育児放棄について

文字数 1,400文字

 以下に書いたエッセイは、私が数年前に書いたファイルの中にあったものですが、この問題については相変わらず、年が過ぎても変わらない悲しいテーマだと今も感じています。


 育児放棄について

 この件に関し、報道でいろいろされているようであり、記者なり編集者の感じ方、または感性や表現力でその対応は異なるようである。
 世の母親又は女性達のこの事件に対する感じ方は、子供を餓死させ、自分のエゴに走ったこの加害者の母親に対する認識の相違だろう。

 いわゆる、許せるか、許せないか、言い換えれば同情の余地があるかどうかだ。
 それは、立場を変えた自分の立場でみれば、それぞれで見方が異なるのは周知のとおりである。母親に近い環境ならば、或る程度納得し、許せることもあるだろう。

 しかし、年配者の女性達からすれば、勝手に子供を産んで、一時期には愛したにせよ、やがて育児に疲れ、ホスト通いに狂った女は許せない、と、こういう図式になる。

 故に、こういう社会問題は多種多様な意見や、物の考え方があるので、どれが最適であるか、などということは言えない。ただ、私が思うのは「人のこころ」の持ちようと、その人が「どう生きてきたか」という背景で大きく変わると言えよう。

 彼女の小さい頃は、愛に恵まれず、悲惨な生き方をしたようだが、それでも、それを反面教師として頑張り、生きてきた多くの人はいる。
 そういう人が持つ力、勇気を彼女が持ち合わせていなかったのだろう。

 生活の面では、風俗で稼ぎ高い報酬を得ていたようだが、そういう女性が少なくないこのご時世では、その仕事を否定は出来ない。
 しかし、子供が居る中での教育的な観点からは好ましくないが、この女性には、子供に対するそういうモラルはないのだろう。

 初めは、子供達を可愛がったようだが、それも生活に疲れ、やがて母親としての義務を放棄し、ホスト狂いに狂う、という堕ちていく女の典型的なケースである。

 その彼女が「享楽」を、「子供の命」と引き替えにしたのは、勿論彼女のエゴだが、その元は彼女の「心の貧しさ」や初めに書いた「人のこころ」と「どう生きてきたか」という極論に尽きる。

 人は生活が貧しくても、心まで貧しいわけでなく、それは苦しくてもバネにして生きなければならなかった、子供達の為にも、その愚劣なる環境を言い訳にしてはならない。

「どう生きてきたか」それによって、自分が生み出した分身を、殺すも生かすのも己の心にある、と私は思う。

 餓死という、悲惨なことを子供に与えた代償はあまりに大きいが、今の世間で毎日のように起きている、肉親が肉親を叩く蹴り、殺すといった肉体的な暴行を与えていなかった、そのことだけが救いである。



 これは以前に起きた母親が子供を放棄して、男に走った事件だったが、今でも親の子供に対する虐待や、放棄などその手段は違っていても、子供に対する愛の欠如であることには変わりない。昔は、食べることもままならない時代の中で多くの貧しい人達がいた。それでも子供を餓死させたり、死なせたケースは少ない。

 今の時代が豊かになっても、決して心まで豊かになったとは限らない。むしろ隔絶した社会の中で自分だけが、という人も少なくないだろう。
 ましてや、このコロナ禍のなかで、さらに人との接触が少なくなりその傾向が心配になる。
 景気の回復と同じように、人々の心が豊かになることを願うばかりである。




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