中篇

文字数 10,946文字

 それから一時間程経った後、スミレは自宅に戻った。制服を脱いで普段着に着替え、夕食と入浴を終えるとそのまま部屋に戻り、鏡と向き合った。そこには十六歳の生物としてはまだ若い自分の姿があった。その姿は大人でも子供でもない姿で。美しい花は咲いているだろうが大きさはまだ小さい感じがした。つまり花の機能と役割は果たしているが、注目を集めないのだ。その意味では道端に咲く植物のすみれと同じだとスミレは思った。花は咲いても注目するに値しない存在を描いた賢人という男は、変わり者だとスミレは思った。下方向ばかり見ているから上の方向に目が行かない。だからあんな隔離された場所、例えるなら死刑台があるような部屋に引きこもって生産性が無い行為ばかりしている。
 だがそれは自分にも当てはまる事ではないだろうか?とスミレは思った。自分は周囲と一線を画して地面に咲く一輪の花としての存在を主張し、個の存在であることを止めて花束に加工され画一的な商品と呼ばれる存在になる事を拒否している。だがそれは商品と言う付加価値を否定し、地面の花という自然の構造物の一つに成り下がっている。自分は人間社会という、切り取られている人工的な自然で咲く花だが、刈り取られ花束に加工されないと注目もされないだろうとスミレは気付いた。だが今さら阿部静の下に入って、花束を構成する一輪の花になるつもりはなかった。どうせ付加価値が付くのなら、賢人の描く絵画の中の花になりたいとスミレは思った。
 次の日は休みだった。父親と兄の陽一は家のアウディ・A6アバントで奥多摩方面に行ってしまったし、母は友人達と八王子の美術館に行ってしまった。一人残されたスミレはゲームをしたり本を読んだりして、与えられた時間を過ごそうとしたが、スミレにはそれが有意義で己の功利に資する行為とは思えなかった。だからすぐに止めて考え込んだ。自分が彼氏や彼女の居るまだ青い十六歳であったのなら、複数人で安っぽく単純な楽しい時間を過ごせただろうが、彼女はそう言う青い十六歳では無かったから無理だった。暇を持て余しどうしようかと考えていると、鏡に映る自分の姿を見た。そこには四角い枠に切り取られた、狭い世界に存在する自分の姿があった。

――また、あの家に行こうか。

 スミレは再び邪な考えを思いついた。その小さな思考の断片が呼び水となって昨日の描かれた植物のすみれを思い出させ、その映像が賢人の部屋で過ごした記憶と、体験した感覚を呼び起こさせた。それは一つの重量感を持った塊となって、彼女の大脳から心臓の辺りに移動して、彼女の皮膚の敏感な部分を粟立たせた。行っても得られる物は殆どないと自分に一度言い聞かせて見たが、ここに居て悶々としていても得られる物が無いのは同じだった。

