後篇

文字数 4,701文字

 それから賢人と今後の打ち合わせをした後、スミレは帰宅した。今後スミレがモデルを務めるのは新学期が始まって間もない時期だから大丈夫かと賢人は心配したが、スミレは親しい友人も居なければ部活動もしていなかったので問題ないと答えて、賢人の家を後にした。自分の存在が現実を抜けだして形ある美術に進化した時、スミレは満足とも達成感とも言えぬ感情に支配されていた。絵画作品に描かれた、非凡な自分と言う一番手に入れたかった物が手に入ったからに他ならなかった。冷めやらぬ興奮を胸に抱きながら、スミレはその日を終えた。
 次の日は曇りのち雨と言う天気予報が発表され、空は春なのに重苦しい鼠色だった。スミレは普通に学校に登校して、教室に入ると授業が始まった。クラス替えで新しく顔を合わせるクラスメイト達が半数ほど居たが、スミレは意に介さない事にした。
 ホームルームが終わり、一限目の社会科が終わり、二限目の数学が始まるまで少し時間が空いた。すると、あの阿部静がスミレの元にやって来た。
「ねえ、石井さん」
 静はまた他人行儀な言い方でスミレに声を掛ける。自分の育ちが良いことを自慢したいのだろうか?家の車は一つ前のメルセデスのCクラスのくせに。とスミレは毒づいた。
「最近顔色が良くないみたいだけれど、何かあったの?進路の事?」
 静は表面上の気遣いをして続ける。その言い方に耐えがたい不愉快を感じたスミレは強めの口調でこう言い放った。
「別に。やりたい事が出来ただけよ」
 スミレのその言葉に静は何かを感じ取ったのか、「そう」とだけ答えて自分の席へと戻って行った。
 それから残りの授業が進むと、下校時間に天気は雨模様になった。今日みたいな日は気温が低くて湿度が高いから、絵を描くのには不向きのはずだとスミレは思った。部屋の中で絵を描く事は天候に左右されない行為だろうが、人間の心を動かす動機を作る物を生み出す行為は、生み出す人間の心の動機に左右されるだろうから、きっと重苦しい気分になって筆を執る事をしないはずだと思った。
 そんな中で、賢人はどうしているだろうか?気になったスミレはまっすぐ帰宅せず、寄り道をして賢人の家に行く事にした。
 電車を乗り継ぎ練馬に着くと、スミレは賢人の家の方向へと向かった。家の前に着くと、雨に濡れた木の門が眉の端を下げて憂鬱そうな表情で出迎えた。門に手を掛けると、鍵が掛かっていなかった。門を開いて中に入り、門を閉じてガラス戸まで来ると、スミレはガラス戸を叩いた。
 中から反応は無かった。スミレは先ほどと同じようにガラス戸に手を掛けると、こちらにも鍵が掛かっていなかった。自分の顔の幅ほどガラス戸を開けてスミレはこう言った。
「ごめんください」
 スミレの言葉は家の中に響くだけで返事は無かった。スミレはガラス戸を開いて中に入り、戸を閉めて靴を脱ぎ勝手に上がった。その瞬間、賢人はアトリエに居るという確信が彼の気配と共にスミレに伝わった。アトリエの方に向かってゆくと、奥の方から賢人の気配がより一層強くなるのを感じた。スミレは足音を立てないようにしてアトリエの入り口まで近づき、賢人が居るであろうアトリエの半開きになったドアの向こう側を覗いた。
 ドアの向こうでは、椅子を逆にして背にもたれかかる賢人の姿があった。彼の瞳は深海の様に深い色に染まり、彼の内部に果てしない世界が広がっているのを示しているようだった。その瞳の表面に映っていたのは、スミレを描いたあの作品。賢人の光の無い深海に、スミレを描いた作品だけが認識できる存在としてそこにあった。
 すると賢人がスミレの気配に気づいて、ドアの方を振り向いた。スミレははっとしたが、その場で身じろぐようなことは無かった。
「スミレさん」
 賢人は落ち着いてそう言った。
「すみません。勝手に上がり込んで」
「いいえ、あなたなら大丈夫です」
 スミレの詫びに対して賢人はそう答えた。スミレは「あなたなら」と言う言葉に少し違和感を覚えたが、すぐに消えてしまった。スミレは部屋の中に入り賢人の側に寄る。そして自分が描かれた作品を見た。以前見た時と何一つ絵の様子は変わらなかったが、完全に絵の具が乾き室温と同化した絵には、単なる作品以上のこの空間を構成する必要不可欠の要素であるように思えた。
「何か不完全な部分でもありましたか?」
 スミレは自分の描かれた絵を見ながらそう賢人に質問する。
「いいえ。完璧な作品なんてありませんよ。作品と対峙する人間が気に入るか気に入らないか、その事実があるだけです」
 淡々と賢人は答えた。スミレはその言葉が作家オスカー・ワイルドに由来する言葉であることを知っていたが、その事を口にする事は出来なかった。賢人の瞳の中にある世界の深さと、自分を描いた作品の気迫に支配されていたのだ。
「こうして一人で作品を見つめていると、自分が死んでいるのか生きているのか分からない感覚になるんです。そしてふと気が付くと、外の雨音が聞こえてきて、自分が生きていたと実感するんです」
 スミレは賢人の言葉に返事すら出来なかった。死んでいるのか生きているのか分からない存在、時間すら超越した世界に思いをはせる事がスミレには出来なかった。スミレは描かれた自分の姿を見つめながら、あれこれと混乱した頭を冷やそうと思った。作品に描かれた自分は確かに生きているという事と、生きている自分から見たら動きも呼吸もないから死んでいるような存在だと気づかされた。確かにスミレと言う人間は生きているが、住む世界が異なれば死んでいるのと同じ存在なのだ。と言う事に気付いた。
「この作品の私は、生きていますか?」
 スミレは賢人に質問した。
「それは観賞する人間にゆだねられます」
 賢人は言った。描かれた自分が生きているか死んでいるか分からないとはスミレにとって予想しなかった言葉だ。描かれた自分は自分が知覚し存在を認知できる存在とは異なる、本当の自分だと思っていたスミレには衝撃的だった。
 スミレは賢人の肩をつかみ、強引に自分を振り向かせた。賢人の瞳の中に彼女が自覚できるスミレの肉体が写る。
「私を知って、そしてもう一度描いて」
 スミレはそう言った。



