第8話 アフター

文字数 5,758文字

 「ここいいですか?」
 そう聞かれて断れる人がいないのを知っているかのように、麻里亜は私の前に腰掛けた。
 まだうんともすんとも言っていないのだけれど、学校での私は、内包したひねくれ具合の露出を控えている。特に文句は言わなかった。
 ここは中学の図書室だ。制服を着ている彼女を、私は初めて見た。ああ、本当に存在していて、同じ学校の生徒だったのだなと、信じる気のなかった正夢を突きつけられた気分である。
 「何、読んでるんですか?」
 読書や自主学習に使う大きいテーブルだが、透明な板で一席ずつ区切られていて、隣は座れないようになっていた。だから、前に来たのか。
 私は授業ノートの上に乗せた、小さい単行本を持ち上げる。
 「コンビニ人間?」
 ちゃんと垂直に見せているのに、なぜだか麻里亜は首を傾げた。リアクションをつけて喋れる女の子は、いつだってヒロインになれるんだよなと、どうでもいいことを考えてしまった。
 「ファンタジーですか?」
 「は?」
 「コンビニが人間に転生したりとか…ラノベであるじゃないですか」
 異世界転生ジャンルは、なろう小説でいくつか読んだことがあったけれど、コンビニに転生する人間の話があるとは思えなかった。あるなら読んでみたい。
 私の反応が芳しくなかったため、ごまかすようにけらけら笑って見せられた。マスクは薄いピンクにハートの刺繍が入ったデザインで、引くくらいラブリーだ。この子、こんなんでいじめられないのかしらと思ったが、きっとそこらへんもうまいのだろう。
 「本、読みに来たの?」
 私は単行本を、元の位置に戻して尋ねる。話題をつなげる義理はないが、ただ見つめられるといたたまれない。
 「先輩がここに入ってくのが見えて。私、B組なんですよ。ここの目の前が教室」
 「私に用があるの?」
 「特にはないです」
 言い切られてしまってはどうしようもない。私は本を読むことに集中しようと決めた。
 「それ、どんな話なんですか?」
 用はないが私の読書を阻害する権利はあるとは、やはり顔のいい子には、目に見えない特権でもあるのだろうか。頭をかすめる皮肉は息を伴わず、声にはならなかった。代わりになぜか返答している。
 「何年か前、芥川賞獲った小説だから、調べたらレビューがいっぱい出てくるよ」
 「先輩から聞きたいんです」
 目をキラキラさせているのがよくわかる。天然二重の子だ。
 「口で説明するの、そんな得意じゃないから…」
 「じゃ、なんで読もうと思ったんですか?」
 なんで。と聞かれてしまうと困る。インタビュー形式になったことで、答えざるを得なくなった。無色透明の板に隔てられ、面会に来た新聞記者と留置場の囚人みたいな構図だ。
私は嘘に真実を混ぜて返した。
 「表紙がなんだか…気になって」
 そう。これは説明不足の本当なのだ。
 この本を最初に読んでいたのは、何を隠そう美智子だった。
美智子は老眼がどうとか言って、めったに本を読まない国の住人なのだ。映画の字幕は読むくせにと、読書家の私は、よく蔑んだ。
 だから、駅前書店の袋を提げて帰宅し、そのまま手も洗わないで―このご時世怒られそ
うだが―買った本を読み始めた彼女の姿は、実に新鮮で覚えていた。
なんでも、バスを待つ間に立ち読みし、止まらなくなったのだそうだ。
私は麻里亜同様に、どんな話か尋ねたが、あえなく無視されたというオチでムカつく。
睨むついでに目に焼き付けた表紙絵は、京都の美術家である金氏徹平の作品だと、こっそり調べて知った。なんとなくイビツで、なのに、理路整然とした雰囲気を醸す一枚。後日、書店で同様のカバーを手に取ったが、私は美智子に対する反骨心で、その本を買うことができなかった。
 それが、テスト週間のいま、学校の図書室で勉強しようと思ったら、再会したのである。司書さんのささやかな工夫なのか、棚差しではなく透明なブックスタンドに立てかけられていた。
 「たしかに、可愛いですね」
 可愛い…という単語は、おそらく彼女にとって最上級の褒め言葉で、最も常套句なのだろう。目尻に寄ったシワで、にこにこしているのがわかった。
 この子、私とおしゃべりする気満々だ。相手の希望に疎い方だと自覚しているが、それだけはわかった。
 「うん。―出ようか」
 私は「コンビニ人間」を一時閉店させ、広げていた教科書やら筆記用具やらを足下に置いたリュックにおおざっぱに詰め込む。
 そんな、悪いですよ。
なんて。いそいそと支度する私を見て、慌てて退散してくれないかとも期待したが、人生そう思い通りにはいかない。それはここ数ヶ月の間で特によく学んだから、格別にがっかりはしなかった。
彼女は新入生らしからぬ短いスカートを翻して、入り口で待ってますと目だけで伝えてきた。まあ、もう「新」がつくほどに新しいわけでもない季節だ。女子バスケ部だと、あの丈は先輩から目をつけられかねないが、髪を束ねていないから違うのだろう。
