第4話 ふたたびまたたび

文字数 11,610文字

 ベストアンサー通知が来たのは、二日後だった。
 その日は通例通りの朝食を食べ、私は自室に籠って、学校から送られてきた英語のワークブックと格闘していた。ひたすら英文を機械のように模写させられるスタイルだ。昨今、日本の詰め込み教育が世界から馬鹿にされるのは、こういうところなんだろうなと体感しながら、それでも全部の例文を点線の上に五回書いて、私の学習は終了する。
 学校は来月から始まることが発表され、最初は時差登校になるらしい。
それまでは自力でよろしくどうぞ。
公立の中学校なんてそんなもんだよな。と特段不満もなかったが、母はあれこれとママ友同士で結託して、ぶつける予定のない怒り論争を展開していたようだった。
 そんなことに気を取られたから、私はベストアンサーの通知がきているのに気づいても、他の回答のものだと思って、見過ごした。
 それが笑子の質問のものと確認できたのは、昼過ぎ。結局、他に回答がつかないで選ばれたらしい。お礼のコメントもなかった。
 「なにがっかりしてんだろ」
 ひとりツッコミをして、時計を見る。この時間は本来ならば体育だ。学校からは、「マスクをして外に出ましょう。公園で遊ぶのではなく、住宅街を散歩しましょう」という向こうの労力が一ミリも感じられない指示が出ている。
 私はソシオパスではないから、義務教育機関からの指令には忠実だ。座りっぱなしの腰を上げる。母に散歩に行くと告げると、「マスクをするように」と忠告を受けた。やろうと思っていたことを人から言われるとやる気が消失するのは、全世代共通の病気かもしれない。
それでも気持ちを仕切り直し、ネットで注文してから二ヶ月後に届いた布マスクを、今日おろすことにする。紐を調節して鏡を見ると、絶妙に伸びた前髪がなんとも似合っているじゃあないか。…自画自賛だった。
 「出掛けるんだ?」
 非難めいた調子を相手に感じさせるあたり、兄は母の息子だと思う。朝からオンライン授業をサボってアイスを食べている奴さんには、相手にする価値もない。私はいってらっしゃいとは言われなかったものの、もちろん行ってきますを言わずに玄関のドアを閉めた。
 家を出ると左右の道に選択肢が分かれる。右へ行くと駅方面、左は小学校がある方だ。
木の枝を道に突き立てて手を離し、倒れた方向に行くやり方は、誰がいつ思いついたのだろう。たくさんの人が知っているのに、発信源がわからないことって、わりに多いのだ。子供向けアニメで、登場人物が試していたのかもしれない。だとしたら、目的地とは反対に行かされる羽目になって、モンスターとか崖に出くわすんだろう。エンターテインメントの定石だ。
では、私はどちらになるだろうか?―悩んだところで、このアスファルト道路に、棒切れなどなかった。
 立ち止まっていても仕方がない。近所の人に会う前に左に行くことにする。駅周りはどうしたって人が多いだろう。あとから母にどこに行ったのか聞かれたとき、嘘をつくのも小言を言われるのも面倒だ。どうか誰にも会いませんようにと念じながら、住宅街の道を歩き出した。
 例の乾布摩擦ジジイの家の前も通ったが、ここ数日雨続きだったからか、雨戸は閉まったままだ。
 まだ初夏には早く、寒くはなくなった季節。私は近くに誰もいないのを確認して、マスクを顎に下ろす。
 これから先どんどん暑くなったとき、この布切れはずっと顔に張り付いたままなのだろうか。何年か前に女子高生の顔面引きこもり、と呼ばれるマスクブームがあったが、私はこれから出会うほとんどの人間の、鼻から上しか見たことがなくなるのかもしれない。
 パシャ…。地面には、ところどころと水たまりがあった。
 私は道端の水たまりに、電線とか家の塀とか空とか、あと横を通るときに制服のスカートの中がちょっと写り込んでしまう感じとかが、結構好きだった。屈折したことばかりが頭を占めていると勘違いされては困る。実際は、私には好きなものがずいぶんとたくさんあるのだ。あまり人から共感はされないのだけれど…。
