第6話 ジグソーパズル

文字数 12,831文字

 家の固定電話に出ると、やたらと大人びた物言いをしてしまう。
「岩殿でございます。どちら様でございましょう」
でも、必ずと言っていいほど相手は、
「お母様はいらっしゃいますか?」
と聞いてくる。
私の声って、そんなに子供っぽいのだろうか。その点、文字だけでいい質問サイトは良かった。性別さえ嘘がつける。
だから、私が「天利鍼灸療院」の電話番号をスマホのダイヤルに打ち込みながら、「発信」を押す一歩手前で硬直し、十分も経っているのだ。
 「もしもし。天利先生いらっしゃいますでしょうか。お尋ねしたいことがありまして、岩殿と申します」
 岩殿と申します。を先に言った方がいいかもしれない。
 いまは家には誰もいないから、思う存分に練習ができた。
 「岩殿と申します。そちらに天利先生、いらっしゃいますでしょうか。ちょっと確認したいことが…」
 ちょっとじゃなくて少々か。
 「少々ご確認したいことが…」
 ご確認の「ご」は、敬語表現だ。自分に使うものじゃない。
 「何点か、確認させていただきたいことがございまして」
 ございまして、はいいんだったっけ?
 あれこれ迷っているうちに、思考回路がショート寸前になる。まさに、「いますぐ会いたいよ」と歌詞を続けたくなるくらいだ。いっそ現地に赴いて、直接やりとりしたほうが早いのではないか。
 「よし」
 深呼吸を深めにして、私はスマホの液晶をタップした。
 呼び出し音が、一回、二回、三回…
 「アマリシンキュリョイン、デス」
 飛び出したカタコトの日本語に出鼻をくじかれた。
 「モシモシ?」
 相手のきょとんとした声にハッとする。
 「あ…あの、もしもし、すいません」
 すぐにすいませんを言ってしまうのは、日本人だから仕方がない。
 「その…私、岩殿です」
 「予約ノカタ?」
 「あ…いえ、ちがいます。えっと、岩殿美智子って…」
 しどろもどろになってしまった己のテンパり具合を激しく呪ったが、電話口の相手は別の単語に反応した。
 「ミチコ?アア、ハイハイ」
 「え?」
 「チョットマッテテネ」
 有無を聞く前に、電話が雑にどこかに置かれる音がした。スリッパらしき足音が遠ざかり、ちょっと離れたところから「センセー!」と呼ぶ声がする。
 私は相手が戻って来るまでに気持ちを整えようと努めたが、そんな間はなく、お目当ての人はやって来た。
 「お電話代わりましたー。院長の天利ですー」
 女だとは思わなかった。落ち着いた伸びやかな声に気後れする。
 「…岩殿です」
 しまった。申しますと言うはずだったのに。
 「岩殿さん?お久しぶりですね。具合どうですか」
 還暦過ぎの美智子と間違えられたのは、「お母さんはいますか?」よりも驚いてがっくりきてしまうが、それよりもっと気になるところにまず食いついた。
 「岩殿美智子は、最近までそちらに来てたんでしょうか?」
 「え?」
 面食らったようなリアクションと一緒に、回線相手の空間で、電子的なアラームが鳴った。
 「三番電気止めて!患者さんには、準備してちょっと待っててもらってくれる!?」
 電話口を押さえたらしいが、バッチリ聞こえている。このご時世、リモート会議などでオンライン通話のアプリが大活躍しているみたいだが、やっぱりミュート機能って偉大だ。セルフハンドの低クオリティな消音で、いくらか冷静になる。
 「―すいません。なんでしょうか?」
 今度は少し、相手が警戒してきたのがわかった。待たせている患者もいるようだし、私はできるだけ端的に喋ろうとする。
 「私、岩殿なんですが、美智子じゃないんです」
 代わりにかけてるんです。みたいなニュアンスにしたが、嘘まではついていない。
「伺いたいことがあって、電話しました。そちらから毎年、年賀状送ってもらってるみたいだったんで」
だったので、と言えばよかった。
向こうは、しばし無言になる。そして、やぶへびの尻尾を捕まえようとするみたいな口調に変わった。
 「年賀状…ですか?診察券発行した患者さんには、皆様宛に出してますね。お調べすることも可能ですが、通院履歴は個人情報ですから、ご本人様にしかお教えできないです。…失礼ですが、ご家族の方でしょうか?」
「私、は…」
 なんだろう。現時点で私と美智子は、血縁上も戸籍上も家族関係ではない。赤の他人だ。
 「…身内だった者、です」
 離婚した祖父の連れ子の子供だと、本当のことを言うべきか迷った。なにせややこしすぎるのだ。
「娘さんですか?」
 いえ、孫です。そう言おうとして、天利先生の方が先に言葉を続けてしまった。
 「しょうこさん?」
 いえ、紫乃で―え?