――やはり、あそこに行こうか。

 またスミレはそう胸の中で漏らした。あの黒い背景に描かれた植物のすみれが、まるで自分の片割れのように思えてしまう。探し求めていた自分の欠損した部分、とでも形容すればよいのだろうか。自分が周囲との馴れ合いを拒絶していたが故に、自分には信用できる友人も仲間も居ない。だからあの描かれた植物のすみれが気になるのだ。もしかしたら、それは信仰の対象物かもしれないとスミレは思った。
 スミレは外出の準備を整え、自宅を後にした。自宅から賢人の家までは歩いて十分も掛からない。その遠くもなく短くもない絶妙な距離が、スミレの気持ちを狂わせた。
 賢人の家に来ると、あの木の門がスミレを出迎えた。もう何回も顔を合わせているから、硬質で猜疑心の強い眼差しを向けられているような印象はだいぶ和らいでいた。スミレはインターホンを探したが、あまりにも古い家なのかそう言った物が見当たらなかった。仕方ないのでスミレは拳骨で軽く門を叩いた。鈍い音が二回響くと、門の向こうにある家の中で何かが蠢く気配がする。まだ経験した事がないから適切な表現か分からなかったが、受精卵が腹の中で人間の姿に変わるのはこんな感じだろうとスミレは思った。
 程なくして、玄関が開く音が聞こえて、門が開いた。中からはグレーのヨットパーカーに身を包んだ賢人が出て来た。
「ああ、こんにちは。何か御用ですか?」
 先に口を開いたのは賢人だった。
「あのすみれの画が見たくて来ました。お時間が宜しければ、見てもいいですか?」
 スミレは丁寧にそう言った。すると賢人は嫌な顔をすることなくこう答えた。
「どうぞ。自分の作品を見てくれるファンが居ると嬉しいですから」
 賢人はそう答えて、スミレを家の中へと招いた。
 スミレは再び薄暗い廊下を進んだ。前に来た時は単なる異質な空間へとつながるような薄暗い廊下であったが、進む先に自分の目的があると思うと不気味さも何もない、ただの廊下だった。
 部屋に入ると、賢人が照明をつけてくれた。蛍光灯の白く熱の無い光が行き渡り、闇のベールに包まれていた作品たちがその姿を現す。黒い背景に様々な花が描かれたそのアトリエは、生命の無い温室か、花たちが集う葬儀場のような静けさがあった。
 その一番奥に、スミレが求めていた自分と同じ名前を持つ植物のすみれを描いた作品があった。その姿は以前と変わらず。凛とした存在感と冷たい美しさを湛えていた。普段は野原や道端に咲く小さく可憐な花であるのに、こうやって絵画と言う形で実存を描き出されて目の前に現れると、何か多大な功績を残した人物の肖像画の様だ。
 それを思うと、絵画や写真といった、枠に切り取られた小さな世界は、人間の意識を集中させ、他の事を意識させない効果があるように思えた。つまり何気ない物を主役にして見る物を支配するのだ。絵画だけでなく、物語もそうだろう。スミレはそう確信した
 スミレがその植物のすみれを描いた作品に集中していると、隣に居た部屋の主人である賢人がこう言った。
「その作品が、お好きなんですか?」
「はい」
 ほぼ反射的にスミレは答えた。
「その作品のどこに惹かれますか?」
「何気ない野に咲く花であるのに、こうやって描かれたら主役になるのかと思って」
 スミレは自分の感想をそう述べた。すると賢人はこう言った。
「あなたのお名前もスミレさんでしたね。この作品は無視されがちな小さなものを切り出して、一つの実存として描く事でその正体を明らかにしようと思って描いた作品ですから、個人的に思い入れがあります」
 その言葉を聞いて、スミレは自分に賢人の視線のみが注がれているような気分を味わった。賢人の視線は自分の肉体を突き抜け、心まで描くような感じだった。しかしスミレにその視線に対する不快感は無かった。
「はい。私も単なる女子高生ではなく、作品の主役になりたいです」
「そうですか」
 賢人は何かに諦めた様子で答えた。するとスミレは彼の方を向いてこう言った。
「私をこの絵みたいに描いて貰えますか?わたしもこの世界に自分の姿を押し込んでみたいのです」
「わかりました。いいですよ」
 賢人はそう答えた。



 スミレは賢人と連絡先を交換すると家に戻った。長い時間あの部屋に居ても得られる物はなかったし、興味があるのはあの植物のすみれを描いた作品だけだったから、目的が済めばスミレにはあとの事など作品のモデルになる事を含めてどうでも良かった。
 帰宅すると、スミレは自分の部屋にある鏡の前に向かって自分を見つめた。何一つ特徴のない、コンクリートの割れ目から咲く雑草の花程度しかない価値の人間。鏡に映る自分はそんな程度の実存でしかないが、賢人と言う人間の視覚と感性を通過して、額縁に収まった絵画の自分は、自分の存在を越えた物だろうとスミレは思った。そう思うと、スミレは自分が自分の知らない部分からもう一人の自分が現れて、目の前で美しい存在として微笑み続けてくれる。そんな淡い期待を抱いた。
 次の月曜日、スミレは何時ものように電車を乗り継ぎ、千川の高校に登校した。今日がこの高校で一年生として過ごす最後の日だった。教室に入ると、クラスメイト達がそれぞれのグループを作り、春の日差しを受けながら談笑している。三学期も終わりに近づいているため、学校全体にだらけたムードが漂い、進級を決めた生徒たちは皆浮足立っている。中には落第し、中退する事になった生徒もいるのに、どうしてここまで自分の事のみを優先出来るのだろうか。青春とか華の高校生活などと言う言葉は、単なる宣伝目で実態ではないのだろう。都合のいい部分を切り抜いてあたかも全体像の様に見せている。まるで「正義の戦争」を国民に流布している御用メディアと同じだ。スミレはその実態を無視して虚像に縋り付く感覚が許せないし不愉快だった。
 何時ものように席に着き、勉強度具を机に仕舞う。そして正面を向くと、やはりいつも高貴に振る舞っている女子生徒の静の姿が見えた。
 
