1話
文字数 4,175文字
大学生にもクラスというものがあるんだってことを初めて知ったときには、なんだか変な感じがしたものだ。何せ、実際に入る前には、学生たちがてんでばらばらに好き勝手な講義を選ぶという漠然 とした(しかもちょっと誤解を含む)イメージがあったし、生憎 とあたしには、あらかじめ詳細な情報提供をしてくれるような兄姉とか、仲のいいOBとかはいなかった。
そして、いざその集団の中に入ってみれば、高校のクラスとそれほど違わなかった。まあ、一浪も二浪もして入るようないい大学でもないことだし、ついこの前まで高校生だった連中が大半なのだから、考えてみれば不思議でもない。しいて違いを挙げるなら、少しクラスメイトとの距離感が変わったことと、高校のときほどクラス単位で行動してばかりではないことと、出身地がばらばらでしょっちゅうカルチャーショックにぶちあたることくらいか。
大学生活をエンジョイしよう! というほどの気概 もなければ、なるべく周囲から浮かないようにしようという意欲もいまいち薄い、そんなあたしだけど、それでも入学から一か月が経つころには、なんだかんだで飲み会の類にも何度も顔を出したし、気づけば文科系のサークルにいくつも名前だけ貸しているし、つまらない講義のサボリ方も要領を得てきた。それに、学内の有名人とか、いっぷう変わった面白そうなヤツの情報なんかも、ちらほらと耳に入ってきた。
そう、たとえば杜越響とかだ。
杜越響。
クラスの幹事とかいう男子学生からもらった名簿をぼけっと眺めていたら、そこだけあんまり人名っぽく見えなかった。いや、名簿に並んでいる以上、人の名前であることには間違いないはずなのだけれども。
気になることがあれば、何でもすぐにひとに訊 くのがあたしの性格だ。だからこのときも、すぐ近くに座っていた本人に、面と向かって訊いた。「ねえ、名前なんて読むの?」
そう話しかけた瞬間、周りにいた連中がそれぞれに一瞬会話を休めて、チラッとこちらを見た。
その視線のニュアンスに、少しばかり違和感があった。おやっと思ったけれど、そのことについて誰かに問いただすのもはばかられて、なんとなく居心地悪く身じろぎしていると、当の本人が振り返って、特に気を悪くした風でもなく、ゆっくりと答えた。
「モリゴエヒビキ」
それがちょっと甘いような、独特のかすれ声だった。
この男の声ははじめて聞いたなと、あたしは頭の片隅で思った。こんなに印象的な声で喋 るのを耳にしていたら、いくらなんでも覚えていただろうから。
「ヘンな名前」
あたしはにやっと笑って言った。自分がちょっとヘンな名前なので、ちょっとヘンな名前の仲間を見つけると、勝手に親近感を覚えるのだ。そして親近感を抱いた相手には、ちょっと意地悪に絡 んでみたくなるのが、あたしの悪い癖だ。
初めて話す相手からいきなり絡まれたモリゴエの反応はというと、ちらっと目の端で笑っただけだった。それも、冷笑とか失笑とかいう攻撃的な笑い方じゃなくて、苦笑でもなくて、かといって気の弱い戸惑いがちな笑みでもなくて、だからかえってその表情はあたしの印象に残った。
そしてあたしはモリゴエのことを、ついこのときまで認識していなかったが、向こうはそうでもなかったらしい。なぜなら、
「佐波も珍しい苗字だ」
モリゴエがちゃんとあたしの名前をサワと発音したので。
あたしはもう一度にやっと笑うことで返事に代えた。そのときはただ、それだけの話。二人合わせても四十文字も口にしてないような、短い会話だった。
モリゴエはとにかく無口なやつだ。道理 で声を聞いた覚えがなかったわけだ。そして、いつもなんとなく眠そうな顔をしている。実際に、講義の合間に机に突っ伏して寝ていることもよくある。けれど講義中に居眠りしているところは、一度も見かけたことがない。
まじめだね、と話しかけてみたら、モリゴエはまた無言で、ちらっと笑った。そして、ずいぶん長い間のあとに、ぼそっと、「悪いから」と言った。何が悪いのか、一瞬わからなくて、あたしは何秒か遅れて「ああ」と思った。寝てると講師に悪いから、ということらしい。なんとも律儀 なやつだ。
モリゴエは誰かと会話をしていても、自分からはめったに口を開かないようだった。少なくとも、進んで人の輪の中に入っていこうという感じではない。それなのに、不思議と付き合いは悪くなかった。実際、あたしは飲み会の類で何度もモリゴエを見かけた。