 もっと大きいマスクを買えばよかったな。もうほとんど顔が隠れて見えないような。そうしたら、私はここで、麻里亜の目には止まらずにいられたのか?―自惚れではないが、自信はなかった。あの子、目が大きいから。
 貸し出しの手続きを済ませて出ると、麻里亜はさっきまでなかった紫にラメのリュックを背負っていた。どうやら教室に取りに行っていたらしい。
 つまりは一緒に帰るということなんだなと察して、下駄箱に向かって先導する。
 幸いなのかツイていないのか、一年と二年の下駄箱は並んだドミノ状の位置にあった。そのまま靴を履き替えて校門へ向かうと、お互いの家の方向を確認し、真逆だと判明する。
 「まっすぐ行きましょうか」
 その発想はなかった。
 確かに左右に分かれた道とは別に、目の前に直進できる選択肢はあるが、私は行ったことがない。
 「突き当たったら、またどっち行くか考えちゃえばいいですよね!」
「迷ったら…」
「私、ぺろの散歩してるから、方向感覚はいいんです」
 説得力は微塵も感じないが、私は未知なる道へ踏み出す。
 「岩殿先輩は、何部なんですか?」
 当たり障りのない会話が始まって、私はそれにきっかりとついて行く。
 麻里亜はときに大げさに、ときに厳かに反応を返し、気の利いた質問を生産し続けてくれた。この子、なんて話しやすいのだろうと、前回の初対面では気づかなかった良さを見出してしまう。このまま行くと、自分のネガティブに火がつきそうで、私は聞き役に回ろうとした。
 「私ですか?漫画部に入ってます」
 意外すぎる答えに拍子抜けた。だってこの子、メガネかけてないじゃないか!
 「コンタクトしてるんですよ。しかもハードです。ど近眼なもんで」
 照れたように笑った麻里亜に、一瞬だけ幻が見える。
 牛乳瓶の底みたいなメガネをかけ、顔がそのせいで変形している。マスクのダブルパンチで、顔面の優れた点が全てしまい込まれ、最後の砦の瞳さえ、白く曇って見えなくなる。
 そんな妄想を、一秒にも満たないだけした。
 「こっち行っていいですか?」
 私のハラハラとした心情といきなり湧き出た親近感をよそに、麻里亜は細い道を指差した。
 さっきまで気づかない程度の上り坂だったが、今度はえぐいくらい下がる。
 「いいけど…」
 帰りに登るの嫌だな。運動嫌いのセンサーが鳴っていた。
 でも了承はしてしまったのだから、麻里亜がさっさと降りて行ったのに従うしかない。
 ここら辺は、どうやら高所得者の家が多いようだ。敷地も広くて塀が高い。防犯カメラも散見された。
 「たしかこっちなんですよ」
 そう言ってすたすたと進む麻里亜の背中で、細い毛が揺れる。染めてはいないみたいだが、栗色だった。一体、私に何を見せようというのか。
 坂を下りきって住宅街を二角曲がった先に、その場所はあった。
 「これ」
 おそらく得意げな顔をしているのだろうが、マスクで全く見えない。とりあえず、麻里亜が立っているところから数メートル先へ視線を送り、私はぽかん、とした。
 「…影?」
 四角いコンクリートの二階建ての建物だった。デザイナーズハウスというやつなのか、住宅らしいけれど、生活感はない。
 外壁はただただ灰色かと思いきや、西向きの一面に、地面から「人影」が生えていた。麻里亜が私に指し示したのも、私が釘付けになったのも、そこである。
 まるで、本当に人が立っているかのような形と濃度の陰り。マイケルジャクソンがスムースクリミナルのMVで披露した、ありえないほど倒れて立つポーズほどの傾斜で、体勢はあれとは反対にやや上を向いている。
 麻里亜は小走りにそこの前に立ち、何度か背後を確認して、それがさも自分の影になるような位置に立って見せた。実物の麻里亜の影は、そこに折り重なっているのか。もしくは違うところに身を隠したのか、とにかく見えなくなる。夕日が照る頃合いに、それは自然と溶け込んでいた。
 「壁画なの?」
 少しばかり愛らしい少女が、人工物の影を引いて立っただけなのに、私はなぜだか見とれていた。我に帰って、急いで出した一声だった。
 「そうなんです。偶然発見して。教えたの、岩殿先輩だけです」
 いたずらっぽい言い方だった。心の裏側をこしょこしょとくすぐっているみたいだ。
 「上、気づきました?」
 指先の動きに誘われると、そこにもう一人分、影があった。
 ベランダから伸びていて、顔を出した人のものらしいが、もちろん本体の人間はいない。タバコでも吸いに来たのか、洗濯物を取り込んだ後なのか。手すりに腕を引っ掛けて、だらんとしたまどろみを帯びていた。初対面なのに、自分の日常と交わる誰かみたいで、哀愁と似たものが溢れている。
 この下と上の両者に、交流があるのかはわからない。けれど、存在感だけがしっとりと目に染み込む。
 「ここにいる」
 急に麻里亜が言った。
 私は惚けていたところで現実への命綱を投げてもらったように、ハッとして捕まった。