 一生自分が巣の中の女王バチであると自覚した心算でいろ。

 スミレは心の中でそう罵った。あの女は他人の前で美しく振る舞う事でしか自分を表現できない人間だ。外見上や社交性のみに執着して、本質を求めない典型的な愚民だとスミレは思った。
 それから暫くして授業が始まり、午前の授業が終わって昼休みになった。何時ものように購買部でパンと飲み物を買い席に戻ると、先程心の中で罵った静がスミレの席にやって来た。
「ねえ、石井さん……」
 そう静が声を掛けた瞬間、スミレは席を立った。彼女と同じ時間や話題を共有したくなかったのだ。私はお前とは違う。お前はこの教室と言う巣の女王バチだろうが、只ひたすらオスと交尾して卵を産むだけの存在に過ぎない。まとわりつく働きバチと一緒にはなりたくない。というスミレの本音の表れだった。
 学校が終わり帰宅すると、スミレはスマートフォンで賢人に連絡を取った。十五分ほどで賢人からの返信があり、来てもいいという内容のメールの文章が書かれていた。
 スミレは了解したという内容のショートメールを送って、制服から私服に着替えて家を後にした。
 スミレは不安な様子も緊張した表情も見せずに、コンビニにスナック菓子を買いに行くような足取りで賢人の家に向かっていた。もうあの家も賢人の存在も、賢人によって生み出されたあの植物のすみれの画も、スミレにはもう特別な物ではなかった。
 道を進んで賢人の家にたどり着くと、またあの木の門が出迎えた。初めて会った時はスミレを威圧し拒絶するような態度を見せていたが、今となってはお互いに慣れて、普通に門と人間と言う立場で接することが出来た。
「こんにちは」
 スミレは門に向かってそう言った。しばらくしてから門の向こう側の家の中で何かが蠢く気配がして、玄関が開いた後に門が開いて、中から賢人が顔を覗かせた。
「スミレさん、いらっしゃい」
 賢人はそう答えた。スミレは一礼すると門を潜った。スミレは昔から賢人を知っている人間の様に臆することなく家へと上がり、廊下を抜けてアトリエに入った。アトリエはスミレが来る事を想定して、すでに照明が点けられていた。作品は植物のすみれを描いた作品を含め何処かに移動したらしく、イーゼルと絵筆、パレットに筆洗いなどがある以外はがらんどうだった。奥にはモデルになるスミレに用意された木の椅子があり、ここで賢人と二人きりになるのだと思うと、スミレの心の奥にある何本かの神経が束になるような感覚を覚えた。
「早速始めますか?」
 スミレは賢人に質問した。
「ええ、それなのですが。スミレさんに一つ提案があります」
 賢人の意外な言葉に、スミレははっとした。何か志向を凝らした作品を描くつもりなのだろうか。
「実は複数の作品を描いて、その中でスミレさんに気に入った作品を残しておきたいと思うのです。少し負担にはなると思いますが、よろしいですか?」
「私は構いません。いい作品を作る為なら協力します」
 スミレは考える事無くそう答えた。もう自分は作品を描くために居る。そんな気持ちスミレはなっていた。
「それでは、まずその椅子に座って下さい。普通にしている時の作品から始めます」
「わかりました」
 スミレはそう賢人の言葉に答えて、用意された椅子に向かった。席に着くと、スミレは賢人にこう質問した。
「何かポーズをしますか?」
「いいえ、普通に。まずは自然な作品を描きたいので」
 賢人がそう断ると、スミレは年頃の娘らしい表情と座り方をした。すると準備に取り掛かった賢人がこう漏らす。
「それは意図的ですね」
 賢人の言葉はそうだった。意図的に年頃の娘を演出したのは事実だったので、スミレは衝撃を受けた。
「分かるんですね。私が自分を作ったのを」
「自然の物を相手にしていると、分かるようになります」
 賢人はそう答えた。イーゼルに画用紙をセットする賢人を見つめながらスミレはこう質問する。
「どうすればいいですか?」
「普段教室で授業を受けているような感じで。必要なら、何か本を持ってきますが」
「それなら、一冊下さい。内容は何でも構わないので」
 スミレがそう言うと、準備を終えた賢人は適当な本を探すために部屋を出た。そして戻ってくると、その手は一冊の文庫本を持っていて、そっとスミレにその文庫本を手渡した。
 スミレが受け取ると、そこには『エリック・サティの生涯と世界』と言う題名が書いてあった。本は出版から長い年月が経っているらしく、表紙はセロファンが色あせて紙の部分が劣化して茶色く変色している。奥付を見ると、今から三十年以上前の初版本であった。変化していないのは、丸眼鏡に帽子と口ひげ姿のエリック・サティ本人の変人らしい佇まいのみだった。