何にでもだるそうな無気力男ってわけでもなく、一匹狼というほど尖がってもなくて、内向的で根暗というほどおどおどしていたりもせず、周囲に無関心とかいう風にも見えなくて、つまり総合すると、モリゴエは、何を考えているのかよく分からないやつだった。だからなんとなく目立っていた。そのことに、あたしはモリゴエと同じクラスになって一か月以上も経ってから、ようやく気づいた。
机に肘をついてぼけっとしていたら、甲高い声が耳に刺さった。
「杜越くんて、喋るの遅いよね。そんで、あんまり喋らないよね。あれってなんで?」
一コマめの講義の前だった。モリゴエは風邪で休んでいた。そういうタイミングで、あたしの前の席に陣 取 った連中が、笑いながら小声で話していた。
「さー。頭がゆっくりなんじゃね」
「うわ、ひでえなお前」
やだあ、ひっどーい。げらげら。あんまり聞いていて気分のいい話じゃなかった。でも、口を挟んでかばってやるほど、あたしもモリゴエのことを知っているわけでもないから、眉間 にしわを寄せただけで、聞き流すふりをした。
「昔は、そうでもなかったと思うんだけどなあ」
「あ、お前、杜越と高校一緒なんだっけ」
「高校は別。けど同小同中」
「わかった、高校でイジメにあったんだ」
「ぶ、好き勝手言ってる」
「ああ、でも何だっけ、聞いたことあるようなないような、その話」
「おっ、推理的中?」
なんだか石でも投げたいような気になったけれど、大学の講義室には、あいにく投げるのにちょうどいい石ころなんて落ちていない。かといって、消しゴムのかすを投げるような小学生みたいなことをする気力もなかった。
「いや、そっちじゃなくて、なんだっけなあ、たしか自分の声が嫌いとか、なんとか」
「へー。なんかでもそれって、自意識過剰気味じゃねえ?」
頭がゆっくり発言のやつが、また耳障りな調子で笑った。
他人の会話に勝手に聞き耳を立てていただけの、モリゴエのこともよく知らないあたしが、勝手にモリゴエの気持ちを代弁するのは、それこそおせっかいというもので、それはあたしにもちゃんと分かっている。それでも単純に腹が立った。何か嫌味のひとつくらいは言ってやりたいような気がした。でもその前に講師がやってきたので、なんとなくそのままなし崩しになった。
まあでも、こうやって外野があれこれいうのは、単純にモリゴエが目立つからだ。なんか成績が凄いとか、すごくルックスがいいとか、スポーツができるらしいとか、そういうわかりやすい目立つ要素は、いまのところモリゴエには見当たらない。そのうえ無口で、自分からはあまり発言しない。それなのに、不思議とモリゴエは目立つ。
このときのやつらの陰口は、腹立ちと一緒くたになって、なんだかいつまでも気持ちの隅っこのところに残った。モリゴエの声は、たしかにちょっと変わった響きだったけれど、本人が嫌がるような声(女の子みたいな声だとか、ドスの利いた声だとか、ドナルドダックみたいな声だとか)には思えなかったし。
だけど、そのとき始まった講義は、あたしがちょっと好きな外部講師の枠で(大阪出身とかいう老け顔のおっさんなんだけど、講義中にいちいち一人ボケツッコミが入る)、だからそのときはそれきり、その話はしばらく忘れていた。
「PBRってなんだっけ」
ある日の最後の講義が終わったあと、近くの席にいたやつから、ぽつりと話しかけられた。モリゴエヒビキだった。振り向くまでもなく、声ですぐに分かる。それくらいモリゴエの声は独特だ。
その口調は、別に、いますぐに分からなければ困るというような差し迫った感じでもなくて、なんとなく気になって思わず口からついて出たというような、ほんとうに何気ない質問だった。
それなのに何でか、何が何でもこの質問に答えてあげなきゃなんないというような強い衝動が、胸の底からふっと湧いて出て、あたしは自分で自分に戸惑った。そして戸惑いながらも、口は勝手に言葉を返した。
「株価のなんかの指数じゃない? こないだ勝谷センセーの講義に出てきた気がするよ」
「あ」
そして、自分で訊いておいて、モリゴエは変な顔をした。それにもあたしは戸惑った。なんだろう、それはいかにも『しまった、うっかりやっちゃった』みたいな顔だった。
少しの間があって、モリゴエは「ありがとう」と小さく頭を下げた。はあ、とつられて頭を下げ返す。なんだか大げさなやつだ。
そしてモリゴエは礼を言いながらも、まだ『しまった』みたいな顔だった。
