第3話 ユリとの別れ(1)

文字数 5,491文字





僕と彼女は時々SNSアプリでメッセージのやり取りなどしたけど、すぐに電話番号を教え合って、それからしょっちゅう長電話をした。彼女は驚いたことに、僕と話していても苦痛に感じないようで、僕にはそれが不思議だった。なぜなら、僕はいつも友達にさえ「理屈っぽい」だの、「話がよくわからない」と話を遮られて、そこでやめにされることもいばしばあったからだ。でも彼女はいくらでも僕と話したし、僕もその内容に満足していた。それなのに僕たちは、肝心な話だけは話さなかった。

彼女には“話し尽きない悲しみ”があるのに、彼女はそれについてはいつも口を閉ざしていた。僕が“悩み事は?”と聞くために、その前に「体調とか、どう?」などと聞いたりすると、必ずいつも「元気元気!」と返してきた。そこには何か有無を言わさない拒絶があるように僕は思っていた。






彼女と初めて会ってから二週間ほどが経った頃、「今日、暇?」と彼女からメッセージが届いた。その日は僕は仕事があって、少し遠くの家の子供に勉強を教えにいかなければいけなかった。僕は“断りたくない。でも、仕事だから仕方ないかな。”と思って、「ごめん、今日は仕事なんだ。明日なら空いてるよ」と入力して送信した。しばらくは僕のそのメッセージに「既読」という記号が付いていただけだったが、やがて彼女からまた送信があった。

“仕事、何時に終わるの?”

それだけだったけど、僕にはなんとなくわかってしまった。これほどに彼女が僕に会うことを急いでいるなら、もしかしたらこれはSOSなのかもしれない。だとするなら、僕は今晩、彼女からちゃんと聞き出せるのかもしれない。そう思うととてもそのメッセージに「明日にしてくれないか」なんていう返事はできなかった。





待ち合わせは夜の九時。地元駅前に立っている、ペンギン像の前だった。僕はしばらくその前に立っていたけど、“そういえばなんでここにペンギンの像なんてものが建てられてるんだろうな”とぼやっと考えていただけだった。彼女から今晩何かを聞くとするなら、そのときに考えればいいだけだと思っていた。今からあれやこれやと彼女に降り掛かっているかもしれない不幸について想像して考えるのは、好奇の目で彼女をこねくり回すようで嫌だった。でも僕は、“もしかしたら彼女は泣くのかもしれない”とだけ思った。

しばらく沈黙したままで、僕と同じくらい背の高いペンギンと並んで立っていると、駅前ロータリーの端にある信号のない横断歩道を渡って、彼女がこちらに近づいて来るのが見えた。彼女が手を振っていたので僕も振り返したけど、若過ぎる女の子との待ち合わせだったと周りに分かってしまうので、内心ではびくびくしていた。

「久しぶり。でもないかな?」

予想に反して、彼女はとても楽しそうに笑った。にこにことしていて、本当にこれからただ遊びに行くのを喜んでいるようだった。それに、今日はこの間とは違って、ワンピースを着てローファーを履いている。

「そうだね、そこまででも」

僕はなんとかそう答えたけど、駅前を歩いている大人たちから自分が一体どう見られているのかを考えると、気が気でなかった。赤いチェックのワンピースを着て、白の靴下にかわいらしいタッセルローファーを履いた彼女は、実年齢よりさらに下に見える。“でもまあこれならもしかして、父親と娘くらいに見えるかも。”僕はそう思ってちょっと安心しながら、彼女を連れてまた「喫茶ハーベスト」へと向かった。



駅前を歩いているときも、「ハーベスト」で椅子に掛けるまでも、座ってマスターに飲み物と食べ物を頼むときも、始終彼女は興奮気味だった。楽しいというより、極度の緊張からそう振舞うしかないかのように見えた。なので僕はなるべく彼女の興奮が高まらないように口数を少なく、とにかく彼女が何か飲んで食べて、落ち着くまで待つことにした。

彼女はその日はロイヤルミルクティーと、それからチョコレートサンデーを頼んだ。それを決めたらしいとき彼女は、「私、サンデーでおなかいっぱいになっちゃって、しばらくごはん食べられないと思う。いいかな?」と聞かれたので、僕もブレンドとピザトーストを頼んだ。

注文したものが来ると彼女は美味しそうにそれらを味わっていた。ミルクティーには砂糖をスプーンで三杯入れていたし、サンデーもあっという間に食べてしまったので、彼女はかなりの甘党なのだろう。“今度ケーキが美味しい店にでも連れて行ったら喜ぶかな”と僕は考えていた。