 麻里亜は私の元にまた戻ってくると、照れたように頭を掻いた。
 「私なら、そう名付けるんですけど」
 柄にもなく目をパチクリしてから、私は何を問われているか理解する。麻里亜はそれをさらに促す。
 「結構、いいネーミングじゃないかなって思ってるんです。岩殿先輩のハンコもらえたら、私はここをそう呼ぼうかなって」
 気恥ずかしくて見ていられなくなったのか、麻里亜は壁画の方を向いてしまった。横から射す陽の光で、彼女の髪がステンドグラスみたいにきらめいている。私はそれを、綺麗だと思った。
 「すごく、いい」
 「え?」
 小声で賞賛したのが、聞き取れなかったらしい。麻里亜は失敗した子供みたいに振り返った。私はそれを受け止めるだけの力量を持ち合わせていなかったけれど、芯から響いてきた言葉だった。
 私の伸びやかな表情を見て、今度は何かを察したらしい。麻里亜はすっとマスクを外した。初めて会ったときと同じ、やや上気した白い頬が、露わになる。
 「…風、いい感じですね」
 生ぬるくて柔らかい秋風が、ちょうど吹き抜けていた。彼女の肩がそれに合わせてゆっくりと波打っている。
 誰もいないけれど落ちる影を前に、私たちは立っていて、静かな時間が流れていた。
 ―もう、いいのかもしれない。
 今度は口に出さなかったけれど、私は突き上げられる想いに駆られた。
 隣にいる少女と、目の前の「ここにいる」の景色が、私の心を軽くしていく。
 もう、いいのだ。
 美智子は…見つからないままとなってしまったけれど、それでもう、いいのかもしれない。
例えば十年後、私には、友達と呼べる人がいるかわからない。食べられないものは、おそらくこの先も食べられない。でも、そんなことも全部、取るに足らないことだったのかもしれない。
毎朝ニュースを観て、母の完璧な朝食を食べて、マスクをして、勉強をして、質問サイトの人生相談に答えている。そんな私の日々は、なんだか空洞みたいに思えていたけれど、それだって、いい。
若い人が心配している日本の問題一位は、某社会学番組によると貧困らしい。昨日、私の回答をベストアンサーに選んでくれた七人兄弟を持つ男の子は、少子高齢化に貢献しているのに、高校にはいけない。ポテトサラダをお惣菜で買ったら、知らないおじさんに怒られる母親がいて、ビニール袋には二円がかかるようになった。いろんなことに困っている人がいる。私はその困っている人たちをたくさん知っているけれど、彼らの顔も本名も、知らない。
でも、願っている。その問題たちが全て解決される日を、願っている。
そして、私はここにいる。
日本の片隅の、通っている中学校の近くの、影の絵を壁画にする家の前に、私より可愛くて私より多分優しい女の子と一緒に、立っている。
母方の祖父母はもういないし、父方の祖父と、血の繋がった祖母ももういない。
美智子だって、もう、いないのだけれど。
でも、私はここにいる。
家に帰れば、ときどきおそろしいほど私の呼吸を苦しくする、優しくて料理上手な母が待っているだろう。うまく関われないけれど、私を大切にする父が仕事をしているだろう。腹が立つところを挙げればきりがないが、完全には憎めない兄は、いつも通りゲームをしているだろうか。私の姿を見たら、三人とも、「おかえり」と言うのだ。私がそこにいるから。
私は、美智子が教えてくれた映画を、いつかまた、一人でも観よう。美智子から言われたセリフを、できるだけたくさん思い出して、また忘れてしまおう。
これから先、私にとって絶対に必要なものは、多分たくさんある。それを間違えないで拾いながら進む自信が、まだ私にはないけれど、時間は刻々と過ぎている。
もう帰ってこない人のことも、帰ってくるかもしれない人のことも、構ってはいられないのだ。待っていては、あげられないのだ。
世間の悩める人々が、私と同じく嘘で塗り固められていたとしても、必ずどこかに存在している。その人という一人がいる。東大卒の三十後半の男も、私がいるところの、ほんの少しだけ内側に、確かにいる。
だって、私はここにいるから。<完>
※この作中で引用させていただいたすべての名作、名曲、作家、著名人、商品、場所に、心からの感謝と敬意と愛を。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

○ 岩殿紫乃(イワドノ シノ)         十三歳。中学二年生。質問サイトでは「三十代後半の東大卒男」のフリをする。

○ 岩殿美智子                      紫乃の祖母。父方の祖父の後妻で血のつながりはない。数年前に失踪した。

○ 三田麻里亜(ミタ マリア)       紫乃と同じ中学の一年生。顔が可愛い。

○笑子                                 紫乃が質問サイトで出会った謎の投稿者。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み