三.

文字数 3,210文字

 離れはアトリエになっていた。
 テレビン油のにおいが強く漂う、十畳の板敷きひと間だ。床の真ん中に、熱く燃えるストーブと椅子が二つ置いてある。
 そんな部屋の壁際に立て掛けてあるのは、何十枚ものカンバス。描き上げられた物も、未完の物もある。ここにあるのは総て美野の作品らしく、彼の署名がある。
 スリッパに履き替え、コートを脱いだ卜部は、鞄と果物篭を提げたまま、カンバスの油彩をじっくりと見入る。
 ここに置かれた作品は、圧倒的に風景画が多い。それも、恐らくは日本の風景を写した物が、ほとんどを占めている。
 例えば、印象派を髣髴とさせる荒い点描の浜辺。
 グレーの海と灰色の砂浜、そのあわいを別つ血の色の水平線。濁った斜陽の差す浜には、ぼろぼろの網が干してある。この懐かしくも物悲しい油彩画は、比較的最近の労作と思しい。
 だが年代を遡るにつれ、描写も技巧も写実的になる。
 緑の棚田、古都の瓦、都市の欧風な街並みと賑々しい往来。そして、卜部が見つけ出した最古の作品は、意外な油彩だった。
「これは、ひょっとして……」
 床に鞄と篭を置いた彼は、両手でそっと小さなカンバスを取った。
 布面に描かれているのは、ぼんやりとした色調の人物。雲を渡る馬上の騎士らしい。金色の極光をまとい、槍らしい物を携えた勇壮な姿を斜め下から捉らえてある。
「どうしたね?」
 ストーブから湯気を吹くやかんを取り、茶を淹れる美野。ふと顔を上げた美野は、卜部が自分の古い絵を手にしているのに気が付いた。
「おお、また骨董を見つけたね」
 照れ隠しの様な戯けた口調で美野が口走ると、卜部はそのカンバスを手にしたまま、ストーブの側に寄った。
「これ、“ワルキューレ”でしょう? 美野さんが、こんな題材を描いていたなんて意外だな」
 すると美野は、小さな苦笑を洩らした。古びた湯飲みに緑茶を注ぎ、彼は木製スツールの上にそっと置く。
「まだまだ駆け出しの頃、『エッダ』や『ニーベルンゲンの歌』に凝っていてね。日本の原風景に気付く前のことだよ」
 よっ、と軽く声に出して、美野は椅子に腰を落とした。卜部も、両手で持ったカンバスを見つめたまま、ストーブを挟んだ向かいの椅子に座っている。
 美野が卜部に視線を向け、ゆっくりと切り出した。
「それで、皆どうしているね? しばらく君たちの美術部に顔を出せなかったが……。迷惑をかけて、本当に申し訳ない」
 心底すまなさそうにうなだれて謝る美野に、卜部は謙虚な笑みを浮かべて答える。
「いいんですよ。美野さんはお加減が悪かったんですし。みんなそれなりにやっていましたから、ご心配は要りません。僕たちの方こそ、もっと早くお見舞に伺えば良かったんですが」
「丁度、学園祭のシーズンだものなあ。君たちも忙しかった事だろうね。展覧会も多かったろうし。そんな時に私が居られなくて、本当に悪かったよ」
 卜部は小さく苦笑にも似た息を洩らし、ずり下がってきた眼鏡を押し上げた。
「美野さんに教えてほしい事がある、って言ってた後輩もいたけれど、急ぎじゃありませんでしたから。それに、みんなでカバーできましたし」
 卜部はカンバスを床に置き、果物篭を取り上げて膝に載せた。
「これはみんなの気持ちです。『先生によろしくって』、言ってましたよ」
 美野がくすぐったげに、目尻の皺を寄せた。孫の言葉を聞く祖父にも似た表情で、彼は苦笑する。
「月に何度かしか指導しない“雇われ顧問”の私には、“先生”という呼び名はどうも似合わないなあ。仕事柄、よくそう呼ばれるけれどね」
 そう述懐しつつも、篭を受け取った美野は林檎を一つ取り出した。
「でもありがとう。さっそく頂こうかね」
 腰を上げかけた美野を、卜部が押し留めた。
「ああ、僕が剥きますよ。ナイフは持ってきていますから」
「まさかペインティングナイフじゃないだろうね?」
「さあ、それはどうでしょうね……」