 時が止まった感覚を、人は生きているうちに、何回経験するのだろう。宇宙の法則通り、時間は私が生まれる前からまわっていて、死んでも動き続ける。その間に一度も休むことはない。だから、私が停止状態を味わっている最中でも、おそらく八秒ほど世界は進み、私は老けた。
 「あの…聞こえてますか?」
 問いかけられて、私の時計が再開した。
 「しょうこです」
 無意識に声が出ていた。
 「しょうこです。私」
 一拍おいて、返事が来た。
 「あ、やっぱりそうなんですね!」
 友好的に変わった声で、天利先生は続けた。
「お話だけいつも伺ってました。ほら、岩殿さんおしゃべり好きですから」
私はスマホを耳に当てて、虚空を眺め、口だけ動かす。
 「母は…、そちらに最近行きましたかね?その…、老眼鏡を、どこかに無くしてしまって、ずっと探しているのにないんです」
 「老眼鏡ですか?―忘れ物では…、何も預かっていないと思います」
 「いつも、変なところに落とすんです。ソファーの隙間とか、トイレの棚とか、ふっと置いて忘れて来ちゃって。きっと、あるとしても人の目に届かないところなんですよ。だから、ここしばらくの間に立ち寄ったところ、片っ端から電話してて。それで、こちらにもかけました。母は歳なので、日が経つと自分がどこに行ったかも、よく忘れてしまうんです。通院記録、確認してもらってもいいでしょうか?最近来たかどうかだけでいいので、日付とかは、あとで母に思い出させますから」
 一息に吐き出したデタラメは、言ったそばから内容が脳内から消えていく。信ぴょう性はどれくらいあったのだろう。「身内だった者」と名乗ったくせに、一緒に住んでいるような口上をしてしまった。もっと丁寧な嘘はなかっただろうか?それに、美智子の娘なら、年齢は三十くらいのはずだけれど、話し方を間違ってしまったかもしれない。考えたことをそのまま口から流すのに手一杯だった。ネットの文面では、三十代後半を闊歩していたのに、所詮、私は一三歳なんだなと実感する。
 けれど相手は、あっさりと差し出されたままを飲み込んだ。
 「―お調べしますね」
そう言って、保留音が流れ始める。
 なんだ。その電話、こんな機能があったのか。さっきカタコトさんが電話に出てから、タイミングは二回ばかりあったはずだが、なんで使わなかったのか。離れればセンサーが作動して流れるトイレを、手動で流す人だなと思った。
 ちなみに、チョイスされていた曲は、フランク・シナトラの「マイ・ウェイ」だった。
 以前、質問サイトで、カスタマーセンターで待たされる間に流れる曲についての質問を見かけたことがある。ベストアンサーによれば、保留音を流す装置の付属音源で、「ただいまお待たせしておりますが〜」などのアナウンスが入らない曲は三曲しかなく、多くの企業はその中から選ぶらしい。ちなみに他の二曲は「そよ風の誘惑」と「大空に歌おう」らしいが、パッとメロディーは浮かばなかった。
 「お待たせしました」
 録音アナウンスではなく、天利女医だ。
 「調べたんですけど、最後にご来院いただいたのは三年前です」
 がっくりする。三年前なら、おそらく美智子がまだ私たちの元で、「生きていた」頃だろう。
 「そうですか。なら違いますよね。ありがとうございます。わざわざすいません」
 無味乾燥な声しか出ない。私は本当に、あの声色名人の母から血を受けた娘なのかと不安になる。
 「いえ、こちらこそお役に立てないで…老眼鏡、見つかるといいですね」
 「あともう一ついいですか?」
 被せるように聞いた。最後にこれだけは、確認しなければいけないのだ。
 「母は…、娘の、しょうこのことをよく話してたんですよね?」
自称しょうこがするには違和感満載の質問だが、気にしていられない。返答はスッと返ってくる。
 「そうですね。子供の頃のことしか話題にならなかったですけど、事情は伺ってましたから」