 それからスミレは求めても居ないのに制服を脱いで賢人に絡みつき、そのまま床の上で交わった。まだスミレの身体は女としての成熟した色気とは無縁の青い肉体であったが、賢人相手に一人の女としての役割を果たすには十分だった。スミレは賢人にかき乱される、パレットの上の絵の具の様に身体をくねらせた。その中で必死に自分の色を探し求めたが、思い描けた色は様々な色を混ぜ過ぎた時に生まれる澱んだ色だった。
 色を混ぜ終えて失敗した後、スミレと賢人は床の上で寝転がっていた。この状態を絵画にして描き出せば、神話か何かをモチーフにした作品のようなものが出来上がるだろうとスミレは思った。だが息をして汗ばんだ肌を持った自分達にその世界に入り込めるだろうかと言う疑問がすぐ生まれて、その仄かな雑念をかき消した。
 何も話さずに絵の世界の人間の様にしていると、外の雨音が聞こえて来た。先程より雨脚が強くなったのだろうか。雨どいから落ちる水滴の音が、スミレにはピアノの夜想曲の様に聞こえた。
 暫くして、スミレは賢人の耳元でこう囁いた。
「私を描いて。今度は私の望むままの姿で。本当の自分が私は知りたいの」
 スミレは床から起き上がり、脱ぎ散らかした服を着た。そしてそのまま賢人の家から出て、帰宅の途に就いた。