 「本当に好きなものは、人前で口にしないほうがいい」
 また美智子の言葉が一つ、私の中に落ちてきた。
 私がこの台詞を思い出すのは二回目だ。一回目の時点でもう美智子は、私たちの元にはいなかった。―あれは、祖父の葬式である。
 私はまだ小学生で、制服を着た兄は高校に入ったばかり、ブレザーはまだ体に馴染まず、中学の学ランを恋しがっているように見えた。
棺の中には、本人の生前の必需品や大切な物をいれたりする。
そこで祖父の唯一の趣味であったゴルフにちなんで、家族はゴルフクラブとボールを模した木製の副葬品を特注した。なぜ本物にしないのかと尋ねると、金属はどうやら火葬厳禁らしい。グローブだけは本物を、一番最後に私がいれた。
この役目は、祖父が死んですぐ、母と一緒に祖父宅に赴いたときに決まった。仏間には、もう箱詰めされ大量の保冷剤と一緒に眠る遺体があった。
私は母が棺に入れる服や靴の選別をしていた隙を見て、その顔をまじまじと覗く。
私が死んだ人間と対面したのは、あれが三度目だった。一度目と二度目はテレビ画面を通してである。一人はどこかヨーロッパ圏の国だろう。女王様みたいな人の国葬だった。教会の外から望遠レンズで撮影されたその死に顔は、まだほのかに血が通っているような、美しさを感じさせる出来栄え。「おくりびと」という映画では、死んだ人の顔を綺麗に化粧したりしていたが、そういう職人の力かもしれない。―もう一人は、社会の教科書にも出てくるビッグネーム、毛沢東。クイズ番組だったと思う。あの頃は、まだ誰だか知らなかったが、政府がわざわざ冷凍保存するというなら、よほどの偉人なのだろう。死体保存といえば、ルパン三世のテレビシリーズとかでもそんな話があった。あれはどっちのジャケットを着ていた回だろう。
私もいつの日か死んだら、燃やされるのではなく、氷にしてほしい。目覚める可能性を捨てずにカチコチにしておいてほいしいものだ。そんな密かな羨望を持った気がする。
…話は逸れたが、私はじっと、祖父の死んだ寝顔を見ていた。その頬は、女王陛下のそれとは違う。青と白を混ぜた橙色だ。白髪頭なのに、黒いヒゲが微量に生えていて、その近所には、カミソリをあてるのに失敗したのか、かさぶたになったところがある。果たして、これを剥がしたら、血はまだ出るのだろうか。…もちろん、そんなことはしないけれど。
結局、私は死んだ人の体に直接触れたことは、未だない。
あのときに、祖父の頬を撫でようか、少しだけ悩んだ。でも、何かのストッパーが働いて思い止まったのを、ちょっとした後ろめたさと一緒に覚えている。
そのせめてもの償いとして、私はゴルフグローブの中に、あるモノを隠した。それが、おじいちゃんが「本当に」好きだったことに関わっている。
営業接待の全盛期にサラリーマンをやった人間が、嗜みで覚えたのがゴルフなのだ。きっと天国でも地獄でも、あの木製クラブを祖父が握ることはない。私が入れた秘密は、ちゃんとグローブの中で融解し、納骨になってみれば、一片のカケラも残さなかった。
 喉仏とか、大ぶりでわかりやすい骨を、係りの人が銀のお箸で取って見せる。親族を年長で忖度した順番に並べ、骨壺に収めていく。私は直系の孫だから、最年少だけれど父と兄の次だった。
 最後に百円ショップでも売っていそうな小さい箒とちりとりで、残った粉末の骨を丁寧に集めると、流し込んで蓋は閉じられた。
 「岩殿先輩?」
 私の飛んでいた意識が、名前を呼ばれたことで引き戻される。顔を上げるとそこにいたのは…。
 え?誰?
 声には出さなかったが、顔には出たらしい。目の前に立っていた声の主は、ビビる私に小走りに近づいてきた。
なんとも華奢で犬を連れた、マスクをしていない少女だった。



