第3話

文字数 21,532文字

「インフルエンサーがダメなら、自ら動くしかないわ」
 わたしは悄気返った歌子を引き連れて狭間の世界を歩いていた。フラッグにまたがれば早いのだけれど、歌子はキョウのことで、そんな気分じゃないようだった。私は気を遣いながらもまんじりとした気持ちで……と、そのとき。
「…流れ星?」
 視界の上の方で何かがキラリとした。
 視線を上げると、ゆっくりと光の粒子が落ちてくるのが見えた。
 歌子が、ぼんやりと言った。
「ハッピーさん、あれ…、ゼロには落ちませんよ。ためらいが見えます」
 つまり、イチでもないゼロでもないこの世界にとどまるということか。わたしは予感し、パッと歌子の手を引いて走った。
 ゆっくりと落ちてきた粒子は、近づくと、やはり小さな星形だった。わたしはそれを手のひらで受け止め、まじまじと見た。
「これも手紙?」
「そうじゃないですかね…。何でかわからないですけど、ゼロに落ちないのは、ほとんどがそうですよ。写真みたいに、真実を写したようなものは、意外と簡単にゼロに落ちていくんですけどね」
 歌子は不思議そうに言う。わたしは批判的に言った。
「わたしには、どうしてか、わかるわ」
「そうですか?」
「ええ。人の心は、写真に写るような、外見でわかるようなことばかりじゃないのよ」
「どういうことです?」
「たとえば私みたいに、外見は綺麗なドレスを着ていて幸せそうでも、心は不幸な気持ちで一杯ということもあるの。だから、本当に私、ハッピーなんて名前、似合わないわ」
 私は非難を交えて歌子を見た。
 歌子はきょとんとしてから、にっこりと言った。
「不幸なんですか?」
「少なくとも、幸せではないわ」
 私は冷たく返した。ところが、それがきっかけと言っていいのか、歌子はにわかに奮起して笑顔になった。
「でしたら、今からハッピーになればいいんですよ!」
「………」
「ですよ!」
 さっきまでの沈んでいた顔はどこへ行ったのか…。
「ささ、星を見てみましょ! もしかしたらなにか、楽しいことが詰まっているかも…ですよ!」
 歌子が私の手から星をつまみ、自分の手のひらに載せた。
 すると秘められたものが紐解かれ、私と歌子は星をのぞき込んだ。


『僕は今、塹壕に籠もって、敵と向かい合っているよ。少し失敗してしまってね、こっちと敵と、お互いに声が届くくらいの至近距離なんだ。GPSに頼りすぎて、偵察を怠ってしまった結果なんだけどね、異常事態だよ。
 気づいたのは、昨日の夕方、降り続いていた雨がやんで、偵察のためにドローンを飛ばしたときだったよ。僕が塹壕から上げた途端、一瞬で撃ち落とされたのさ。ライフルの音じゃなかったから、どうやら相手には拳銃の名手がいるらしいよ。逆を言うと、ピストルでも狙えるくらい、僕たちは近くにいるんだ。
 それでお互いの距離がわかって、僕たちは日暮れからずっと息を潜めてる。拳銃の弾道からすると手榴弾を投げればお互いに届きそうな距離だよ。どちらかが先手を打てば、一歩先を行ける。だけど、手榴弾が爆発するまでの間に、相手も投げてくるだろうけどね。お互い、目と鼻の先なんだ。どうなると思う? わかるよね? バカな話だろう?
 でも僕は、今夜、キミのためにも戦線を譲ることは出来ないし、ここにいる全員がそういう気持ちだと思う。朝陽が昇って、どちらかが銃を抜くまでは、進むことも引き下がることも出来ないんだ。
 それがなにを意味すると思う?
 僕はたぶん、もう二度と君には会えないってことなんだ。
 だから……』


 メールは半端なところで途絶えていた。
 わたしは黙って、最後のひとことを見つめていた。
 横でのぞき込んでいた歌子が、神妙な顔で言った。
「エーアイによると、これは、遺言のようですね」
 その言葉を聞くなり、わたしはキッと歌子を睨んだ。歌子はアッと言う顔をして口を押さえた。私は、歌子の手から星を奪い取ると、彼女の喉元をドン!と突き飛ばしていた。
「この人に詫びなさい! これが本当に遺言に見えるなら、大地に額づいて詫びなさい!」
 歌子はよろけて尻餅をつき、驚いた顔でわたしのことを見上げたが、わたしは容赦せずに睨み下ろした。
「この手紙を受け取る人が、どんな気持ちで彼のことを待っているか、そんな相手に遺言なんて送ることが出来ないから、この手紙は今、ここにあるんでしょう? 捨てずに送っていたら、ここにはないものでしょう? これは捨てたもの! 遺言じゃない! そんなこともわからないで何がエーアイよ!」
 わたしは牙をむいて怒鳴りつけた。
 歌子はあっけにとられてわたしのことを見ているばかりだった。
 わたしはもどかしさを感じてわめいた。
「帰ってくる人を待つ気持ちが、どれだけ楽しみなことか、あなたにはわからない? もしもその人が帰ってこなかったら、待っている人がどれだけ悲しい思いをすると思う? そんなことも想像できないわけ?」
 わたしは星を歌子の鼻先に突きつけた。そして、厳しく命じた。
「まだ、朝までには時間があるはずよ。さあ! わたしを、この人のところに連れて行きなさい!」
「え……、それはどういうことです?」
「聞こえなかった? 先にこの人を助けるの!」
「でも、そんなことしたら……」
「朝が来るまでに片付ければいいの! 赤いボタンのことはそれからでも間に合うでしょう?」
 歌子はほんの一瞬考えて、切迫した声を上げた。
「だめです、それは!」
「今、あなた、エーアイで考えたわね? この人でなし!」
「ひ、人でなし?」
「だってそうでしょう! たすけられる命を、見て見ぬふりしたらどうなるか! エーアイではどういう結果が出たの? 損? 無駄? 言ってご覧なさい!」
 子どもの頃、父は戦場へ行った。
 その意味は、そのときはわからなかった。
 でも、今ならわかる。待つ身の辛さ、残された者の悲しみ……。多くの霊魂が教えてくれた。だから、今ならわかる…!
