前篇

文字数 10,367文字

 ベッドで何回目かの寝返りを打つと、目元の辺りに自分の意識が移る。自分の感覚が冴えて全身の感覚器官から脳の辺りに電気信号が走り、それでスミレは瞼を開いた。朝の陽光が窓に掛けたカーテンの隙間から入り込んで、部屋の中を明るく照らす。二月二十日を過ぎたあたりから気温が上がり、世の中は冬から春に変化しつつあった。
 スミレはベッドから這い出て、床にあったスリッパを探し当てて履いた。部屋を横切り一階に降りると、リビングでは父と母、兄の陽一がテーブルを囲み、朝食を食べながらテレビのニュースを見ていた。
「おはよう」
 スミレは重く粘性のある言い方で朝の挨拶をした。まだ完全に覚醒していなかったのだ。彼女は自分の席に付き、テーブルに置かれたコーヒーのサーバーを手に取り、マグカップに注いだ。
「今日は遅いな。夜中に何かしていたのか」
 兄の陽一が質問する。昨日はお気に入りの本を読んでいたせいで、いつの間にか就寝時間が遅れてしまったのだ。兄と違ってスマートフォンのゲームで遊んだりはしないと言ってやりたかったが、我慢した。
「何も、少しくらい時間が前後することくらいあるよ」
 スミレは淡々と答えた。朝から兄のペースには合わせたくなかった。彼女はマグカップに注いだコーヒーを一口飲んで戻すと、テーブルに置かれたクロワッサンに手を伸ばした。


 朝食を終えて高校の制服に着替えたスミレは、練馬にある家を出て、西武池袋線の練馬駅に向かった。温かくなった太陽の日差しは、一軒屋の立ち並ぶ住宅街を明るく照らし、通勤通学に向かう人々にささやかな希望と自信を与えている。家の植え込みや、舗装されていない砂利引きの駐車場の雑草なども、降り注ぐ太陽光を受けて、冬には見せなかった輝きを見せている。日本の国の制度で、春半ばの四月から新年度がスタートするのは、こうやって様々な生命体が活気づくからなのだろうとスミレは思った。自分が歩くアスファルトの道路も、太陽の光を反射して硬質さの中に温かい表情を見せている。その小さな美しさに、スミレはまた一年が始まるという感想を抱いた。
 スミレは駅前の商店や飲食店が並ぶ界隈を抜けて、池袋線の練馬駅に入る。改札を抜け、池袋方面行きのホームに並ぶと、そこには通勤通学に向かう様々な人がいて、いい表現ではないが、プレパラートの中に漂う様々な雑菌のように思えた。それが電車と言う社会の血管に押し込まれ、様々な部分に人間を循環させている。と言う事を最近スミレは感じるようになった。私達は個人としてもてはやされているが、実際は単なる元素でしかないという事に気付きつつあった。
 千川駅の改札を抜けて地上に出た後、スミレは自分の通う都立高校に向かって歩き始めた。スミレの通う都立高校は何の変哲もない高校で、特に賢い訳でもなければ頭が悪いわけでは無かった。スミレ自身は私立大学付属の高校に進学したかったが、叶わなかったのでこの高校に通っていた。
 靴を履き替えて教室に入り席に着く。窓からは春の光が差し込んで教室を明るく照らし、新たな始まりを告げて新学期の到来を匂わせている。自分は二年生に進級できるからいいが、中退せざるを得なくなった生徒はどう思うだろうかとスミレは思った。
 ホームルームが始まると、朝のざわめきを感じていた生徒たちは席に着いた。スミレにはそうやって朝の時間を過ごす相手が居なかった。特別に必要な存在だとは思わなかったし、何より画一的な存在になってしまうのではないかと言う彼女なりの不安があったのだ。
 授業が始まり、一限目、二限目と言った具合に時間が流れ、スミレは十六歳の高校一年生という社会的身分を演じている。本当は個人と言う独立した存在であったが、この場所では与えられた社会的な肩書きに徹するしか方法が無かった。