 彼女は、三田麻里亜と名乗った。
 私は人に名前を尋ねるとき、覚える時間稼ぎとして漢字を教えてもらう。
三田麻里亜。四角が三つもあって、語感の可愛らしさとは裏腹に、堅い名前である。しかも「みた」は漢数字の三に田んぼの田らしいから、出席簿を読み上げる先生は、必ず心の中で「サンタマリア」と唱えているのではないか。
 「今年一年ってことは、まだ入学式してないの?」
 なぜか並んで歩くことになったが、ここはそもそも一本道だったせいで、そのことをいぶかしむ余地はなかった。せめてもの抵抗として、道幅いっぱいにソーシャルディスタンスを保つ。
 「入学式は無くなったらしいです」
 「ああ…」
 まあ、世間の状況に気を配れば、仕方のないことだ。
入学式。まだ一年しか経っていないが、そんな感動的な記憶はない。半分以上は小学校からの持ち上がりといえど、クラス発表では多少ドキドキした気もする。セレモニーに浮かれたのは、どちらかといえば親だった。その他、具体的なことは全て忘れてしまった。
 「残念だったね」
 タメ口でいいものか悩んだが、私の方が年上だし、初対面だけれど、話しかけてきているのは向こうだ。
 「なんで、私のこと知ってるの?」
 今更だが、私は尋ねた。
 麻里亜は私に声をかけ、自分が私と同じ中学の一年生だと言ってからは無言になり、ただひたすら隣を歩いていたのだ。
 先行している犬はトイプードルで、しきりに尻を振りながら、リードを張らない速度で歩く。いっそ、ぐいぐいと引っ張って、この子を連れて行ってくれればいいのに。
 「…私」
 そう言って、麻里亜は口ごもった。この子、一言ごとに五分あけないと喋れない病なのだろうか。
 だが、そんな心配は杞憂で、今度は淀まずに話し始める。
 「朝日川小学校の出身なんです。岩殿先輩も朝小ですよね?」
 私が頷くのを確認してから、麻里亜は発言を続ける。
 「図書委員じゃなかったですか?私、放送委員だったんです」
 なんの接点も見えないが、これも事実だったので、また頷いた。
 「お昼の放送ってあったじゃないですか。私、読書週間に図書委員のおすすめ本紹介を読んだことがあるんです。毎週、当番制だったんですけど、私はたまたま二回順番が回ってきて、そのどっちも、岩殿先輩が書いたやつでした」
 ―ああ。確かにそんな企画があった。
小学生の委員会なんて、全員何かしらに所属しないといけないから、楽そうなものを選ぶ生徒の方が多い。私だって、体育委員はひっくり返っても嫌だし、保健委員はめんどくさいし、消去法で図書委員を選んだ口だ。それでも、当番の日はサボることなく、受付で本を読んでいたからマシな方。中には、ママに読んでもらう絵本か、授業で音読するお話くらいしか、物語に触れない図書委員の子もいた。小学生だもの。
 「あったね。何書いたかは覚えてないけど…」
 「私、あのおすすめ文、感動しちゃったんです」
 「え?」
 うっとりとした顔だった。この子、ちょっとやばいのかもしれない。心の防犯ブザーが危険レベル一を警告して、私はバレないように歩幅をゆっくりにした。
 距離を取ろうとしたこの作戦は、麻里亜も速度を落としたことで、あえなく失敗する。
 「赤川次郎の殺人よこんにちはと、エンデのはてしない物語だったんですけど…」
 私を伺うように見てくる。そりゃあ私だって、何を選んだかくらい覚えてる。そう言えれば良かったが、全く記憶にない。
 「ごめん。ちょっと忘れた」
 「え!?」
 ムカつく。そんな信じらんないみたいな顔で、まん丸い目をしなくたっていいではないか。しかもこの子、普通に顔が可愛い。
 「もちろん小説のことは覚えてるよ」
 「そうなんですね…」
 ホッとしたように見せて、落胆から立ち直れないのは明らかだ。
 「でも、なんでわかったの?あれって確か匿名でしょ」
 「市村先生に聞きました」
 図書委員の担当で学年主任だった教師の顔を思い出そうとしたが、出来は記憶頼りにドラえもんを書いたみたいになる。
人間になりきれないドラえもんの、生徒に対する秘密保護意識が薄いことに憤りを感じながらも、私は文句を飲み込んだ。
道が枝分かれしていたのである。
 「えっと…」
 私は立ち止まって、この子がどっちに行くのかを注意深く見る。いつまでも付き合ってはいられない。反対に行こう。
 「あ、私、どっちでもいいです。散歩させてるだけなんで、岩殿先輩について行きます」
 そうですか。もうどうでもよくなって、私は左に曲がった。
