4話

文字数 5,249文字

 駅のホームを出ると、生ぬるい風が吹き付けた。見上げれば、空の半分くらいは、ぼやっとした雲に(おお)われていた。雨が降るかもしれない。
 しけった風に吹かれながら、アパートまでの道をぼうっと歩いていると、なんだか全然現実感がなくて、さっきのは全部モリゴエのつまんないウソなんじゃないかって、そんな気がしてきた。
 でも、どう考えても、モリゴエがあたしをからかおうとして、適当なホラを吹いているとは思えなかった。そういうやつじゃない、と思う。まだ浅い付き合いだけどさ。
 そうじゃなくて、多分あれだ、子どもがよくやるやつ。トモダチの気を引こうとして、自分には超能力があるんだとか霊感があるんだとか、そんなことを繰り返し言ってるうちに、だんだん引っ込みがつかなくなったり、自分でも本当にそうなんだって思い込んじゃったりするアレ。
 一人暮らしをはじめてほんの数ヶ月で、早々に目も当てられないほど散らかったアパート。考え事をしているうちに、いつの間にか部屋にたどり着いていた。化粧を落としてシャワーを浴びて、シーツのぐしゃぐしゃしたままのベッドにもぐりこんでも、まだあたしはその件を考えていた。明日、モリゴエに会ったらなんて話しかけようか。昨日のあれウソでしょって? それとも、よく分かんないけどあんまり悩みすぎないほうがいいよ、って?
 でも、モリゴエはどう見ても本気みたいだった。そしてあたしはあのときの、モリゴエに質問された瞬間に感じたヘンな引力の説明を、自分の中でうまくつけかねていた。もしかしたら、モリゴエがいうようなことも本当にあるんじゃないかって、そんな風に血迷ったことを、ふっと考えてしまうくらいには。
 もう少し真剣にこのことを考えてみようと思うのに、帰りが遅かった分だけあたしはきっちり疲れていて、根性のないことに、ベッドにもぐりこんで五分もしないうちに、あっさりと眠りに落ちた。
 そして明け方に何度もくりかえし、似たような夢を見た。小さな子どもが、自分の言葉が周りに与える影響におびえて、何にも口に出せなくなる夢。その子どもはモリゴエだったり、あたしだったりした。


 講堂に向かう途中、ひょろりと伸びたモリゴエの背中を見つけた。
「はよーっす、モリゴエ。今日も眠そうな顔してんね」
 駆け寄って話しかけると、モリゴエは振り返って、やたらとびっくりしたような顔をした。人の顔をみて驚くなんて、失礼なやつだ。
「…………おはよう」
 長すぎる間のあとに、モリゴエは挨拶を返して、それから何か言いたげに、口をもごもごさせた。けれどやっぱり迷って迷って迷って、何も言わなかった。
 だからあたしはモリゴエの困惑に気づかないふりをした。
「モリゴエって、どの辺から通ってるの?」
「……葦ノ尾町」
「へえ、けっこう遠いね」
「でも、電車一本だから」
 モリゴエはヘンな顔をしたまま、それでも律儀に答えをよこした。あたしが昨日の話を信じたのか、それともウソだと思っているのか、測りかねているようだった。
 そしてあたしはというと、実際のところ、モリゴエの話が本当だともウソだとも、決め付けきれないままだった。それでも、モリゴエが本気で言っているのだろうということだけは、根拠もないけど確信していた。事実かどうかはともかくとして、モリゴエは本当にそう思っていて、そのせいで喋ることに対してものすごく慎重になっているのだ。うっかり変なことを言って人を傷つけないように、人に迷惑をかけないように、気をつけて気をつけて喋っているのだ。それだけ分かっていれば、とりあえずそれでいいかなという気がした。
 あたしがどうでもいいような世間話を振って、モリゴエがそれに言葉少なに答えているうちに、講堂に辿(たど)りついた。そして入った瞬間、昨日カラオケに居合わせたやつらから、居心地の悪いような視線が、モリゴエにぱっと集まった。ついでにモリゴエと並んで一緒に講堂に入ってきたあたしにまで。
 あたしはそれに知らん顔をして、しれっと講堂の後ろの方に陣取った。何せ眠くて眠くて、とても一時間半、マジメに講義を聴いていられそうにはなかったから。


