第2話

文字数 2,653文字

「目が覚めたか……立てるか?」
「は、はい」俺はつい敬語で答えてしまった。いやもちろん、知らない人(?)にいきなりタメ口で喋るのは良くないというのもあるけど、それ以上に俺の目の前の女性の凛々しく美しい雰囲気が、思わず敬語が口をついて出た一番の理由だった。しかしながら、何となく流れではいと答えてしまったものの、確か俺ってトラックにひかれたんだよな?本当に立てるかな?俺は恐る恐る身体を動かしてみると……意外なほどあっけなく立ててしまった。自分の身体を見てみてもかすり傷一つなく、痛みも全くなかった。痛いのは嫌だけど、トラックにひかれて全くの無傷というのも不気味だった。俺の身にいったい何が起こったのか、ますますわからなくなった。
「大丈夫そうだな」その女性はニコリともせずに言った。「お前、名前は?どこから来たんだ?」
「俺はケン……坂巻賢太郎です。家は自然が丘……」訊かれた質問に素直に答えながら、俺は相手の女性をしげしげと観察した。その姿は、何というか……一言で言えば『獣人』だった。いや、そんな生き物がこの世にいるはずは無いんだが、だがしかし、そうは言っても現に目の前にいるんだから仕方が無い。獣の頭に人の身体。二本脚で立ち、人語を解す。それこそまさに、映画や漫画でしか見た事の無いような半人半獣の姿だ。もう少し細かく言うなら、その顔は何に似てるかと言えば、犬や狼のそれに近かった。すらりと伸びた口吻(マズル)、そこから覗く大理石の様な牙、しなやかに動く大きな耳、紅玉(ルビー)の様に真っ赤な目。それらは人間の顔には決して見出せない野生の造形美が感じられた。身長は俺よりちょっと高め、百七十センチちょっとと言ったところか。鳥の羽毛で作られた色鮮やかなピアスが、耳が動くたびに小気味良く揺れた。そして全身を覆う漆黒の体毛は最高級のスーツ生地の様に滑らかで、引き締まった肉体美を一層強調していた。俺は目の前の相手を女性と言ったが、ふくよかな乳房の膨らみがその根拠だ。彼女はバストと腰に鮮血の様に鮮やかな赤い布を巻き、更に腰には革のベルトを巻き、そこに剣とポーチをぶら下げていた。背中には矢筒を背負い、左手には飾り気の無い木製の弓が握られていた。そして腰巻の下からは、小野小町の長髪もかくやと言わんばかりの豊かな長毛に覆われた尻尾が、ゆらりと生えていた。
「綺麗だ……」
「何を言ってるんだ」俺が思わず口にしてしまった感想に対して、彼女は極めて冷静・無感情にツッコんだ。流石にちょっと恥ずかしかった。
「それよりケン……で、良いんだな。お前、どこから来たと言った?シゼ……?」
「自然が丘、です」
「それはどこにあるんだ?私は聞いた事も無い」
「財玉県五郷市の自然が丘です。……聞いた事、無い、ですかねぇ……」正直、何となくそんな気はしていた。この状況。俺は気が付いたら見た事も無い森の中にいて、謎の獣人美女が目の前にいる。さっぱり意味が解らなかったが、とにかく完全に俺の常識外の出来事が起きているという事だけは確かなようだ。こういうのはなんて言えば良いんだ?異世界?それとも俺は、地球とは別の惑星にでもいるのか?
「知らない」獣人は首をかしげながら言った。「シゼンガオカ……うーん、やっぱり聞いた事も無い」
「あの、ここはどこなんですか?」このままじゃ埒が明かない。今度はこっちから質問してみる事にした。
「知らずに森に入ったのか?」
「気が付いたらここにいたんですよ。俺だって自分が何でこんな所にいるのかわからない」
「じゃあ、記憶喪失みたいなものかな?だとしたら、厄介な……」記憶喪失と言われるとちょっとそれは違うと言いたくなったが、今はその点を言い争ってる場合じゃ無さそうだった。俺は口をつぐんだ。
「ここはグゼの森だ。グゼルナット侯爵が治められている。侯爵の許可を得ず立ち入る事は禁じられている。私はゴブリン狩りのために森に立ち入った」侯爵にゴブリンと来たか。これはいよいよ異世界臭がプンプンして来たぞ。眩暈がしそうだ。「そこで倒れているお前を見つけたという訳だ。不法侵入であろうが無かろうが見殺しには出来ないと思って助けたが……自分がどこから来たかもわからないとあっては、ちょっと困ったな……」
 なるほどなるほど、少しだけ自分の置かれている立場が分かってきた。要するに俺は、自分でも知らないうちにこの世界の法を犯してしまった訳だ。その上俺は、どこから来たのかもわからない不審者だ。社会カーストの最底辺だ。これはどうやら面白く無い状況だ。もし俺がその侯爵様とやらに突き出されたら、何かしらの処罰が下される事になるだろう。何がしら……あまり具体的には考えたくないけど。
 そしてどうやら、俺が今すがれるのは、目の前にいる獣人美女ただ一人(一匹?)だけの様だ。唯一俺にとって希望なのは、どうやら彼女は、出来れば事を穏便に済ませたいと思っている節がある、という事だ。言葉の端々からそういうニュアンスが読み取れる。俺に対する同情なのか、それとも向こうには向こうの事情があるのか、それはわからないけど、今はそこにすがるしかない!何か相手の弱みに付け込んでるみたいな気もしなくは無いけど、背に腹は代えられない。
「悪気は無かったんです」そうと決まれば、徹底的に下手に出るに限る。「俺はこの森が禁足地だったなんて知らなかったんです。自分がどうしてそんな所にいるのかもわからない。どうか見逃して下さい」俺は彼女の前に跪いた。
「お、おい……!」獣人は露骨に狼狽えていた。彼女の場合、耳や尻尾の動きが口ほどに物を言った。どうやらこの作戦は効果バツグンの様だ。彼女は、一見クールなようで割と情に流されやすい性格と見た。考えてみれば、森で見つけた行き倒れをわざわざ介抱するような性格なんだから、それもむべなるかな。「そ、そんな風にされても困る!そりゃあ確かに、お前だって色々と事情があるのは解るけど、私だって罪人を見逃したとばれたら立場が危ういんだぞ!それに……それにだな……それに……っ!」そこまで言って、獣人は急に黙り込んだ。それだけじゃない。明らかに表情が変わった。赤い目が周囲を見回し、耳がせわしなく動いて、周囲を警戒している様に見えた。全身にも目に見えて緊張が走っていた。
「それに……?」重い空気に耐えられず、俺は訊ねた。
「ゴブリンだ……囲まれてる!」そっちか……彼女の答えは、完全に俺の予想外だった。
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