五.

文字数 1,389文字

 そこまで語り終えると、美野は深いため息をついた。 
「こんな話、君は信じるかい?」
 問うておきながら、美野は微かな笑みを口許に湛え、目を伏せた。
「いや、嗤っても構わんよ。彼が私以上の高齢だったのも、確かな事だ。熱で見た幻覚だと言えば、それまでか」
 だが卜部は冷めかけた湯飲みに初めて手を延ばし、美野に聞き返した。
「その喪服の男、他に何か言っていませんでしたか?」
 美野はしばし記憶を手繰り、口を開いた。
「そういえば、妙な事を言っていた気がするな。まだ沢山の若者が復帰を待っている、早く行ってあげるといい、その時は孝君によろしく、とか……」
 自分の言葉にぎょっとして、美野は卜部の顔をまじまじと見つめた。
「あの男は君を知っているのかね?どういう関係なんだ? あの男は一体……」
 卜部は湯飲み片手に、ずり落ちた眼鏡を押し上げながら曖昧に笑うだけ。
「さあ、どうでしょうね。あの男とは、知らない仲ではないのは認めますけど、ね」
 悪戯っぽくそう返し、卜部は林檎のひとかけを取って茶を飲み干した。
「そろそろ失礼します」
 林檎を口に入れた彼は、鞄とコートを抱えて腰を上げた。大きな窓から空を望むと、西の彼方はもう赤い。
「おお、秋の陽はつるべ落とし、か。いや、もう冬だものなあ」
 腰を上げた美野もしみじみと呟くと、卜部はコートを羽織りつつ、美野に視線を注ぐ。
「もっと元気になられたら、またうちの部に顔を出して下さいね」
「ああ、そうさせてもらおうかね」
 遠い目で、美野は夕焼けの空を見遣った。そしてどこか空虚に響く笑いを洩らし、ぽつりと零した。
「とうとう、私も本当に独りだものな」
「そんなことありませんよ」
 即座に美野の言葉を打ち消して、卜部は美野の目を直視した。レンズの奥で年不相応な微笑を湛え、卜部は思いを言葉に綴る。
「みんな、美野さんが来るのを楽しみにしているんです。独りなんかじゃありません。『まだ沢山の若者が復帰を待っている』んですから。美野さんの復帰を」
 そう言っておきながら、卜部は心配そうに付け加えた。
「でも、無理はしないで下さいね。折角、もらった命なんですから」
「ああ、そうだね」
 赤みの差した鼻をぐすっとこすって、美野がうなずく。
「それじゃあ近い内に、また君の高校で会おうかね。今日は本当にありがとう。気を付けて帰るんだよ」
 アトリエを出た卜部は、戸口に立って見送る美野に会釈を残し、彼の家を後にした。
 木枯しの吹く黄昏の中、道すがら思い巡らす卜部は裏路地の一角で足を止めた。
 点ったばかりの街灯の下に、段ボール箱が一つ置いてある。その中には、一頭の小犬がちょこんと座っていた。
 箱の表には、一枚の紙が貼り付けてある。その紙面に大きく書かれているのは、『だれかひろってください』というたどたどしい文字。子供の筆跡だろうか。
 卜部は箱の前に膝をかがめた。
 箱の小犬は、小さな尻尾をちぎれそうな程に振りながら、無邪気な目で彼を見上げている。
 卜部も、しばしじっと小犬の目を見つめていたが、やがて呟く様に言葉を洩らした。
「俺たちでも分かり合えるかな」
 彼はひょいと小犬を抱き上げた。
「行こう、“草薙”」
 立ち上がった卜部は、再び歩き出した。その姿はだんだん見えなくなる。宵闇の中に、溶け込むようにして。
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