 トイプーも主人の行きたい方向に合わせて、四肢のモデルウォークでひっついて来る。
 「なんてゆーか。おんなじ歳くらいの人が書いた文章じゃないってゆーか。人生何年目?って思っちゃうみたいな」
 彼女は私の反応などどうでもよくなったのか、本来の目的を遂行するように喋り始めた。
 「子供は残酷だ。とか、素朴な殺意…とか、読んでて、私が恥ずかしくなっちゃって」
 おい。もしかしてこの子、褒めているように見せて、貶す人種か?だが、鈍感かと思いきや、私が眉を寄せたのを機敏に読み取ったらしい。慌てて手を振って、弁明した。
 「悪い意味じゃないんです!私、こんな風に考えたことなかったなって。だから、岩殿さんの…岩殿先輩のこと、リスペクトしてて、オススメにあった二冊も読みました!」
 言いながら、麻里亜は照れたように首を傾ぐ。私はどんな顔をしていいのかも、実際しているのかもわからなかった。
 その後も、サスペンスって初めてで〜とか、児童文学って長いんですね!とか、本当に私の書いた推薦文を読んだのだろうかと、疑いたくなる口上にうんざりする。
 「他にも、オススメってあります?」
 流れゆくまま変わってしまった話題の中で、いきなりクエスチョンが飛んでくるもんだから、私は正直に返球してしまった。
「風の歌を聴け」
 「風?」
 「村上春樹の…」
 「村上春樹!聞いたことあります!」
 跳ねるような調子で、こっちに興味津々なのが丸出しだ。この子はきっと、友達がたくさんいるんだろうな、と余計なことを考えてしまうが、もはやそれさえどうでもいい。
「どんな話なんですか?」
 「…ライ麦畑でつかまえて、みたいな」
「歌でしたっけ?」
 誰かさんと誰かさんの麦畑メロディーが再生されそうになったのを慌ててかき消し、私はなんとかまともな会話を成立させようと試みる。
「小説。春に…朝早く起きて浴びるシャワーみたいな話」
 しまった。絶対に家族や友達相手に口にしないようなセリフを吐いてしまった。最近は人にめっきり会わなくて、質問サイトにばかり気取ったことを書いていたせいだ。私の中の東大卒男が無意識を洗脳し始めて、一三歳少女が静かに荒ぶる。
しかし、そんな私の様子もそっちのけで、気づけば麻里亜は立ち止まっていた。
 「あの…?」
 そのまま行ってしまえばいいものの、我に帰ったついでに、律儀に振り返ってしまう。主人が停止したことで、トイプードルは電柱に用を足しているではないか。
 「かっこいい!」
 「は?」
 「やっぱり、あれを書いた人ですね!私が思ってた通り!」
 こんな中二病発言に目をキラキラさせる女の子を、私はどう扱えばいいんだろう。いや待て。私は中学二年である。
 変な空気を打ち破ってくれたのは、人ではなかった。おとなしくしていたトイプードルが、甲高い咆哮をあげたのだ。
 矛先が向いていたのは、塀の上の猫。首輪をつけてたっぷり太っており、犬が自分のいる位置まで届かないのを理解しているのか、ゆるりと座ったままだ。
 「―ぺろ!吠えないの!ほら!」
 飼い主は慌てて犬を諌め、粗相したところに始末をつける。
 その様をぼんやり眺めながら、そういえば、アニメ映画の長靴をはいた猫にでてくるキャラクターは、ぺろという名前だったなと、誰からも喜ばれない知識が蘇った。こっちのぺろの主人は、馬に乗ってやたらとかっこよくお姫様を助けに行けないのだろうな。まあ、本人がお姫様みたいなものか。
 「すいません。なんでしたっけ」
 ぺろを抱き上げた麻里亜は、私を忘れなかった。
 いい加減解放してほしいと思いながらも、どこかでこの事態に慣れて、感覚が麻痺してきている。
 飽きたのか伸びをして立ち上がる猫に、申し訳ないが、私はまたたびをいまは持っていないと目で告げて、視線を麻里亜に戻した。
 「三田さん…変わってるね」
 今日初めて、思ったことをそのまま喋った気がする。もしくはもっと数日ぶりかもしれない。
 言われた当人はきょとんとして、初めて名前を呼ばれた赤ん坊みたいな口をしていた。
 「そうですかね?初めて言われました」
 今度はなんだか嬉しそうに微笑む。えくぼが片方にだけ、ぺっこりと落とし穴を作った。
 「私、ほんとこんなおしゃべりじゃないんです。岩殿先輩にうっかり会えたもんだから、恥ずかしいこといっぱい言っちゃった!」
 もう、この子は一体何者なんだろう。
ただ一つだけ言えたのは、彼女と会ってからいままで、私は久しぶりに美智子のことを忘れていた。



