
「自分が人間らしくありたいと思えば、そうあれる……はずだって」
言われてみれば、歌子は笑ったり泣いたりむくれてみたりと忙しかった。ある意味で、今の私よりも、よっぽど人間らしかった。
私は、ハッとして訊ねた。
「キョウは? あなたはどうなの? 今さら、ただのエーアイだなんて嘘は言わせないわよ?」
キョウは黙り込んだ。横顔が自信なさげだ。
返事を待つ間に、空気がゆっくりと動き出した。
振り向くと、もう、目の前まで空は落ちてきている。
私は、返事を急かした。
「歌子さんは人間らしく笑っていたわ。キョウは? どうする?」
すると彼女は、決心したように口を結ぶと、手の甲で額の汗を拭い、乱れて張り付いた前髪をつまんで整えた。それから、涙の跡を気にして猫のように頬を拭った。私は、その様子を静かに見守った。
最後にキョウは、わたしの目を見ると言った。
「ごめんな」
「え?」
「歌子は最後まで、あんたのことを考えてたけど、俺には無理だ」
私は目を細めて頷いた。
「うん、いいよ」
わたしには、キョウが何を決意したのか、わかっていた。
そのとき、風が吹き寄せてきた。
不協和音が、背後へと押し流されていく。
わたしたちは、光がやってくる方に目を向けた。
キョウは、前髪を風に揺らされながら、誰かと言葉を交わすかのように、とても優しい声で、最期の言葉をつぶやいた。
「……おやすみ。また明日……」
その言葉は彼女にとって、特別なものに違いない。
私はキョウの横顔を盗み見た。
彼女は、すがすがしく、わだかまりの消えた眼差しで、迫ってくる光を見ていた。そして、私がまぶしさに目を細めるうちに、白い世界の一部になって消えていった。
そして……
白い朝陽が、カーテンの隙間から差し込んでいた。
ガシャッ…!
誰もいない工房に、陶器の砕け散る音が響いた。
完全に動かなくなったカラーガードの足元に、足首のもげたオルゴール人形が落ちていた。
物音はそれだけだった。
動くものは、もうない。
オルゴール人形の体は砕けていた。けれど顔は、人々を幸福に導く笑みをたたえ、瞳は魂を入れられたその時のまま、まっすぐに前を見ていた。
その人形を、見下ろす少女がいた。顔には傷を、胸には大きな穴を開けられた、幼い少女だった。エプロンのついたワンピースは血に染まって、端布でつけられたフリルもすりきれていた。そして、頭につけた大きな白いリボンも、半分は血に染まっていた。
それがわたしの、本当の姿だった。
そして、大切な人形は、壊れてしまった。
私は、よりどころを失ってしまった。
けれど、やりきった。
……。
耳には、街の息吹が届いていた。
学校へ急ぐ足音、子ども達の声、交わされる笑顔の挨拶…。
ショーウインドウから外を見ると、街の人々が、いつもと変わらない朝を迎えていた。
なのに、いや、だから、私はまた、見つけてしまうのだった。通りの真ん中で、倒れたきり動かなくなった、あの日のわたしのことを。
わたしは、血の泉に沈み、白いリボンを風に揺らされ、やがて来る鉄の車輪を待っていた。
………。
本当は、もっと別のことを、待っていたい…のに。
今も、待っている…のに。
苦しみは消えない。ずっと続く。
私は口を切り結んだ。
すると。
………。
前触れもなく、ふっと視界を隠された。
誰かが後ろから、温かな手で、目隠しをした。
そして。
優しい声が、もう、見ないよ……と、ささやいた。
ゆっくりと声を振り向く。
すると手がのけられ、カラーガードの少女と目が合った。彼女は、にこやかな、あの笑顔で、わたしの横顔をのぞき込んでいた。
その向こうには、黒いギターを手にした少女もいて、どこかしら満足したように笑んでいた。そんな彼女の隣には、優しげな面差しの彼がいた。
どういうことかと戸惑っていると、ギターを手にした少女が、やりきったんだぜと言った。
カラーガードの少女に目を戻すと、彼女は、探してきたよと微笑んだ。
そしてふたりは左右に分かれ、世界を開くようにして見せてくれた。そこには、私の背を押した大勢の魂が集まっていた。
おぼろげな白い影が、人の姿に戻っていく。
料理の話をしてくれたおばさん。
オルゴールのゼンマイを巻いてくれたおじいさん。
本のことを話してくれたお姉さん。
私にたくさんのことを教えて、白い影になっていった街の人たちが、かつての姿に戻って工房の奥にやってきていた。
その中に、よく知った人の姿があった。
