こわれもの(3/3)

文字数 2,638文字

 金曜日の夜、渋谷の大盛堂書店で本をまとめ買いして自宅に帰るバスの中で、リョータは俊之の研究所で秘書をしている芳沢映子を見かけた。父を訪ねる度にお茶を出してくれる優しいお姉さんが、実は父の教え子で博士号を持つ才女だと知ったのは中三のときだったろうか? そんなことを思い出しながら声をかけようとしたとき、彼女が小さな子供の手を引いていることにリョータは気づいた。映子を見上げる男の子の顔が目に映った瞬間、リョータは雷に撃たれたようなショックを感じた。その顔が、家族の写真アルバムにあった自分の幼い頃と瓜二つだったからだ。
 三つ手前の停留所で二人はバスを降りていったが、映子はリョータにまったく気づいていなかった。声をかけなくて良かった……とリョータは胸をなで下ろした。

 家に帰るとすぐに、リョータは母幸子にバスの中で遭遇した出来事を話した。すると幸子は、その子がリョータの腹違いの弟であることと、俊之が平日に家に帰らなくなった理由を泣きながら語り、最後にリョータに懇願した。
「お願いだからヤスハルには絶対に言わないで。あの子はあなたと違って繊細だから」

 いつもどおり授業が午前で終わった土曜日、帰宅途中の品川駅からリョータはいつものバスに乗らず、目的もなくふらふらと歩き続けた。タバコを吸うために立ち寄った喫茶店で、隣の席から話し声が聞こえる。
「学校のこととかさ、親のこととか、嫌なこと全部忘れられるぜ」
 リーゼント姿のヤンキー男が、もう一人に「頭痛薬」を勧めていた。

 リョータは早速耳にした鎮痛剤を薬局で購入し、ヤンキー男が話していたようにいっぺんに十錠を口に入れ、公園の水飲みでむりやり胃に流し込んだ。やがて意識が混濁(こんだく)しはじめ、バス停のベンチに座り込んだリョータの脳裏に一つの記憶が蘇ってきた。
「あ、ごめんなさい!」と頭を下げ、長い髪をかき上げながら微笑む笑顔。「ヤスハル君のお兄さんですよね?」
 中学の一年後輩で、弟のクラスにいた内田アカネと下足でぶつかりそうになった時のことだった。

 朦朧(もうろう)としたままバスを乗り継いで、リョータは気づくとアカネがアルバイトしているパン屋の前に立っていた。アカネは店先に立ち尽くすリョータの異変に気づいて外に出てきた。
「木島先輩、どうしたんですか? 顔が真っ青」
「死に……いや、急に君の顔を見たくなったんだ」
 アカネはあきらかに困惑していた。
「お店の休憩室で休んでいきます? 店長にお願いしてきますけど」とアカネに言われて、リョータはようやく我に返った。
「いや、ごめん。もう大丈夫。タクシー拾って帰るから」
「一人で大丈夫? お店の男性に付き添って貰っても……」
「大丈夫。アカネちゃんの顔を見たら元気になった」
 乗り込んだタクシーの窓から振り返るとアカネは心配そうに見送っていた。リョータはあまりにも愚かな行為を恥じて、合法非合法にかかわらず金輪際薬物には手を出さないと自分の良心に固く誓った。そしてその晩、アカネに電話で愚行を詫びた。

 五月の連休にリョータは銀座に足を運ぶ。港区に越してから渋谷に出る機会が多くなっていたから、わずか数か月ぶりだというのに銀座の空気を少し懐かしく感じた。
 レコードを買うつもりだったが、楽器店のレコード売り場で、リョータはオーディオメーカーのショールームで新譜レコードの試聴が出来たことを思い出し、勇み足でテクニクス銀座に向かう。幸い一番気になっていたLPが入荷していた。それがイエスの四枚目アルバム『こわれもの(Fragile)』だった。
 リョータは日本では『イエス・サード・アルバム』と呼ばれる彼らの前作を持っていた。中三の時に購入した元ヴァニラファッジの二人が結成したカクタスのファーストアルバムと交換に友達から入手したのが、そのイエスの三枚目アルバム『The Yes Album』で、リョータはかなり気に入っていた。
 その後イエスは、キャット・スティーヴンスの『雨に濡れた朝』のピアノ演奏で話題になったリック・ウェイクマンにキーボードプレイヤーが交代し、満を持して発売された『こわれもの』は音楽雑誌でも絶賛され、かなり話題になっていた。エンジニア・プロデューサーのエディ・オフォードの仕事ぶりや、後にスタジオジブリのアニメーションや映画『アバター』の世界観にも影響を与えたと噂されるロジャー・ディーンが手がけたジャケット・デザインも評価が高かったが、リョータは何故か『こわれもの』に縁がなく、発売されてしばらく経ってもまだちゃんと聴いたことがなかった。
 期待が大きすぎれば満足できなかったときの失望も大きい。高ぶる感情を抑えながら緊張と不安が入り交じった複雑な気持ちでLPレコードのA面をセットし、レコードプレイヤーをスタートさせようとしたそのとき。人影に気づいてリョータが後ろを振り返ると、目元のぱっちりした小柄な女性がそこに立っていた。
「あの……もしよかったら、隣で一緒に聴かせて貰っても良いですか?」
 椅子は二つ、ヘッドフォンも二つ。断る理由は何もない。
「今借りようと思ったら先に借りられてたので、どうしようと思ってたんです。もしこのあと私が続けて借りてB面を再生すれば、二人で両面聴けますよね?」
 アルバムの試聴は一回につき片面ずつと決められていたから、なかなか良い提案だとリョータも感心した。

 アルバムを両面聴き終わった二人は、興奮気味に感想を語り合いながらショールームを後にし、銀座四丁目の楽器店に向かう道すがら自己紹介した。貸出伝票に書き込んだ年齢をリョータは記憶していた。
「ミユキさんは十八歳なんだね。高三?」
「早生まれだから大学一年」
「そっか、じゃ二年もお姉さんだ」
「えー? リョータさんは高二なの? 全然見えないね」
 楽器店のレコード売り場で、ミユキは国内盤の『こわれもの』を、リョータは輸入盤の『Fragile』を、それぞれ購入した。

 二人は日比谷公園を歩きながら、ちょっとした身の上話をした。
 ミユキの大学はリョータのマンションから徒歩十五分ほどの距離にある明治学院大学で、前橋出身の彼女は女子学生専用の寮にいるという。
 互いの連絡先を交換し合い、そして次の日曜日にまた会う約束を交わした。それはもちろんリョータにとって初めてのデートになる。
「映画はどう? 何か面白そうなの見つけたら前売り券買っておくから」
「じゃ、リョータさんに任せる。でも怖いのはやめてね」とミユキは笑った。
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