第4話:吉田茂の国葬と白洲の葬式無用・戒名不用

文字数 1,748文字

 翌20日正午頃、大磯の自邸にて死去。突然の死だったため、その場には医師と看護婦3人しか居合わせず身内は1人もいなかった。
「臨終の言葉もなかったが機嫌のよい時の目元を閉じた様な顔で穏やかに逝ったと言う」
 享年90歳、葬儀は、東京カテドラルで行われた。

 10月31日は、戦後唯一の国葬が日本武道館で行われ官庁や学校は半休、テレビ各局は特別追悼番組を放送し吉田を偲んだ。白洲次郎も1954年12月9日外務省顧問を退職、実業界に転身した。最初、東北電力会長に就任。その後は荒川水力電気会長、大沢商会会長、大洋漁業「現マルハニチロ」、日本テレビ、ウォーバーグ証券「現UBS」の役員や顧問を歴任した。

 軽井沢ゴルフ倶楽部の理事長を務めゴルフに興じたほか、80歳まで1968年型ポルシェ911Sに乗り、三宅一生のショーにモデルとして出演もした。また、同時期には没後の1986年1月に発売が開始されることとなった2代目トヨタ・ソアラのアドバイスなども行なっていた。その後、電話で、トヨタ・ソアラをもらったのだが、使わないから、君やると言われた。

 そこで、鶴川の白洲の家、武相荘「ぶあいそう」を訪ねた。すると、ガレージに案内され、これだよと見せてくれたのが、真っ赤なトヨタ・ソアラだった。照れながら、僕は、やっぱりポルシェの方が気に入ってると笑った。しかし、その晩、崎野の家にトヨタから電話が入り、白洲先生から渡されたソアラは、まだ発売前なので、のらないで欲しいと言われた。

 発売したら、すぐ電話しますと連絡が入った。そのため真っ赤なソアラを白洲先生に返そうと1985年11月、武相荘に電話を入れると留守にしているようで電話に出なかった。その時、何か不吉な予感がして白洲先生の居所を知りたくなった。すると奥さんの正子さんと伊賀・京都を旅行後、体調を崩し胃潰瘍と内臓疾患で入院したとわかった。

 急いで前田外科へ、お見舞いに行くと、よく調べてきたなと力なく言い少し休んでるだけだと強がった。しかし、同年11月28日に急性肺炎のため東京都港区赤坂の前田外科病院で死去。享年83歳。墓所は兵庫県三田市の心月院とわかった。その後、知った事だが、妻の正子さんと子息に残した遺言書には「葬式無用 戒名不用」と記してあった。

 実はこの遺言書のフレーズは、白洲の父親が死去した際に、残した遺言と同じ。白洲の墓碑には正子が発案した不動明王を表す梵字が刻まれているだけで戒名は刻まれていない。何と粋な男だったのだろうかと、在りし日の白洲次郎の姿を思い出すと涙が込み上げてきた。1981年4月、地元の中学で、佐藤朋美、木下敏行と共に3羽ガラスと呼ばれ学年トップの成績を争った。

 その後、中学を卒業して、神奈川県立翠嵐高校に合格。家も近にあったが、佐藤朋美、木下敏行の家もサラリーマンの家で父が、それぞれ旭硝子と日本鋼管に勤めていた。毎日のように同じバスで学校まで通うようになり、帰りも一緒だった。高校に入ると、休日になると、佐藤朋美、木下敏行と崎野卓三も三浦半島、秩父に旅行に出かけた。

 その他、横浜の名所、山下公園、港の見える丘公園、外人墓地、中華街、元町に出かけるようになった。また、卓三が三男で、ぼーとしていたの対し、佐藤朋美は、長女、木下敏行は、長男で、一家のの責任の背負っている感じで、何事に対しても責任感が強く、リーダーシップをとっていた。佐藤朋美と木下敏行は、将来、教育の道に進みたいと東京学芸大学を目指した。

 一方の崎野卓三は、経済の勉強がしたいと横浜国立大学経済学部を目指した。高校2年になり横浜駅近くの予備校に通いだして、勉強を重ねて、1986年10月の予備校の一斉テストの結果、豪がクラインと言われる合格可能性70%を突破し、翌年2月に希望通りの大学に合格した。大学に入っても授業が早く終わった日は、横浜に出かけ、おいしい洋食の店を探した。

 また、桜、チューリップの季節には、山下公園や港の見える丘公園を散歩して歩いた。そんな時、佐藤朋美と木下敏行は、自分たちで今までにないような私立の大学を作って、優秀な人材を世に送りたいという理想を持つようになった。しかし、現実には、そんな金もないし、無理だと、わかっていた。
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