一体なんの『しまった』だろう。『おれとしたことがつまらないことを訊いてしまった』? そんな感じでもない。じゃあ、『よりによって佐波に話しかけてしまった』? なんでやねん。
……誰かさんの一人ボケツッコミの癖 がうつってしまったようだ。いや、それはともかく、あたしはそんなに嫌われるほど、まだこいつと話してもいないし、べつに悪い噂が経つほど目だってもない、と思う。……たぶん。
ともかくモリゴエはやたらと『参ったなあ』みたいな様子で、そしてあたしが不思議そうにしているのを見ると、さらにちょっと気まずそうな顔になった。なんだか、今にも「ごめん」と言いだしそうな顔だった。あたしはあたしで、腑 に落ちないなあという表情を隠しもしなかった。
モリゴエは口を開きかけて、けれど、結局それ以上は何も言わなかった。
なんかやっぱり、ちょっとヘンなやつだ。言いたいことがあるなら、言えばいいのに。
そして、いざその集団の中に入ってみれば、高校のクラスとそれほど違わなかった。まあ、一浪も二浪もして入るようないい大学でもないことだし、ついこの前まで高校生だった連中が大半なのだから、考えてみれば不思議でもない。しいて違いを挙げるなら、少しクラスメイトとの距離感が変わったことと、高校のときほどクラス単位で行動してばかりではないことと、出身地がばらばらでしょっちゅうカルチャーショックにぶちあたることくらいか。
大学生活をエンジョイしよう! というほどの
そう、たとえば杜越響とかだ。
杜越響。
クラスの幹事とかいう男子学生からもらった名簿をぼけっと眺めていたら、そこだけあんまり人名っぽく見えなかった。いや、名簿に並んでいる以上、人の名前であることには間違いないはずなのだけれども。
気になることがあれば、何でもすぐにひとに
そう話しかけた瞬間、周りにいた連中がそれぞれに一瞬会話を休めて、チラッとこちらを見た。
その視線のニュアンスに、少しばかり違和感があった。おやっと思ったけれど、そのことについて誰かに問いただすのもはばかられて、なんとなく居心地悪く身じろぎしていると、当の本人が振り返って、特に気を悪くした風でもなく、ゆっくりと答えた。
「モリゴエヒビキ」
それがちょっと甘いような、独特のかすれ声だった。
この男の声ははじめて聞いたなと、あたしは頭の片隅で思った。こんなに印象的な声で
「ヘンな名前」
あたしはにやっと笑って言った。自分がちょっとヘンな名前なので、ちょっとヘンな名前の仲間を見つけると、勝手に親近感を覚えるのだ。そして親近感を抱いた相手には、ちょっと意地悪に
初めて話す相手からいきなり絡まれたモリゴエの反応はというと、ちらっと目の端で笑っただけだった。それも、冷笑とか失笑とかいう攻撃的な笑い方じゃなくて、苦笑でもなくて、かといって気の弱い戸惑いがちな笑みでもなくて、だからかえってその表情はあたしの印象に残った。
そしてあたしはモリゴエのことを、ついこのときまで認識していなかったが、向こうはそうでもなかったらしい。なぜなら、
「佐波も珍しい苗字だ」
モリゴエがちゃんとあたしの名前をサワと発音したので。
あたしはもう一度にやっと笑うことで返事に代えた。そのときはただ、それだけの話。二人合わせても四十文字も口にしてないような、短い会話だった。
モリゴエはとにかく無口なやつだ。
まじめだね、と話しかけてみたら、モリゴエはまた無言で、ちらっと笑った。そして、ずいぶん長い間のあとに、ぼそっと、「悪いから」と言った。何が悪いのか、一瞬わからなくて、あたしは何秒か遅れて「ああ」と思った。寝てると講師に悪いから、ということらしい。なんとも
モリゴエは誰かと会話をしていても、自分からはめったに口を開かないようだった。少なくとも、進んで人の輪の中に入っていこうという感じではない。それなのに、不思議と付き合いは悪くなかった。実際、あたしは飲み会の類で何度もモリゴエを見かけた。
何にでもだるそうな無気力男ってわけでもなく、一匹狼というほど尖がってもなくて、内向的で根暗というほどおどおどしていたりもせず、周囲に無関心とかいう風にも見えなくて、つまり総合すると、モリゴエは、何を考えているのかよく分からないやつだった。だからなんとなく目立っていた。そのことに、あたしはモリゴエと同じクラスになって一か月以上も経ってから、ようやく気づいた。
机に肘をついてぼけっとしていたら、甲高い声が耳に刺さった。
「杜越くんて、喋るの遅いよね。そんで、あんまり喋らないよね。あれってなんで?」
