第12話 ろくなもんじゃない

文字数 5,541文字





東野には、僕がユリに夢中になっていることを「大丈夫なのかよ」と言われたし、僕も「全然。多分無理」と答えたが、それから僕とユリの関係は日増しに深刻な影を背負うようになった。そしてユリはある日、僕が一番恐れていたことを口にする。




僕たちが付き合いを始めたのは秋の終わりで、今はもう冬が終わり、春の前ぶれに山茶花が咲いていた。モクレンとこぶしも大きなつぼみを膨らませて、早い桜はそろそろぽつぽつと花を付け始めている。季節の移ろいに心が揺さぶられるような気がする頃だった。





そんなある日、ユリは真っすぐに僕の家に来て、僕はそれを駅まで迎えに行き、二人でコンビニに寄って食料を買い込み、僕の家でそれを食べた。満足な暖房器具も無い僕の部屋でユリは上着を着たまま畳に座り込み、玉子サラダのサンドイッチとカップのコーンスープを食べていた。ユリはコーンスープにパンが入れてあることにはしゃいでいたし、僕が食べていた海苔弁当を、「美味しそう」と覗き込んだ。

「フライ、ひと口食べる?」

僕はそう言って海苔が敷かれたごはんの上から魚のフライを持ち上げる。

「え、いいの?」

「うん」

僕が割り箸でフライ差し出すと、ユリはちょっと遠慮がちにその端っこを少しだけかじった。

「タルタルソースの付いてるとこ、食べればいいのに」

僕がそう言っても、ユリは「いいよ、美味しいし」と言ってにこにこしていた。


食後、僕たちは沈黙に包まれる。初めの頃は、まるでまだ自己紹介が続いているかのように僕たちはよく喋った。でも、それはそのうち飽きてしまって、二人で居てもユリはスマートフォンをいじっていたり、僕はぼーっと煙草を吸っている事が多くなった。ときどきユリは悲しい過去を話したり、仕事であった嫌な事を喋ったりしたけど、それも二言三言で終わってしまって、あまり会話は続かなかった。でも、その晩は違った。


沈黙の中、ユリは寝転んで布団に包まり、目を閉じていた。僕はぼーっとしてよそ見をしていたけど、不意にユリがため息の後で口を開く気配が分かった。

「ねえ、私たちってさ、年が離れてるよね?」

僕は、始めは分からなかったが、ユリの顔を見て分かった。それは悲しそうで寂しそうで、ユリが何を考えているか、僕はおおよその見当がついてしまった。それでも、次の言葉に答えてあげないと。“ああ、でも、僕だってそれがすごく辛いんだ。”僕はそう思わざるを得なかった。

「うん、そうだね」

ユリは僕を見なかった。泣きそうな顔をしていても、必死に堪えているようだった。

「だから…いつか私は、文ちゃんに置いてかれるの…」

そう言ってついに涙をぼろぼろとこぼしてしまうユリ。僕は本当にどうしたらいいか分からなかった。彼女を慰める言葉を知らなくて、“僕は彼女を愛しているつもりで、不安にさせているだけかもしれない”と気持ちが落ち込んでいきそうになった。でも僕はユリを見つめた。出来るだけ優しく。

「そうなるかもしれないし、そうはならないかもしれないよ」

本当にその通りだが、もちろん理屈に沿えばユリの言った通りになってしまう。それは人が望み通りに叶えることの出来ないものだから、ユリの不安はいつまで経っても消えないかもしれない。それを考えると僕は居ても立ってもいられないのに、何も出来ない歯がゆさばかりが募った。そして僕も、“ユリを残していくのかもしれない”と思って、悲しんだ。そして、この事は最後まで僕たちを苦しめることになる。



ユリはそれから、「置いて行かないで、置いて行かないで」と何度も泣いては、また落ち着いたように虚ろな目で黙り込むのを繰り返した。ユリが最後に泣いてから泣きつかれて眠ってしまった時、時刻は夜中の三時だった。または、朝の三時とも言うかもしれない。僕はそれからも起きていて、しばらく考えた。

僕は、彼女を慰めるために強く抱きしめることは出来なかった。多分、それではユリを慰める事が出来ないし、だとするならやらない方がよっぽどいい。

“ユリは僕から何かを受け取ってもきっと満足してくれない。”と、僕はそう思っていた。だから彼女を抱きしめることもなかなか出来ず、必死に慰めの言葉を浴びせることも出来なかった。彼女の孤独は、誰にも癒してあげられない。それは、僕の孤独が同じであるように。彼女は僕を愛してくれているかもしれないけど、遠い昔の思い出が詰まったその心の中に僕を入れることは、多分出来ないだろう。そう思って、涙をこすって真っ赤になったユリの目元を見つめていた。

“僕たちは互いに孤独だ。僕たちは互いを理解出来るのに、それでは孤独は癒せないというのだろうか…。”僕はユリを知っている。彼女が何を求めているのか知っている。でも、そのユリが求めるものはすでに失われていて、彼女がそれに苦しめられていることまでをも、僕は知っている。“だから僕ではダメなのかもしれない。別に僕は彼女の母親の代わりにされているわけではないけど、ユリが求めているのはすべてを受け入れてもらうことだ。それが僕に出来るだろうか?毎日毎晩浴びるように酒を飲まなければ自分の後始末すら付けられない、この僕に…?”