 「事情…?」
 今度はちょっと間があったが、それでも天利先生は言った。
 「絶縁されたって」
 絶縁!だから、さっきの「身内だった」という過去形に「娘」がイコールしたのか。納得しながらも、釈然としない部分も数多あった。
 子供の産めないはずの美智子の娘。しかも名前は「しょうこ」。三年前、私たちと書類上は家族であり、祖父と住んでいたはずなのに、この鍼灸療院では、「絶縁した娘のしょうこ」の話をしていた。
 ―わからない。全くわからない。
 混乱した頭は、出しまくったボロでとっくに溺れていた。
唯一、私の正気な部分が気がかりにしていたのは、さっきから先生を待っているだろう患者のことである。



 天利鍼灸療院の定休日は日曜だけだった。
 新宿区という立地のわりに、住宅の並びに店をかまえているから、通院者はお年寄りとか主婦ばかり。平日昼間が混むらしい。
 昔はもっと繁華街のど真ん中にあって、夜を乱舞する嬢たちや、でっかい龍を背負い込むヤアさんに鍼を打っていたのだが、それは天利路子の祖父、公三郎の代での話だった。
 「私が継ぐのが決まってすぐ引っ越したの。あんまり危ない地域で、女が店出すもんじゃないってことでね」
 一息つくように、コーヒーか何かをすする音がした。私も飲み物でも持ってくればよかったと後悔する。―ここは、私の部屋ではない。
先日、電話を切る間際に、私は天利女医の個人番号を入手して、仕事がないときに掛け直す約束を取り付けたのだ。なのに今日に限って、隣で兄の勝がレポートなどやっていて、わざわざ公園のベンチに移動する羽目になった。普段はリビングでゲームばかりしているくせに、全く間の悪い男である。
公園には他にも幼児連れがちらほら。父親の姿も多く、テレワーク化を実感する。外気はそれだけでうるさいけれど、どうすることもできない。本当は直接会いに行けばいいのだろうが、これが都内への不要不急の外出かと問われると微妙だし、なにより美智子の娘「しょうこ」がこの年齢だったら不審すぎる。事情を洗いざらい話すかは、まだ保留にしたかった。
 「私が海外へ武者修行に出たりしたもんだから、いまの場所でも何年かはおじいちゃんがやってたのね。古い患者さんの中には、わざわざ通い続けてくれた人もいて、腕は良かったのよ」
 この人、喋るのが好きなんだな。警戒心が溶けたら、一の質問に十答えてくるようになった。年齢も私の方が若いと気づいたらしく、ラフというより馴れ馴れしい話し言葉だ。
「岩殿美智子さんもその一人」
 やっと本題のキーパーソンが登場し、私は胸をなでおろす。
 「ミチコって、私と同じ名前なのよ。岩殿さんは樺美智子と同じ字だったけど、私は道路の路に子供の子で路子。偶然だとは思うけど、最初に美智子さんの存在を知ったときに、私って、この人から名前とってつけられたのかしらって、思っちゃった。おじいちゃんとすごく親しそうだったし、昔馴染みの常連さんみたいだったから」
 路子さんはとんだ工事不良の道路のように、うねった会話を展開させる。私はなすすべなく車を走らせている運転手の気分だ。
 「占い師だったかって、わかりますか?」
 息継ぎのタイミングを狙って質問を飛ばすと、それにも間髪入れずに返球される。
 「もちろん。医院の目と鼻の先でやってたはず。スナックに間借りして、風水が特に当たるって評判だったって。岩殿さん本人はあまり、ご自身の昔話を喋ろうとはしなかったんだけどね」
 やはり、美智子は新宿の元占い師で確定なのか。しかも風水ときている。こちらの情報源が勝だったから、そんなに信頼していなかったが、ビンゴならダブルリーチだ。
「―まあ、おじいちゃんが引退するまで、そもそもが私、岩殿さんとはちゃんとお話したことがなかったのよね。でも、たまに持って来てくれたお土産がとっても美味しかったの。全部手作りで…梅酒でしょ?玄米粉のスコーンに…アロエジャム」