「さあ、連れて行きなさい! 探すのなんて簡単なのでしょう? それともさっき、私に服従すると言ったのは嘘だったの? さあ!」
 歌子はおびえた顔をしていた。
 けれど私は、退くわけにはいかなかった。

 結局、歌子は、自信なさげに頷いてわたしの要求を飲んだ。
 わたしには、なぜ歌子が、自信なさげなのかがわからなかった。
 それよりも、彼が戦場で倒れた後のことが心配でならなかった。わたしはもう、子どもじゃないという自負もあった。恋を知ったからかもしれなかった。
「この手紙の彼が無事に恋人の許に戻れば、ふたりが笑顔になることくらい、わかるでしょう? 誰も悲しまないのよ? 人を笑顔にするのがあなたの使命なら、しっかりそれを果たしなさい!」
 歌子はまた元気をなくしていた。だから、叱咤激励のつもりで言った。さっき、つい手が出てしまったことへの反省もあった。
 歌子は、それまで引きずっていたフラッグを、片膝を突いてそっと地面に置いた。そして立ち上がり、目を閉じると星を額へと近づけた。
「差出人を探しに行きます。手を、はなさないでくださいね」
「離れたくても離れられないのでしょう?」
 わたしが不満を口にしたときだった。
 額に近づけた星の輪郭が崩れ、らせん状に広がって歌子の姿を取り巻いた! 輝く星屑の鎖が、つないだ歌子の手からわたしの体にも移り、胸元へと上がってきた。
 あたたかさはない光だったが、幻想的で、わたしはほんの一瞬、夢見がちになった。……と!
 キィ…シュッ!
 突然、聴いたこともない高い音が耳に触れたかと思うと、わたしの腕は歌子にグイッと引かれ、二人一丸になって一気に上昇をはじめた。
 恐ろしい速度だ。
 天の星たちがどんどん近づいてくる。
 実はその星の一つ一つが、無数の小さな星の集まりだとわかる。
 星たちの間には目にもとまらない速度で飛ぶ星が無数にあり、消えることのない流星のように尾を引きながら近くの星へと吸い込まれていた。それが絶え間なく、無限に繰り広げられている。
 歌子の顔を見ると、彼女は口を半分開けて意識もない様子で、ただ手紙の星だけは額から離さず、なにかに導かれるがままに上昇を続けていた。自慢のサーチ能力に全神経を集中させているのだろう。
 途中で、気づいた。
 わたしと歌子を取り巻いている手紙の星屑は、上昇するにつれて少しずつ剥ぎ取られていた。剥ぎ取られた破片はほうき星の尾のように引き延ばされ、最後には輝きを失って消えていく。それは、わたしと歌子のことを護るために、身を粉にして散っていっているようにも見えた。
 やがて、歌子とわたしが向かう先に、他とはなにも変わらずに輝く星が見えてきた。白い輝きがまぶしい……。
 ところが、歌子は上昇速度を落とさない。星はぐんぐんと近くなり、視界を覆うほど大きくなり、あっという間に距離が詰まって戸惑いを口にする間もなく…!
 バシィッ!
 ぶつかる!と目をつむった瞬間、体が何かに衝突した。同時に頭上から鋭い音が降り注いだ。慌てて見上げると、歌子の頭上すぐそこで、手紙の星屑が尖塔の形に変わり、星の表面に突き刺さって激しく火花を散らしていた。なのに歌子は、相変わらず意識を取り戻した様子がない。
「歌子さん!」
 わたしは迫られて呼んだ!
 すると歌子は、薄く目を開き、その瞳をわたしの方へ向けると、小さく唇を動かして言った。
「ファイアー…ウォール…です…。鉄壁…ですけど…どこかがダメなわたし…を、駆逐する…出来ないはず…」
「駆逐? あなた、何をしようとしているの?」
「わたし…ドジなんで…いっぱいウイルス感染してます…ので、その子たちに…穴を開けてもらってます。ちょっと…待って…くださいね」
 歌子がいう間に、火花が少しずつ激しくなり、回転するリングへと形を変えていった。やがて、白い壁に小さな穴が開き、それを、高速で回転する星屑が無理矢理に広げていく。
「もう……少し、もう……少し……」
 歌子がうなされるように言う。
 私は歌子の手を知らず知らずに握りしめた。
 回転するリングがだんだんと穴を広げていく。それに連れて火花が激しくなる。穴が充分に広くなると、歌子の頭が穴に入り、肩が抜けた。そして、手を引かれる私の頭も穴にさしかかった。高速で回転する火花は金切り声を伴っていて、私は恐ろしくなって顔を背けた。
 その直後!
 ズバン!
 炸裂音と共に、侵入を拒んでいた力がはじけ飛び、わたしと歌子の体は星の内側へと転がり込んでいた。

 そこは狭間の世界とは打って変わって激しい世界だった。縦横無尽にめまぐるしく走る光の筋と、それに沿って走るまばゆい光、唐突に集まっては散る輝き、それに加えて、目にもとまらない勢いで私を掠めていく光の矢…。白い輝きに満ちていながら、一時だって気を許すことの出来ない、緊張感に満ちた世界だった。
 頭上を見れば幾何学模様がガラスの板を積み重ねたように見透かせ、足元を見れば同じように幾何学模様が深くまでつづいていて、薄く平たく作られた世界がいくつも積み重なっているように見えた。想像でしかないけれど、壁も天井も何もかもガラスで作られたアパートメントがあれば、それはきっとこんな感じだろう。
 透明な床や天井、それを貫いて光の筋が走る。そこに、わたしと歌子は放り出されていた。
 歌子は息を上げてしまって苦しそうだったが、それを押して立ち上がると胸を張った。そして、今までとは少し違う、厳しい面差しになってあたりを見た。
 わたしは体を起こし、気づいた。
 わたしたちのことを、白く不気味な人形達が遠巻きにしていた。
 彼ら彼女らの目はイチとゼロを繰り返し光らせながら、歌子のことをジロジロと遠慮もなく見た。そして、ジリジリとにじり寄って、包囲網を狭めていた。
 その、無機質で心も見えない人形たちに、わたしはおびえ上がってしまった。
「ここがイチの世界?」
「正確にはイチとゼロで作られた世界です」
