第9話 僕はついに負けた

文字数 4,535文字




ユリが入院中、外出として僕と一緒に「海賊」に行くということは、結局うやむやのまま実現しないまま、入院して一カ月ほどでユリは退院した。僕は仕事が忙しかったので祝いのメッセージを送るだけになってしまった。でも、僕たちは秋の中ほどに、ユリの誕生日の記念として食事に出かけた。もっとも、僕とユリは一番親しい間柄でも家族でもない。それに誕生日は平日だったから、ユリの仕事の休みを待ってからになった。実際の誕生日よりは五日ほど経って、僕は彼女を、互いの中間地点ほどの駅前にあるレストランに連れて行くことになった。

その前夜、僕は長い考え事をした。つまらなくて埃だらけの僕の家には、布団がある部屋に座卓がある。そこには空の煙草の箱がいくつかほったらかしになり、灰皿には山のように吸い殻が積み上げられていた。僕が帰って来たときには、まだ少し蒸す秋の陽気が部屋中に詰まっていたから窓を開けたけど、部屋が冷えても僕は閉めるのを忘れていた。ふと、少し冷たい風が吹き込む。でも僕はそんなことには構っていられなかった。僕は火の点いた煙草を指に挟みながら、ときどき思い出したように吸い込んでは、また忘れた。

僕は、“ユリのことは諦めて、彼女の前から去らないといけない”という考えにまた苦しめられていた。一旦は“見守るだけならそばに居ることは許されるだろう”と考えたけど、僕はその気構えでしばらく過ごしていたことで、「そばに居るだけ」では、ユリと関わることが辛過ぎて堪らないと知った。言いたかった。自分の気持ちを。苦しい気持ちは、“早く早く”と解決を急がせる。

“欲望を抱えたまま素知らぬ顔をするのは、死ぬより辛い。はっきりと彼女を愛していると分かった以上、この秘密はいつ口を滑り出さないとも限らない。でもそれは絶対にダメだ。ダメだけど、もう我慢していられない。だからいっそ、ユリとは永遠に別れてしまいたい。でもそれには、僕がいつでも彼女と会える場所に、関係に居たんじゃダメなんだ。”

その想念は、僕にもう一度死への憧れを思い起こさせた。そのとき僕は、それがとてつもなくけがらわしいことのような気がした。“そんな。僕はユリに関することまで、自分の死への憧れで埋め尽くしてしまうのか?彼女のことでさえ!いいや、ダメだ!それだけは許さない!”僕はそう無理やりに心の中で決めて、暗く冷えてまた尖っていく心を無視し、ユリの姿を思い浮かべた。初めて会ったときの、寂しそうな様子、手に包帯を巻いて笑うユリ、それから、僕を見つけて嬉しそうに駆け寄ってきた病院でのユリ…。僕はそれを思い出してため息を吐いた。

“思い返せば、彼女も死に近い場所に居るのではないか…?彼女だって、いつも死に憧れてるんじゃないだろうか?もしや…もしや僕がそれを助けているとしたら…?彼女と以前その話をしたことで、彼女の中の死への憧れに居場所を与えてしまっていたとしたら…?そうだ、僕たちをまだ友人で居させているのは「それ」に違いない。だとすると…。”

僕はその先にある答えをはっきりと知っていたのに、考えて言葉にするのも恐ろしく、そしてただ“ユリとまだ一緒に居たい”と思う自分を、“卑怯者”と罵った。



翌日、僕の仕事が終わってから、久しぶりに僕は昔着ていたちょっと格好のつく服を選んで埃など付いていないか、虫食いが無いかを確かめた。それからシャワーを浴びて歯を磨き、選んだ服に着替えて家を出た。

別にユリを靡かせようとか、口説こうなんて考えていたわけじゃない。ただ、彼女の晴れの席とも言える誕生祝いに、みっともない恰好で現れることはしたくなかった。それがユリを愛しているからこそ見せる僕の意地でしかなかったとしても、ユリに恥をかかせるようなことじゃないし、迷惑になることでもない。そんな風に自分を慰めた。何の実りもないのに甲斐甲斐しく努力する哀れな五十男である、自分を。