 アロエジャムという有力情報に、目が瞬いた。玄米粉のスコーンは、私や兄にはすこぶる不評だったおやつだ。梅酒も、毎年頭を突っ込めるくらいでかいガラス瓶で作っていた。
 路子によって、私の埋まっていた美智子が、息を吹き返してくる。
 「ごめんなさい。なんだったかしら」
 何が彼女を我に帰らせたかはわからないが、本筋を忘れてしまったらしい。私さえも本当は何が知りたくて天利路子と話していたのか、わからなくなってきていた。
 「…母は私のこと、どんな風に話してたんでしょうか」
 そうだったそうだったと頷く動作が聞こえてくる。
 「小さい頃から、すごく小賢しかったって」
 「え…」
 私はしょうこ本人ではないからいいが、この女、よくそんなこと正直に伝えられるな。思わず戸惑ってしまった。けれど路子は一ミリも気にする気配なく、続けて語る。
 「頭はいいのかもしれないけど、可愛くなかったって。大人の顔色をよく読もうとしていて、こっちが不機嫌だとお手伝いなんかしてご機嫌取ろうとする。逆にそうじゃないとなんにもしない。好き嫌いばかりして、作ってあげた料理を平気で隠れて捨てる。怒られると露骨に態度が悪いし、相手のせいって顔をする。人を小馬鹿にしたりしているのも、それを隠しているのも、周りから見れば丸わかりで、計算高い女って、必ず人にもバレるはずよって」
 私は閉口したままじっと耳を傾けていた。ひとしきり言い切った風に路子は息をついたが、まだ何か忘れ物はないかと記憶をまさぐっている。
 本来なら、私がこの沈黙の口火を切ればいいはずだが、重たくなった唇は動かない。代わりにマイクを持ちっぱなしになった相手は、やっと探し当てた極め付けを披露する。
 「あと、子供のままだろうって」
 「……」
 子供って、なんだろう。
 美智子の娘だったなら「子供」のはずだけれど、この路子の言い方は、なんだか意味ありげだった。
 「感情の起伏も激しくて、カーッとなるとそのまま行動にする。危ないことも平気でやるし、見ていてヒヤヒヤさせられるけど、本人は実はすごい八方美人の小心者。きっとこれから先苦労するだろうって、よく話してた」
どうやらオブラートを知らないらしい。鍼医者だから刺すのが専門なのだろうか。私がしょうこだったら、言葉がいくつも抜き刺しされて、もう血みどろだ。たとえば、誰々くんが誰々ちゃんの悪口を言ってたよと当人に伝えてしまう女の子が、どこのクラスにも一人二人は必ずいる。きっとこの人はそれだ。私と同い年くらいのときには、さぞたくさんの子のナイーブを、傷物にしてきたのだろう。
 「あ、ごめんなさい。ずけずけ言い過ぎちゃった?」
 「いえ、いいんです。私が聞いたんですから」
 そうは言ったものの、変なダメージを受けて、スマホを持つ手がやたらに鈍くなる。
 今更に遣われた気を無駄にしないようにと、変わらない口調で私は言った。
 「その…、じゃあ、私が、大人になってからの話は、してないんですかね?いまどうしてる…とか」
 「ええ。一番大きかったのが、十歳かな?でも、印象的だったのは、もっと小さい頃の話。そうねえ…。結婚式に参列する都合でドレスを買ってあげて、せっかくだからスタジオで記念写真を撮ろうと思ったのに、ずうっとぶすっとしてたときのこととか、何度も聞かされたわ」
 そのあとの話は浮いた意識で聞いていた。
 フォトスタジオに行って、家族写真を撮ろうとした。なのに、しょうこは終始機嫌が悪く、頭の髪飾りを何度も何度も、もぎ取って床に捨てた。お腹が空いているからではないかとおにぎりを食べさせたが、中に入っていた鮭はティッシュに包んで吐いた。こんな娘になってしまって、将来が思いやられる。
 「本音は心配されてたのよ。しょうこさんのこと」
 そう結んで、娘の行く末を案じる母の美談を語り尽くした路子は、無言の私を少しだけ待った。
 けれど、私があんまりにもぐずぐずと黙っているものだから、とうとう口を開いて聞いた。