 スミレはその本を開き、冒頭に書かれている訳者まえがきを読み始めた。そこにはエリック・サティと言う人間の人生、音楽性、性格や思想について説明した本であると語られていた。スミレにとってエリック・サティと言えば『その男、凶暴につき』の挿入曲の元々の作曲家程度の認識しかないし、それ以上の事を知ろうという意思はなかった。だからそう言った意味では、病院の待合室で適当な雑誌や週刊誌を読んだり、面白くもない授業を教室で受けるのと大差なかった。スミレは本の文字に視線を落としながら、自然な感じと言うのは自分が何かに対して意識を集中させていない時に出るのだろうと思った。
 二十分ほど本を読むと、内容に飽きたスミレはイーゼルの向こうの賢人を見た。彼の目はイーゼルに立てかけられた画板の上のケント紙に向いており、手に持った絵筆だけが動きそれ以外に変化はなかった。
 その様子をスミレはしばらく見ていたが、賢人が彼女の視線に気づく様子は無かった。彼は何を考えているのだろうかと不思議そうにスミレが思うと、賢人はようやくスミレの異変に気付いたのか、視線を彼女に合わせた。
「どうかしました?」
「いえ、描いている様子が気になったので」
 スミレは申し訳なさそうに答えた。もしかしたら賢人の集中力を削いでしまったかもしれないという思いがあった。
「気にしないでください。まだ三分の一も終わっていませんから、そのままでいてください」
 スミレは授業中の失態を指摘されたような気分を味わうと、再び手元の本を開いて視線を落とした。
 そうしてそれから四十分程の時間が経ち、目の奥の神経が強張ってくると、イーゼルの向こうの賢人がこう漏らした。
「疲れましたか?」
「はい、絵のモデルになるのは初めてなので」
 スミレはそう答えた。
「そうですか。ちょっと休憩しますか」
 賢人はそう答えて絵筆を止めた。そしてイーゼルの前から離れると、奥に行って飲み物を取りに向かった。暫くして賢人は二つのマグカップにお湯で溶いたインスタントコーヒーを持ってくると、一つをスミレに渡した。スミレは小さく礼を述べた後こう言った。
「絵を描くのは、美術学校で習ったのですか?」
「中学高校の美術部で覚えました。残りは完全に独学です」
 賢人はそう答えた。賢人の学生生活などスミレは全く想像がつかなかった。スミレが認識した時から、今の格好のまま生まれ、わずかな光が差し込む空間で一人生産性のない活動をしている人間だとばかり思っていた。
「画家を目指していたのですか?」
 スミレは続けて質問する。
「一応。才能があると思っていましたが自惚れでした。そのあと美術大学や大学の芸術部に入る気力も学力もなくて。戦争があって徴兵されて復員していれば、ヒトラーみたいに政治活動に身を投じていたかもしれません」
 ぼそぼそと語る賢人に、スミレは何も言えなくなった。話の中で出て来たヒトラーのくだりではなく、本来いるべき場所に居ない賢人を不憫に思ったからだった。
「スミレさんは、何か夢やなりたい職業は有るのですか?」
 今度は賢人がスミレに質問する。その言葉を耳にした時、スミレは自分の中に何も無い事を痛感した。気が付いたら石井スミレという名前と女と言う性別とジェンダーを与えられ、流されるまま成長し今は高校二年生に進学しようとしている。その中で得られたものは、空虚な自尊心だけだ。
「とりあえず。何かクリエイティブな仕事に就きたいなと思っています。パソコンとかを使わない。アナログななにか」
「手工芸のような?」
「はい。通っている高校は普通科の共学ですけれど」
 スミレは慌てている様子を押し殺しながら答えた。クリエイティブな事をしたいというのは出まかせだったが、通っている高校の事は事実だった。
「高校ですか。僕はもう卒業して三年になります」
 賢人はそう答えた。高校を出て三年と言う事はまだ二十一歳なのだろうか。スミレはもっと年が離れていると思ったが、違っていたようだった。
「ご両親はいらっしゃるのですか?」
 スミレは恐る恐る質問する。
「以前は居ました。しかし僕が絵画に夢中になっている頃に、母が父を殺しましてね。その後に母は自殺して今は一人です。親戚もいませんし、友人もいません」
 賢人の言葉はとても落ち着いていた。落ち着いていたからこそ説得力があり、スミレには偽りのない事実として浸透していった。自分一人だからこそ、賢人は自分の描く絵画の中で自分を認識する。そう言う人間なのだとスミレは思った。その中に自分が現れたなら、何かの歯車が狂ったのではないのだろうか。という不安も小さな痛みのような感触としてスミレの中に生まれたが、すぐに消えて無くなった。
 それから二人はインスタントコーヒーを飲み終えると、再び作品作りに戻った。そうして都合の良いところまで進むと、スミレは賢人の家を後にした。