僕は、自分がすでに諦めかけていることに気づいていた。“ああ。”心の中でため息を吐いた。“この先、僕たちがどうなるのかは分からないけど、おそらく最低最悪の結末を迎えることは間違いない。どうして愛しているだけじゃダメなんだ。愛してると百万回叫べば、君は夢から醒めるのか…。”僕は少しだけ泣いてから、ユリの隣に潜り込んで自分も眠った。





翌朝、ユリが帰りたがらなくなってしまった。ユリは起きてから朝食として僕の袋麺をまた食べたけど、「また寝る」と言って布団に包まろうとする。

「ユリ、ダメだよ、もう帰らないと」

するとユリは布団を頭からかぶって、もごもごと布団の中からこう言った。

「帰らない。ここに住むもん…」

僕はそれで困ってしまった。ユリは働き口を見つけたけど、「お金が貯まるまでは」と言って、今はまだ父親の家に住んでいる。ユリが今晩も帰ってこないなんてことになったら、ユリのお父さんが心配するし、これは僕の責任だ。

「ユリ、ユリちゃん。あんまり困らせないで」

布団に向かって屈み込み、ユリの頭があるところをそっと撫でると、ユリはぐったりと何も反応しなかったけど、しばらくして苦しくなったのか、布団をがばっと剥いだ。

「ああ…苦しかった。じゃあ、帰ろうか」

そう言って笑うユリの目元には、うっすらと涙が滲んでいるような気がした。でも僕は、「泣いていたの?」と聞くことは出来ずに、ユリが着替えて僕の家を元気よく出て行くのについて、駅前まで送った。僕には彼女の抱える不安を一つ一つ解してやる余裕は無かった。自分でも情けないと思うけど、僕は自分がまともな状態で生きていないことは、もうすっかり分かっていた。そして、この時おそらく、ユリの中で“「それ」が決められた”のだと思う。




それから、少しずつユリの様子が変わっていった。だんだんと言葉遣いが乱暴になって、時には僕を引っぱたいた。こう言ってもここまでを読んでいる人からしたら「信じられない」と言うのかもしれないが、残念ながら本当だ。ユリを支えてやれなかったことへの報いとして、ユリが用意したものがそれだったんだと思う。

ユリは時折、「あんたなんて何にも分かってないくせに、知ったかぶった話してんじゃないの」と言って、僕の話を遮ったり、「ばーか」と言って僕を叩いたり、僕の髪を強く引っ張ったりした。

僕は初めのうちはそれを甘んじて受けた。なぜと言われて、僕はユリが求めるものを彼女にまったく渡せていない罪悪感に悩まされていたから、少しならちょうどよかったのだ。もちろんそれがだんだんと高潮して、僕は傷つけられるだけになることは分かっていたけど、我慢出来なくなるまでは僕は一緒に居たかった。






その日、僕はユリと一緒にラーメン屋に出かけて行った。そこは僕の最寄り駅から一駅離れた駅前にあるラーメン屋で、「美味しいらしいんだ」と前に話した時、ユリが「じゃあ今度行きたいね」と言った店だった。その時のユリは優しい目で僕を見つめて、僕を信じていくれていた。でも、ユリをそこに連れて行く頃には二人の関係が変わってしまっているなんて、僕は考えていなかった。

「ラーメンかあ~、久しぶりだな~」

ユリは間延びした口調でそう言って、行列の間に立っている。行列があまりに長かったので、“疲れさせてしまっていないだろうか?”と僕は不安だった。やっと席に就いてからユリは味噌バターコーンラーメンを頼んで、美味しそうに食べていた。僕はそれを見て心を癒すけど、彼女の心がもう変わってしまったことを知っている。

“僕はもう、ユリに憎まれているだろう。”そう思いながら僕はとんこつラーメンのスープを啜った。“ユリはこうして一緒に居てくれるけど、それは「彼女を救ってやれなかった僕を痛めつけるため」なんだ。彼女は僕を愛していない。でも僕は、彼女と一緒に居たいと思っている。こうしていつも、本当なら毎日会いたいと思っている。それは一体、なんなんだろうか…。”とんこつラーメンは白く濁って底が見えず、僕がそれを飲み干してもユリはまだ麺を食べ切れていなかった。

