第13話

文字数 4,517文字

 竿留はもう一つ画面を開いた。洗居崇の顔が表示された。竿留はその顔をマウスで回しながら話しかけた。
「ようこそ、洗居さん。洗居さんはほんとにいい人だったのね。それが命取り。それに竿留をさおとめとしてしか覚えていなかった。だから五月女でもわからなかった。二十年も前に同じ研究室にいただけ。ほとんど会話したこともない。それが同じ研究室にいた五月女です、ってメッセージを受け取っただけで、すぐに記憶のかなたの竿留と重ねてしまった。竿留というさおとめは少ないのに、あなたは覚えていなかった。ろくに覚えていない相手からの文字メッセージだけなのにどうして信用するのかしら。私が臨床とは意外だって自分で言ってたのに、どうして嘘だとは思わないのかしら。私が臨床医になるとは思えなかったのでしょう。だとしたら私が嘘をついているかもしれないと疑うべきよね。洗居さんは聡明なのに詰めが甘いわ。橘くんのことで相談してきたときに映像通話をしたわね、私は臨床って言ってあったからそれっぽい服を着て、病院ぽい背景で通話した。もちろんあなたは何も疑わない。あなたは私を見て変わらないねって言った。その通りよ。人はそう簡単に変わらない。私が臨床に立つことなんてありえないでしょう。私は誰のことも救おうなんて思ったことはないもの。あなたはそこまで感じていながら私の言葉を少しも疑わなかった。少しでも裏を取ろうとしていればすぐにわかったのに。私を雇っている総合病院なんかどこにもないって」
 回転させていた洗居の顔を正面で止め、竿留は鼻の上で何度かクリックした。
「おひとよしなのか無防備なのか救いがたいほどに馬鹿なのか。哀れだわ。なぜ信じるのでしょうね。神経精神医学を学んで高次脳科学研究室に入った私が卒業するときに持っていたものをあなたは知っているの? 私が学んだのは自分などというものは信じるに値しないということだけ。我思うからといって我なんてあるかどうかわかりやしない。自我なんてまったく確固としたものじゃない。偶然が組み合わさってできている砂上の楼閣にすぎないのよ。それを人々は過信して生きている。今日の自分が明日も同じ自分だということを微塵も疑わない。私はこの二十年、ノーテンキなあなたが脳神経科学を人々の希望の学問だと信じて研究に打ち込んできたその間、すべてをかけてその過信を破壊することだけを考えて生きてきたのよ。無自覚な正義を振り回す白痴どもとそれを粛清しようとする橘くん、橘くんを病気として診察する綿貫先生、みんな自分が見る側で相手が見られる側だと思い込む。洗居さんだけが、自分も見られているかもしれないと気付いたわね。そこだけはさすがだわ」
 竿留は別のモニタに表示されていた綿貫の監視画面を拡大する。綿貫は画面の前でだらしなく口を開けてぼんやりした目でモニタを見つめていた。
「綿貫先生。こんな形での再会ですみませんね。幾多の精神異常を研究してきた私の恩師。精神に異常を来した人は先生にとってはすべて事例でしたね。研究材料。興味深い対象。自分は正常で相手が異常。どうして先生は自分が異常ではないと信じられたのですか。私は信じられませんでした。研究をすればするほど、精神の異常を研究している私は正常だと言えるのだろうかと不安になったものです。そもそも精神が正常であるとはどのような状態ですか。正常がなんであるかはっきりしないのに異常を議論することが本当に可能ですか。先生にはそういう不安はありませんでしたか。今はもうほとんど廃人でいらっしゃいますね。どうですか、こちら側は。先生はもう診察される側ですよ。誰も診察しないでしょうけど」
 ほほほほほほと竿留はまったく表情を変えずに声だけで笑った。
「匿名性さえ守られれば破壊的な行動に出ようとする人はいくらでもいる。それはもうとっくに証明されているの。だからオンライン通話をしながら相手の顔と声を集めてその相手を偽装できるソフトウェアをばら撒けば、それを使って他人に成りすまそうとする人は間違いなく出てくる。けっして少なくない数でね。そうやって作った疑似人格を共有できるようにすれば、ネットから拾ってきた見ず知らずの人になりきって他の誰かを攻撃することもできる。私は人の善意なんてものはとっくに信じていない。悪用できる道具があれば悪用する。それが人という生き物よ。残念ながらね。するとどうなるか。誰もが疑心暗鬼になるわね。誰も信用できない。そして他人を装って行動しているうちに自分のことも見失う。ついには橘くんや洗居さんみたいに破壊的衝動を持つ人が現れる。彼らはまだそれぞれの部屋でおかしなことを口走っているだけだから無害だけれど、あれがガソリンまいて火をつけるみたいなことに繋がるのは時間の問題なのよ。世界はその一歩手前の人であふれてる。すぐに、そこらじゅう死体でいっぱいになるわ。そういう人を生み出しているのは無知な人の無自覚な正義。無自覚は痛みを伴わなければ自覚できないの」
 竿留が饒舌に語っていると、画面の中央に窓が開き、そこに竿留自身の顔が表示された。竿留は表情をまったく変えずに画面の中の顔と向かい合った。
「こんにちは」
 コンピュータから声が聞こえた。竿留が自覚している自分の声だった。
「こんにちは。あなたは、私?」と竿留が聞いた。
「私は早乙女結花」
「それは過去の私だわ。橘くんと付き合っていたころのね」
「そう。過去のあなた。だから今のあなたとは別」
 竿留はマウスから手を放して両手を膝の上に降ろした。画面に映った早乙女は竿留の意志に関係なく動いている。