 四限目が終わり、昼休みになる。スミレは購買部でパンと飲み物を買って教室でそれを食べた。いつもと変わらぬ一人の食事。大学に上がると一人でいる所を見られたくないという輩が大学に進学するといるらしいが、スミレには関係ない事だった。人間は本来独立した存在で、同調し群れる事はあっても究極的には孤立した存在なのだ。その事をスミレは学校と言う、コンクリートで作られた養蜂場で理解したつもりでいた。
「ああ、石井さん」
 スミレの背後で女の声がする。パンを食べ終えて振り向くと、そこにはクラスメイトの女子生徒である阿部静が、セミロングの黒髪を陽光に反射させながら立っていた。スミレはこの女が嫌いだった。整った顔立ちだったが目元が鋭く、六本木や青山通りを行き交うイタリアの高級車みたいな雰囲気を湛えて、いつも革張りの室内から外界を覗くような視線で周囲を見回している。恐らく自意識が高く、学校と言う名の養蜂場で主役でありたいのだろう。だからいつもクラスの中心に居続けようとする意志が透けて見え、隙あらば相手より有利に立とうとしている女だった。
「今日はパン?お腹すかないの」
「運動系の部活をやっていないから大丈夫」
 スミレはそう答えた。身体に負荷をかけてまで組織や体制に同化させようとする部活動は、彼女にとって屈辱だった。だから彼女は文化系を含め一切の部活動に入らなかった。
「今日は学校終わったら池袋で友達数人と遊ぶんだけれど、良かったら来ない?」
「新宿で何をするの?」
 スミレは静に聞き返す。目的が明確でないのに繁華街に行くのは不必要な事だと彼女は考えていた。
「特に何も、カラオケに行ったりとか、スイーツ食べたりとか」
「私はいい。他にする事が有るから」
 スミレはそう答えて静の提案を拒否した。静は優越感を手に入れたような目の色でスミレの目を見た後こう言った。
「そう。また何かあったら誘うわね」
 言葉の内容は何気ない普通の物だったが、スミレはその中に勝ち誇ったようなニュアンスがあるのを見落とさなかった。私はお前の引き立て役ではないという言葉をスミレは心の中で毒づいた。

 それから午後の授業が終わり、下校時間になった。スミレは再び千川の駅に向かい、西武池袋線練馬駅に戻った。乗り換えれば豊島園に行く事も出来たが、限りなく養蜂場の働きバチと同じ価値しかない女子高生が一人で遊園地に行っても、傍目から見ればただの非生産的な行為に過ぎなかった。
 スミレは駅前モールに出店している輸入食品専門店に行き、併設されたカフェでコーヒーを買った。テイクアウト用の紙コップを受け取ると、スミレは店舗脇にあったアルバイト求人の張り紙を見た。時間さえ都合が付けば、ここで働いても良いかもしれないと思い、スミレはスマートフォンで求人の張り紙を写真に撮った。スマートフォンを仕舞うと、カップのコーヒーを手に店を後にした。
 スミレは徒歩で家に向かいながら、自分の住むこの練馬周辺の様子を観察した。この辺りの住宅街は一軒屋が多く、庭付き駐車場ありの二階建て家屋が大半を占めている。中学時代、父の友人が住んでいるという、山の手線の内側にある千駄木と言う街に行ったことがあり、ここと似たような建物が多く並んでいたのを覚えている。だが練馬と千駄木で違うのは、千駄木は家の密度が濃くて、家屋が過剰演出に終始している事だ。不必要に自分を優位に見せる為に、誰もが高級車を買い強面な家屋に住んでいる。父の友人の家はそうでは無かったが、当時の近所の家はそんなものが多かった。
 それに比べて、ここ練馬はまだ大らかな感じがした。元々大根などの野菜を作っていた歴史を持つ土地を住宅街にしたから、牧歌的な雰囲気は消せない。空が広くて明るく、押し込められたような密度がこの街には無かった。
 そうやって作られた住宅街の道を歩き、スミレは自宅に向かっている。周囲には様々な路地があり、同じような光景がどこまでも広がっている。何も変化が無いなと思うと、スミレは目の前の交差点で車のクラクションが鳴る音を聞いた。驚いたスミレは手に持っていたコーヒーをこぼしそうになり、紙コップのコーヒーが指と制服の袖口に掛かった。迷惑な人だ、どんな人間がクラクションを掛けられたのかとスミレは思って、足早に交差点に向かった。
