第6話 失恋(2)

文字数 4,415文字

日々が過ぎてゆく。ユリと別れ別れになって一年ほど経つと、僕はかつての友達とまた遊び歩くようになっていた。それは僕が二十代の頃、僕が家で倒れていると決まって現れて僕を病院に担ぎ込み、目を覚ますまで待ってくれていた奴だった。名前は東野雄木。僕と同い年で、高校の頃からの仲だった。学生時代は麻雀仲間だったし、僕が大学に進んで東野が車の整備員になってからも連絡を取り合ってたまに僕の家で朝まで話し込んだ。東野は僕を喜ばせようと下手な冗談を言ったりして、僕がそれを笑ってやると東野も嬉しそうにしているのだった。


その日、僕は東野と新宿に繰り出した。僕は給料が入って懐都合が良かったし、東野はやけに浮かれて騒ぎっぱなしだった。「文ちゃん、飲もう!」と僕を急かしては、東野は僕のグラスにどんどんビールを注いだりワインをぶちまけて笑っていた。僕は女みたいなあだ名で呼ばれてついつい「文ちゃんはよせよ」と言ったが、「なんだい、別にいいじゃねえか」とそのたび東野はぷいっと横を向いてしまうのだった。


「あー、気持ちわりぃ…」

「そりゃああれだけ飲めばな…」

僕たちは新宿の裏路地を歩いていた。帰り賃はあるにはあったが、電車がもう無かった。「新宿駅前でどっか座れるところを探そう」と二人で決め、そこまで歩いて行く途中だった。

「そういやあよぉ文ちゃん」

「ああ?」

不意に東野にまた変なあだ名で呼ばれて、僕は少し苛立ちながら返事をすると、東野はそれまで何も言っていなかったのに、突然こう言った。

「俺ぁ知子と別れたんだぜ。だから、これからは一人で自由気ままに生きるんだ」

僕は思わず、後ろをついてくる東野を振り返った。「知子」とは、東野が長い間仲の良かった奥さんだ。東野は僕に向かってにかっと笑ったが、それはどこか恨みがましく見えて、禍々しいとも言えるような、ひん曲がった笑い顔だった。僕は黙って前を向き、しばらく歩く。

「東野…」

「なんだよ」

後ろから返ってくる声はやっぱりのん気な東野の声だった。一体知子さんと東野の間に何があったのか知らないが、僕は東野を慰めたかった。でも、離婚なんてものをした東野からすれば、僕の悲しみなんか小さくてつまらないかもしれない。

「僕もこの間失恋したよ」

僕がそう言うと東野は後ろでぷっと吹き出して、立ち止まって大声で笑い始めた。よほど酔っ払っていたのか、東野はしばらく笑うのをやめなかった。僕は、東野が僕を馬鹿にするはずなどないと知っていた。だから東野が“手痛い目に遭った男二人がつるんでいる”のが滑稽で笑っているだけだと、分かっていた。それからやがて笑うのをやめたときも、東野は落ち込んだ顔など見せなかった。

「あー、こらぁおっかしいや。じゃあよ!もう一軒行くか!」

そう言う東野に「もう金がない」と言うと、「じゃあおごるぜ、これからは嫁に渡す分もねえからよ!」と、東野はまた笑った。“どいつもこいつも、悲しいくせによく笑うな”と思って、僕はまたユリのことを思い出した。




それから一時、東野と僕はよくつるんで飲んで歩いたが、ある頃から僕は東野を避けるようになっていった。

東野は奥さんだった知子さんを忘れることが出来ずに、酔っ払ってタガが外れると「知子…知子…」と名前ばかり呼んで、いつも酔いつぶれるまで飲むようになった。それから、「飲み代を立て替えてくれ」と何度か言われ、最後に断ったときには気に入らなそうに「なんでぃ、けちん坊」と言い、店を出ると東野は僕を置いて、ずんずん歩いて行ってしまった。

僕は東野の暮らしや人柄が荒れていっているのが分かったし、付き合い切れないと思ったのだ。でも、僕が死にかけると必ず救ってくれた東野を見捨てるなんて、容易に出来ることじゃなかった。“このままじゃダメだ。それに、僕には無理だろう。”誰か聞いてやる人が居るなら、東野は知子さんの名前を呼び続けるに違いないし、どちらにしろ、僕に今の東野を支え切ることなど不可能だった。

僕は東野の電話番号を着信拒否リストに設定して、“家に押しかけてきてもドアは開けないでおこう”と思った。でも、東野は家には来なかった。何もないまま五カ月ほどが過ぎ、僕はそのまま東野のことを忘れてしまった。僕は自分の苦しみにも気を取られていたからだ。





夜、寝る前になると、いまだに友達登録だけはされたまま、なんの連絡もなくなったユリとのメッセージ画面を見る。それが僕の日課だった。もうそらんじることが出来るほど、僕は一つ一つを噛みしめた。ただの「おやすみ」や「今日ヒマ?」を、何度も何度も読み返し、そして“今にまた同じようにユリから連絡がありやしないか”と望む心、そして、“そんなことが起きようはずがない”と冷めた頭に僕は真っ二つにされ、ときたま涙を流した。でも、いつまでそんなことをするのも、体力の限界だった。その頃僕はもう四十七になっていて、ユリと出会ってから四年が経っていた。

僕はその晩もそんなことをしてから、ビートルズが演奏するロックのスタンダードナンバーをスマートフォンで聴いた。それは、ユリから電話が掛かってきたときの着信音に設定してある曲だった。“ギター小僧だった頃には、よくビートルズを演奏したもんだ。”そう思い、ユリとの話を思い出す。ユリはビートルズも聴いたことがあると言って、僕がジョン・レノンについて語ったとき、興味深げに耳を傾けてくれていた。