「文ちゃん!久しぶり!」

「うん、遅くなったけど、誕生日おめでとう」

「ありがとう!」

僕たちはそんな会話をして、ある駅の改札口で待ち合わせた。それから僕は先を立って歩き、機嫌良くいろいろと喋りかけてくれるユリの軽やかな声を聴きながら、彼女を予約していたレストランに連れて行った。

僕たちは個室に通されて、四人掛けの席に就いた。ユリは花柄のワンピースの上に、同じくらい丈の長いニットのカーディガンを羽織って、足元は細い紐をたくさん編んだようなサンダルだった。バッグは黒いトートバッグで、ユリはそれを隣の座席に置く。腰から下は隠れてしまったけど、彼女が柔らかくて暖かそうなカーディガンに包まれてにこにこと笑っている様子は、世界で一番可愛いと思った。本当にそう思った。

ユリは、どんどん綺麗になっていく気がする。僕は彼女に新しくまた美しい季節がやってきたことに感じ入って、まだ何も話していないのに泣いてしまいそうになった。

「今日はありがとう。ここ、どんなお店なの?」

「んー、フレンチの創作料理だって」

「そうなんだ。じゃあ楽しみだね」

そのとき僕たちはお互いに、どこかもどかしい気持ちを抱えていたかもしれない。個室のレストランでの食事なんて、まるでカップルのデートみたいなことをしていたからだ。でも、僕は「年上の知人」として、彼女の誕生日を祝うにふさわしい場所を選んでいるんだという態度を貫くつもりだった。もちろんこんな甘い空気の匂う空間なら、彼女に気持ちを渡すのにはうってつけなのかもしれない。でも、ユリは昔からファストフード店や喫茶店が大好きで、ざっくばらんに話して笑える空間が落ち着くようだった。

案の定ユリはそわそわとして落ち着かないけど緊張しているようで、ちょっとユリには申し訳ないけど、そんなつたない仕草もとても愛らしいと思った。


やがて料理が順番に運ばれてきて、僕たちは焼いた魚をゼリー寄せにしたものや、小さなステーキ、美味しいドレッシングと新鮮な野菜のサラダなどを胃袋にたっぷり詰め込んだ。それからそのあと、僕は少しお酒を飲もうとしてワインを店員に聞き、それと一緒におつまみを頼んだ。それは殻ごと蒸した落花生だった。

「へー。落花生殻ごと蒸してあるんだ。あ、私剥いてあげる!」

「そう?じゃあお願い。ありがとね」

「うん」

ワイングラスは僕の方だけにあって、ユリは小皿に盛られた落花生の殻を剝きながら、こんな話をした。

「それにしてもさ、私も人生いろいろあったような気がするんだ。でも、いろんな人の助けがあってさ、誕生日ってそういうこと考えるよね。それで、やっぱり友達として助けてくれた文ちゃんは…ありがとう、私、文ちゃんにはいつも世話になってばかりで…今日もこんなお店に連れてきてくれてさ、こんな風に大人の女性として扱ってくれる人、他に居ないし…みんなどこか子ども扱いばっかで…それも仕方ないけど。私、子どもだし…だから、気を遣ってくれるの、嬉しい…でも、こんなんでごめん…」

下を向いて、たどたどしく落花生を剥くのに苦戦しながらも、ユリは静かにそう語った。僕はそのとき衝撃を受け、ユリの言ったことに答えたくて堪らなくなった。“僕がそうするのは君を愛しているからだ!だから君は立派に大人の女性なんだ!”と叫んでしまいたくなった。それで僕の背中にはどばっと冷や汗が流れ出し、ずっと押さえ込んでいたものが堰を切って、今にも心からはみ出していまいそうになった。さっきまでは“ユリは僕をただの友人としか考えていないから”と、平然と構えていられた。でも今は、ユリが僕を信頼してくれていて、友情よりは絶対に一匙か二匙は重い気持ちを向けているのかもしれないと知ってしまった。そこには天と地ほどの差がある。

