第1話

文字数 2,525文字

「――おい――」
 どこからともなく、知らない女性の声が微かに聞こえた気がした。俺は一体どうなったんだろう?記憶が酷く混乱していた。何か、とんでもない事が起こったという事だけは漠然と覚えているのだが……。
「――大丈夫か――」
 また女性の声だ。俺を心配してくれている……?やっぱり俺は、何かただ事ではない状況に巻き込まれたのだろうか。身体が動かない。視界も霞んで何も見えない。状況がさっぱりわからない。落ち着け、落ち着くんだ、俺。
「――しっかりしろ――」
 そうだ!しっかりしなくては。冷静になれ、俺よ。一つ一つ状況を思い出さなくては。俺は……確か、家のそばの国道沿いの歩道を歩いてたんだ。何故?何故だっけ?そうだ、思い出した。飼い犬のハナコの散歩に出かけてたんだ。確か、姉貴と二人で。郊外にある片道二車線の幹線道路、割と交通量の多い国道、ハナコのいつもの散歩道、代り映えの無い街路樹に代わり映えの無い植え込み、灰色のアスファルト。俺の意識に見慣れた景色が思い浮かぶ。それから、どうしたんだっけ……?



「いやーしかし、ケンもとうとう大学生か」姉貴と、そんな感じの会話をしてたっけな。
「そうだな」
「しかも私と同じ大学なんてね、何か不思議な気分」
「たまたまだよ」俺はハナコのリードを持って答えた。ハナコは二歳になる柴犬だ。親バカかもしれないが、なかなかの美少女だと思う。「別に大学なんてどこでも良かったんだよ。特に将来やりたい事も無いし。強いて言えば家から通える所ならどこでも良かったんだ」
「ハナコと別れたくないって言ってたっけ。ケンってホントにハナコの事好きだよね。ま、別にいいけど」そういって姉貴はハナコの頭を撫でた。「でもあんた、ペットもいいけど、いい加減に恋人でも作ったら?」
「そういうのは別にいいよ」姉貴は事あるごとに恋バナをしたがる。俺は若干それにうんざりしていた。「俺は別に人間の女には興味無いし……」
「ほらそれ!」姉貴は本当に自分の話したい事しか話さない。俺の姉貴だけでなく、世の中の全ての姉がそうなのだろうか?「ケンっていつも『人間の女』には興味ない、って言うよね?それってどういう意味なの?人間じゃ無い女子っているの?」
「別にいいだろ!」姉貴の鋭い指摘に、俺は一瞬ドキッとした。
「いいだろじゃ無いよー。あんたこの前も高校の後輩の女の子に告られてフったでしょ」
「何で知ってるんだよ」
「あんた割とモテるのにさ」姉貴は俺の質問に答えるつもりは無いようだった。「それなのに未だに年齢=彼女いない歴って、どんだけ女子のハードル高いのよ?あんまり理想ばかり追い求めてるとそのうち後悔するわよ」
 その後も姉貴は恋愛トークを続けてたが、俺はもう姉貴の言う事を真面目に聞くつもりはなかった。右の耳から左の耳へ、って奴だね。大体、姉貴には俺の悩みなんてわかる訳が無いんだ。俺だって好きで彼女を作らない訳じゃ無いんだ。ただ……俺の好み……と言うか、性癖が、問題なんだ。もちろんそんな性癖の事なんて、家族に話せる訳が無い。と言うか、誰にも話してない。俺は、自分の性癖は、墓場まで持って行くつもりだった。そりゃあ一生一人で生きていくってのが寂しくないのかと聞かれればちょっと寂しいけどさ。でも、もう、仕方が無いじゃないか。俺は普通の女の子をすきにはなれないし、愛の無い結婚なんて女の子にとっても不幸にしかならないと俺は思うんだ。姉貴には悪いけど、いい加減に弟の事なんて気にするのは止めて、それより自分の結婚相手の事でも考えてくれ。姉貴だって器量は悪い方じゃ無いんだからさ。
 なんて事を、俺はボーッと車道を見ながら考えてた。その日も相変わらず交通量は多かった。しかもこの辺の車は本当に運転が荒い。車線変更の時にウィンカーは出さないし、煽り・煽らせもザラだ。運転免許を持っていない俺から見ても道路交通法違反のバーゲンセール。そんな車の流れを、俺はぼんやりと眺めていた。もちろん幹線道路なのでトラックみたいな大型車量もたくさん走ってる。そういう車が横を通り過ぎる時は、地響きの様な大きな音がするものだ。それこそ姉貴の喋り声なんて聞こえなくなるくらいの。そんな光景はごく普通の日常生活の一部だった。ただ……そうだ、思い出した!!
 その時も俺は、道路を走るトラックを、特に何を思うでもなく見てたんだった。ただ、そのうちの一台がちょっと奇妙な動きをしてた。そのトラックは第二車線――道路の中央寄り――を走ってたんだが、ちょっとふらついているように見えた。トラックの運転手が白目を剥いて泡を吹いているのが見えた。あれ、何かおかしいな、と俺が思った時には、全ては遅かった。そのトラックは、車線を外れ、車道と歩道を分ける植え込みを突き破り、猛然と俺たちのいる方向に突っ込んできた。
「危ない!!」俺は姉貴とハナコを突き飛ばした。その次の瞬間には、もう視界いっぱいにまでトラックが迫ってた。



「――おい!」
 知らない女性の声にびっくりして、俺は目を覚ました。俺は完全にいきさつを思い出した!そうだ、俺は、あのままトラックにひかれたんだ……それで、それから俺はどうなってしまったんだ?助かったのか?ここは病院なのか?急に我に返ると、心臓がドキドキする。俺はルドヴィコ療法を受けているアレックス・デラージみたいに両目をひん剥いて周りを見回した。
 そこは、どう見ても病院ではなかった。それどころか、建物の中ですらなかった。森。そうとしか言いようがない。鬱蒼と木々の生い茂った森。学校の教科書か、映画や漫画でしか見た事の無いような深い森。郊外の街路樹なんかとは違い、人の手が加えられていない野生の木々が群生する森。俺はそういった場所にいた。何故!?さっぱり理解出来なかった。ここは一体どこなんだ??
 しかし、次の瞬間には、俺はそんな疑問すら忘れてしまった。俺の目の前にいた女性――多分俺の事を何度も呼び掛けてくれた女性――は、俺の妄想の中にしか存在しないはずの、まさに現実離れした美人だった。
 いや、この場合、美犬、というべきだろうか。
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