 素直に美野が林檎を卜部に差し出す。卜部も、ポケットから小さな果物ナイフを出しながら、真っ赤な林檎をそっと受け取った。
 卜部は黙したまま、林檎の皮を剥く。美野も口を閉ざしている今、ストーブに戻されたやかんと林檎の立てる音が、アトリエの空気が沈黙に陥るのを辛うじて防いでいる。
 ややあって、美野が卜部を呼んだ。
「孝君」
「はい?」
 卜部の答える声を聞き、美野が顔を上げた。視線を卜部に向けると、彼は林檎を剥き終えようとしている。一瞬向き直った卜部に、美野が問いかける。
「君はグングニルを見た事があったかな?」
「ええ、何度か」
 眼鏡の奥の目をわずかに細め、懐かしげな微笑で卜部は答えた。
「茶色の大きな犬でしたね。人なつっこい、綺麗な犬だったのを覚えていますよ」
「綺麗か。ありがとう」
 嬉しげな、それでいてやはり寂しげな微笑を湛え、美野は目を閉じた。
「でもグングニルは全くの雑種だったんだ。道端で拾ったんだよ。まだ駆け出しの頃にね」
「駆け出しって」
 卜部は手の林檎を切りながら、他意なく眉根を寄せた。
「一体、何十年前の事ですか?」
「さてねえ」
 とぼけた調子で笑いながら、美野はゆっくりと腰を上げた。
「それは君の豊かな想像力に任せよう。ただ私が『エッダ』に凝った頃だというのは……」
「すぐに解りますよ」
 ちょっと笑って、卜部はガラス棚の前に立った美野から皿を受け取った。
 彼は濃緑の美しい織部の皿に裸の林檎を載せながら、本棚へと向かう美野の姿を目で追う。
「どっちにしても、かなりの長命でしたね」
「うん。そうだね」
 驚嘆に満ちた卜部の言葉に背中で答え、美野が傍らの本棚から何冊ものスケッチブックを引っ張り出した。
「まあ観てくれないかね」
 美野がしわに覆われて骨ばった、それでいてこの上なく繊細な手で、卜部にスケッチブックを差し出した。
 卜部は皿をスツールに置くと、ハンカチできれいに拭いた両手でスケッチブックを受け取った。
「拝見します」
 すっかり古くなり、紙が剥がれ始めたスケッチブック。年月が色を変えたその表紙を、卜部はゆっくりと開いた。
 最初の一枚は、小犬のデッサンだった。
 茶色のコンテで巧みに柔毛の光沢を表現してある。座ったポーズ、ちょっと澄ましたポーズ、だらしなく寝転がったポーズ、たった一つのモデルを、様々な角度と表情で捉らえてある。
 小犬は、紙を重ねるごとに少しずつ成長してゆく。そして何冊目かのスケッチブックで、卜部も知る雄々しくも愛嬌のある、大きな犬の姿になった。
 木炭や鉛筆で描かれた犬の筆致は至極優しく、美野の目を通した犬の眼は、生命力に溢れている。
「……私とグングニルは、ずっと苦楽を共にしてきた」
 遥かな視線で、美野が虚空に過去を捜す。酸いものも甘いものも、総てを思い返し、老画家はその中の友の面影を噛み締める。
「孝君も知っているだろうが、私は遅咲きだった。そんな私が無名の時から、彼は私を支えてくれた」
 美野はゆっくりと目を伏せた。天を仰ぎ、彼は絞り出す様な声でぽつりと呻いた。
「最後まで、私をかばってくれたんだよ」
「どういうことですか?」
 尋ねた卜部の手の中のスケッチブックは、最後の一冊の、最後の一枚になっていた。
 そこに描かれているのは、寂かに横たわる老犬の躰。墨だろうか、インクだろうか。漆黒の画材で、殴るように描きつけてある。太い線で荒々しく写し取られた犬の姿は、末期の命のみが漂わす、手を触れ難い荘厳さに満ちている。秘された激情が黒い線の陰から溢れ出す、モノトーンの絵に卜部の視線は囚われた。
 微動だにせず、一枚の紙を凝視する卜部の横顔を見つめつつ、美野は寂しげな笑いを零す。「君になら話してもいいかな。信じてくれるかも知れない」
 美野は静かに語り始めた。
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