 「それで、あなたほんとは誰なの?」



 物心ついた頃から、私には食べられない物がたくさんあった。
祖母のホームから帰る車内でも話したとおり、好き嫌いが多かったのだ。後天的にではなく先天的に。
 一番小さいときの記憶は、幼稚園になる。いつもはお弁当だけれど、その日はお好み焼きをみんなで作って食べましょうの日だった。こんなこと言ったらきっと、大阪の人だけじゃなく、全国の鉄板焼き類大好き勢の怒りを買うだろうが、当時の私には、お好み焼きは吐瀉物を固めただけにしか見えなかった。おまけに、甘いソースは味覚も嗅覚も「うえっ」という反応を無意識に誘い出す効果があり、恐らくこれは、人生初で自覚した生理的拒否だったのだ。けれど先生は、「一口だけ一口だけ」攻撃で、紙皿に取り分けたお好み焼きの端っこを私に食べさせ、はいよくできましたと言って去って行った。
何がよくできたのだろう。一口にも満たないだけ口にして、私の口がついてしまったそれはもう、捨てられるしかないだろうに。私は一ミリも美味しいと思えなかったし、あの瞬間から、「おこのみやき」は私の嫌悪対象になった。味云々と合わせて、「これが食べられなければ、不合格」という空気が、幼心にショッキングだった。
あの先生のことは大好きで、いまでも顔を覚えているけれど、私が思い出せるその表情は、あのときお好み焼きを私に割り箸で突き出してきたバージョンだけになった。
他にも、魚介類全般、海藻、納豆、しらたき、こんにゃく、きのこ、私が嫌いな食べ物はもっとたくさんある。でも、全部をここでは呼び起せない。
 ただ、魚介が食べられないと人生は暗い。生きていて何度も羞恥体験をした。そのトラウマで、見るだけで絶望的な気持ちになる。泣きたくなる。でも、大きくなればなるほど、泣いてなどいられないから、傍若無人なふりをするようになった。
 昔、兄が学校か何かでいないとき、父と母に連れられて静岡に行った。ちびまるこちゃんミュージアムに行くのが目的だと思っていたら、寿司を食べに行くのがメインイベントだと、現地に着いてから知った。
夫婦はおいしいおいしいと食べ、娘はどうやったら二人を怒らせないで寿司を食べずに済むかを必死に考えていた。けれど、いいアイデアは出てこなかった。おそらく何かしらのネタをいただくことになったのだが、それが何かは覚えていない。でも、私はそこで確実に大泣きした。声をあげたのではなく、止まれ止まれと祈りながら、落ちる涙を止められなかった。とにかく悲しくて悔しくて嫌で恥ずかしかったことを覚えている。身体中が発する、魚介を食べたくないという訴えと、食べるという試練をクリアできない己への蔑み、親から失望されているのを理解した悲しみで、いっぱいだった。
 「こんなに美味しいものが食べられないなんて人生損よ」
 「食わず嫌い」
 「一口だけでも食べてごらん」
 「縁起物だから」
 「なんて贅沢な子なんだろう」
 「好き嫌いってみっともない」
 「食べたくても食べられない人がいるんだから」
 「料理してくれた人に申し訳ない」
 あのときもそれ以前も、そんな言葉は幾度も聞いた。私の脳内でもしっかりと「食べられない食材があることは非常に恥ずかしく、情けなく、バカにされて当然」というのは刷り込まれていて、だけれど食べられない自分が辛かった。
 別に誰も、食べたくないから食べないんじゃない。―食べられないのだ。
 好き嫌いのない人は、おそらく好き嫌いのある人を我儘で幼稚だと思っている。事実そうなのかもしれない。でも、私たちだって、美味しいと思いながら食べられるのであれば、そうでありたい。百歩譲って、美味しいと思えなくても、むしろまずいと思っていても、食べられるなら、そうでありたい。