 『社会人三年目です。私には友達がいません。高校は地元から離れた学校に進学し、そのまま就職で東京に行って、一人暮らしになりました。高校時代は、家が遠いから放課後や休日に遊ぶことはなかったので、深い関係になる友達ができませんでした。中学までの友達とも卒業以来、疎遠です。入った会社に同期はいるのですが、みんな四大出身で年齢が違い、壁がありました。飲み会も未成年なので私だけ誘われず、親しくなるきっかけがなかったんです。今回のコロナ騒ぎで出勤も週一回になって、私は本当にぼっちなんだなと感じました。ずっと心のどこかで、それでもいいとも思っていました。でも、自分がもし感染したら、たとえば心配してくれる人や、看病までじゃなくても、何か助けようとしてくれる人っていないんだなと(親は別にしてです)気づいてしまって、寂しいです。恋人でもいれば自己肯定感も上がるんでしょうか。でも、まずは友達がいたらなと思います。大人になると私みたいな人、実は多いんですかね』

『はじめまして。東大卒の三十後半、男です。私には長らく、友達がいなくていいと思っていた時期がありました。そして、いろいろ考えが変わって一周したいまも、それでいいと思っています。だって、そのことで悩むこと自体、しんどいじゃないですか。子供の頃は、友達になろうと言って、はい今日から友達。なんてこともあったでしょうし、クラスメイトはみんなお友達。みたいな同調圧力が働くこともあったでしょう。でもそれは、学校という与えられた社会にしか生きられなかったからです。質問者様は大人になり、自分の社会を選べるようになりました。職場だけではなく、たまたま足を運んだ飲み屋やお金を払って通うカルチャースクールにも、社会を作れるようになりました。ただ、その社会の中に必ずしも友、を作る必要はないんです。利害関係でつながっていても、楽しいその場限りの雑談相手でも、それは立派な人とのつながりです。こうして、私があなたにこんな回答を書くことも、一期一会の交流です。孤独ではありません。友達という縛りに苦しむのは、十代まででいいんです。その日だけ友達と呼び合い、一緒にいる仲でもいい。それくらい軽い関係もいいと、私は思います。それを不幸だと指摘してくる人もいて、一生の友達を持っている人からは、憐れまれるかもしれません。でも、たとえ背中を預け合えるほどの相手に出会えたとしても、それはあなた自身ではないんです。一番大切なのは自分。そのスタンスで、とりあえず気の合う人と話したいときに話せるような環境を、現実でもネットでもなんでもいいので、探してみてください。そして、頑張りすぎないで』