「ごちそうさま」

「ごちそうさまでした」

ユリはラーメンを食べ終えて、僕に微笑んでくれた。でも、ユリの作り笑いは、もう僕を喜ばせるためのものではなく、僕を欺いて手元に置くためなのだと、僕は分かっていた。

店を出た後でユリに後ろから蹴られて、「死んじまえ」と囁かれた。僕は、「死なないよ」とだけ返した。




寂しかった。苦しかった。“なぜ僕は愛したのに傷つけられなくてはいけないんだ。”やっぱり僕はそう思う気持ちを止められなくなって、ある日たまりかねて東野を呼び出した。愚痴を聞いてもらおうと思ったのだ。



「よお、どうしたよ。急に文ちゃんの方から電話してくるなんてめったにないもんで、びっくりしたぜ俺ぁ」

東野はそう言って、行きつけの飲み屋までの道をもう歩き始めている僕を、心配そうに覗き込んできた。僕はなんとなく顔を逸らす。

「店に着いたら、話すよ…」

僕たちは東野の最寄り駅に集まって、そこらで飲み歩く時にはまず初めに行く店をさして歩いていた。そこは何も無い田舎道で、人も歩いて居なかった。僕が降りたのはほとんど無人のような駅で、そこから国道を横にくぐる地下通路を歩いて行けば、駅前の街に出る。とは言っても、ほとんどの店がもう潰れた後だった。でも、「いい焼き鳥屋があるぜ」と東野が言って連れて行ってもらった店は、意外にもとても美味かった。

駅前通りを左へ折れて、国道より一本逸れた道を歩いて行く。そこはなんということはない住宅街だった。その中に、一階が店の構えで、上はご主人夫婦が住んでいる住居なのだろう焼き鳥屋が見えてきた。

「いらっしゃいませ」

ガラガラと引き戸を開けると、ご主人がすかさず僕たちを迎える挨拶をする。僕はうつむいたまま、座敷の席を選んで「ここにしよう」と東野に言った。東野は僕があまり人に聞かれたくない話をするつもりだと分かってくれたのか、「いつも通りにカウンターに座ろうぜ」とは言わなかった。




「ユリは…もう僕を愛してないんだ。それなのに一緒に居て、僕に復讐したがる。あの子があんな風になるなんて…。でも、ここまで来たらもう僕のせいじゃない。あの子は自分が満たされないから、誰かを傷つけたくてしょうがないのさ…それで、それをやっちまったんだ…僕でね…」

「おい、文ちゃん、それ以上は体に良くないぜ。また倒れたらどうするんだよ」

僕は長々とユリの愚痴を喋る間、ほとんど休みなく、言葉が途切れれば酒を飲んでいた。東野は心配してそれを止めようとするが、僕は「こういう時は飲めるだけまだ丈夫と思って飲んで忘れればいいんだよ」と、理屈に合わない返しをした。すると東野はテーブルに突っ伏して顔を上げているだけのような僕を覗き込み、こう言った。

「別れなきゃ、ずっとそのままだぜ、文ちゃん」

それで僕はびっくりして、急に怖くなった。“そうだ。別れればもうこんな目には遭わない。でも、ユリと別れるなんて…。”そう思って僕は、東野から目を逸らすために自分の腕の中に埋めた頭をうつむかせる。

「気持ちはわかるぜ。酷い扱いになっても一緒に居たい相手も居るだろうさ。でもよ、多分その子は文ちゃんじゃ変えられないぜ。だって文ちゃんは精一杯をやったのに、その子は「それでも足りない」なんて、そんな真似するんだろ?はっきり言って…文ちゃんのためにもならねえ」

「うるせえな…そんなん分かってるよ!」

僕は急にまともなことを喋り出した東野に向かって怒鳴ってやりたくなった。東野があんまりに見透かしてしまって、よりによって最悪の結論を出したからだ。“そんなの分かってる。ユリがろくな女じゃないなんてもう知ってる。でも僕は彼女を見捨てられないし、だから僕は丸っきりハナから負けてるんだ!”そう思って泣きそうになった。

「落ち着けって文ちゃん…」

「落ち着けるか!分かってるよ!僕は彼女に…ユリに…“裏切られた”と思われたんだよ…!」

「文ちゃん…」

僕の言ったことに東野はもう何も言えなくなってしまったのか、大人しく串焼きをかじっていた。



その晩、僕は結局酔いつぶれて東野の家に運ばれた。僕は東野に介抱されながら、「ユリとは別れる」、「もう別れる」と何度も言った。それを聞きながら東野は、「わかったよ、もう寝ろよ」と言って、寝そべった僕の肩を叩いた。僕はそんな状況だったにも関わらず、頭にユリの笑顔を思い浮かべて泣いていた。




つづく
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