「あの人形は、あなたとは全く違うようだけど?」
「あれはガーディアンですから。サーバを乱す者を察知して組成を探り、その毒を自分の体と相殺して駆除するんです。献身的な方たちですよ」
「世界を乱す…って、あなたは元々、このイチの世界の人でしょう? なのに、あのガーディアンたち、あなたのことを睨んでるみたいだわ」
「しかたないですよ。わたし、どこか壊れていますし、ウイルスまみれでもあるし、ガーディアンから見たら百害あって一利無しです。でも大丈夫。慣れっこですから」
「な…慣れっこ?」
「…来ますよ!」
 歌子が警告を発した直後、ザザザッ!と身の毛のよだつ音がわたしのすぐ横を通り過ぎた。私はおののいてよろけ、その場に尻餅をついてしまった。
 過ぎ去った雑音を振り返ったとき、そこでは歌子が、突進してきたガーディアンを機敏な身のこなしで躱し、まるで舞踏を見せつけるかのようにして回し蹴りを打つところだった。
 私は唖然とした。子ども相手に歌を指導する電気仕掛けの人形が、唐突に格闘家のような身のこなしを見せたからだ。
 ガーディアンは背中に回し蹴りを食らって飛ばされ、1と0の数字を噴出させて霧散した。そして今度は続けて二体、歌子は両手を手刀にして二体の首をくじいた。反撃を受けた二体は地面に転がってそのまま霧散した。私は、その様子に人の死を連想して、思わず叫んだ。
「歌子さん! ひどいことしないで!」
「気にしないでください! 1と0でできた存在は、いくらでも作り出せるんです!」
「でも!」
 歌子は私の声を無視すると、周りを囲んだガーディアンをぐるりと見渡しながら、こんな場面でも良く通る声で宣言した。
「みなさん、どうです? 見ましたか? 私は危険なウイルスです。それっぽっちの人数じゃ私は消せませんよ? いいんですか? のんびりしてたら、こちらからいきますよ?」
 挑発的な声、瞳……。ガーディアンは挑発されて、蜂の巣をつついたように湧き出てきた。そして私たちを同心円状に囲み、輪切りのバウムクウヘンのようにギッシリと詰まった。しかも、その輪はどんどん大きくなっていく。
「ハッピーさん、離れないでくださいね!」
 離れたくても離れられないことはわかっている。なのに私は、一も二もなく頷いていた。それくらい、ガーディアンたちの威圧感は強かった。
 私はおびえきった目になってガーディアンたちを見た。ところが彼らは、瞳を1と0に明滅させながら歌子を見ているばかりで、私のことなど意に介していなかった。けれどそれが、私の目には、強大で傲慢な力の化身のように映った。
 急に震えが襲い来て気持ちがくじけた。その場にうずくまり、小さくなって隠れてしまいたくなった。そのとき、私は気づいた。私はあの日から、なにも変わっていない。ただ轢き殺されていくだけの子供だ。
 そのとき、歌子が私の手を取った。
 きゅっと握られ、私は、咄嗟に励ましを感じた。
「いきますよ!」
 歌子は叫び、私の手を引いて上空に飛んだ。同時に私と歌子の回りに、イチとゼロのまばゆい光がベールのように広がり、その光が辺りを照らした。
 まぶしさをこらえながら歌子を見上げると、彼女は勝ち気な口元をして余裕の笑顔をしていた。
 一歩遅れてガーディアン達が地面を蹴った。一斉に十人、それ以上。全員が私たちのことを追ってきた。その速度は、残像が尾を引くほどだ。歌子の何倍も早い。だが、彼らは私たちに指一本触れることはできなかった。
 歌子は、片手の指をピシッと伸ばし、その手を頭上に振り上げると、伸ばしきった五本の指から天へ向けて数字の羅列を放った。それは蛇のようにうねりながら、ずっと高いところをめがけていく。それを見たガーディアンは、標的を歌子から数字の羅列に変えた。そして彼らは我先にと腕を伸ばし、猛禽のように鋭い爪で羅列をつかみ取ると力任せに引きちぎった。
 ザッ!
 ザザッ!
 羅列が霧散すると同時にガーディアンの腕が吹き飛んだ。いや、それだけでなく、ちぎれた腕の端部から1と0の数字がはじけ、それが全身に回ってガーディアンは霧散してしまった。
 歌子は、光の粉が舞い落ちてくる中に浮いていた。
 そして、残りのガーディアンたちの目は、再び歌子に向いた。そしてザザーッという雑音を伴って同じ平面まで上がってくると、また同心円状に詰まった。
 歌子は、にっこりとすると、爽やかに言った。
「今度は、こちらの攻撃……ですよ?」
 そう言うと、歌子は私の手をそっと離した。そして両手を胸の高さに揃えて扇に広げると、高らかに唱えた。
「八本苦無!」
 凜々しい声に応え、指と指の間にナイフがキラリと現れた。その数、八本。しかも、七色に無色透明を加えた八色に輝いていた。それをガーディアン達に見せつけてから、歌子は気を放った!
「いきます!」
 パッと指を解放すると、八本のナイフは船が港を出て行くようにゆっくりと指の間を離れた。そして、
「十六!」
 歌子はナイフに向かって敬礼をし、カラーガードそのものの姿で凜々しく命令を出した。すると、八本のナイフはゆっくりと進行しながらパッと一本が二本に分裂し、合計十六本のナイフになった。色も八色から、色を補完しつつ十六色になっている。
 さらに。
「三十二! 六十四! 百二十八!」
 歌子の命令が立て続けに放たれた。口にする数字は常に倍に増え、そのたびにナイフも増殖、色は細分化し、なめらかな虹色を形成した。ガーディアンの目は混乱し、めまぐるしく1と0を表示するが、一気に増殖するナイフに相手を見定められない様子だ。
 その間にも歌子の命令は続き、ナイフはどんどん増殖して、扇形に広がっていった。そしてとうとう、左右に広がっていった扇の端と端が、私たちの背後で出会い、円となる瞬間が来た!
「六万五千五百三十六!
 奥義! 総・天然色!」
 継ぎ目のない七色の光が歌子の腰の高さで円盤状につながった! そして技の詠唱の直後、パッ!とリングが輝いて広がった!
