第6話

文字数 2,361文字

 目覚めると遮光カーテンの隙間から細く強い光がギロチンのように綿貫雄一の首を横切っていた。綿貫は強い不快感を覚え、あわくって飛び起きてすぐさまカーテンを開けた。強烈な光が室内に残っていた暗がりをまたたくまに焼き払った。目を細めて窓を開け、思いきり息を吸い込んだ。ゴミ置き場に積み上げられた生ごみと雨どいにたまった粘土状の泥とそこいらの花壇の雑多な花と近所の猫の排泄物と若作りする中年女のやりすぎた化粧と使用済みのコンドームに閉じ込められた行き場のない精液とポンコツなディーゼルが吐き出す断末魔の排気ガスと隣人の炊く仏壇じみたお香と死にかけた自分の体臭の入り混じったにおいがした。
「うむ。世界はくさい」
 綿貫は満足してひとりごちた。この窓が橘祐樹の病室のようなものではなく、世界とつながっていることを確認して安堵した。綿貫の借りている部屋は前世紀からある古いアパートメントだ。建物自体は古いけれどネットワークの回線が引ければ部屋から出ずに暮らせる。なにひとつ不自由はない。不自由はなくとも好んでこんなに古い物件に住もうとするのは変人か金のないやつだけだ。六部屋あるアパートメントで埋まっているのは半分の三部屋だけで、綿貫のほかには仙人みたいな一人暮らしの女とガラの悪いカップルが住んでいる。言うまでもなく綿貫と仙人女は変人でカップルは金がないからここにいる。

 窓際に立って部屋を見回す。窓から差し込んだ日の光が部屋の中央に綿貫の影を落とす。古い畳が抱え込んだ死んだ細胞のにおいとたしかに生きて活動しているカビのにおい、そこに死に近づきつつありながらかろうじて生きている綿貫の加齢臭が入り混じり、生から死へのグラデーションを描くすえたにおいとなってたちこめている。少々窓を開けたところで消えることのない、べったりと部屋にこびりついたにおいだ。この部屋も世界の一部だと思える程度にくさい。綿貫はそのことに満足した。少なくとも自分は監禁されていないし、たしかに死につつあるけれどまだ死んではいないと思えた。

 キッチンでは前の晩にセットしておいた炊飯器が綿貫のための飯を炊いて待っている。綿貫はそれを茶碗によそい、冷蔵庫から海苔の佃煮を出してごはんの上にまき、ローテーブルへ持って行って腰を下ろした。食べようとして箸も湯呑もないことを確認し、立ち上がってキッチンへ取りに行く。湯呑に粉末の緑茶を入れて電気ポットから湯を注ぎ、箸を取ってローテーブルに戻る。毎日この一連の動作を繰り返す。物覚えが悪いわけではないし、実際のところ覚えていないわけではない。テーブルに茶碗を置いてすぐ箸と湯呑を取りに戻ればいいのだけれど、一度腰を下ろしてから立ち上がらないとどうも落ち着かないのだ。綿貫は箸を揃えて湯呑をかき混ぜてから茶碗の飯を食い始めた。こんな風に朝を過ごすようになってもう何十年もたつ。誰かと共に生きるという選択もなかったわけではない。ただ綿貫にとって優先順位が低かっただけだ。家庭を持つことよりも研究が優先だった。それをあまり悔やんだことはない。その大学の職も退き、あとは静かな余生を送るだけだ。その余生の舞台がこんなボロアパートなのも自分らしいと感じていた。

 思えば妙な仕事を引き受けてしまったぞ、と綿貫は飯をかき込みながら思った。もちろん余生の楽しみとしては申し分ない、しかしあの患者を治療するという視点に立つと、そんな責任を持つことはとてもできまい、あの患者に快復の見込みはほとんど感じられない、なんと言ったかなあの男は、かつて私が大学で教えていた五月女君の紹介だと言っていた、研究医としてあの病院にいるようだが五月女君とはどういう関係なんだろうか、思えば五月女君からはなにも聞いていないぞ、それなのになぜ私はこんな仕事を引き受けたんだ、単純にあの患者に興味があったからか、そうだ、きっとそうだろう、たしかに興味深い事例だ、それに五月女君が私を頼れと言ったのなら誇らしいではないか、私以外には務まらん仕事だろう、あの橘という患者は特異な症状であるし、それを研究したいという欲求はある、などと考えながら箸と口を動かしていたら箸がなにも運んでこなくなった。いつの間にか茶碗は空になっていた。綿貫は茶碗を流しに片付けると湯呑に沈殿した粉の上に湯を足した。沸かしてから保温されないまま時間のたった湯はだいぶ冷めていて注いでも湯気も立たなかった。

 溶けきらない緑茶の粉が漂うぬるい湯をすすりながら綿貫はコンピュータの前に座った。湯呑をデスクに置いて代わりにマウスを握る。

 省電力モードになっていたコンピュータを起こすとモニタには相変わらず橘の病室が映っていた。橘はずっと見られている。少なくとも荒井貴志と綿貫雄一の二人、もしかしたら他の誰かにも。本人は気付いていないだろう。橘はコンピュータの前に座り、横を向いて話していた。
「もちろんそうさ。新井君がここはおれに頼みたいんだと、え、あたりまえだろ、おれに任せておけば間違いないからな。そこはやっぱりあれだよ、信頼。あいつとは長い付き合いだしな」
 橘はそんなことを言って画面に向かうと、キーボードを打ち始めた。その様子を眺めながら綿貫はどのように治療するべきかを考えていた。もともと完治はしないから症状がほとんどなくなる寛解という状態を目指すのだけれど、そのためには橘を妄想の世界から連れ戻さねばならない。今彼を取り巻いている世界が妄想だということを知らせなければならない。しかし今の彼にそんなことを教えたところで、こちらが狂っていると思われるだけだ。こんなになるまで妄想を許した荒井の判断は間違っているとしか思えなかった。
「もっと早くに聞かせてもらっていればな」綿貫はぼそりとつぶやいた。
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