スマートフォンをパーカーのポケットに放ってビートルズをイヤホンで聴いたまま、僕は立ち上がって台所へ行った。空腹だったのだ。シンクの上にある戸棚の中から袋麺を取り出して、コンロの上にほったらかしの鍋に水を汲み、湯を沸かそうとした。そのとき、イヤホンから流れていた曲が急に初めに戻って、僕はびっくりした。

「なんだ?」

思わず独り言を言ってスマートフォンをポケットから取り出すと、画面には「藤田 百合 着信」とあった。

「ええっ!?」

また独り言で叫ぶと、僕は慌ててイヤホンを外し、画面を上へとスワイプさせて電話を取る。恐怖に近いほどの喜びが襲い、僕の手は震え、声だって抑えが利かないかもしれなかった。でも、スマートフォンからはまだ何も聴こえてこなかった。

「…もしもし?」

「久しぶり!元気?」

それはやっぱり、間違いなくユリの声だった。僕は涙が込み上げて大泣きしたり声が震えてしまうのを抑えて、「本当に久しぶりだね。どうしたの?」とだけ返した。電話の向こうのユリが一瞬ためらっているように、ちょっとの間があった。

「いやー、こっち来ていろいろあってね、高校とか忙しかったから連絡しなかったけど、どうしてるかなーって思って」

“どうしてるもこうしてるも、毎日君のことを考えてたよ。”よっぽどそう言いたかったけど、言えなかったから、「なんとかやってるよ、高校はどう?」と聞いた。

「うんー、そろそろ卒業!だーれも友達出来なかった!」

そう言ってユリは電話の向こうで笑っている。僕は、ユリがどんなに美しくなったかを想像した。

「まあそういうこともあるけど、残念だったね」

「そうでもないよ。いじめられなくてよかったくらいにしか思ってない」

「うーん、まあね」

僕はそんな話をしながら湯を沸かして袋麺を茹で、しばらくユリと話せる喜びに浸った。ユリの声は少し大人びて、前よりもずっと快活に響いた。彼女が笑顔で居るのが分かる。それは喜ばしいことのはずなのに、僕は電話を切ったとき、ユリと別れた直後よりもさらにユリを遠くに感じた。


“ユリは新しい生活をすんなりと受け入れて、そこで愛され、そして以前のように悲しんでばかりだった日々を抜け出した。もう僕とは違う世界に生きているんだ。なおさら僕はユリに近づくべきじゃなくなった。僕みたいな奴がユリに近寄ったところで、ユリはなんとも思いやしないかもしれないし、もうユリに慰めは必要ない。僕はユリにとって、なんの意味もなくなった。”
僕はそう思って、具も何もないラーメンをすすってから、酒を飲むのも忘れて布団に包まった。

ユリは「また遊ぼうよ!」と言ってくれたし、「そうだね、暇なときにでもおいでよ」と僕も言ったのに、僕は“またあの地獄のような苦しみがやってくるかもしれない。彼女に対して自分を偽らないといけない時間がやってくるのかもしれない。恋など打ち明けられる立場ではないし、僕はもう必要ですらないんだから、僕はユリに触れられないまま彼女の美しさを見せつけられて、自分を抑え込むだけの日々がやってくるのかも…。”と、ぐるりぐるりと布団の中で迷っていた。その晩はなかなか寝付かれなかった。





明けて翌朝、またユリから電話があった。

「はいはい…おはよう…」

僕はまだいくらか眠っているような頭を起こしてスマートフォンを充電コードから外し、電話を取る。電話の向こうのユリはもうしゃっきりと起きているようで、「今日が暇なら会わないか」と持ち掛けてきた。僕はその朝は少し体調が悪かったし、でも仕事はなかった。明日からは四日連続で生徒の家を回って勉強を教えなくちゃいけないけど、今日はちょうど空いていた。

「うん、じゃあ、ペンギンの前ね。ごめんね、遠くまで来させちゃって。うん、じゃあまた」

そう言って電話を切り、僕はもう一度眠りに戻ろうとしたけど、結局ユリと決めた夕方までそわそわと落ち着かず、食事すらしなかった。





駅前のペンギン像は相変わらずにこにこと笑顔で立っていて、この雑然とした街の中で子供のように無邪気に見えた。僕はジャケットの前を閉めて、寒い北風が吹く中でユリを待っていた。寒いはずなのに体がポカポカと温かく、それなのにすでに痛み始めている胸を抑えて、僕は何度も改札を振り返った。でもしばらくまた前を向いて立っていたとき、後ろから「とたたたっ」と軽い足音が駆けてきて、僕が驚いて振り向くと、ユリがこちらに走って来るところだった。僕はそのユリの姿にびっくりして、彼女が目の前に立ったときも、しばらく何も言えなかった。

ユリはあの頃と変わらず髪は短かったけどそれは艶やかになびいて、おそらく学校の制服なのだろうスカート姿でしなやかな足を晒し、前とは全然違う軽やかな足取りと、心底喜んでいるような表情でこちらへ来た。それは元々美しいユリが、ちょうど一番美しく見えるようにと誰かが気を遣ったように見えた。

「どうしたの?」

何も言えないでいた僕にユリはちょっとそう言ったけど、「いやいや、あんまり美人になったからびっくりしたんだよ」と、僕はわざと本当のことを冗談めかして言って、その場を凌いだ。

「あはは、そんなことないって!じゃあ「ハーベスト」に行く?あ!それと、今日は割り勘ね!私、バイト始めたから!」

そう言って得意げに胸を張ってみせるユリは可愛らしかったけど、僕は「ダメだよ。ここまで来るのに結構お金掛かるでしょ、東京からだもの」と言って聞かせた。





つづく
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