 今日のベストアンサー通知は四十件越えと、ここ最近では一番多かった。全部確認すると、この質問にはダントツで長文を書いて回答していた。
 何度も言うが、私はここでの回答内容に、自分の本音や持論はできるだけ入れないようにしている。どうやったらベストアンサーに選んでもらえるか。そのことに執着して考える。
 裏を返すと、なんて言って欲しいのかわからないものには、基本答えない。
女は相談するときは、もう答えが見つかっていて、ただ話を聞いて欲しいだけ。という心理学の説があるが、実際はあまり性別は関係ない気がする。質問文を打っている最中に、だんだんと感情が静まり、言語化したことで頭が整理される人もいるだろうし、最後の一押しを求める人もたくさんいるのだ。
 でも、私はこの友達のいない社会人三年目の彼が、何を求めているのか、正直わかっていなかった。だから、どれに回答しようかと質問の一覧をチェックしていた際には、最初スルーした。
それでもわざわざ戻って回答したのは、おそらく不安だったのだ。この人が書く毎日が、いつか私自身の日々になりそうで、怖い。そんな気持ちが、彼の質問を見た瞬間に宿った。
不安を拭い去ることができるのは、答えの発見である。私は人にたくさんの答えを与える。そして自分の答えも、自分で見つける。さっき言ったみたいに、書いているうちにきっと、見えなかったものは見えるようになるはずなのだ。私の場合は、質問ではなく回答文のおかげで。
 スマホの画面に、一つの通知が浮かび上がった。
 「アンサーリクエスト一件」と出てきて、沈んでいた気分が、ちょっと日の当たるところに顔を出す。この質問サイトでは、「カテ主」に対してだけ、どのユーザーでも月に一回まで、自分の質問への回答をお願いできるのだ。
 この依頼に拘束力はないが、単純に嬉しくて答える人は多い。私も、信条に反しない限り、できるだけリクエストには回答するようにしていた。
 さて、一体どんな人がなんで私にどんな質問を…
 そこで指先は止まった。
 リクエストしてきたのは、紛れもなく笑う子の「笑子」だった。
 ―やった!
 今度は声に出る一歩寸前だった。私はリビングにいて、近くでは父が爪を切り、兄がテレビを観て、台所では母が夕食を作っている。
 そこへの意識が僅かながらに残っていたから、無言で済んだ。顔は煮崩れしたジャガイモになっていただろう。
 笑子との細い何かが、まだ確かにつながっている。その実感だけで、心臓はリズミカルになった。
 リクエストされた質問の内容が気になる。開かないでプレビューできるのは、一行目までだ。