「甘いもの、好きなんだね」

「うん!ないと生きてけない!」

彼女はそう言いながら、チョコレートソースの掛かったバナナを食べていた。僕は、マスターこだわりの分厚い食パンのピザトーストを食べて、おなかをいっぱいにした。





食後、奇妙にも思えるほど長い沈黙が訪れ、彼女はうつむいていた。僕は彼女がサンデーのために用意されたスプーンを置いて、マスターがそれに気づいて食器を片付けるまでの間に、意志を固めようと必死になった。おそらく彼女は、テーブルの上が片付いたら、そこに自分の気持ちを一つずつ出していくつもりだったのだろう。僕は“彼女をなるべく傷つけずに話を聴いてあげなくちゃ”と思ったし、“もし彼女が泣いたりわめいたりしても、ちゃんと受け止めなくちゃ”と思った。

今にして思えば、僕はなぜ彼女が取り乱してしまうかもしれないほどに追い詰められていると、予想できたのだろう。彼女はこの前もごく普通に僕と話していたし、ちょっと悪い癖があるだけで、他は何一つ、あの悲し気な表情以外にヒントはなかったのに。

でも僕は多分、毎朝鏡の中に見る孤独な僕の顔によく似たものを、彼女の表情から感じ取っていたのだと思う。それに、もう長いこと生きてきた大人だから、“一体子供とはどう育っていくべきもので、大体幸福な子供とはこんな顔である”ということくらいは知っている。彼女はその“幸福な子供”とは、縁遠い顔だったのだ。

マスターが「ごゆっくり」と言って食器を下げて、席に就いている言い訳みたいに残っていた、あと三口ほどの僕のコーヒーカップだけが残された。すると彼女は、細く小さなため息を吐いた。それは、なるべくこちらに悟られないようにしたことのように、僕には感じられた。

「今日、無理言ってごめんね」

彼女はまずそこから話を始める。僕は“彼女が最後まで話してくれるように、リラックスできるように話をしなくちゃ”と思った。

「いやいや、はじめに断ったのは、まさか待たせるわけにもいかないと思ってただけだから。遅いしさ」

「ありがと…」

そう言うと、彼女はテーブルに腕を組んで突っ伏し、しばらくぐったりと疲れたように力を抜いていた。“泣いているのかもしれない”と僕は思ったけど、彼女の肩は震えていなかったし、食事に満足してリラックスしているようにも見えた。チョコレートサンデーが食事になるかはよく分からないけど。

僕は彼女に、何も声を掛けなかった。もしかして彼女は僕の言葉を何か待っていたかもしれないけど、“もし一言でも間違えたら、僕は彼女の人間関係から締め出されるのではないか”という緊張が僕にはあった。それは、彼女はとても傷つきやすいのではないかと感じていたからだ。やがて彼女はくるりと頭を回して腕の中から僕を見上げると、寂しそうに、とても悲しそうに笑った。

「ときどきさ、死にたくなることってない?」

ドクンと僕の心臓が大きく動いた。そして、まるで自分の心をすべてつまびらかにされてしまったかのように、冷や汗が背中に噴き出すのを感じる。彼女の瞳はもう僕の答えを知ってるだろう。彼女は僕を慰めるように笑っていたから。僕もごまかし笑いをしてうつむき、なかなか顔を上げられなかった。“僕は彼女のこの話が一番聴きたかった。でも、どうやら彼女は見返りに僕の分も吐き出させようとしているらしいぞ。よし、それなら、彼女に負担にならない分だけ見せてやろう。”僕はそう思うことで、必死に自分を抑えていた。

今までこんな話を誰かとしたことなんか、二度しかなかった。それは自殺した親友の葬儀に参列した帰りと、僕が病院のベッドで目が覚めて、「なぜあんなことをしたんだ」と、友達に聞かれたときだけだ。今では、その友達とは疎遠になってしまった。“僕にはもう痛みを吐き出す場所などなかった。それを今晩、ちらっと欠片だけなら見せられるかもしれないのだ。”そんな自分勝手な感情を抑えて、僕はどこまで話すかを考えた。

「あるよ」

まずはそれだけ話した。そう言ってから僕が彼女を見つめる。すると彼女は、まるで自分よりも桁外れに苦しんでいる人物を見るように、恐怖に目を見開いて、切なそうに眉を寄せた。

「…あるの…?」

小さな声で彼女は僕にそう聞きながら、体を起こす。僕は黙って頷いた。すると彼女はちょっとおろおろと戸惑ってから、落ち着くまでの間に水をふた口飲んだ。また喋り始めるときの彼女の口調はひどく怯えていて、それにたどたどしかった。