 私が食べられないものの傾向は、主に三つあった。「ビジュアルが黒ずんでいたり、ごちゃごちゃとしているもの」「食感が冷たかったり、やわらかくてぐにゃっとしているもの」「生きている姿を連想してしまうもの」だ。特にこの三番目は、どうしても体が反応してしまう。
魚は常に、私の中で「生きているもの」だった。
 骨が口内のどこかにあたるたび、その目を見てしまうたび、生臭さを感知するたびに、命を噛み潰す感触で嘔吐した。
可哀想と思う感情が先立つのではない。ただただ気持ちが悪いのだ。
 その点で肉は、すでに原型から程遠い一枚になっていたから、意識はせずにすんなり食べることができた。おそらく豚の丸焼きみたいなものが出てくれば、手も足も出ないだろう。
ただし、原型がなければ良いというものでもなかった。脳内にイメージは出来上がっていて、タコやイカは歯に触れた感触で、元の形がすぐに完成してしまう。シジミは、小さい頃は何も考えずに食べられたが、不思議の国のアリスという映画で、赤ちゃん貝たちのシーンを観てからしばらく、受け付けられなくなった。知るまでは食べていたのだと、無理をすれば口にできるように戻ったが、味噌汁の中からすくい上げるとき、必ず見てしまう部位がある。あれがシジミの口なのか目なのか、はたまた排泄器官なのかはわからないけれど、そこに注目するたび、確かに生き物だったと思い出す。噛み砕く際の、砂がジャリっとなる歯触りは、いつも私を叫びたい気持ちにさせた。でも、魚よりはマシなのだ。
「イキモノ」を感じるのは、命を食べているのだから当然だと、唱える人がいるかもしれない。あなたが平気で食べている野菜やお米だって、全てが本当は命なんだからと、正論で諭す人もいるかもしれない。でも、その線引きって、実に曖昧だと思う。
アメリカ人なら魚をそんなに食べないだろう。ビーガンなら許されるのか。みんな犬の肉は食べないじゃないか。元からある日本の常識としての、ざっくりした枠組みの中で、それをなんで私にも強要し、私自身もそこから外れていることに落ち込み、でも食べられないのだろうか。
私だって、とても悲しいのである。出してもらった料理をおいしいおいしいと食べていたい。残したりせず、捨てたりせず、でもできないのは、私が幼稚だからなのだろうか。
大人になれば、こみ上げる吐き気も我慢できるのだろうか。飲み込むときのゾッとする感覚を感じなくて済むのだろうか。
そうしたらもう、隣の人の皿が空になるときに、自分の残骸まみれの皿を見て劣等感を覚えることもないだろう。母を怒らせたり、悲しませることもなくなるのだろう。寿司屋にだってどこへだって、行けるのだ。親戚や友達の家で食事をするのも、もう怖くない。私はただの贅沢者で面倒で我儘な子ではなくなる。
願いが叶うなら、私だってそうでありたかった。



 深夜、布団の中でぼうっとしていると、外では雨が降っていた。
 最近よく降る。朝になれば、母が家中に洗濯物を干すはずだ。
 私は屋内で外界の雨音を聞くのが好きだ。世界からやや離れた気分になる。イトーヨーカドーの洋服売り場でしゃがみこむのと似た逃避感覚である。
 これは私が小学二年生くらいに発見したのだが、布は音を吸収するらしい。喧騒は幾重の繊維で優しくなって、立ち上がればあるはずの他人との社会から、少し頭を隠してくれる。一人だけど「独り」ではないと、ホッとする場所だ。
 いま、私を守っているのは、柔らかい羽毛布団。これがあって、四方を薄いながらも壁が囲んでくれている。私の部屋があるから、私は正気を保っていられた。
 現在時刻も気になったが、スマホを充電機から引っ張ってくるのさえも億劫だ。闇に慣れてしまった目で見つめると、天井の形がこんなだったのかと、初めてじゃないのに初めて知った気分になる。
 ―しょうこは、私なんだ。
 昨日からぐるぐると頭の外周を回していた考えが、また目の前の位置にやってくる。
 天利路子は、私がしょうこでないことを見破っていた。というより、最初から、岩殿美智子の血を分けた娘、「しょうこ」という存在がいないことに気づいていた。