一コマめの講義の前だった。モリゴエは風邪で休んでいた。そういうタイミングで、あたしの前の席に
「さー。頭がゆっくりなんじゃね」
「うわ、ひでえなお前」
やだあ、ひっどーい。げらげら。あんまり聞いていて気分のいい話じゃなかった。でも、口を挟んでかばってやるほど、あたしもモリゴエのことを知っているわけでもないから、
「昔は、そうでもなかったと思うんだけどなあ」
「あ、お前、杜越と高校一緒なんだっけ」
「高校は別。けど同小同中」
「わかった、高校でイジメにあったんだ」
「ぶ、好き勝手言ってる」
「ああ、でも何だっけ、聞いたことあるようなないような、その話」
「おっ、推理的中?」
なんだか石でも投げたいような気になったけれど、大学の講義室には、あいにく投げるのにちょうどいい石ころなんて落ちていない。かといって、消しゴムのかすを投げるような小学生みたいなことをする気力もなかった。
「いや、そっちじゃなくて、なんだっけなあ、たしか自分の声が嫌いとか、なんとか」
「へー。なんかでもそれって、自意識過剰気味じゃねえ?」
頭がゆっくり発言のやつが、また耳障りな調子で笑った。
他人の会話に勝手に聞き耳を立てていただけの、モリゴエのこともよく知らないあたしが、勝手にモリゴエの気持ちを代弁するのは、それこそおせっかいというもので、それはあたしにもちゃんと分かっている。それでも単純に腹が立った。何か嫌味のひとつくらいは言ってやりたいような気がした。でもその前に講師がやってきたので、なんとなくそのままなし崩しになった。
まあでも、こうやって外野があれこれいうのは、単純にモリゴエが目立つからだ。なんか成績が凄いとか、すごくルックスがいいとか、スポーツができるらしいとか、そういうわかりやすい目立つ要素は、いまのところモリゴエには見当たらない。そのうえ無口で、自分からはあまり発言しない。それなのに、不思議とモリゴエは目立つ。
このときのやつらの陰口は、腹立ちと一緒くたになって、なんだかいつまでも気持ちの隅っこのところに残った。モリゴエの声は、たしかにちょっと変わった響きだったけれど、本人が嫌がるような声(女の子みたいな声だとか、ドスの利いた声だとか、ドナルドダックみたいな声だとか)には思えなかったし。
だけど、そのとき始まった講義は、あたしがちょっと好きな外部講師の枠で(大阪出身とかいう老け顔のおっさんなんだけど、講義中にいちいち一人ボケツッコミが入る)、だからそのときはそれきり、その話はしばらく忘れていた。
「PBRってなんだっけ」
ある日の最後の講義が終わったあと、近くの席にいたやつから、ぽつりと話しかけられた。モリゴエヒビキだった。振り向くまでもなく、声ですぐに分かる。それくらいモリゴエの声は独特だ。
その口調は、別に、いますぐに分からなければ困るというような差し迫った感じでもなくて、なんとなく気になって思わず口からついて出たというような、ほんとうに何気ない質問だった。
それなのに何でか、何が何でもこの質問に答えてあげなきゃなんないというような強い衝動が、胸の底からふっと湧いて出て、あたしは自分で自分に戸惑った。そして戸惑いながらも、口は勝手に言葉を返した。
「株価のなんかの指数じゃない? こないだ勝谷センセーの講義に出てきた気がするよ」
「あ」
そして、自分で訊いておいて、モリゴエは変な顔をした。それにもあたしは戸惑った。なんだろう、それはいかにも『しまった、うっかりやっちゃった』みたいな顔だった。
少しの間があって、モリゴエは「ありがとう」と小さく頭を下げた。はあ、とつられて頭を下げ返す。なんだか大げさなやつだ。
そしてモリゴエは礼を言いながらも、まだ『しまった』みたいな顔だった。
一体なんの『しまった』だろう。『おれとしたことがつまらないことを訊いてしまった』? そんな感じでもない。じゃあ、『よりによって佐波に話しかけてしまった』? なんでやねん。
……誰かさんの一人ボケツッコミの
ともかくモリゴエはやたらと『参ったなあ』みたいな様子で、そしてあたしが不思議そうにしているのを見ると、さらにちょっと気まずそうな顔になった。なんだか、今にも「ごめん」と言いだしそうな顔だった。あたしはあたしで、
モリゴエは口を開きかけて、けれど、結局それ以上は何も言わなかった。
なんかやっぱり、ちょっとヘンなやつだ。言いたいことがあるなら、言えばいいのに。