その人は私のお手本…。端布でフリルをつけてくれた人、リボンを拾って泣いたひと。今は笑顔で瞳に涙を溜め、わたしのことを見つめていた。
その人の隣には、約束をした人もいた。大きくて優しい人、口ひげをさわらせてくれたひと、今度、帰る日まで…と笑顔で約束をくれたひと。けれど今、彼は、今まで会ったどんな人よりも暗い目をして立っていた。
どうして彼だけ、そんな目をしているのか。
どうして笑っていないのか。
呆然としていると、彼は声を絞り出した。
報いを受けるべきは、この私だったのに…と。
わたしはハッとなって首を横に振った。
死んじゃって、ごめんなさい……。
そして。
わたしは、高く両手を差しのべた。
抱きしめてほしくて差しのべていた。
エピローグ
誰ひとり、いなくなった、朝の工房で…。
四代目の店主は息をのんだ。
アンドロイド人形の足元に、オルゴール人形が落ちて、砕けてしまっていた。そっと拾い上げたが、陶器製の体は彼の手の中で、胸から下が粉々になってしまった。
夜の間に何があったのか。
どうしてこんなことになったのか。
……もう手の施しようがない。
諦めのため息を重ねながら、白いリボンの汚れを指で拭った。
そのとき。
「ああっ!」
突然、ショーウインドウの向こうで声が上がった。驚いて振り向くと、出勤途中の若い女性が足を止め、ガラスに手と額を突いてこちらを覗いていた。
四代目は勢いに押されつつ、片手でショーウインドウを開けた。女性は、体を突っ込んでくると手の中の破片をのぞき込んだ。
「壊しちゃったんですか!」
「あ…いや……」
「この子のこと、ずっと大好きだったのに……!」
残念そうに言う。四代目は思わず聞き返した。
「ずっと…ですか?」
「ですよ! 大学は外へ行ってましたけど、わたし、この街の生まれなんで!」
そう言って目を上げた女性は、思わず四代目と会話をしていることに気づいて赤くなった。顔も、思いがけず近い。
彼女はショーウインドウに突っ込んでいた体を大慌てで引っ込め、視線をよそに振り、胸を上下させて息を整え、少し背伸びをすると、淑やかな大人の女性を装った。
「そのお人形、きっといつか…って思っている人がいるんじゃないでしょうか」
「え、それはどういう…」
「だって、ずっと売約済みでしたから…」
そう言って指さしたのは、靴だけが残されたオルゴール台座と、その下に挟み込まれたプライスタグだった。黄ばんだタグには、消えかけてはいたが、確かに売約済みと書いてある。
「きっと、残念がると思います」
そっぽを向いたまま、きっぱりという。
四代目は、相手の勢いに気押されながら伝えた。
「売約と言っても、これはもう百年も前から売約済みで…、たぶん、もう誰も買いには来ません」
その言葉に、彼女は目を丸くして振り向いた。
「そうなんですか? でも、わたしは残念です。もう、この子に挨拶できないって思うと!」
面と向かって主張され、圧倒されながら、四代目は気づいた。
相手の頭の後ろに、白いリボンが揺れていた。それは、形も、大きさのバランスも、そして赤い糸で縁取りされているところも、見比べれば見比べるほどオルゴール人形のそれによく似ていた。
「そのリボン…」
「!」
彼女はリボンのことを忘れていた。勇気を出して結んできたのにもかかわらず……。ハッとして赤くなり、慌てふためいて頭の上のものを隠そうとし、けれど、今さら遅いと気づいて悲しい目になった。
「子どもっぽい…ですか?」
「あ……いや、そういうわけでは……」
四代目は言葉に詰まってしまった。そのせいでリボンの彼女は絶望的な気分になった。全身が脱力して目を伏せる。その様子は四代目の胸をざわめかせたが、彼はまだ、彼女の顔を上げさせる方法を知らなかった。
時が止まったように、沈黙が続く。
彼女の、少女のままの心に、諦めが広がっていく。
やがて時計の針を動かしたのは、通りをやってくるバスのエンジン音だった。
「あ… あれに乗らないと!」
そう言ってる間にもバスが後ろを通り過ぎる。
彼女は逃げ出す口実を見つけ、もう四代目の顔は見られずにサッと頭を下げると、バスを追って駆け出した。その頭の上で、白いリボンが蝶のようにはためく。四代目は思わずショーウインドウから顔を出し、その後ろ姿を目で追った。
足音が街の喧騒にまぎれていく。
そのとき、四代目は不思議なことを感じていた。
消えていく足音が、記憶の中で、何かと重っていく…。同時にたぐり寄せられる気配、人影…。朝陽の差しこむ工房で感じた誰かの視線…。
あれは、もしかして、あの子……?