 リングの縁はカミソリのように鋭かった。そして鳥肌の立つような高い音を立てて広がり、ぐるりと囲んだガーディアンの胴体を、一瞬で上下に分断してしまった。刹那、大きく開いたガーディアンの口からは吐息ともとれる呻きが漏れ、それが重なり合って辺りの空気を鳴動させた。その断末魔の中で、何千という数のガーディアンが、いっぺんに霧散していった。
 私は恐ろしいものを見せつけられ、もう言葉もなかった。ハッとして歌子を見上げると、彼女はガーディアン達が光の粒子に変わっていく様を瞳に映しながら、その表情は、相変わらずの笑顔だった。そして私の視線に気づくと、目を細めて微笑み、改めて手を差し出してきた。
「今のうちです。移動しますよ」
「え……」
 周りを見ると、かなり遠巻きにはなったけれど、まだまだ大勢のガーディアンがこちらを見ていた。彼らには恐れるという感情がないのか、圧倒的な力を見せつけた歌子に対して、未だに立ち向かう気配を見せていた。
「大丈夫ですよ。今なら離脱できます」
「離脱?」
「さあ」
 歌子が私の手を取る。そのとき、彼女は驚いた顔をした。
 私は、自分がどうしようもなく震えていることに気づいた。
 歌子はそんな私に、どこか申し訳なさそうに、それでも安心させようと笑みかけ、スッと私の腰に手を回した。そして王子様のように私のことを横抱きにし、トン!と空中を一蹴りした。
「……あ」
 歌子に抱きかかえられて上昇しながら、私は、下を見て混乱した。
「あれは【なりすまし】です」
「なり…すまし?」
 再びガーディアンの輪が狭まる中心に、歌子とわたしの姿があった。残像に違いなかったけれど、写真の様に時の止まった物ではなく、実体があり、動きもあるものだった。しかも、相手の動きを見て体が反応している。
 その二人に向かって、ガーディアンが一斉に飛びかかった。
 なりすましの歌子は手を振り上げ、1と0の符号を放った。それに触れたガーディアンが霧散する。…が、その後ろから迫っていたガーディアンには届かない。その手がなりすましの頬を掠め、そこから血のように1と0の符号が散った。
 その途端、なりすましの歌子が牙を剥いた。人にはあり得ない野獣の牙を見せ、目をつり上げ、守っていたはずの私のことを盾にして突き飛ばした。ガーディアンに体当たりさせられた私は、一瞬で1と0の符号になって散り、その間に歌子は上方へ飛んだ。しかし、追っ手のガーディアンの方が圧倒的に動きが速かった。なりすましの歌子は足を捕まれて引きずり下ろされ、大勢にたかられ、まるで餓鬼に食われていくように、腕を肩を、そして顔までも、むしり取られていった。
 私は咄嗟に顔を背けたが、歌子には見慣れた光景なのだろう、彼女はちょっとばかり自慢げに言った。
「なりすましさんは器用ですけど、オリジナルにはかないません。でも、見た目の組成は、さっきまでの私と同じなので、とってもいい囮になるんですよ」
 その言葉を聞かされながら、私はまた震えている自分に気づいた。
 それを気遣って、歌子が言った。
「しばらくは大丈夫ですよ。今の私は、あそこで相殺されたことになってますから。もう、あそこにいるガーディアンには見えてないですよ」
 私は、黙っていた。
 それをどう思ったのか、歌子は安心させようと説明を重ねた。
「なにかやっちゃって、別のガーディアンに見つかったら、そのときはまた、追いかけっこですけどね。何もしないでおとなしくしてれば、追いかけっこにはなりませんよ」
 いつものことですよ、と歌子は笑った。私は釈然としなかった。
「もし、あなたが囮を使わなかったら、あなたはあいつらに襲われていたのでしょう?」
「ですね」
「そうしたら、どうなったの?」
「1と0、それ以上バラバラに出来ないところまで分解されます」
「バラバラに…、つまり、殺されるって事?」
「そんな禁忌の言葉の概念はないですけど、最後は流れ星にされて、ゼロの大地に落ちていくはず…ですよ」
 歌子は禁忌の言葉をかわして屈託なく笑う。
 その笑顔に触れた私の脳裏には、なぜだか、力に屈して身を滅ぼされていく人の姿がよぎった。途端、言葉が出なくなり、歌子が心配顔で覗き込んできた。
「そ、そんなに心配しなくてもいいですよ。私にはまだいっぱい、囮のウイルスがありますし、このくらいの戦い、まだまだこなせますから」
 歌子は苦笑いして眼下を指さす。
 すると、なりすましの歌子を始末したガーディアンが散り始めていて、その開いた輪の中でファイアーウオールに裂け目ができ、そこから星が一つ、外へとこぼれ落ちていくのが見えた。星は、加速して流れ星になり、赤黒いゼロの大地へと吸い込まれて消えた。
 私は、さっきからどこか楽しげな歌子の声に、胸の中の鉛が疼くのを感じていた。そして、思わず言った。
「もし…もしも、ガーディアン達に、私たちと同じような心があったら、それでも歌子さんは、あの人たちをあんなふうに……」
 そこまで言って、私は口を手で押さえた。言ってはいけないことを言ったと、自覚があった。不意に、軍服を着ていた父のことが思い出されたからだった。
 やっと帰ってきた父は、通りの真ん中で額ずいて慟哭した。その悲鳴は、今も、どんなに耳を塞いでも拒めなかった。
 再び震えが襲い来て、私は歌子の腕の中で小さくなった。
 なんなのか。
 この涙はなんなのか。
 私はわからないまま泣きじゃくっていた。



  
 私は泣きはらした目で、歌子の隣を歩いていた。
 歌子はさっきから、楽しそうに話し続けていた。
「はじめてガーディアンに追い回されたときの思い出話ですけど、イチとゼロの世界に放り出されたとき、私、くるくる回って目が回っちゃって……。でも、ゼロの大地に落ちていくことはありませんでした。どうしてだろうって考えて、気づいたんですけど、落ちていく星は、すでに無意味な1と0の並びに分解されているんです。でも、私はまだ考えることが出来た。ゼロになったら、考えることも感じることも出来ないはずだから、つまり、そのときの私はゼロじゃなかったって事なんですね。だから、イチからこぼれ落ちてもゼロには落ちていかなかったんだと思います」
「……そう」
「ですよ!」
「………」
「………」
 会話がつづかない。別に会話する必要はなかったけれど、歌子はまるで、私を励ましでもするように、次から次に話題を振ってくるので黙っているのもつらかった。
「知ってます? イチの世界を護るファイアーウォールは、基本的に一方通行なんですよ。壁の外にいる者は基本的に外敵、触れただけでその組成を分析されて、鍵を持っている安全なモノだけが通り抜けられるようになってるんです。ちなみにですね、鍵を持ってなければ入れないか、入れてもガーディアンにやられちゃいます。
 ちなみにちなみにですけどね、わたしやキョウちゃんみたいな半端者が入るのにもコツがあってですね、外から入ろうとするときには星屑を捕まえてからがいいんです。シールドにもなりますし、そのまま素手で入ってしまうと私の本体の情報がそのまま解析されてしまって、次に入ろうとしたときの壁が厚くなってしまうんです。
 私ですね、もう何度も何度も素手で触ってしまって、そのせいで壁は、お豆腐みたいな厚みになりました」