「あのね、私…別に話したいことがあったわけじゃない。だから、好きなこと話そうよ。何話してもいいでしょ?だから、話したくないこと以外なら、なんでもさ…?もちろん、ここじゃ嫌ってこともあるだろうけど…」

僕はそこでとても驚いた。彼女は“ときどき死にたいと思う”なんてことを口にしておきながら、僕が彼女を気遣って自分の話を控えたことに気が付き、さらにそれを取り除けようとしたのだ。十四歳の女の子がそんなに人に気を遣うほど、今まで何を強いられてきたのかと思うと、僕は絶句するしかなかった。

「ね、だから…」

彼女は不安そうにしている。僕がまだ彼女に大人として接するために無理をしているんじゃないかと、心配をしているのだ。僕はそれを見ているのも辛かったけど、少しずつ気持ちが落ち着いて来ると、自然と“彼女に優しくしてあげたい”という気持ちが高まっていった。

「そうだね、話したいことを話そう。でも…」

その先を僕が続けると、彼女は怒りだしてしまうかもしれないほどに真剣だった。僕の痛みにも。

「なんて言ったらいいんだろう。僕は今、君に優しくしたいな、と思うし、君が僕の気持ちも聴いてくれるという優しさには感謝してる。だから…だから多分、君が悲しむことは言いたくない…」

僕はテーブルの真ん中にある、彼女の手を見つめていた。肘をついた先から、不安そうに握り合わされている小さな両手。それはまだ儚いあどけなさの残る、指先に血の色が透けた手だった。僕は今この場でその手を取って、“君を守る”と断言したかった。そうすれば彼女は、今一時だけでも安心してくれるような気がしたから。でも、僕自身が不完全な人間で、かなり年が上だからと、やっぱり思い止まった。

そうだ、僕の生活は不完全どころじゃない。家には酒瓶ばかり転がり、そこらじゅうがめちゃくちゃだ。その部屋の中で僕が望むのは「死」しかないのだ。そんな人間が一体誰を守れるというのだろう。お笑い種じゃないか。僕はそう思ってふと頭を振りそうになったけど、そのまま顔を上げて彼女を見つめる。

ユリはそのとき、途方に暮れてしまったような顔をしていた。僕はそれを見て見ぬ振りをする理由として、“もし彼女が傷つくことになっても、僕に捕まえられてしまうよりは、ずっといいんだ。”と思うことにした。

「“死にたい”と思ったときには、自分に優しくしてあげてね、約束だ」

ユリはその僕の言葉で、僕がやっぱり彼女に対して大人として接することに決めたと知って悲しそうな顔をした。でもユリは少し笑ってそれを隠し、「うん」とだけ返事をした。“僕の言葉は、彼女に正しく伝わったのだろうか。この会話で僕が彼女を拒否したということしか伝わっていなかったんじゃないだろうか。”僕はあとあとまでこのことに苦しめられた。


その日の僕たちはそのあと、意味も無い長ったらしい会話をして、僕は珍しく政治の話だの、教育のことだのを話していた。ユリはそれをうるさがったりしなかったから。ただちょっと、「私には難しいけど、あなたの意見にはちょっと偏見がある気がする」とだけ言った。相変わらず正直だなあと僕はやっつけられながらも、「誰でもそういうもんさ。まあ、良くないことだけどね」なんて言っていた。






駅前で待ち合わせて「ハーベスト」で話し込むことに飽きたら、今度はイタリアンバル「海賊」で、美味しいものを食べる。月に二度くらいしかユリには会わなかったけど、僕たちはそうやって関係を保っていた。ときどきユリは悲しそうな、落ち込んだ顔で現れることがあった。そういう日は口数も少なく相槌を打つくらいで、笑いもしなかったけど、僕が何気ないことを喋っているとだんだん元気になってきて、自分も話に参加しようとしてくれた。でも、「ありがとうね、またね」、そう言って帰って行くユリの去り際の顔は、まだ薄暗い影が拭われていなかった。





ある日、ユリから珍しく、朝に電話があった。いつもは僕がまだ眠られないでいる夜の十二時頃なのに。僕は歯磨きを中断して、布団の上で着信を知らせようと叫ぶスマートフォンを手に取るため、走った。ユリからの着信には、気に入りの曲を設定していたので、彼女だとすぐに分かったのだ。そして「通話」をタップして耳に当てる。

「はいはい、どうした?」

電話の向こうからは、いつも冷えた空気を感じる。それはユリがまとう悲しみを思い出すから。でも、多分彼女もそれを感じているだろう。僕から。

「…見送りに来てほしいんだ。引っ越すから」

「えっ…」




つづく
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