答えを求めてグッと窓辺から身を乗り出した。 けれど、答え合わせをするにはどうすればいいのか…
その方法を見つけられないうちに、後ろ姿は駆け足で遠ざかり、彼は為す術なく、ため息をこぼした。
その時。
彼の手のひらから、オルゴール人形のかけらが一つ、こっそりと逃げ出して台座の上に落ちた。すると……。
ピン…ポロロン!
かすかな衝撃で、残っていたゼンマイが緩み、音がこぼれ出た。それは、誰もが知っているメロディー、それも、一番大切な一節だった。
それを引き継いで、今度は工房のどこかで、誰かが静かに歌った。
HappyBirthday dear...?
HappyBirthday dear ??
それは謎かけをするように繰り返され、四代目の心に訴えた。彼は歌声を不思議に思うより先に謎かけと向き合った。
そうだ、知りたいのは名前。せめて、名前。
けれど言葉が喉に詰まった。大声で女性を呼び止めるなんて…と躊躇してしまった。その間にも、白いリボンの彼女は、スカートをはためかせながら走って、バスの昇降口に並んだ。すぐに順番が来て、足を踏み出す寸前、彼女はチラリとショーウインドウの彼を振り向いた。残念そうな、さみしそうな、そんな目だった。
その時! 突然! 彼女の足元をかすめて黒猫が飛び出してきた! 右に左に飛ぶようなステップで人々の足元を引っかき回す。そして「わあ」だの「きゃあ」だのと声を上げさせ、にわかに辺りをざわめかせると、何を思ったか、車道へ飛び出した。
やってきた車がキキッ!と急停止!
黒猫はヒョイ!とボンネットに跳び乗った。そして、目を尖らせた運転手に冷ややかな横目を向け、見せつけるように腰を落とすと、尻尾をくねらせ、極めて挑発的に、ボンネットをターン!と叩いた。
怒った彼がビビイーッ!とクラクションを鳴らす!
その大きな音が通りの人々を飛び上がらせ、同時に四代目の背をビシッ!と叩いた。その拍子に喉を詰まらせていた何かが、シャンパンの栓のようにポンッ!と吹き飛んだ!
「あのッ! お名前は!」
いよいよ飛び出した声に、リボンの彼女は、バスのステップに片足かけたところでパッと笑顔を咲かせた。もちろん!と意気込んで口を大きく開く。
ところが。
…………。
彼が望む答えを返せなかった。彼女にとって、今朝のことすべてが突然のことすぎて、今も、この瞬間が嬉しすぎて、あろうことか、自分の名前が出てこなくなってしまった。
「あ……あ……」
焦れば焦るほどわからなくなる。
せっかくのリボンも、うつむいていく。
そのときだった。
不意に街の風が吹き寄せた。
スカートがフワッとふくらむ。
裾が上がって膝がのぞく。
彼女はアッと慌てて押さえつけ、なんとかいなし、それから彼の視線を上目で気にして……
………。
………。
てれくさくなってニコリ。
そしてパリッ!とした声で…、
「あした! また…、あしたッ!」
彼女はリボンを羽ばたかせて会釈をすると、晴れやかな横顔をしてステップを駆け上がった。
(終)
****
お読みいただきありがとうございました。
こちら、この秋に同人誌にして頒布します。
二度目もちゃんと読めるように書きました。
是非、本としてお手元においていただけると嬉しいです。
それから、少しでも多くの人に手に取ってもらいたくて、
自家製本のため、表紙を自由に差し替えできる利点を活かし、
何人かの絵師さんに献本と引き換えに描いてもらおうかと考えています。
(表紙を描いても良いという方がいらっしゃいましたら連絡をください。)
戦争は、嫌ですね。本当に胸が痛みます。ただ、それだけしかできません。
このお話に共感できるところがありましたら、ぜひお知り合いにもお勧めください。
第六文芸