第9話

文字数 2,228文字

 そのようなことがあって今、洗居は眠れない夜を過ごしている。実際にやることはほとんどない。新井として橘の相手をするぐらいだ。あとはモニタを見ていればいい。やっかいな橘のことは綿貫が見ていてくれる。洗居は激しく動くこともわけのわからないことを叫び出すこともない綿貫をただ見ていればいい。でもたったそれだけのことが意外なほどの疲労感をもたらす。実際、一日中見ていても綿貫はほとんど声を発しない。考えてみれば当然だ。一人暮らしの部屋で画面を見ているだけだ。橘が一人の部屋であれこれわめきちらしているのは彼が病気だからであって、普通なら綿貫のように一言も発しない。現に洗居だってこの部屋でほとんど声を発することなどない。誰かと通話しているとき以外は無言なのが普通だ。一言も発せずにモニタを見ている綿貫を監視して、いったい何を拾えばいいのかが洗居にはわからなかった。狂いそうな兆候を見つけろと言っていたけれど、しまりのない顔でずっと変わらずにモニタを見続けている綿貫はなにごともないようにも見えるし、すでに狂ってしまっているようにも見えた。

 洗居は洗った顔をタオルで拭い、コンピュータのところへ戻った。モニタにはコンピュータの前に座ってモニタを覗き込んでいる綿貫が映っている。綿貫は病室から送られてくる橘の映像を見ているはずだけれど、洗居の見ている映像は綿貫が覗いているモニタの隣のモニタの上にあるカメラで撮影されたもので、橘の様子は見えない。橘を見ている綿貫の姿が見えるだけだ。綿貫はほとんど表情が変わらず、起きているのか、もっと言えば生きているのかどうかも不安になることがある。ときどき湯呑を口元へ運ぶのを見て生きていることを確認する。お茶を飲むとき以外、口はしまりなく開いている。洗居は橘のスケジュールを確認する。今日は特に何も予定が入っておらず、一日中開発作業をする日のようだ。新井の出る幕はないから洗居は綿貫を見ていればいいだけだ。綿貫はほとんど動きもしないから自分は寝ていてもいいだろう、洗居はそう思ってはっとした。
「まてよ」
 改めて画面に映っている綿貫を見る。綿貫は洗居に見られていることを知らない。これはもしかして綿貫が橘の監視をさぼらないように見ていろという意味もあるのではないか。綿貫が一度もさぼらないから気付かなかったけれど、もしかして綿貫が頼まれたことを放棄して橘の変化を見逃したら困るということもあるのではないか。洗居は急速に心拍数が上っていくのを感じた。

 五月女にもらったソフトウェアはいくつかあり、いずれも市販されているものではなかった。病棟の橘を監視しているコンピュータに入れた橘の様子を送信するもの、綿貫に渡した病院のコンピュータと通信して橘の様子を監視し、同時に綿貫の姿を送信するもの、そして洗居のコンピュータに入れた、綿貫のコンピュータと通信して綿貫の様子を監視するもの。洗居は背中が湿っていくのを感じた。洗居が綿貫を監視しているこのソフトウェアが洗居の姿をどこかへ送信しているということはないだろうか。

 洗居はあわただしく立ち上がると部屋のあちこちから紙や文房具を集めてきた。コンピュータについているカメラに紙を貼り付けて塞ぎ、マイクにテープを貼り付けた。橘と打ち合わせをするときにはこのカメラとマイクを使わなければならないけれど、それ以外のときは塞いでおくことにした。カメラとマイクを塞いだ洗居は立ち上がって部屋の中を歩き回った。おれを監視しているのは誰だ、五月女は他にもだれかを雇っておれを監視させているのか、それとも五月女自身がおれを監視しているのか、そうはいかないぞ、綿貫は爺さんだしコンピュータにも疎いから自分が見られているなど夢にも思わないかもしれないがおれはそう単純じゃない、どうだ、カメラを塞がれたのは見ればわかるだろう、おれは気付いたぞ、さあどう出る五月女、洗居は冷や汗でびしょ濡れになりながら目を剥いてモニタをにらみつけた。モニタには綿貫のしまりのない顔が映っていた。

「おい、新井」
 急に強い音で入ってきた名前で、洗居崇は我に返った。どうやらぼんやりしていたようだ。画面にはこちらを覗き込む橘祐樹の顔が映っていた。そうだ、新井孝として橘祐樹と打ち合わせをしていたところだった、と洗居は思い出した。
「ああ、悪い、昨日あまり寝られなくて、どうもぼんやりしてたみたいだ」
「大丈夫か、あまり頑張りすぎるなよ」
 洗居は驚いて橘を見た。橘は病気で自分はその診察を頼まれたのではなかったか、それを五月女に相談したらややこしいことになりはしたけれど、もともと橘は自分の患者だったのではないか、新井孝は橘の妄想の同僚だったのではないか、今橘は寝不足の新井を労っただけだ、そうだ、そのはずである。橘の言葉が新井を飛び越えて直接洗居を労ったように聞こえて戸惑った。無論最初から橘にとって画面に映っている相手は新井孝なのであって、彼の中には洗居崇は存在しない。新井と洗居の境界は洗居自身の中にしかないのだ。そう思うととたんにそれが曖昧なものに感じられた。自分は新井孝でも荒井貴志でもなく洗居崇だと言い切れるほど確かな境界はどこにもないのではないかという気がした。そのことが大きな不安になって洗居を飲みこもうとしている。
「ああ、大丈夫だ。ありがとう」
 洗居はそう言うと手の甲で額をぬぐった。恐ろしく冷たい汗が額から手に移っていった。
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