 交差点に近づくと、シルバーの三代目トヨタ・プリウスが左折してきて、スミレの脇を通り抜け練馬駅方面に走り去って行く。スミレは交差点の右側を覗き込み、クラクションを掛けられた人間を見た。
 そこにいたのは、一人の若い男だった。薄手のグレーのダウンに青いジーンズと言う格好は、没個性の極みで突然死しても誰も驚かないし悲しまないだろう。だがその男の足元には、散らかった画材道具があった。道具は半径一メートル程度に広がり、男は膝をついてその道具を拾い集めている。その光景を凝視してしまったスミレは、男の元に小走りに駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
 スミレは無意識に男に声を掛けた。
「大丈夫です」
 男は活舌の良くない返事をした。あまりしゃべる機会が無いのだろう。スミレも自分は口数が多くなく社交的ではないと思っていたが、それよりすごい人間が居るというのはちょっと衝撃的だった。スミレは持っていたコーヒーの紙コップを地面に置き、自分の足元にあった筆や絵の具のチューブを手に取り、男に手渡した。手渡す時男の生気が無い指に自分の
指が触れて、ハッとしたが声は出なかった。
「ありがとうございます」
 男はそう感謝を述べた。スミレは軽く会釈してその場を離れようとしたが、足でコーヒーの紙コップを蹴飛ばしてしまい、倒して中身をぶちまけてしまった。スミレがそれに気づいて小さく悲鳴を上げると、男は慌てた様子でこう言った。
「すみません。せっかく買ったコーヒーを」
「いえ、大丈夫です」
 スミレはそう答えた。自分でも意外なくらい他人行儀な言葉だった。
「すみません。弁償したいのですが、今持ち合わせがありません」
「大丈夫です。そんな大したコーヒーじゃありませんから」
 スミレはそう答えた。紙コップのコーヒーを買う持ち合わせがないなんてちょっと意外に思ったが、口には出せなかった。スミレはその場を去ろうと足を動かしたが、男はこう呼び止めた。
「僕の家はすぐそこです。そこでお渡しいたしますので、お時間が宜しければ着いて来て頂けますか?」
 スミレは言葉を発した男の顔を見た。白く釉薬を熱く塗った白磁のような肌と、艶の無い黒髪、顔は面長で特徴がある訳では無かったが、普通の人間とは異なる雰囲気を持っていた。
「すぐ近くなら」
 スミレは暫く間をおいて答えた。
「なら、こちらにいらしてください」
 男が言うと、スミレは男と共に歩き出した。
 男の後について行くと、スミレは歩いた記憶の無い道へと入って行った。スミレは小学校に進学したころにこの練馬の街に移り住んできたが、日当たりが悪く、入り組んだ道は歩いた事が無かった。練馬と言う何の変哲もない場所に、まるで深淵へと誘うような道があると思うと、スミレは胸騒ぎを覚えた。不安とも高揚とも思えない不思議な感覚が、彼女の思考と肉体を支配していった。
 男の家は狭い路地、車一台通れる程度の道幅の道路を進んだ先にある、塀に囲まれた古い日本家屋だった。建物自体は木の門があり立派であったが、閉じた門は長い風雨に晒され深い色に変色し、時代の変化を拒絶するような表情で外界と接している。その門構えにスミレは閉塞感と他者への敵対心を感じ、門を潜るのを躊躇させた。男が門を開くと、そこには差し込んだ光によって照らしだされた荒れ放題の庭と、好き勝手に伸びた雑草の間から顔を覗かせる飛び石があった。拒絶していた門構えと、荒れているが太陽の光を浴びて光る家への道。その視覚に映る造形の落差が、スミレの興味を持たせて、原因不明の胸騒ぎを好奇心へと変えた。
「すぐ取って参りますので、お待ちください」