 帰宅したスミレはベッドの中に潜り込み、描かれる自分の姿を想像してみた。色遣いや表情、背景の色はどのように描かれるだろうか。あの植物のすみれの様に、闇の中から浮かび上がるような作風か、それとも逆の明るく初々しい作品だろうか。色々考えたが、モデルであるスミレにはこれと言った欲望はなかった。賢人からはまた連絡すると言われたので、彼の気が散らないようにスミレから連絡はしない事にした。今の自分は絵画のモチーフという存在だから、なにか楽しい事も勉強する事も気分が乗らなかった。 
 次の日は休日だった。今日と明日の休日が終わり来週の木曜日になれば、スミレは高校一年生という社会的役割を終える。自分と同じように進級できる人間は、人間社会と言う旅人の記憶に残った野花のようなものではないだろうか。視界に入り印象に残ったからこそ、本来の価値を見出せたのだ。視界に入る事の無かった野花、進級進学できず、高校をやめる人間は、初めからこの世に存在しないものとしてただ消えるのだ。残酷な表現かも知れないが、それが真実だとスミレは思った。
 時計の針が午前九時半を過ぎた辺りになると、春の日差しは朝の重く冷えた空気を温め、人々に活動を促すかの如く燦々と街に降り注いだ。こうなってしまうと、普段は社会の歯車として機能する、名前を表に出さない人間たちが、今日こそ自分は自分の人生の主役であるという事を確認するために、生産活動とは無縁の場所に行き束の間の快楽を味わおうとしている。子供たちはまだ幼いからその事実に気付いていないが、休日に遊びに行くのも実際は社会における生産活動の一つに過ぎないのだ。つまり何処に行っても私達人間は歯車に過ぎない、単なる構成要素でしかないのだ。スミレはまだ十六歳の娘で人を殺しても実名を伏せられてニュースに出る立場の人間だったが、その事実に気付き始めていた。表面上は可憐で若い女子高生の皮を被っている人間だったが、その心は自分の子供を殺してドブ側に捨てる同い年の女と大差は無かった。両者を分けていたのは生まれた環境と生活空間の違いだけだった。
 スミレはそんなことを考えながら窓の外を見ていると、外に出て何かをしたい衝動に駆られた。自分も単なる一つの構成要素でしかないのなら、他の無知で愚かな人間と同じような時間を過ごしてもいいと思ったからだった。
 スミレは着替えると、一階のリビングに降りた。リビングでは父と母がタブレット端末を弄りながら、日帰りで春を満喫できそうな場所を探している。
「兄さんは?」
「出掛けたよ。車を使わせてくれって出て行ったよ」
 父はつまらなそうにそう答えた。兄の陽一のせいで今日の予定が狂ったのだろうか。
「私も出掛けてくる。夕飯には戻る」
「ああ、解かった」
 父は詰まらなそうに答えた。スミレは「いってきます」と小さく答えて、家を出て練馬駅に向かった。
 練馬駅に着くと、スミレは大江戸線の駅に入った。そこで新宿方面の電車に乗り、狭くてうるさい車内の騒音を聞きながら、行き先案内の路線図を見た。スミレは新宿で降りようと決心すると、スマートフォンを弄りながら時間を潰す今時の娘を演じる事にした。
 大江戸線の電車が都庁前に着く。スミレはそこからホームに降りて新宿行きの電車に乗り、新宿駅で降りた。
 世界で一番利用客が多い鉄道駅である新宿駅は人の波でごった返していた。まるで人間の姿が一つ一つの原子の様だとスミレは思った。この一つ一つの原子は生まれた時は無垢で清廉な存在だが、やがて時間の流れに乗って劣化し次第に自分の色を出してきて、人間と言う不完全で醜い存在へと変化して、社会の原子になる。そしてその原子たちは自分達で社会や所帯という物を作り、複雑な世の中の構造を作るのだとスミレはおぼろげに感じた。彼女はまだ十六歳の女子高生という社会的身分しか持ち合わせていなかったが、その事実には気付く人間であった。
 スミレは駅を抜け、コクーンタワーや美術館のある通りを進んだ。歌舞伎町やアルタ前は行きたいという気分にはならなかった。俗悪な広告と店舗が並び、人間の醜い部分を当然の物として容認している空間。それがスミレには不愉快だった。今いる高層ビルの立ち並ぶ場所は、例えるなら自分達に縁がない、隔離された人間たちの住む住処の集まりだろうか、高い所から自分達を見下ろす様々な強度の視線が、自分と言うちっぽけな女に降り注いでいるのがスミレには分かった。
 新宿駅前まで戻ると、スミレはどうしようか悩んだ。デパートに入っているテナントの冷やかしをしても良かったが、冷やかしが目的では生産性が無い気がしたので、スミレは帰宅の道を選んだ。
 帰宅途中の電車で、スミレはもうすぐ新学期が始まり高校二年生になる事を思い出した。進級が先か、賢人からの連絡が先かは分からなかったが、今までと違う新年度が始まると思うと気分が少し弾んだ。