 『先日はご回答あり』

 スマホの横幅の狭さを呪いながら、閲覧履歴に残ることを承知してタップすると、質問の全文が表示された。

 『先日はご回答ありがとうございました。あまりインターネットを開かないもので、質問したのをすっかり忘れてました。お礼も言えなかったので、こうして送ります。私の、何気ない世迷言のような問いに答えてくれる人がいるとわかって、今日の天気は、いつもよりは晴れそうです』

 ―以上。え?
 拍子抜けとはまさにこのことだった。お礼を言うためにわざわざリクエストを送ってきたのか。この人、このサイトの使い方がなってない!私はこのカテゴリーを支配する一人、カテゴリーオーナーなのに、月一回の謁見をこんな風に使ってしまうなんて…とまで憤ってから、己の傲慢さに気恥ずかしくなって、私は戸惑っていた気持ちを、ぐいぐいと落ち着かせる。
 ―そうだ。これは質問なのだから、答えなくてはいけない。でも、何を答えろと言うんだろう?

『はじめまして。東大卒の三十後半、男です。回答リクエストありがとうございます。お礼のために、わざわざご連絡いただけて嬉しいです』

 『よかったら今後も…』と打ち、消した。「ネットストーカー」と呼ばれる存在がはびこっている現代。この質問サイトでも、馴れ合いや出会い中毒者、追っかけをしてひたすら同じ人の質問に答える輩がいて、私はずっと軽蔑していた。
そいつらと同等に、なってたまるか。
バカらしさと腹立たしさが足し算され、私は『嬉しいです』の文末に丸をつけると、「送る」のボタンを押した。
 …これで終わりか。
 なんだか現実味を帯びた別れだ。
 がっくりときたのは事実だが、実は少しだけ胸のつかえが下りた気分だった。ここ何日か、私の中身はいろんな感情で泥ついて、いくら洗浄しても、どこかに汚れがこびりついているみたいだったのだ。だから、その根源を見つけ出そうと躍起になった。
最後にもう一度、彼女のプロフィールページを見ておこうと、脱力した体を復活させ、投げ出したままのスマホを手に取る。
この人が美智子でもそうじゃなくても、そもそも真相の白と黒がくっきりと浮き出ることはないのだ。このサイトだって、ベストアンサーを選びはしても、本当にベストなアンサーだったかなんて、誰にもわからない。同じことだ。
 自分を納得させられるような言葉をいくつ重ねても、モヤモヤを増長させるだけで、より卑屈になった。
そして、「笑子」のプロフィールページを眺め、備考欄の「新宿の元占い師」の七文字を何度も左から視線でなぞる。これこそが、私の疑いを疑いのままにしてくれない。
 「ねえ」
 家内全員に聞こえる声量で発した。すぐさまに反応は帰ってこなかったものの、私がそれきり黙るから、父と兄は振り返る。母も、ワンテンポ遅れてこっちを見た。
 全員の意識が自分に集まったのを確信してから、私はまた宛名不明の発言をした。
 「おじいちゃんち、明日行きたいんだけど」
 脈絡もへったくれもなく出した要望に、最初の応答を示したのは、やはり母だった。
 「おじいちゃんちって…マンションの方?」
 マンションとは、例の痴呆になった父方の祖父と美智子が暮らしていたところを指している。ここから歩いても四十分くらい。通っていた小学校からは二十分くらい。
五階建てのモダンな建物で、外観はわりかし私好みなのだが、共益費に反してあまり手入れが行き届いていない。なぜ中学生が共益費なんて言葉を知っているかといえば、この意見は全て、美智子の受け売りだからである。
 「あんたが何しに行くのよ?」
 母は怪訝そうにしながらも、また夕飯の準備を再開する。聖徳太子さながらにいくつものことを同時並行でできるのが、主婦というものなのだろうか。
 「学校もないし、本でも読もうと思って」
 私の読書傾向は雑食だ。図書室で選ぶのは、タイトルにときめいた本。書店で選ぶのは、カバーの絵が魅力的な本。そのルールを守りながら、小学校高学年以降は、週に平均四冊ほど読んだ。当然、兄と折半している私の部屋には本棚を置くスペースはなく、中学に上がる前に、私は祖父宅に数箱のダンボールを運び込んでいた。
 ここで、はてなマークを感じる人が多いといけないので補足しよう。祖父は亡くなり、美智子が消えてからも、二人の住んでいたマンションは、無人で存在し続けている。購入済みでローンもなく、室内にはいっぱいの家財があった。一方、私たち家族の住む一軒家は、成長した子供たちの捨てられないおもちゃ、中年から高齢に足をかけた両親の着脱不能な服や年代物…そんなのが溢れ、なかなか手狭だった。
そうなれば、結論は簡単。維持費はかかるものの、レンタルクローゼットよりはコスパが良い。中にあるものを全て処分するのにも、手間と金がかかる。それらが総合的に考慮された結果、祖父のマンションは、都合の良い我が家の物置と化したのである。
 「そうね…確かにずいぶん行ってないし、様子を見に行ってもいいのかも」
 豆腐を味噌汁にダイブさせながら、おぼろげな顔で母が呟く。本音は、あの家をほっぽりっぱなしにしていることに、少なからずの背徳意識があるのだ。
 「私、一人で行くよ。適当に空気、入れ替えたりとか。いろいろ見ておくしさ」
 父はもう興味をなくし、切り終わった爪の残骸を集めて、ゴミ箱に入れる。絶対に取りこぼしがあるのだが、明日には母がクイックルワイパーをかけてくれるはずと、気にしないようにした。兄は私たちの会話をうるさそうに、テレビのボリュームを上げる。
 「掃除もしないといけないでしょ」
 と母は言った。
 「明日って、お母さんなんかあるんじゃなかった?」
 水切りしていた葉物を手放し、母はカレンダーに目をやる。
先手を打って確認しておいたが、明日は歯医者があるはずだ。私の知る限り、母は毎日のルーティーン的な家事以外の予定は、日に最大一つまでしか入れない。
 「間宮歯科が一五時からだね」
 考えるその顔をそうっと伺う。頼む。来ないでくれ。
 「そしたら、お母さんは土曜に行くわ」
 そう言うと、母は肩を上下し、カレンダーの前から下がった。
 こうして、私の明日は決まった。
 数ヶ月ぶりに行くんだ。祖父がいて、美智子がいて、祖父が死んだ、あの家に。美智子はもういない、あの場所に。
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登場人物紹介

○ 岩殿紫乃(イワドノ シノ)         十三歳。中学二年生。質問サイトでは「三十代後半の東大卒男」のフリをする。

○ 岩殿美智子                      紫乃の祖母。父方の祖父の後妻で血のつながりはない。数年前に失踪した。

○ 三田麻里亜(ミタ マリア)       紫乃と同じ中学の一年生。顔が可愛い。

○笑子                                 紫乃が質問サイトで出会った謎の投稿者。

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