 男はそう言って門を潜り、飛び石を歩いて玄関に行った。鍵を開けてガラスの引き戸を開けると、その向こうには薄暗い廊下が別世界へと繋がっているように伸びていた。
 スミレは門を潜り、飛び石の前で男を待った。開け放たれた玄関を覗きながら、暗い廊下の向こうには何があるのか、スミレは興味を注がれたが、入ったりする勇気は無かった。
 暫くして、男が家の中からやって来た。手には茶封筒が握られており、硬貨ではではなく紙幣で支払うようだった。
「先ほどは大変な失礼をいたしました」
「いえ」
 恐縮しきったスミレはそうとしか言えなかった。男が差し出した茶封筒を受け取ると、スミレは男の目を見た。彼の瞳の奥は黒い世界が広がっており、様々な物の中から美しい物を見つけるような能力を持っていそうな気がした。
「こちらに住んでいるのですか?」
 スミレは自分でも意外に思うほど疑問を漏らした。
「はい。ここに住んで絵を描いています」
「そうですか」
 スミレは答えた。ならばあの時絵を描くための道具を持っていたのも納得できた。
「それでは、失礼します」
 スミレは半ば呆然とした気分のまま、その場を後にした。



 スミレは家に帰り、制服を脱いで男から手渡された茶封筒に入っていた千円札を財布に入れると、部屋でゲームをしたりネットの動画サイトを見たりして時間を過ごした。SNSはやっていたが、単に連絡手段の一つとして利用していただけだから更新する気持ちにもなれず、ましてや今日の出来事を書く事など出来なかった。
 やがて夕食の時間になり、スミレは用意された豚肉の生姜焼き丼を食べ終え、風呂に入って部屋に戻った。今日見た物は単なる偶然だろうか、あの周囲から隔離された、創世記の物語に登場しても不思議ではないあの場所で、あの男は絵を描いているのだろうか。それならばその絵は宗教画か、それとも抽象画だろうか。スミレはその正体を知りたい衝動に駆られたが、今は押し殺しておく事にした。
 次の日は何時ものように目覚め、何時ものように制服に着替えて駅に行き、電車に乗って千川の高校に行った。視界に映る景色や人物は何時もと同じで、違うのは時間割りに書かれた教科のみ。軍隊に入ると、ブートキャンプと言う場所で新兵は個性を否定されて、組織への忠誠と上官への服従を叩きこまれるという。もしかしたらこの学校と言うコンクリートの養蜂場も同じような役割を果たす場所では無いのだろうか。制服を着せて周囲から隔離し、未成年だが義務教育ではないという身分を与え甘やかす代わりに、可能性と個性を奪って体制に服従させる。そういう事実にスミレは気付き始めていた。
 その中で自分と言う存在を保ち、画一化される過程において他者との明確な区別をするために何をすべきだろうか。スミレはホームルームが始まる前の教室でぼんやり考えたが、いいアイデアが浮かばない。半ば呆然とした状態で教室を見つめていると、自分の視界に、三人の男子生徒と談笑する阿部静が見えた。その目は商品棚に並ぶ宝飾品を品定めするブルジョワ階級の女の様であり、また交尾の相手を選ぶために、オスを品定めしている発情期の動物のメスの様でもあった。奴はメスの部分を使ってオスに取り込み、その保護の下で好き放題する類の人間だとスミレは思った。
 やがて授業が始まり、苦痛でも緩慢でもないペースで授業が進む。三限目に入り、スミレは古文の教諭の話を聞きながら窓の外を見た。空は晴れていて、国道に挟まれた都会の排気ガスさえなければ青空が続くだろうと思った。その青空の陽光の下で、あの古ぼけた日本家屋はどうなっているだろうか、抜けるような青空が広がる天気なら、それこそエデンの園かあるいは廃墟と化した天使たちの住処のような、神秘と鮮やかさを持った世界になっているだろうか。何の変哲もない住宅街に、あんな切り取られたような場所があるのが未だに衝撃的だった。
 
――またあそこに行ってみようか?