 季節は桜が咲き誇る季節を過ぎて、花びらから青々とした若葉たちが顔を覗かせる頃になった。新入生たちはもう学校の生活に慣れて、一端の高校生を気取るようになった頃、スミレにはもう賢人の家に行き、彼だけのモデルになるという事をすでに自分の一部にしていた。偏屈で猜疑心の強いスミレからすれば、賢人は彼女に出来た親友であり、自分の存在価値を見える形にしてくれる媒介でもあった。もう賢人に描かれない自分など存在する価値すらない。とスミレは思うようになった。
 一日の授業が終わり、放課後を知らせるチャイムが学校中に鳴り響くと、スミレは手早く身支度を整えて、賢人の家に向かう準備を進めた。
「ねえ、石井さん」
 阿部静が立ち去ろうとするスミレに声を掛けたが、スミレはそれを無視した。
 学校を後にして、練馬に向かう電車の中でスミレはあれこれと考えた。最初の作品を描いてから賢人に描いて貰ったのは、いくつかの表情を描いた習作。スミレとの打ち合わせを経て本格的な制作に入る事になっていた。
 練馬に着き、スミレはもう何の感情も抱かなくなった門を潜って家に入り賢人のアトリエに入った。そこでは賢人が二つの習作を眺めながら、死んだような表情で椅子に座っている。アトリエに入って来たスミレには気付いている筈だったが、賢人はスミレに声を掛けなかった。
「あの」
 スミレは絞り出すように賢人に声を掛けた。賢人はようやくスミレの方を見た。
「ああ、スミレさん。何でしょうか?」
 賢人はそう答えた。彼の座る椅子の足元には、空いたブルゴーニュ産赤ワインの撫で肩ボトルがあった。賢人が酔っていないのを見ると、だいぶ前に空になったようだった。
「何をしていたのですか?」
「作品を目の前にして、最もスミレさんの本質を描いた作品はどれだろうかと考えていたんです。そうしたら一晩が過ぎてしまいました」
 賢人は静かにそう言った。本来ならば自嘲気味に話すべき内容だったが、彼は真面目だった。その視線の先には、今までにスミレを描いた作品が並んでいた。すまし顔で佇むもの、少し挑発するような視線を投げつける物。物静かだが美しい感性を持っているような表情の作品など。その姿はどれもスミレであったが、何か納得するに必要な決定打に欠けていた。
「気に入った作品が無いのですか?」
 スミレはそう答えた。賢人は自分の中に宿る他者とは違う部分を見抜いて、それを作品の中に描いてくれる人間だと思っていたが、その気持ちは揺らぎ始めていた。
「ええ、駄目なんです。人間は心があって表情を持つから〝何もない〟という事を描けないんです。花のすみれは、心も表情もなく可憐に美しいだけですから」
 その言葉にスミレは絶句した。自分が信仰し積み上げて来たすべての何かが、全否定され破壊され無に帰るのが分かった。
「すみません。あなたを描いた作品は全て失敗作です。人間は自己主張を宿しておこがましいから、花のような美しさは描けません」
 その言葉を聞いた瞬間、スミレは足元のワインボトルを手に取り、賢人の頭を殴った。頭蓋骨が砕ける感触が掌に伝わり、賢人は椅子から転げ落ちた。床に倒れると、賢人は気を失っているのかピクリとも動かない。やがて砕けた頭に溜まった血が脳を圧迫して彼の命を終わらせるだろうと思うと、スミレは持っていたボトルを床に落とした。
 そして暫く時間が過ぎ、周囲が墓場の中の様に静まり返るとスミレは部屋の奥に置かれていた、あの植物のすみれを描いた作品を見つけた。
 その作品はまるで人間を描いたように生気を放ち、見つめるスミレに対し蔑みと嘲笑の念を抱いて彼女を見ている。自分は特別で周囲とは絶対に違う何かを持っていると自惚れている人間の眼差し。絵の中に描かれたすみれの花は、間違いなく今ここで呆然と立ち尽くすスミレ本人そのものだった。


(了)

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