四.

文字数 1,803文字

 孝君は、今日は私の見舞いに来てくれたのだね? 
 私の病気というのは何でもない、風邪を拗らせた肺炎だったんだよ。何しろ、私も元来丈夫な方ではない。知ってのとおり、私は独り身で看病してくれる家族もない。おまけに半分引 退したようなものだから、訪ねてきてくれる人もほとんどない。
 いつも側に居てくれたのはグングニルだけだった。寂しい奴だ、なんて言わないでおくれよ。私はそれで満足だったんだからね。
 しかし、それも元気な時の話だ。倒れてしまっては、そうも言っていられない。
 片時も離れず私の側にいてくれたグングニルだったが、彼に私を看病できるはずもない。彼はいつも悲しげな目をしていたよ。刻々と命が薄くなる私を前に、何も出来ない事が辛かったのかもしれないな。
 そんなある時、滅多に吠えないグングニル唸り声を上げたんだ。
 霞んだ目を凝らすと、私の枕元に一人の男が立っていた。黒い喪服を着た、痩せた男だったよ。男は私に、厳かに告げた。
「そろそろ覚悟を決めた方がいい」、とね。
 私の手とよく似た手に、消えかけたランプを提げたその男が何者なのか、私には解らない。だが男は去り際にはっきりと言ったよ。
「いずれもう一度来る。それまでに生命が戻らなければ、私と行こう」
 その時も、グングニルは私の側にいた。
 それから一日二日の事だと思う。時間の感覚も、すっかり亡くなってしまっていた。朝も晩も解らない様ではもう駄目かな、私は本気で思ったよ。
 喪服の男の言葉どおり、半ば覚悟を決めて私が目を閉じた時だった。
 彼、グングニルが私を呼んだのは。どうやって? 私にも解らない。とにかく、聞こえたんだ。彼が、私を呼ぶ声が。
 もう一度目を開くと、枕元に座ったグングニルが片手を出していた。
 もちろん、彼が口をきいた訳ではないよ。その目が、どこまでも優しいその目が、私にそう語っていたんだ。私はグングニルが誘うままに、その手を取った。
 その瞬間、私は感じたよ。莫大な量のエネルギーが、彼の手を握った私の手を通して、私の中に流れ込んできたのを。いや、宇宙を体験したと言っていいかもしれないな。あの感覚は、言葉では表現し切れない。温かくて、優しくて、切なくて……。そんな感覚が、感覚を亡くした私の手足の先にまで広がっていった。
 そして何分か、私の感じた宇宙が広がりを失った時、グングニルは崩れる様にしてゆっくり横たわり、静かに目を閉じた。
 そこへ喪服の男が現われた。男は私とグングニル、それに手にした明るいランプを見比べて、私に言った。
「時は満たないようだ」
 男は伏せるグングニルの側に片膝を着いた。
「行こう。貴方の業は終わった」
 男が囁くと、彼は起き上がった。
「“神の槍”、貴方の友にしばしの別れを」
 その言葉に、グングニルは私に目を向けた。その黒い眼は、胸が痛くなるほど寂しかったよ。しかし、私には彼に掛けるべき言葉が見つからなかった。いや、本当に無かったのだと思う。必要なかったんだ。そんなものは。この想い、君に解るかな……。
 しばらくの沈黙の後で、グングニルは立ち上がった男を見上げた。彼の訴える様な視線を受けて、喪服の男は小さくうなずいた。
「では往こう」
 男はもう一度、わたしにその痩せた無表情な顔を向けた。
「今回は私は還る。貴方の天寿の尽きる時に、また逢おう……」
 男が言うのと同時に、その目の前にドアが現われた。男がドアを開くと、側に立ったグングニルはほんの一瞬、私に振り向いた。だがすぐに丸い目をドアの彼方に移し、男と一緒にドアをくぐって往ってしまった。ドアも、閉じるのと同時に消えてしまったよ。
 気が付くと、陽はもう高くなっていた。熱もなく、あれほど苦しかった息も、嘘のように楽だった。
 私は寝床を降り、目を閉じてうずくまる彼、片時も私の側を離れなかったグングニルの身体にそっと触れた。しかし、いや、やはりと言うべきかな。その身体はもう冷たくなっていたよ。
 とっさに、私は孝君が今見ている最期のデッサンを採った。墨と、筆でね。何とも言えない 哀しさが、涙に凝結して頬を流れたよ。
 彼の安らかな表情を見て、私は改めて悟ったんだ。グングニル、彼は自分の生命を残らず、私にくれたんだ、と。そうでなければ、あの男とあのドアをくぐって往ったのは、この私だと信じている。
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