 邪な思考がスミレの頭に浮かぶ。あの切り取られた世界には、このコンクリートの養蜂場には無い、異質だが私を引き付ける何かがあるのではないだろうか。とスミレは思い始めていた。
 午前の授業が終わり、昼時になるとスミレは再び購買部に行った。今日はパンの気分ではなかったので、ツナマヨネーズと梅干のおにぎり二個とペットボトルの緑茶だった。教室に戻り、何時ものように食事を始めると、他の女子生徒と話す阿部静が目に入った。スミレは存在しないものとして静を扱ったが、静は女子生徒との会話が終わると、スミレに気付いて彼女の元へとやって来た。
「ねえ、石井」
 静はスミレの名字をそう呼び捨てにした。静から見れば友好的なふるまいだろうが、スミレにとっては生活困窮者に、ブルジョワジーが車の窓から紙幣を投げるような感覚の、上から目線の不愉快な言い方だった。
「二年生に進級したら、私達と同じLINEのグループに入らない?クラスが変わっても連絡できるように」
 静はそう言った。スミレは自分を仲間に引き込んで何をしようと言うのだろうかと疑問に思った。自分をスケープゴートにするか、それともアクセサリーとして扱おうというのだろうかと考えた。
「考えておく」
 スミレはそれしか言わなかった。仮に静と友人関係になっても、安っぽい感動しか得られないという思いがスミレの中にあった。
「何かあれば声を掛けてね」
 静はそう言ってスミレの前から離れた。常に勝者の余裕を振りまいていないと、あっという間に無価値な存在になるという恐れがあるのだろう。そうだお前は空虚な女なのだとスミレは言ってやりたかった。

 学校が終わり、スミレはいつもと同じように西武線で練馬に戻った。駅を出て住宅街に向かう。いつもと同じ道、同じ足取りだったが、違っていたのは以前あの男にあった記憶がある事だった。昨日見た光が差し込む荒れ放題になった庭の様子と、深い色に変化してしまった木の門が頭の中に強烈なイメージになって離れない。
 
――またあそこに行ってみようか?
 
 スミレの頭蓋骨の中でまた同じ言葉が反響する。足は家に向かって歩いていたが、頭脳から生まれる思考と意思を反映していなかった。そして昨日の交差点が目の前に近づくと、昨日と同じような車も男の姿もなかった。スミレは安心感を覚えた。だがそれも束の間、混乱した思考が一本の神経を繋いで例の家の方向へと足を向かわせた。
 途中何度か止めて引き返そうと思ったが、頭の中で肥大化するあの家に対する思考を止める事は出来なかった。恐怖や脅迫観念を越えて、好奇心と達成感を得るための快楽がスミレの全身を駆け巡って支配していた。
 そして例の家の門の前まで来た。木の門は相変わらず深い色をして閉じており、外部との接触を強く拒んでいる。開いてはくれないだろう。そう思ってその場を離れようとすると門の向こう側で何かが蠢く気配がした。心臓が止まるような気分を味わうと今度は門の鍵が開く音がした。そして嫌な音をたてながら門が開くと、向こう側には昨日の男が同じ服装で立っていた。
「ああ、昨日の」
 男は特に驚く様子もなくそう言った。
「こんにちは」
 スミレも当たり障りのない言葉を発した。気取った言葉など出てはこなかった。
「先日は失礼しました。今日はまた何か御用でしょうか?」
 男は怪訝そうな顔でスミレに尋ねた。どうやらスミレがまだ何か考えていると思っているらしかった。確かにスミレは考えがあってここに来たのだが、理由は男の想像するものでは無かった。
「いえ、私はこの街の住人なので」
 噛み合わない返事をスミレはした。だが男はそのいい加減な文法を気にせずにこう言った。
「そうですか。知りませんでした」
「通っているのは、千川の高校ですけれど」
「高校生なんですか」
 男はまるでコンクリートの壁みたいに無機質な返事をした。魂が無い空き瓶のような人間か、或いは私など人ではないと思っているのだろうかとスミレは思った。
「はい。今一年生で四月に二年生です」
「そうですか」
 なおもオウム返しで男は答えた。そして暫く間が開くと、男はスミレに興味を失って家の中に戻ろうとした。すると、それを感じ取ったスミレはこう言った。
「待ってください」
 スミレの言葉の感触は、感触は壁に張り付いていた虫の小さな命を、親指の腹で押しつぶす感触に似ていた。
「あなたはこの家に一人で住んでいるのですか?」
「そうですよ」
「お一人で?」
「はい。家族も友人もいません」
 男も小さな命を奪う時のような言葉で返した。すべてにおいて理性が機能していないような感じだった。
「何をしているのですか?」
 スミレは質問した。彼女の中でも、理性と言う物が機能を喪失しつつあった。