 それから一週間が経って新学期が始まった。殆ど顔を覚えていない三年生の代わりに、真新しい顔ぶれの新一年生が入ってくる。同級生たちは新入生たちについてあれこれ噂話をしていたが、スミレにはあまり関係のない話題だった。
 新しいクラスには、一年でスミレと同じクラスだった生徒が半分ほど居た。阿部静とは同じ班になり、席はスミレが前で静が後ろだった。静の視線が背中にあると思うと変な気分にスミレはなったが、逆らう事は出来なかった。
 入学式当日は大きな事もなく一日が終わった。スミレは何時ものように一人で地下鉄の駅に向かうと、背後から彼女の事を呼び止める声がした。振り返ると、そこには新しくクラスメイトになった金子詩織と、阿部静を含む三人の生徒が居た。
「何か?」
 スミレは声を掛けた金子に尋ねた。
「新しいクラスメイト達でこれから親睦しようと思うんだけれど、石井さんも来ない?」
 金子は屈託のない微笑みを浮かべてスミレに言った。一方の屈託のあるスミレは目を伏せて考え込んだ。年頃の娘らしく、池袋や新宿で遊んでも良かったが、気分が乗らないし、何より静の添え物になるような環境に置かれるのが嫌だった。
「私は遠慮しとく。帰って寝たいから」
 スミレは捨てると、足早に地下鉄の駅へと下って行った。
 スミレはそのまま地下鉄で練馬駅へ行き、改札を抜けてコーヒーでも飲もうかと思いながらスマートフォンを取り出すと、一通の新着メールがあった。開いてみると、それは賢人からのメールでこの前の作品が仕上がったとの内容だった。
 その報せを受け取ったスミレは小走りに賢人の家へと向かった。住宅街に入り、賢人の家へとつづく道を進む。そして家まで来て、開いていた木の門を潜ると、玄関の前に立ってガラス戸を軽く叩いた。
 暫くするとガラス戸の向こうに賢人の姿が見えて、鍵を開けた。ガラガラと音が鳴ってガラス戸が開くと、絵の具の匂いが染みついた賢人が姿を現した。
「こんにちはスミレさん」
 スミレの姿を見るなり、賢人は慇懃にそう挨拶した。
「作品は何処に?」
「アトリエにあります」
 スミレの言葉に賢人がそう答えると、スミレは玄関に入って靴を脱いで廊下を進んだ。そしてアトリエに入ると、目的の作品と向かい合った。
 そこには灰色に塗られた世界に一人佇む、何もしていないスミレの姿があった。手に持っていた筈の本は描かれておらず、口を噤み微笑んでも悲しんでもいないスミレの顔が印象的だった。服はモデルになった時の服ではなく、菫色のワンピースを着ていた。その服とスミレの無表情さが、灰色の背景で際立つ絵だった。
「どうですか?」
 遅れてアトリエに入って来た賢人が尋ねる。スミレはしばらく自分の描かれた絵を見つめ、絵を見たままこう答えた。
「いい。私が描かれている」
 当たり前のことをスミレは言った。自分が絵画のモチーフになる事で、他とは違う特別な存在に昇華したような錯覚さえ覚えた。
「これはあなたのニュートラルな表情の作品です。ここから喜怒哀楽を生み出しましょうか?」
「はい」
 スミレの言葉はそれだけだった。




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