「……オトウフ?」
「…! 私の生まれ故郷のソウルフードですよ!」
 おいしいんですよとにんまりとする歌子。私がちょっと返事をする度に嬉しそうに笑う。
 私は罪悪感を感じつつ、ふと別のことに気を奪われた。
 歌子の衣装、さっき、ガーディアンの攻撃で裂けたらしい服の袖が、チリチリと小さな音を立てながら修復されていくのだった。
「傷が……」
「あ、自動修復です。本体が故障したときは工具で治してもらわないとダメですが、ここではデータだけの話ですから」
 歌子は嬉しそう振り向いてにニコリとし、私の瞳の具合を見て、少しほっとしたような顔をした。
 私は服の袖が修復されていく様子から目が離せなかった。まるで生地の糸を一本一本をつなぎ合わせていくように、とてつもなくゆっくりと修復されていく。それは、人間の怪我が治るのに何日もかかるのと同じように、とてもゆっくりに見えた。

 歌子のエーアイは優秀だった。私をハッピーと名付けたことは理解できないけれど、ものの半刻で、手紙を書いた人のスマートフォンにたどり着いたのだ。
「あっ、……イケメン」
 星の中に浮かび上がった顔に、歌子が声を上げた。
 画面の明かりで闇に浮かび上がった顔は、細面で金髪の、少年の面影を残した人物だった。
 笑えば、どんな笑顔だろう。だが今、画面を見つめている彼は、口を切り結び、暗澹たるまなざしをこちらに向けていた。
「この人で、間違いないのね?」
「え? あ、間違いないです。端末の識別番号もバッチリです」
「彼が、こっちを見てるのはどうして?」
「彼には、わたしたちを見ている認識はないですよ。わたしたちが画面のカメラでのぞき見してるから、自然とこうなるんです」
「そうなのね…」
 私は彼の視線から目をそらした。異性の顔を間近で見ることなんて、口づけを交わす場面でしかあり得ないと思っていたからだった。それで思わず目をそらした…だけなのに。
「あれぇ、ハッピーさん、照れてるんですかぁ?」
「て…。そんなわけあるわけないでしょう! この人には想う女性がいるのに!」
 からかわれ、私は思わず声を大きくして言い返した。それを歌子が笑った。
「やっぱり照れてるじゃないですか! 素直じゃないですよぉ?」
「ち、違うわよ! のぞき見が知られてしまうんじゃないかと思ったから!」
「いいえ、その心配はありません。回路を横からのぞき見しているだけで、端末の機能には手も触れてないですから!」
「そ…それならいいけどッ!」
 歌子はクスクス笑っている。
 私は恥ずかしくてむっとする。
 そのときだった。
 画面の向こうで、青年が誰かを振り返った。


「よぉ。メール、打ち終わったか?」
「隊長…」
「なんだ、ずいぶん深刻な顔しやがって」
 青年に声を掛けたのは、彫りの深い顔に古傷をこしらえた男だった。青年の倍は生きている。そして、百戦錬磨の余裕があった。
「今回はGPSに頼り過ぎちまったなぁ。まさか、敵の目の前まで塹壕堀りしちまうとは…」
 彼は、クックと笑う。青年は呆れ驚いた目を向けた。
「よく笑ってられますね。僕たち、明日には死んでるんですよ?」
「死ぬ? 何言ってんだ? 俺は死ぬ気なんてこれっぽっちもないぜ?」
「え……だって、メールを打っとけって……」
「ああ、言ったが」
 隊長はスマホの画面をのぞき込み、文面を読んでしかめ面になった。
「…おい、おまえ、勘違いしてね?」
「勘違い?」
「俺が言ったのは、携帯の基地局がやられちまったら電波がなくなるから、今のうちにメール出しとけって話だぜ」
「基地局……」
 青年は拍子抜けしてから、「でも」と切り返した。
「この状況でメールを書くって言ったら、僕には、辛いことしか書けません」
「………」
 青年の目が潤んでいる。
 隊長は口をつぐんでから、「そりゃ、そうか」とため息をついた。
「正直言うとよぉ、俺もこんな至近で敵と向き合う状況なんて、経験したことねぇんだよな。一発も撃たないうちに、一人の犠牲も出てないうちに、じりじりと近づいていって、こんな風に対峙することなんて、通常はあり得ないからな」
「どうして、こんな事に…」
「GPSで自分の位置ははっきりわかるし、ドローンで周囲の状況もわかるし、便利さが危うさを忘れさせたんだろうな」
「便利さって言いますけど、今時、当たり前でしょ、GPSもドローンも」
「ああ。だが昔は、目をこらし、耳を澄ましていた時代もあるんだぜ。俺は、そうやって育ってきたはずなのに…よ。だがなぁ、それが裏目に出ちまったなぁ。昨日は嵐でドローンがダメだっただろ、それは相手も同じだからな、雨をうまく利用して出し抜こうと思ったんだが…」
「それ、たぶん、向こうもおんなじ事思ってますよ」
「お互い、気まずい思いをしてるって事か。笑い話だぜ」
 隊長はクックと苦笑いした。


 その会話を聞いて、歌子が呆れて見せた。
「人騒がせな隊長さんですね」
「それほど軽い話でもないと思うけど。だって、ここは戦場で間違いないし、なにより生死がかかっているのよ?」
 その言葉を歌子がどう理解したかはわからない。ただ、彼女は、ピン!と思いついた顔をして、そらで何かを探った。
「人間同士は仲が悪くても、スマホには敵味方の区別はないみたいですね」
「どういうこと?」
「サーチしたところですね、この一帯に三百人の人がいますけど、みんな、おんなじ基地局の電波使ってます」
「この一帯って…、敵も含めてってこと?」
「はい」
「みんなにつながっているの?」
「ですよ」
「それ、利用できないかしら?」
「利用?」
「そう。例えば、全員の画面に、この人のメールを送って、戦うことを思い直してもらうの。誰だって、死ぬのはいやでしょう?」
「でもそれ、プライバシーの【ひけらかし】ですけどね」
 歌子は釘を刺しながらもニコリとして頷いた。
 わたしは勝算を見た気分になった。
「どうやら、同じことを考えてたようね」
「はい。でも、問題があって」
「問題?」
「スマホが一斉におかしな動きをしたら、緊張している人たちばかりですもん、何が起こるかわかりませんよ」
「………」
「こういうの、なんて言うんでしたっけ。一触即発? 触らぬ神にたたりなし?」
「……半分は、合ってるわ」
 私は呆れてため息した。
「ねえ歌子、あなた真剣に考えてる? 戦いになれば、この場にいる人たちは死んでしまうのよ?」
「それは、そうかもしれませんけど」
「あなた、本当に人間が作り出したものなのかしら……」
「はい。そこは、自信を持って言えます」
「だとしたら、普通は深刻な顔で困ってみせるところと思うわ」
「いいたいことはわかってますよ。エーアイですもん」
「どうわかっているのよ?」
「私がふざけてると思ってるでしょう?」
「思ってるわ」
「ですけど、ちょっと考えてみてくださいよ。事態が切迫しているからって、わたしが暗い顔をしなきゃならない理由、あります? 意味ないじゃないですか。わたしは人を笑顔にするのが使命なんですよ? 基本的に笑顔じゃないとダメなんですよ?」
 言っていることは間違ってないような感じだ。でも、どこか支離滅裂だ。このアンドロイド人形には、やはりどこかに欠陥がある。私は、言っておかねばと言い聞かせた。
