第4話

文字数 2,960文字

「ご覧になりましたか」
 青白い間接照明でぼんやりと照らされた部屋で、壁に向けて設置された大きなテーブルに二枚のモニタが設置されている。左のモニタを覗き込んでいた綿貫(わたぬき)雄一(ゆういち)は右のモニタに映っている荒井(あらい)貴志(たかし)の方を見た。
「ああ。荒井さんの指示通り、ソフトをインストールして見ていたところだよ。これはその、なんというのかなほら、生中継なのかね」
 綿貫はときおり左側のモニタに目をやりながら右のモニタに映っている荒井に話しかけた。
「そうです。もちろん回線速度の問題などがあるので数秒の遅延はありますがほぼリアルタイムだと思っていただいてかまいません」
 綿貫は聞きながら頷いた。
「なぜこの患者(クランケ)を私に?」
 画面の向こうもこちら側と同じぐらい薄暗く、向こう側でモニタを覗き込んでいる荒井の顔も青白く浮き上がっていた。
「先生の教え子の五月女(さおとめ)さんに相談したところ、妄想の症状が強く出ているケースなら綿貫先生のご専門に近いのではないかと教えてくれたもので」
「ああ、あの五月女君か。なつかしいね。元気なのかい彼女は」
 離れた場所でモニタを挟んで向かいあう綿貫と荒井は、それぞれモニタに照らされて平板に見える相手の顔を見た。
「ええ。今は総合病院で臨床に出ていて動けないそうです。それに状況を伝えたところ、このケースのように安定した妄想は聞いたことがなく、きっと自分の手には負えないだろうからぜひ綿貫先生にと言っていました」
「なるほどね。彼女も実に優秀だがね。私が教えた中でも一二を争って優秀だよ」
 綿貫は顎に生やした七割がた白くなっているひげを撫でくりまわしながら言った。そのタワシのような毛は指が通り過ぎるたびにざりざりと音を立てて元に戻ろうとした。
「ときおり言葉が混乱するようだけれど、本人の自我はしっかりしているように見えるね」
 綿貫がそう言ってひげをいじくりながら左のモニタへと目を戻すのを確認すると、荒井は居ずまいを正して話し始めた。
「はい。強い誇大妄想の傾向が見られるのと、突然語彙が混乱して支離滅裂なことを言い出すというのがおもな症状ですが、実は彼の周りに起きていることのほとんどが妄想です。あの部屋はこの施設の重症患者病棟の一室で、ここから二十四時間監視しています。それを先生にもリアルタイムでご覧いただきます。橘の住んでいる世界はぜんぶ彼自身の妄想なんです。幸い妄想の中で彼が住んでいるのも壁がウォールビジョンで窓の景色を切り替えてどこへでも行けるという部屋だったので、彼は病室に入っていることに気付かないままああして過ごしています。ご覧のように橘はあの部屋で一人ですが、ときどきあたかも誰かがいるみたいに話かけていることがあります。相手はいないんですが会話は成立しているように見えます。これまでの観察で、どうも結花という女性のようだということがわかっています。おそらく幻視と幻聴が合わさって一人の人物を生み出しているものと思われます」
 荒井が言葉を切ると、綿貫がゆっくりと口を開いた。
「その女性には誰かモデルがいるのかい。その、橘さんの想い人かなにかで」
「それが今のところわかりません。結花という名前だけがわかっていますが、彼の周辺でそういう名前の女性は見つかっていません」
「見たところ都合のいいときに現れて橘さんに賛同するようだね。自己肯定の象徴かもしれん」
 綿貫が黙ったのを見届けて荒井は説明を再開した。
「おかしくなり始めたのは三か月ほど前で、周囲は、最初はふざけていると思ったのだそうですが、次第に理解不能な発言が増えて、仕事もぜんぜん違うことをするようになったそうです。最終的にまったく意思の疎通ができなくなってうちで預かったのが二週間ほど前になります」
「どういう経緯で荒井さんのところへ?」
 綿貫がモニタを見つめたまま言った。
「橘は私の高校時代の友人でして、共通の恩師から私のところへ相談があったんです」
「その辺から順を追って説明してくれますか」
「ええ、もちろん。私と付き合いがあったのは高校のころの話なんですが、二週間ほど前に私たちの恩師である小佐田(おさだ)先生から電話がありまして、橘がだいぶ重症のようだから、はい、頭の方がとおっしゃいました、それで預かってくれないかと、ええ、先生は私が脳神経の研究をしていることをご存じで、彼をここへ、私のところへ収容してやってくれないかとおっしゃったんです、ええ、通院じゃなくて収容です、診てやってくれが無くていきなり収容してくれ言ってきたのでただごとじゃないなと思いましたが、ひとまず会ってみることにしました、え、はい、もちろんあまり気は進みませんでしたよ、でも会ってみますよって答えたんです、そうしたら先生が、これは小佐田先生のことですが、先生は橘の上司で、私は同僚ってことになっているから適当に話を合わせてくれと言うんです、ええ、なんでもオンラインサービスの企画運営をやっている会社だとかということで、小佐田先生がプロジェクトマネージャ、私と橘はエンジニアということでした」
 荒井が話を区切ると橘の映っている画面を見ていた綿貫が先を促すように荒井の方を見た。
「なんでも就職活動で苦戦したようで、ええ橘がです、苦戦してやっと採用された会社が当初目指していたような仕事とはだいぶ違ったようで、そこで仕事をするうちにだんだんおかしくなったようなんです、最初は話しているとときどきわけのわからないことを言うというようなことから始まって、次第に記憶が混乱していって、ええ、記憶が無くなるのではなくて違うものになっている感じだと会社の方はおっしゃっていました、いえ、最初に知らせを聞いたのは橘のご両親です、はい、私は橘の両親とは面識がありません、その橘のご両親が小佐田先生に相談され、はい、私もそう思いました、橘自身というよりもご両親が小佐田先生を信頼されていたようです、ええもちろん少し意外ではありました、実際に会ってみたら橘は私のことがわかるんですが、彼の同僚としての認知になるんです、ええ、昔の記憶は無くなっているようで、小佐田先生のこともカタカナ満載で話す上司だと思っています」
「それで日常生活に支障が出たというわけか」
「はい。通っていた会社の人たちが自分を監禁していると言っていたようです。本来の仕事をやらせないように偽物の仕事に就かせて騙そうとしているのだと、有能な自分を閉じ込めておかないと立場が危うくなる連中に狙われているのだと、言っていたようです」
「典型的な妄想だな。自分は尊い存在だという誇大妄想と、それゆえに狙われるという被害妄想が連鎖的に起こっている」
「橘の中で妄想が破綻なく構築されてしまっているため、それを矛盾させる事態が起こると異常な行動に出がちです。だから外界から遮断しておくのがいいのではないかと小佐田先生はお考えになって私のところへ相談してきたようです」
「それはわかるがねえ」と言って綿貫は胸の前で腕を組み、モニタを顎でさしながら続けた。「しかし彼、あのままだとまったく寛解に向かわないだろう。違うか。このまま彼をそこで飼い殺すつもりなのかい君は」
「いいえ、もちろんずっとこのままではありません。まずは一旦安定した状態に置いて経過を見ようという段階です」
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