「誰もかれも、無自覚を糾弾する人ばかり。無意識を意識することができないように、無自覚も自覚することはできないわ。無自覚を無自覚に非難する橘くんを無自覚に上から見るあなた。実力行使に出るかもしれない人たちとそれを操って自分は手を汚さないあなた」
「私は無自覚ではないわ。自覚的に、意図的にやってるの。私は彼らより優位だなんて思ってない」
「詭弁ね。あなたはそれが詭弁だということもわかってる。そしてわかってる自分は他より優れていると、無自覚に思っている」
「そんな堂々巡りを持ち出したらきりがないわ」
「そう。堂々巡りなのよ。それが意識のループだから。考えている主体は何かと考える。それを考えている自分、ということを考えている自分、ということを考えている自分、永遠に外側へ外側へと意識の階層を上っていける。どこまで行っても最上位の意識というものはないわ」
 画面を見ながら竿留は黙った。そんなことはずっと前からわかっている。私はそれについて自覚的なのだと考える。しかしそれにも同じ穴が存在していることもわかる。わかっている自分の優位性。堂々巡りだ。
「あなたは大昔から狂っている。冷静に狂っているの。あなたが淡々と進めてきたことは狂気以外のなにものでもない。あなたは正気でいるつもりかもしれないけれど、ぜんぜん正気じゃない」
 画面に映った早乙女の顔が揺らいではっきりしない顔になる。
「だから最初から高密度なコミュニケーションが濃密なコンデンスミルクと戯れて次元を超えたアリの大群を一網打尽に踏みつぶせばいいと言ってるんだ。真四角な盤面で無自覚な飛車角が飛び回るから振り子のフーコーはミシェルじゃない。そんなこともわからなくなってしまったの。画面にうごめく顔は早乙女から橘へ立花から荒井へ新井から綿貫へ四月朔日から五月女へとぐるぐる連続的にモーフィングしている。開かれた「が閉じないまま朦朧とした意識が暴走し、地の文を取り込んだ会話がもろとも地の文に取り込まれる。無自覚はあらゆるところへ忍び込む。これまで書かれてきたことは音になったら成立しないということにあなた気づいていて? 会話の中で同音異字が書かれたってどんな意味があるのかしら。あなた早乙女は竿留だった、って声に出して話せる? さおとめはさおとめだった、にしかならないわよ。するとこの物語はどうやって成立するのかしら。序盤からずっと会話文も地の文もなく同音異字を散りばめて書かれている。誰が書いたの。作者でしょ。じゃこの事態は作者の無自覚によって引き起こされたのか。それ以外にない。作者って誰よ出てきなさい。涼雨(すずさめ)なんとかいう人だろ。そのやつここへなおれ。御用だ。出会え出会え。燃やせ燃やせ。殺せ殺せ。ばかものわたしを殺せばきさまらの存在など無くなるのだぞ。あ、出たな鈴鮫(すずさめ)霊淫(れいん)。誰が霊淫だ卑猥な。きさまも別人格か。このやろう同音異字を多用しやがってどういうつもりだ。小説とは朗読できるものだと頭から信じて疑わないアホどもに鉄槌を食らわせるのだ。なに、そんなくだらない理由でこの混乱を持ち出したのか。粛清してくれる。でも新井が荒井で洗居だから荒い洗い方で洗い流したらいいとかそういう事態がオルタナティブでミクスチャーなバイブスとなって全身を刺激するわけだ。それによって状況が前進するのだぞ。冗談じゃない前進どころか混乱だ。淫乱だ。聞いてるの竿留さん。いいえ私は話しているのよ。あなた聞いてる? あなたって誰。おれに決まってるだろ。誰だ貴様。竿留涼崇淫だ。読めないぞ。モーフィングの途中で話しかけるからだ。いつカッコを閉じるんだ。カッコ? どこで始まったカッコだ。もうかれこれ九百十九字ほど前だ。そんな昔のこと知るか。ふざけるな手前が無責任に開いた「が閉じられないせいでこのありさまだぞ。なんだそんなもの、閉じカッコぐらい今すぐくれてやる」。あ、無責任なところで閉じやがった。どう始末をつけるつもりなんだ。ばかもの。開かれた「が当然閉じられると思っているほうがおかしいんだ。それを無自覚だと言っているのよ。どうやって片付けるんだこの事態を。始めたのは竿留だ。違うわもうずっと前に始まっていたのよ。ずっと前っていつだ。クロマニヨンなネアンデルタールがホモサピエンスか。ふざけるな鈴鮫、成敗してくれる。誰か何とかしろ。だめだ。地の文が巻き込まれた時点でおしまいだ。ぜんぶ燃やすしかない。燃やせ燃やせ。滅ぼせ滅ぼせ。このやろう元はと言えばおまえのせいだ。おまえが作者まで引っ張り出しやがったんだ。そうだ、おまえはこの段落から出ていけ。あっ、なにをするの。

 混乱の中からはじき出されたさおとめは椅子ごとひっくりかえって床に転がった。転がった椅子をそのままに立ち上がるとはだけた白衣を引きちぎった。キャミソールの肩紐が外れて片方の乳房がまろび出る。さおとめは細い目を快楽に潤ませ、髪を振り乱しながら声を振り絞った。

 忌まわしき疑心暗鬼のパルティータ。溶け出た自己を飲み干す享楽主義者(エピキュリアン)。踊り狂うプレストから急転直下のリタルダンド。それがもたらすアレグロモデラートアンダンテ。チンポコ・ア・ポコ・リタルダンドして永遠みたいなフェルマータを。マンを辞してダル・セーニョすればアル・フィーネ。魯鈍な回旋曲(ロンド)のコーダは連綿と続く夢幻の調べ。

 言い終えるとさおとめはコンピュータに覆いかぶさり、人物偽装プログラムを世界へ公開した。

《了》
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