こわれもの(1/3)

文字数 3,014文字

 リョータの右股関節には、幼い頃に罹ったペルテスという大腿骨の骨頭部が壊死してしまう病の後遺症が残っている。三歳のときに発病し、入院先の虎の門病院で「半年以上の牽引を要する」という診断を受けたが、リョータの父俊之は、「こんな幼い子をベッドに縛り付けていたら心が方端(かたわ)になってしまう」と担当医に啖呵を切って、息子を病院から引き取ってきた。
 幸い牽引をしなくても脚はそれなりに伸びたが、左右の長さは微妙に違い、歩くと右脚を少し引きずる。走ると痛むために全力疾走が出来ず、運動は大の苦手だったから小学生の頃からよくイジメにあった。

 リョータが五歳のとき、俊之は離婚を前提に四谷三丁目にあった別宅で暮らしはじめた。長男で跡取りと言われたリョータは、母親とその母である祖母、そして一歳下の弟ヤスハルが暮らす市川の家を離れ、岡山、高松と父親の故郷を転々とした。父親自身は息子を育てるつもりはなかったから、もし離婚が決まったら父方の祖母か伯母の(もと)で養育されることになっていた。俊之は一度は別居を解消したが、その二年後にも再び家を出て暮らし始め、しばらくしてまた戻ってきた。相手の女性が身を引いて海外に永住した……と、リョータは後に母親から聞かされた。
 連絡船の汽笛の音。船尾から眺めた泡沫。巡礼の人々の白装束姿。幼い頃に伯母に手を引かれて旅した瀬戸内の記憶の断片がときどき甦り、その度に寂しさと虚しさがリョータの胸に込み上げてくる。自分は生きていていいのだろうか? 家族に必要とされていないのではないか? そう思う度に、リョータは自分を消してしまいたい気持ちになる。
 例えば、学校帰りに工事現場の近くを通ると、クレーンが釣り上げる鉄骨が突然頭の上に落ちて事故死するとか。公園や校庭で手に土が着くと、未知のウイルスか細菌が爪の間から入り込んでやがて熱にうなされて病死するとか。雨の日に水たまりを踏んでしまうと、その下に広がる底なし沼に落ちて苦しみながら溺死するとか。そんな、ありもしない妄想に支配されるのだ。

 リョータが生まれ育った市川は、伝説のレーサー浮谷東次郎や第2回日本グランプリで優勝した式場荘吉の地元で、モータースポーツ好きの多い街だった。ホンダのスポーツカーをS500、600,800と次々に乗り換え、いすゞのベレットGTや日産の初代GT−Rを新車で購入するほどのカーマニアだった地主の御曹司を、リョータはお兄ちゃんお兄ちゃんと慕っていた。休みの日にはエンジンの整備を手伝ったり、船橋にあったサーキットに連れて行ってもらううちに、リョータの一番の趣味はモータースポーツ観戦とミニカーや自動車関係の書籍収集、そしてF1やスポーツカーのプラモデル作りになった。自分と同じペルテスの後遺症に苦しみながらレーサーとして活躍し、イギリスで自身の名を冠するレーシングチームまで結成したニュージーランド人ブルース・マクラーレンがリョータのアイドルだった。
 俊之もリョータが幼稚園に通う頃から自家用車を乗り回す自動車愛好家だったが、リョータが小三の年に、飛び出してきた歩行者を撥ねてしまう人身事故に遭遇し、不幸にも相手の方は命を落としてしまう。当時は、どんな状況であれ相手が歩行者であれば自動車側の過失が十割とされたために、俊之は免許取り消しとなり、自家用車も手放した。そのため、木島家では自動車の話はタブーになっていた。
 俊之は子供たちには厳格だった。ヤスハルが自転車を買って欲しいと親にねだったとき、俊之は自転車の必要性についてレポートを書くよう命じた。「みんなが持っている」という理由は却下されたが、友達と遊べなくなるとヤスハルが落ち込んだために父親も根負けした。リョータも弟を真似て、小五の年にゴーカートをやりたいとレポートを書いたが、当然のことながら危険だという理由で却下された。

 休みの日は模型作りと電子部品の製作に熱中し、部品調達のために土曜の午後の秋葉原通いが始まる。そんな頃にリョータはローラースケートに出会った。日曜日の午前中、後楽園のローラースケートリンクに通い始めたリョータは、自分は運動がまったくダメなのではなく、走るのが遅いだけなのだと気づいた。しかし、バックスピンを練習しはじめた頃、リョータにとってたった一つの身体を使う楽しみは医師によってストップさせられた。
「スキーはまだ良いよ、雪の上だから。でもスケートはダメだ、アイスもローラーも。いいかい? 君の股関節は壊れ物なんだ。もし転んで強く腰を打ったら、二度と歩けなくなってしまうんだぞ」

 俊之の研究室は六本木のIBM本社ビルの隣にあった。研究室の設立に続いて、近くの土地を入手して家を建てる計画だったが、自家用車向けの任意保険がまだなかった時代だったから、遺族への補償金を工面するために計画は頓挫した。しかし、俊之は都心に移住する計画自体を諦めた訳ではなかった。職場から半径三キロ以内に戸建てかマンションを探し始めた俊之は、研究所の住所に息子の住民票を移し、リョータは一時間かけて六本木の中学に電車通学することになった。
 その頃からなぜか俊之は週末しか市川に帰らなくなっていたが、平日は仕事が忙しくて研究室に泊まり込んでいる……という母親の言葉をリョータたち兄弟は信じていた。

 中学に上がって秋葉原通いが映画館通いに変わっても、リョータは服装や髪型には無頓着だった。休みの日もワイシャツと紺のスラックスで過ごしたリョータは——そんな言葉が生まれるのはずっと後の時代だが——要するにさえない地味なオタクだった。そんな感じだから、もちろん付き合った女の子は一人もいない。決して女子が苦手なわけでもなく、よくおしゃべりもしたし、映画雑誌の綴じ込みポスターを交換するような仲のいい女友達もいた。しかし、どう頑張っても恋愛には発展しそうになかったから、リョータはジョアンナ・シムカスやジャクリーン・ビセットといった海外の女優のグラビアを眺めては溜息をついていた。
 中学時代の親友は文字通りの優等生だったし、リョータ自身の成績も体育以外は悪い時でも上位三割以内に入っていた。そんなリョータが理科の物理系の試験で九十八点を取った。間違ったのは一問だけで、文句なしに学年で最高得点だった。小さな公立中学だったが、後に同じ学年から東大を含む国立大に十人以上が進学したことを考えたら、それはリョータの人生にとって誇らしい成果の筈だった。
 母親は手放しで喜び、早く父親に見せて褒めて貰うようにと催促し、リョータは帰宅して晩酌を始めたばかりの俊之に恐る恐る答案用紙を見せた。
 俊之は、旧制中学時代に数学の教師から代わりに教鞭を執るよう言われたほどの秀才で、旧制第一高等学校から東京大学工学部に進学していた。
「こんな簡単な試験でなぜ満点が取れないんだ?」それが父親の第一声だった。「僕だったら小学生の時でも満点取れたぞ」
 そして延々と説教が始まり、母子は奈落の底に突き落とされた。
「なんで、パパに見せる前に学年で一番だったって言わなかったの?」と夫がトイレに立った隙に母親はリョータを責めた。
 そしてその日以来リョータは父親に無言の抵抗を始めた。勉強を一切しないというレジスタンスを。

 それから程なくして、リョータのアイドルだったブルース・マクラーレンがレーシングカーのテスト中に事故死した。

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