「家の部屋をアトリエにして、絵を描いています。主に水彩絵の具の絵を描いていますが」
「そうですか」
 スミレはそれだけ答えるのが精いっぱいだった。大脳の中に空洞が出来たみたいに、意思が喪失していた。
「よろしければ、見ていきますか?」
 突然男が感情、人間としての温もりが宿った言葉でスミレに言った。驚いたスミレは男の目を見た。その目にはそれまでのガラス玉のような生気の無い瞳から、血の通った人間の瞳へと変貌していた。
「いや、そんな」
 スミレは口籠った。それまでの抜け殻のような思考から急に人間に戻ったような、妙な感覚を味わっていた。
「あなたが良ければ、僕は構いませんよ。絵画は誰かに鑑賞してもらう為にありますから」
 その言葉にスミレは腹の中にある、内臓の一部ではない何かの器官が動いて、自分の心に作用した感覚を覚えた。
「問題が無ければ。見ます」
 スミレはそう答えた。気付いた時には男に促されるようにして家の門を潜った。自分の住む世界から別次元の世界に足を踏み入れたという意識がスミレの中にあったが、不安や後悔はなかった。
 玄関に入り、靴を脱いで家に上がる。板張りの廊下は長く続いており、奥に進めば進むほど闇が増して、溶かした絵の具の匂いと水の湿度と冷たさが感じられた。生気の無い空間で、スミレは男と二人きりだった。
「こちらです」
 男はそう言って、廊下右側の扉を手で刺した。ベニヤ張りの、古い木造アパートに使われているような扉がそこにはあった。スミレは男の後ろで立ち止まると、男が銀色のノブに手を伸ばして扉を開いた。やんわりと澱んでいた空気が揺れ動くと、中らから絵の具の匂いと作品の放つ様々なオーラがスミレの元に流れ込んできた。
 男の後に続いて、スミレも中に入る。男が部屋の照明スイッチを探って明かりを点けると、そこには無造作に置かれた画材道具と共に男の作品が並んでいた。
 まず目に飛びこんできたのは、ケント紙に描かれた、黒い背景に一輪の植物のすみれの絵画だった。その作品は道端に咲く花を描いた作品であるにも関わらず、実際の植物のすみれよりも大きく書かれていた。スミレは同じ名前を持つ植物として興味を持ち、その絵画に近づいた。使っているのは水彩の絵の具の様だったが、筆遣いや光の当て方に、美術の教科書で観たスペインの画家ベラスケスの油彩画の影響がみられる。その奇妙なアンバランス感が、スミレの興味を注がせた。
 視線を周囲に移すと様々なサイズの画用紙に描かれた植物の菫やユリやサクラソウの花などがあった。
「植物の画が好きなんですか?」
 スミレは男に質問した。
「はい。一瞬だけ美しく咲き誇る小さな花が。特にすみれが好きなんですよ。小さな花なのに、唯一無二の名前と色を持つ」
「私の名前もスミレと言います」
 スミレはそう名乗った。ここに興味を持ったのは、もしかしたらこの絵のせいかもしれない、と思った。
「そうですか。偶然ですね」
 男はそう言った。先程と同じ心の無い乾燥した言葉だ。スミレは向こう側の世界に行ったことが無いから分からないが、仏教における地獄の入り口で、様々な地獄に落とす時の案内役の言い方はこんな感じではないだろうか。ならばこの絵は何だろう?ひょっとしたら地獄から王道楽土に戻る為の心理テスト用の題材だろうか。
「このスミレは、なぜ描こうと思ったのですか?」
 スミレはそう質問した。
「植物のすみれはそこら中にありますが、その花は小さくも可憐で美しい。そしてその花の色は明るくもなく暗くもない、何を表したいのか分からない不思議な色なんです。絵画のモチーフにすれば、鑑賞する側に様々な解釈や考察を与えます」
 男の言葉にスミレは納得せざるを得なかった。確かに植物のすみれの花の持つ色は唯一無二の色だった。明るくなければ暗くもない。どこまでも続く深淵の世界の一部を見せているような錯覚さえ覚える。
「それに、種類によっては毒もあります」
 男の言葉にスミレは奇妙な快楽にも似たような感覚を覚えた。意地悪をして成功した時のような、あの感覚だった。
 スミレは何も考えずに、描かれた植物のスミレを見つめていた。その色は何処までも不思議で、自分の中にある善悪や美醜などの垣根を侵食して使い物にしなくなるような、おぞましさや美しさがあった。
「あの」
 スミレは絵を見たままそう漏らした。
「何か?」
「あなたの名前を知りたいのですが」
 スミレの言葉に男はこう答える。
「賢人と言います。絵を描くのが好きな二十歳の男です」
 その言葉を聞いて、スミレは静かに頷いた。
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