「もう一度言うけど、真剣に考えて。人が死ぬってことは、残された人も悲しむという事よ? それぞれ家族がいるでしょうし、彼のように恋人だっているかもしれないわ。その人たちのことまで考えたら、普通は笑顔なんてできないわ」
 冷ややかに見ると、歌子はめずらしくムッとした。
「でしたらハッピーさんがなんとかしてくださいよ。ここに来たいって言い出したのはハッピーさんなんですから」
「え…、なんとかって言っても……」
「何かいい方法はないんですか?」
「方法?」
「そうです。一触即発をどうにかする方法です」
 形勢逆転、私は問い詰められた。
 私は、苦虫を噛んだような顔をしていただろう。なぜなら、私はもう、気づいてしまっていたからだ。
「無理よ。だって私にはあなたみたいな能力はないし、だいたい、この世界では、あなたの目の中にいるだけの存在なんでしょう?」
「そうですよ。それっぽっちの存在です。でも、工房では、靴を捨てて私の目の前まで飛んできたじゃないですか、フワーッて。そんなの、私のエーアイをどんな風に駆使したって無理ですよ」
「それは……」
 私は困った。
 確かにあのときは、大勢の霊魂の力を借りて大きな力を得たと感じていた。
 だが、この世界では……。
 ガーディアンの存在、無慈悲な戦闘を繰り広げた歌子、負ければ無になるというこの世界に来て、私は気を揉むばかりの、なにもできない存在に感じられた。
「どうしたんです?」
 歌子が顔をのぞき込む。
 先に、この子の誤解を解かなければと思った。
「確かに、あなたには理解できない力が、私を突き動かしたのは事実よ」
「理解できない? エーアイに?」
「そう。さっき、私を台座から解放したのは、死んだ人たちの霊魂なの」
「霊魂?」
「あの街で戦争を経験した人たちの霊魂。あの日に死んでしまった人たちよ」
「霊魂は、オカルトですよね?」
「やっぱり、理解できないのね?」
「もう少し詳しく」
「そうね…、例えるなら、イチとゼロの狭間に漂っている、言葉のような存在よ」
「半端者?」
「その言い方はやめて。誰も望んで、そんな姿になったわけじゃないんだから。
 それから、はっきり言ってなかったかも知れないけど、それは、実は、私も含めてのこと…なのよ」
 歌子は、なぜか黙ったまま、にっこりとした。
 私は無情を感じながらも、理解してもらいたくて訴えた。
「みんな、いい人ばかり…。幼い私のことを気にかけてくれたわ。
 私は、死んだとき、ほんの子どもだったし、なにも知らなかった。そんな私に、みんなは、世の中のいい話も悪い話も、私がゆっくりでも大人になれるようにと語ってくれた。だから、今、私はこんなに大きくなれてるの。何にもしないで、子どものまま、消えていくことだってできたのよ?」
 私は、思い出していた。ショーウインドウの下にうずくまり、子どもの姿のまま消えていきそうになったとき、誰かが声をかけてくれた。その人形は君にぴったりだよ。しばらく、その中で待っているといい。必ず迎えに来てくれる。そのはずさ。
 そう声をかけてくれた人は、あの日曜日、私に気づいてゼンマイを巻いてくれた工房のおじいさんだった。どうして彼に私のことが見えたのか、そのときはわからずに、私は言われるままに立ち上がり、オルゴール人形に手を触れたのだった。
 それ以来、私の魂はオルゴール人形に宿り、色々な魂が私の前にやってきては、私のさみしさを紛らわせるように色々なことを語っていった。霊魂がなにを食べられるわけでもないのに料理のこと、本を読めるわけでもないのに本のこと、恋ができるわけでもないのに恋のこと。もちろん、世の中の悪いことや、戦争のことも……。おかげで、私は、成長できた。
「そんな優しい人たちだけど、誰ひとり、戦争のことは忘れてない。それはそうよ。戦争のせいで、すべてを失ったと言ってもおかしくないのだから。だから、あなたが戦争のことを伝えてくれたとき、みんなは怒ったのよ」
 私が目を伏せると、歌子もまねをするように目を伏せた。
 私は肩を落として言った。
「さっき、みんなは、戦争を止めたいという私の思いに賛成してくれた。だから私のことを、戦争に対する怒りの代表として送り出してくれた。でも、ここに来てわかったわ。私はおそらく、この世界では無力…。さっきのガーディアンを見ても、この激しい世界を見ても、私になにかが出来るという気がしないの。なにも理解できないし、なにをすればいいかもわからない。あなたのように、戦うこともできない。たとえ、心のないガーディアン相手でも……。
 だから……。
 どうしよう…、このままじゃ、私はまた、見ているだけになる……」
 最後は独り言のようになった。
 そして私は、沈黙してしまった。
 口を開いたのは、歌子だった。
「あんまり考えすぎない方がいいですよ」
「え?」
「ハッピーさんにも、出来ることがあるじゃないですか」
「できること?」
「ですよ!」
 歌子は決めつけて言うと、私の胸を指さしてにっこりと笑った。
「ハッピーさんの気持ちは理解しました。今から、彼も、みんなも、無事に家に帰れればいいってことですよね? だったら、二人で力を合わせれば、なんとかなっちゃいますよ♪ そのために、わたしは全身全霊でがんばります!」
 歌子は、私が語ったことを理解してくれたのだろうか。元気よく力こぶを作って見せて、それから作戦を語った。
 一触即発を回避する方法。
 その内容には、少し無理があるように感じた。それを目で訴えると、歌子は教科書を閉じるかのようにきっぱりと言った。
「それであの人たちとハッピーさんが笑顔になれるなら、わたし、がんばるしかないじゃないですか。それが私の使命なんですから。ですよね?」
「笑顔に? わたしも?」
「ですよ!」
 私は口を閉ざした。歌子には悪いけれど、わたしはたぶん笑顔にはなれない。戦争の二文字を忘れていた時だったら、うっかり笑顔も見せたかも知れないけれど、すっかり思い出してしまった今は、たぶんもう、しばらく無理だろう。それにだいたい、私ができることはせいぜい、これから死ぬかも知れない人を死なないようにすることだけ。すでに死んでしまった私は、何一つ報われない。失った時間を取り戻すなんて、もう、諦めている。だから、笑顔になれるわけがない。
 それでも…、いいえ、今はただ、自分を責めるようなことをしたくないだけ。彼も、誰も、戦争で死んで欲しくないだけ。ただそれだけ。
 それなのに歌子は、私を力づけようとでもしているかのように、にっこりとわたしの手を握った。


 夜明けが近づき、東の地平に沿って赤い帯が広がりはじめたとき、青年が手の中で見つめる端末に異変が起こった。前触れもなくブルッと振動したかと思うと、見たことのある記号が画面のど真ん中に浮かび、恋人へ手紙を送りあぐねていた彼は、それが何を意味するのかと目を瞠った。
 その記号は、ト音記号だった。
 エレメンタリースクールで習った、渦巻き模様の記号だ。
 その記号が、手をたたくように六つ点滅し…!
 ハッピーバースデー トゥーユー!
 ハッピーバースデー トゥーユー!