僕は自分が期待をしていることを知っていた。“そこまで思ってもらえているなら断られる確率も低いんじゃないか”という、安直な考えだ。僕はそれで、彼女の真摯な言葉を品定めに使った罪悪感を感じた。それなのに、どんどん強くなる期待が、「早く言え。もう言っちまえ。上手くいくかもしれないじゃないか!」と僕を急かす。


“どうしよう?いや、もうダメだ。もう堪えていられない。言ってしまおう。どうせふられるんだから、大して悪い事でもない。もう捨ててしまおう!”


ちらりとユリを見たけど、ユリは湿った落花生の殻がなかなか割れなくて困っているようだった。細い指では力が上手く入らず、つるりつるりと何度か滑るのを見ていて、僕はじわりと胸が温まる気がしたけど、芯にある魂は冷えたままでいるように感じた。


“もし、君と心を通じ合わせることが出来るなら。僕は初めて安堵するんだろう…。”


そう思って、僕は泣きそうになったから、下を向いた。


「僕さ、ユリちゃんが好きだよ」


僕はついに負けた。でも僕はそれで久しぶりに、楽に息が吐けたような気がした。


「えっ…?」

ユリはちょっと呆気に取られたように顔を上げて、僕の言葉を目で確かめようとする。よほど意外だったんだろう。僕は緊張させていた体の力を抜いているところで、ぐったりと膝の間に手を落として椅子の背もたれに寄りかかり、ユリに一度頷いた。ユリはまた下を向いた。

「死ぬ前に、君に言っておかないと、後悔するかなと思って」

“ああ、僕はなんて卑怯なんだろう。”そう思いながら、そう言った。

ユリは一度心配そうに僕を見てから明らかに動揺し始め、最後の落花生を剝いている手は震えて、豆が一つテーブルの上に転がった。そしてそれが終わるとユリはおしぼりで手を拭い、テーブルの下に両手を隠してうつむく。

「…返事とか…した方がいいのかな…」

どこかぼうっとしたユリの声には、友人関係を裏切られた怒りや、年が離れすぎているのに恋愛対象として見ることへの呆れは無かった。“そうだ。だから僕は言わないでいようとしていたのかもしれない。彼女は真剣に考えてしまうだろうと、分かっていたのかもしれない。”僕は諦めたような気持ちでそう考えながら、ワインを一息に飲み干した。

「今度でいいよ。何も言いたくなかったら、それでいい。今夜はもう帰ろう」





“ついに言ってしまった。彼女の信頼や友情が普通よりも大きいらしいと目ざとく嗅ぎつけ、そこにつけこむように「死ぬ前に言っておかないと」なんて、まるで返しの付いた釣り針で心を引っ掛けるように、彼女に告げた。卑劣な真似をしたもんだ。今までだって卑怯なことはいくらでもしたけど、純粋な信頼を利用するように欲望を押しつけるなんて、こんなことは初めてだ。でも僕は、“どうか「うん」と言ってくれ”とだけ願っている。そうだ。そう願っている。だから卑怯な手口を使った。なるべく彼女が「いやだ」と言えないように。だって僕は、彼女を愛しているんだ!”

僕は帰宅して服を脱ぎ捨て、下着だけになってそのまま布団に横になり、そう考えていた。

“どんなに卑怯と言われようと、手を汚そうと、彼女がそばに居てくれればそれでいい!そうじゃなきゃいやだ!僕は彼女ほど愛した女性は居ないんだもの!”

そう思い始めた頃、僕はむせび泣き、布団を抱いて身を縮めていた。そのうち眠ってしまうまで、僕はずっと“どうか「うん」と言ってくれ”と願い続けた。






つづく
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