こわれもの(2/3)

文字数 2,255文字

 大阪で万国博覧会が開かれていた1970年の夏休み。メイン・コンピューターのシステム設計に携わった父親のコネクションで、リョータたち兄弟は母幸子と共に千里の仮設住宅に二週間滞在して大阪万博を満喫した。
 残された夏休みの二週間、リョータは高校進学のための受験勉強に専念する約束になっていたが、参考書も問題集も一切開かずに深夜放送で出会ったロック・ミュージックにのめり込んだ。シカゴ、ブラッドスエット&ティアーズ、サンタナ、ヴァニラファッジ、ジェファーソン・エアプレイン、トッド・ラングレン、マザーズ・オブ・インベンション、ジミ・ヘンドリックス、クリーム、ジェフ・ベック、レッド・ツェッペリン、フリー、ディープ・パープル、ピンクフロイド、ジェスロ・タル、キング・クリムゾン、ナイス、ソフト・マシーン……。
 小学生の頃から電子回路の設計や製作が好きだったリョータは、当時のロック・ミュージックに欠かせなくなった多重録音に興味を抱き、いつかレコーディング・エンジニアとなって日本人初のグラミー賞受賞プロデューサーになることを夢見るようになっていた。

 一方で、父親への無益なレジスタンスはあっという間に成果を挙げた。二学期の成績は急降下し、内申書の総合得点は五点も下がった。一学期に目標にしていた志望高は一ランク下げたうえに、滑り止めの私立校を受けるよう担任から指導を受けた。
 漸く滑り込んだ都立高校は、父親が期待する東大や東工大は遠く及ばず、国立は学芸大、千葉大、横浜国大が学年で一人か二人。私立も早慶への進学は極めて希で、成績上位の進学先は明治、立教、法政と、父親が聞いたら怒り狂いそうな偏差値六十前後の中堅校だった。当初の志望校よりレベルを下げたのだから、その気になれば中の上くらいの成績はキープできるはずとリョータは高をくくっていた。全く予習も復習もせず、宿題さえ提出しなくても、中学の頃は最低でもそのくらいには留まっていたのだから。そんなリョータも、初の中間試験で古文の赤点を含む見たこともないような低い点数に驚いたが、それでもいつかちゃんと勉強すればそれなりの成績に復帰できるだろうと幻想を抱き続けた。
 勉強に熱が入らない一方で、一年のときは写真に熱中した。暗室作業が好きで、高感度フィルムの増感現像や、サイケデリック・アートのようなプリントが得られるソラリゼーションに熱中し、夏休みはカメラバッグを担いであちこち撮影して回った。そして、酒やタバコの味を覚えた。もちろん未成年には許されないことだったが、旧制高校時代に羽目を外した経験のある父親は、そうしたことには比較的寛大だった。

 春休みに一家は長年住み慣れた市川から港区三田のマンションへと引っ越し、リョータは四年間続いた一時間以上の電車通学に終止符を打つことになった。
 引っ越しの前日、リョータは中学時代の友人の訃報を聞いた。ずっと入院していたことを知っていたのに、結局一度も見舞いに行かなかった。
 リョータが幼い頃に骨肉腫で亡くなった母方の祖母は、全身を解剖されてまるでミイラのように包帯でぐるぐる巻きにされた姿で家に帰ってきた。同居していた祖母に可愛がられて育ったリョータは、その時の恐ろしさが脳裏から離れず、友人が骨髄炎だと聞かされても、骨肉腫なのではないかと不安になって、なかなか見舞う勇気が持てなかった。
 そして葬儀の日に友達の病が怖れていた骨肉腫だったと知り、リョータは弱虫で人情のかけらもない奴だと自分を責めた。

 リョータはそろそろレジスタンスを諦めて父親に白旗を揚げるつもりだった。しかし、降参するべき相手は父親ではなく勉強そのものになっていた。もはや授業がまったく理解できず、予習復習さえ何から手を付けたらいいのかわからない。それまで「アンチョコ」と馬鹿にしていた「教科書ガイド」を初めて手にしたが、それさえも焼け石に水だった。

 弟のヤスハルは両親にドラムを買って貰い、高校進学と同時にバンド活動を始めた。その一方で、リョータは同級生のギタリストと二人だけで初めて練習スタジオを借りてドラムを叩いたばかり。すっかり弟に周回遅れにされたような敗北感さえ感じはじめていた。

 そして俊之は、三田に越してからも相変わらず週末しか家に帰って来なかった。

 リョータが激しく変貌したのは、そんな高二の春のことだった。
 都心に越して都会の空気を吸ったせいだと周りの人は噂していたが、きっかけは高一の秋に武道館で観たレッド・ツェッペリンの初来日公演で、その頃からリョータは半年かけて準備していた。
 五年前に来日して日本中に旋風を巻き起こしたビートルズ以上に、リョータの世代にとってツェッペリンが残していった足跡や爪痕は大きかった。ジミー・ペイジ、ロバート・プラント、ジョン・ポール・ジョーンズ、ジョン・ボーナムの四人は、日本の若者達にとってそれまで雲の上の存在だったアーティスティックなロックンロールを身近な存在に変える魔法をかけていったのだから。
 髪を肩まで伸ばし、11センチヒールのロンドンブーツを履けば——ツェッペリンのメンバーは誰もそんなものを履いていなかったが——167センチのリョータも178センチになる。ベルボトムのジーンズでブーツを隠し、ボール紙を切り抜いた型紙で白いエナメル塗料を吹き付けて好きなロックバンドの名前を「プリント」した黒いTシャツを着て街を闊歩すれば、弱虫で壊れ物の自分でも一端(いっぱし)のミュージシャンになれたような気分だった。

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