 突然、少女の歌声が流れはじめた。
 伴奏は、オルゴールのシンプルな音色だけだった。
 だが、その音楽は、夜明け前の静けさを破るには十分なものだった。
 青年は、マナーモードにしていたはずなのにと焦りながら画面をタップするが、端末は、まるで乗っ取られたかのように反応しなかった。
「おい」
 頭上から隊長の声が落ちてきた。
 青年は叱られるのを覚悟して画面から顔を上げたが、隊長の目もまた驚きに見開かれていた。
 ハッと気づくと、隊長がポケットから取り出した端末からも、同じ音楽が漏れ出ていた。いや、まわり中から同じ音楽が、まるでラジオのスイッチを一斉にひねったかのように沸き起こっていた。
 その歌声は、笑顔意外のものを想像させなかった。そして何度も繰り返され、塹壕の中からあふれて、まだ明けぬ荒野に広がっていた。
 ハッピバースデー トゥーユー
 ハッピバースデー トゥーユー
 ハッピバースデー ディア『………』
 青年は思わず、恋しい人の名を胸に抱いた。


 戦場にハッピーバースデーの歌を響かせる。それが歌子の考えた作戦だった。
 悪意のない長調のメロディー、誰もが知っている歌。それを聴いて、鉄砲を構えたくなる人などいない、と言うのが、彼女の考えた打開策だった。けれど、今、その歌声は、データが欠落していくかのように乱れはじめていた。基地局の問題、通信状態が悪くなったのか……?
 いや、そうではなかった。
 イチとゼロの世界では、歌子が戦っていた。
 私は、歌子と手をつないで立ち、胸の奥からオルゴールの音色を響かせながら歌子の奮闘を見守っていた。
 歌子は、笑顔で歌っていた。その一方、片手をあちこちへ向けながら符号を次々に放っていた。ガーディアンが符号を追いかけ、相殺して次々に消えていく。それは、歌子が語った作戦の肝になる場面だった。
「私の体には、いっぱい、ウイルスがいるっていいましたよね。それを使って、まず、彼のスマホを乗っ取るんです。あとは簡単、ワイファイやブルートゥースの接続機能を使って、その辺のスマホも乗っ取っちゃいます。それぞれウイルス対策してますけど、こっちはウイルスいっぱいのエーアイですからね、お茶の子さいさいです。そしたら、あとは歌うだけ。歌声で笑顔になってもらいます。
 ウイルスを使うのでガーディアンが集まってくると思いますけど、大丈夫ですから、任せてくださいね。伴奏は、お任せしますよ。オルゴールの、素敵な伴奏は、ハッピーさんの出来ること…ですからね♪」
 事を起こす前、そう言って笑った歌子は、今、止めどなくウイルスをまき散らしながら、胸を張り、晴れ晴れしい笑顔をして、人々を笑顔にする歌声をそこら中の端末に送っていた。一方、歌えない私は、ただ伴奏をするだけだ。でも、自分で言うのもなんだけど、精一杯胸を震わせていた。
 けれど。
 最初から予想していたことだけれど。
 歌子と私のことを囲むガーディアンは、すでに数え切れなくなっていた。
 歌子は歌い始めたそのときから、体に流れているウイルスを絶え間なく放ち、囮にして、自分と私に攻撃が及ばないようにしていた。けれどガーディアンはきりがない。歌声が広がれば広がるほど、加速度的にその数を増やしていく。
 歌子は笑顔で歌っていたけれど、いつしかその額には汗がにじみ出ていた。そして、手から放たれる符号が細ってきていた。
「歌子さん、そろそろ技を…」
 そこはかとない不安を抱き、促したが、歌子はなぜか、私の方を見なかった。
 そして。
 指先から飛び出す符号がパタリと途絶えた。
 なぜ…と考えるまでもなかった。
 手持ちのウイルスが尽きたのだ。
 その途端、ガーディアンの爪が歌子の顔を狙ってきた。歌子はスッと足を引いて避けたけれど頬を切られた。裂けた部分は、イチとゼロの符号になって散った。
「歌子さんッ! 奥義を!」
 私は焦りのあまりに声を上げた。けれど歌子は首を横に振って歌い続けた。
 今、歌うのをやめたら戦闘は止められない。誰かが気づいてくれるまでは歌わないと……。そう横顔が訴えていた。
 包囲網が一気に狭まった。
 攻撃が次々に繰り出される。
 腕が裂け、足がくじかれる。それでも歌子は歌い続け、私は焦燥に駆られて歌子の手をきつく握った。脳裏には、なりすましの歌子が引きちぎられていく様が蘇っていた。
 私は画面越しに青年を怒鳴った!
「早く! 早くしてッ!」


 青年は知らず知らず、縋る目になって隊長を見上げていた。
 その直後、歌声がかき消え、歯抜けになったオルゴールのメロディーだけがあたりに響いた。それも電波が乱されるように途絶え途絶えになり……青年はとうとう訴えた!
「隊長…!」
 それは紛れもなく死を恐れる声だった。隊長は返事をすることも出来ずにその声を聞いた。
「隊長! 僕らはどうしても今、戦わなければなりませんか!」
 その言葉に、塹壕の中でスマホを見つめていた大勢の兵士が一斉に振り返った。
 視線が集まる中で、隊長は言った。
「静かにしろ」
「ですが…!」
「シィッ…!」
 まるで子供にでもするように、隊長は指を一本立てて口元に当てて見せた。そして、もう一方の手を耳に当てた。
「……向こうでも、同じことが起きている」
「え……?」
 手元でかき消えつつあるオルゴールの音色が、全く同じかすれ具合で、ただし、ほんの少し遅れて聞こえてくる。ビルもなく、壁もない、反響するものもない荒れ地で、そんな風にこだまして聞こえる理由は……。
「敵の塹壕でも、スマホが鳴ってるぜ」
 歌声はすでに途絶えている。オルゴールの音色も……、今…途絶えた。しかし隊長の耳には、その続きが聞こえていた。相手の陣地でも、若者の声が上がっている。
 隊長は青年を見下ろし、それからあたりを見渡して、厳しく命じた。
「いいか! 絶対に銃を抜くな! いいか、絶対にだぞ!」
 そう言うと、隊長は塹壕をよじ登り、荒れ地のただ中へとその身を躍らせた。
「おーい! 今の歌はどういうつもりだ? ちょっと話をしようや!」
 荒野の果ての朝焼けを背負って、相手にその姿を見せつける。五秒、一〇秒……返事はない。…と!
 相手の塹壕から、何かが投げられた。暗がりでその形は判然としないが、隊長にはそれが手榴弾だとわかった。当然、ピンが抜かれているだろう。
 舌打ちをした。
 そのときだった。
 ガウンッ! ガウンッ!
 バァンッ!