 路子は、美智子が子供を産めない体だと、承知していたのだ。腹に刻まれた傷は、年齢を重ねても消え去ることはなかったから。
路子がおじいさんから聞いた話では、美智子が占い師を止めるきっかけも、病によるものだったそうだ。
病気が発覚してすぐ、贔屓にしていた客に大きい病院を紹介してもらい、大事には至らなかった。その人は親切で、退院後に昼間の仕事まで世話してくれると言うので、無下にできなかった。誰も止める者はおらず、美智子は新宿から出て行ったそうだ。
 「だけど、おじいちゃんとの仲は切れなかったのね。変な意味じゃなくよ?数年は間が空いたみたいだけど、患者として、また医院に顔を出すようになったの。おじいちゃんが担当していたときは、さっきも言ったけど、私はそんなに話したことはなかったのよ。で、晴れて私が新しい店ごと引き継いで、おじいちゃんが引退してから、何年くらい経ったかなあ。忘れちゃったけど…、岩殿さんに名字が変わったの。前は関内さんだったのね。どちらも語感は悪くないのに、おじいちゃんは岩殿さんのこと、美智子って呼ぶもんだから、私はよく自分のことを呼ばれてるのかって、勘違いしちゃった!…で、そのあたりだと、私もだいぶ岩殿さんと親しくなって、診察券の名字変更をきっかけに、いろいろご家族の話も聞くようになったわけ。だって、あの年齢で名字が変わるってことは、熟年離婚か晩婚なわけでしょ?聞きたくなるのはしょうがないわ。なんでも、終活していて出会ったんですって。仕事探しじゃなくて、死に所探しの方ね。そこで交流がスタートして、自分たちの最期をそれぞれ看取る人が必要だってなって。まあご主人の方には、息子家族がいたみたいだけど、あんまり迷惑かけたくなかったんでしょうね。それで一緒になったみたい。年齢差があったけど、岩殿さんは自分が長生きだとは思わなかったって、言ってたわ。だから終わりはトントンくらいだろうって。それで…えーとなんだったかしら?そうそう!その頃からね。娘のしょうこさんの話をするようになったの。実は私には、絶縁した娘がいるってね。名前がしょうこ。いまの旦那には何も話してないのって。それでポツポツ、昔話するのよね。でも、なんだかそれが、ときどきおかしいの。出てくる固有名詞とかがね?…そのしょうこさんが子供の時代には、ゾゾタウンなんてなかったはずだし。年齢的にも、占い師やってた頃とか通院中とかに計算が合わなかったり、これは作り話だなって思ったの。―岩殿さんは、私がおじいちゃんから何も聞かされてないと思ってたみたい。しょうこさんのことを、私が産んでしまったからしょうがないとか言うのね。その…岩殿さんはご自分では無理だったでしょ?だから、自分の子供の話って、一生涯することができないはずだったと思うの。再婚してできた息子さんはもう大人で、ろくに関わらなかったと言っていたし。―だからさ、妄想なのか、人から聞いた受け売りなのか、とにかく子供とのたわいない日常話をするの、憧れだったんじゃないかしら。私もなんにも知らないふりして聞いてた。―否定してしまってはいけない気がしたの。でも、この前あなたが電話してきて、どきどきしちゃった。本物のしょうこさんだって、言うんだもの。岩殿さんはぱったり来なくなってしまったから、私はお身体悪くされたのかなとか、もしかしてもう…なんて、嫌な想像ばかりして、それも忘れた頃だったのに、こんな突然、名前が出てくるんだものね。縁ってやっぱり繋がっていくんだなって、思ってしまったわ。だけど、やっぱりあなたもしょうこさんではないみたいだから。―ごめんなさいね?客商売やってると、嘘をついている人のことがわかるようになるの。でも、面白そうって言っちゃなんだけど、なんでこんな電話を、今頃私にかけてきて、岩殿さんのことを聞くのか興味が湧いたのよ。それで私はいま、正体不明のあなたと、こうしてお話しているの」