 相手の陣地で二発の銃声が轟いたかと思うと、投げられた手榴弾が放物線の上で破裂し、辺りを一瞬だけ明るくした。
 隊長の後ろで一斉に銃を構える音が起こった。
「命令!」
 隊長は背後に向けて怒号を上げ、味方の動きを止めた。
 爆音が荒野に果てなく消えていき、風の音さえしない明け方の静寂が戻ってきたとき、敵陣の塹壕から、人影が一つ、おもむろによじ登ってきて、五十メートルの距離で隊長と向き合った。
 そして。
「指揮官としては、そちらの方が長けていると見た! 話を聞こう!」
 敵方の指揮官に違いなかった。遠くの声だったが、物音一つしない中では十分に聞き取れる声だった。
 隊長はニヤリと笑むと言った。
「今の歌は、どういうつもりだ!」
 ややあって、返事が返った。
「こちらは、そんな子供だましのようなことはしない!」
 堅物の声だった。
 隊長は腰に手をついて言い返した。
「そうかい。まあ、誰が仕組んだことだろうと関係ない。おかげでこちらは、すっかりやる気になっちまった!」
 返事は返らなかった。
 辺りの空気に緊迫感が漂う。
 その空気を、隊長は引っかき回した。
「俺はあんたらとにらみ合って、二〇年以上になる。ずいぶん、やり合ってきた。あんたは、どうだ?」
「こちらもそのくらいだ」
「だったら、わかるだろ。この至近で撃ち合えば、お互い七割方、再起不能だ」
「だが、これは戦争だ」
「そうか。なら、まず、その理屈で話をしようか。
 こっちは東に陣取って、そっちは西に陣取ってるな。今は俺が朝焼けを背負っているからそちらに分がある。影を狙うだけでいいんだからな。けどよ、もう少しして朝陽が昇ったらどうかな。真っ白な朝陽が、あんたらの目をくらませる。それだけじゃない。そっちの塹壕の位置と、迫撃砲にいぶし出されるあんたらの姿を照らし出すぜ。逆に、そっちが夕方まで耐えしのげば、今度は夕日がこっちの事を洗いざらいにしちまうだろうな。
 もし、あんたの方の分が悪いと思うなら、その銃の腕前で、今のうちに俺の眉間を撃ち抜くといい。たった今、あの暗がりで手榴弾を撃ち抜いたのはあんただろ? いい腕前だった!」
「………」
「ちなみに、言っておくが、こっちは一人ぐらい減ったところで、痛くもかゆくもねぇんだぜ!」
 隊長は、押したり引いたりだ。
 敵味方双方、塹壕の兵士たちは、一体彼が、何を言わんとしているのかと耳をそばだてた。それを察し、代表するように、敵の指揮官が胸に腕を組んだ。銃は構えないという意思表示をしたのだ。
「さっき、その気になったと言われたが、それはどういうことか?」
 隊長はほくそ笑んだ。
「じゃあ次は、大人の話をしようじゃねぇか」
「大人?」
「ああ」
「聞こう」
「お互い、こんな目と鼻の先まで塹壕を掘っちまったのは、失敗だとは思わねえか?」
「………」
「そんな失敗をして、戦力を喪失すれば、どっちが勝っても自慢にはなんねえよな?」
「そうだな。軍法会議ものだ」
「そこで、だ」隊長は胸を張った。「今日のところは、歌で勝負をつけようじゃないか。こっちは、そんな気になっちまってるんだが!」
 隊長の背後がどよめく。
 相手の返事もない。
 隊長は堂々と続けた。
「さっきのハッピーバースデー、あんただって歌ったことがあるだろ? だったら、同じドレミファってやつを知ってるわけだ。そうだよな?」
「………」
「どうなんだい?」
「音楽教育は受けている。だが、わたしは歌が嫌いだ」
「………」
 隊長は返事に詰まる。歌が嫌いだと言われたら身も蓋もない。
 けれど、隊長は退かなかった。
「そいつは残念だ! けどよ、軍歌は歌うだろ? 国歌でもいいぜ。どうなんだ?」
 これには歌わないとは言えない。
「軍歌も国歌も歌う」
「そうかい、なによりだ!」
 今度は相手の指揮官が尋ねてきた。
「歌で勝負とは、どういうことか?」
「ルールか?」
「そうだ」
「簡単だぜ」
 隊長は胸を張った。
「自分たちが歌いたい歌を一曲選び、歌い、先に満足した方が勝ちってルールだ!」
「………」
「どうだ? 日の出まではまだ少しある。とりあえずやってみないか?」
 隊長は言うと、両手を腰にやって大きく深呼吸、そして朝焼けを背負って歌い始めた。
 その途端、背後の兵士にピシッ!と緊張が走った。
 隊長は軍歌を選んでいた。己を誇り、鼓舞し、いかなる敵にも屈しないという歌だ。そして、その堂々とした歌声に賛同する者は、すぐに声を合わせた。
 大勢の声が合わさり、大きく広がっていく。気づけば、敵の的になることも恐れずにほとんどの兵士が塹壕を上がり、未だ夜の闇を背負っている敵陣に向かって声を張り上げていた。
 さらに。
 敵の指揮官が背後を気にした。それもそのはず、彼の後ろでは、これもまた的になることを恐れずに立ち上がり、己らの軍歌を歌う者が現れたのだ。相手に触発されたのは言うまでもない。だが、死に向かうだけの戦闘を嫌忌する必死さ…というようなものも見えた。
 双方の歌の波はあっという間に広がっていった。隊長は己の部下を従え、そして指揮官は配下に背を押されて、気づけば相手と歌声で張り合っていた。
 互いの軍歌は、曲調こそ違えど、己を誇り、鼓舞し、戦いに前進するという歌詞だった。双方とも根本は共通しているのだ。そのせいで、どちらも一歩も引かず、二つの嵐がぶつかり合うかのように未明の荒野を震わせた。
 歌を競うというには、あまりにも荒々しい時間が、終わりを知らずに続いていた。こちらの兵士も、あちらの兵士も、全身全霊を込めて勇ましく歌っていた。そして、どちらの兵士も勝ちを譲ろうとしなかった。けれど、誰一人として、銃に手を伸ばそうという者はいなかった。なぜなら、相手の口から出てくる歌詞に、相手を殺せ、血祭りにしろというような言葉が、一つとしてなかったからだ。
 やがて、誰もが気づいた。
 互いの歌には、それぞれに誇りがある。兵士として、戦士として、背負ったプライドがある。そのことに気づいた彼らは、双方とも、誰からともなく、歌いながら敵に背を向けた。一人、また一人と背を向けて去って行く。けれど、歌いやめることはしない。
 双方の歌声が、遠ざかっていく中、最後まで向き合っていたのは、隊長と指揮官だった。
 地平の向こうに朝陽が顔を出し、鋭く射かけられた光が、夜を背負っていた指揮官の姿を照らし出した。彼は二丁拳銃を腰に下げ、目の落ちくぼんだ顔で軍歌を歌っていた。そして彼の背後には、歌いながら行進していく一群がいた。
 隊長は、自分の背後を見た。そこに部下の姿はなく、各々に歩き去る一群がいた。彼は前に向き直ると、歌うのをやめ、声を張り上げた。
「あんた、歌は嫌いだと言ったが、踊りはどうだ? 呑みながら歌い踊るのはどうなんだ? 俺は嫌いじゃないんだが!」
 指揮官は、返事をしない。ただ、おもむろに指を制帽に持っていき、挨拶代わりの敬礼をした。
「この…堅物め」
 隊長は聞こえないように言って苦笑いをすると、親指を立てて返し、それでも、どこか晴れ晴れしい気持ちになって、昇ったばかりの朝陽を振り返った。

(続く)
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