 書き起こしたら作文用紙何枚分になるかな。途中からそんなことを考えていた。
オレンジデイズという昔のドラマで、聴覚障害者の人が授業を受けるとき、音声情報を代わりにタイピングする役割があると知った。もし私がその役で、このまくしたてるような演説をリアルタイムで打っていたら、誤字脱字だらけになるだろう。途中から、「中略」と書いて、最後に結論だけでシメてしまうかもしれない。
私はこの会話の中で、一つの結論を見つけていた。
 ―さっき目の前にやってきた一言、「しょうこは、私なんだ」と。
 天利路子から聞いた美智子の娘の子供時代は、そのまま私の子供時代だった。十歳くらいでその物語が途絶えたのであれば、美智子がちょうど消えた頃になる。
 私は、美智子がやって来てから生まれた。位置付けは孫だし、あまり良好な関係を築けていたわけでもないのだが、美智子は私の存在や挙動を娘のそれとして、たまたま自分の背中に鍼を打っている女に話したのだ。
 おにぎりに入った鮭のことを、私は覚えていない。でも、小学校に上がる前くらいの私が、ピンクのドレスで、子供のタキシードを着た兄と写った写真がある。
 マンションの南側のラックに、ずっと変わらずあるはずだ。
…こんなことなら、この前に行ったとき、確認すればよかった。
髪飾りは確か、ドレスとお揃いのレースをあしらった花の形だった。嫌がって取ってしまうから、カメラマンがぽいっと投げるように私の上に乗せ、さっと撮った一枚だと、私は何回も母から言われていた。家族写真の横には、小さくて丸い額縁があって、おにぎりをかじっている私のオフショットが収められている。
いろんなことが綺麗に収まり始めてしまって、私はドミノ倒しを止めるみたいに必死になって、慌てた。
でも、まだないピースはあるじゃないか!
援軍を送る気持ちで、そういえば私が知りたかったのは、あくまで質問サイトの「笑子」のことだったと、問題提起を改める。それに、「しょうこが何者か」ではなく、「笑子が美智子なのか」に力点が置かれていたはずだ。
降って来た「美智子の娘のしょうこ」に気を取られ、すっかり見失っていた。彼女は美智子の絵空事の人物で、その絵空事に描かれた主人公が十中八九で私だという回答が、この疑問のベストアンサーではないはずだ。
 なにより、私はあの質問サイトの「笑子」ではない。
そういば「笑子」だって「しょうこ」ではないのかもしれない。「えみこ」と読むのではないか。もしくは「えこ」?
 どんな可能性も百パーセントにならなかったみたいに、全ての推測はゼロじゃなかった。だって、「わらうこ」と読むかもしれないじゃないか。…いま一度、「しょうこ」と「笑子」を切り離して考える必要がある。
本当に知りたかった真実は、まだ何一つわかっていないのだ。
 「あ…」
 ふと、新しい引き出しが開いてしまう。これは鍵さえ無くしたと思っていて、隅の隅に追いやっていたはずの部分だ。
 もういい加減に寝てしまいたいが、私は唐突に開けっぴろげた記憶の中で手をかき回し、ゆっくり瞼を下ろしていた。
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登場人物紹介

○ 岩殿紫乃(イワドノ シノ)         十三歳。中学二年生。質問サイトでは「三十代後半の東大卒男」のフリをする。

○ 岩殿美智子                      紫乃の祖母。父方の祖父の後妻で血のつながりはない。数年前に失踪した。

○ 三田麻里亜(ミタ マリア)       紫乃と同じ中学の一年生。顔が可愛い。

○笑子                                 紫乃が質問サイトで出会った謎の投稿者。

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