 電車の中で奇妙なうちあけ話を聞いたあとも、あたしはやっぱりモリゴエがちょっと気になっていて、ときどき誰にも頼みごとをできないで困っているモリゴエに、おせっかいな言葉をかけたりしていた。モリゴエが見逃したらしい休講の張り紙について教えてあげるとか、辞書を貸してあげるとか、どれもそういう些細なことなんだけど。
 そのたびにモリゴエは、ちょっと困ったような、何か訊きたそうな顔をして、けれどやっぱり散々迷った挙句に、「ありがと」とぼそぼそ言った。
 あたしがもう少し繊細で気弱な女の子だったら、もしかしてモリゴエには迷惑なのかなとかいって遠慮したかもしれないし、周囲の学生たちの目線も気にしたかもしれないけれど、あたしは持ち前の図太さを発揮(はっき)して、気軽に声をかけ続けた。
 季節が夏めいてきた頃だった。木曜日の、最後の一コマがモリゴエと一緒だった。あたしは講義の途中で、ちょっとうたた寝してしまって、よく分からなかったところがあった。それで、帰ろうとしているモリゴエの背中を追いかけた。
 話しかけて講義の内容を質問すると、モリゴエはやっぱり困惑したふうで、それでも律儀に説明してくれた。モリゴエの話はとぎれとぎれではあったけれど、たぶん、講師もそこまで親切な説明はしていなかっただろうというくらい、()み砕いてあって分かりやすかった。話をしていてときどき感じるのだけれど、モリゴエの頭は多分、全然ゆっくりどころではない。
 あたしは礼を言って、用事はそれで終わりだったのだけれど、コンビニのバイトに向かうモリゴエと向かう方向が同じだったので、そのまま何気なく並んで歩いた。
 風が吹いて顔を上げると、構内に植えられた木々の緑の色合いが、春のやわらかな色とは変わってきていて、ああ、夏になるんだなあと、あたしはぼんやりそんなことを考えていた。そこにモリゴエが、ぼそりと聞いてきた。
「佐波は、おれが気持ちわるくないのか」
「……ないよ、べつに」
 あたしはそう答えたけれど、それが本当に自分の本音かどうか、実のところ、よく分からなかった。例の話については、信じているようないないような、中途半端な心境のままではあったので。
 モリゴエはまたちょっと黙って、困ったように頭を掻き、それからぽつりと言った。
「おれ、弟がいて」
 へえ、とあたしは相槌(あいづち)をうって、ひょろっと背の高いモリゴエの、ずいぶん上のほうにある頭を見上げた。そういえば、長男だって言ってたっけ。
「弟はチビの頃から、すごく運動神経がよかったんだ。走っても、球技なんかやらしても、喧嘩しても、何歳も上のやつらが、ぜんぜんかなわないくらい」
「モリゴエは?」
「おれは普通」
 それはどうでもよくて、と、モリゴエは話を元に戻した。
「弟が小学校六年生のときだった。弟は毎日、野球ばっかりやってた。リトルリーグとか、そういうちゃんとしたところじゃなくて、学校のクラブみたいなのだけど、エースで、打つほうも、よく四番なんか任されてて」
 口調はいつものようにゆっくりだったけれど、モリゴエにしては、ずいぶんすらすらと喋った。何をどう話したらいいのか、何回も頭の中で練習してきたみたいだった。
「弟は、野球の強い中学に行きたがった。そうじゃなかったら、シニアかなんか入りたいって。学校の先生も、そう薦めてくれてた。でもおふくろは、弟にいい中学を受験させたかった。シニアになんて入ったら、勉強するヒマもないかもしれない、野球なんてうまくなっても、大人になったらそれだけじゃ何にもならない、それよりしっかり勉強しろって。その一点張り」
 あたしは頷いた。気の毒だけれども、よくある話だ。あたしの母親だって、似たようなタイプだった。子どものやりたいことを好きなだけさせて、その結果、子どもの人生がどうなろうと全くかまわないという親も、それはそれでどうかとは思いはするけど。
「弟はもちろん、嫌がった。どうしても、ちゃんと野球がしたいって。おふくろはおれに、弟に何か言うようにって、頼んできた。おれも、ちょうどその頃、自分のことで頭がいっぱいで、親と口喧嘩するのも面倒だった。それで深く考えずに、何気なく弟に、言ったんだ。『おふくろの言うことをきけ、ちゃんと勉強しろ』って」
 あたしは口を挟めなかった。モリゴエは思いつめたような顔で、一息に言った。
「弟はその日から野球をやめた。そんでいきなり勉強熱心になった」
 モリゴエは、そこで用意してきた言葉が尽きたように、ぶつりと黙り込んだ。
 すぐには言うべき言葉が出てこなかった。モリゴエはうつむきがちに、黙々と歩いている。
 とっくに大学の敷地を出て、一般歩道を踏んでいた。あたしは歩きながら、そのときのモリゴエの恐怖を、想像してみようとした。自分が妹に同じようなことをしたら、と考えてみた。けど、どうしても好き放題に言い返してちっともいうことを聞かない妹しか思い浮かばなくて、うまく想像できなかった。
「……でも、でもさ。ただ単にそれはさ、モリゴエの弟くんが、やってみたら意外と勉強が性に合ってて面白くなった、っていうだけかもしれないじゃない」
 フォローのつもりでそう言って、そして、あたしは自分の頭を殴りつけたくなった。これじゃフォローしようとしてるんだか、アンタの言うことなんて信じてないよって言ってるんだか、分かりゃしない。でもモリゴエは、信じてないのかなんて怒り出したりはしなかった。頷いて、また少し考えて、それからぼそりと言った。
「かもしれない。でも、ときどき思う。あのときおれが、余計なことを言わなかったら、もしかして、弟は今ごろ、甲子園なんか行ってたりして」
「……それは、兄馬鹿かもよ。弟さんには悪いけど」
 冗談っぽくいうと、モリゴエもつられるようにして、ちょっと笑った。
「そうかも」
 でも、とモリゴエは真顔になって、ぼそぼそと続けた。
「おれはおれが気持ちわるい」
 その言葉には、あのときの、モリゴエがPBRってなに、と聞いてきたときの感覚に近い、奇妙な引力があった。あのときほど強い感覚ではなかったけれど、たしかにあった。
 あたしはその引力に引き込まれるようにして、思わず頷きそうになった。それから愕然として、とっさに自分で自分の頬をぱあんとひっぱたいた。
 モリゴエはびっくりして足を止めて、うつむいていた顔を上げた。そしてあたしの顔をまじまじと覗き込んで、口をぱくぱくさせた。ついでに通行人も何人か振り返って、いったい何ごとかというような表情であたしたちを見た。ちょっと恥ずかしい。
「そんなこと言っちゃだめだよ」
 あたしはひりひりとする頬をさすりながら、きっぱりと言った。
「だってさ、あんたがそんな風に自分に言い聞かせたら、本当になっちゃうかもしれないじゃない。あんたのその、暗示だかなんだか分かんないチカラは、あんたにも効いちゃうんじゃないの?」
 勢い込んで言うと、モリゴエはまだ目を丸くしたまま、それは考えたことがなかったと言った。考えとけよ、自分のことなんだから。
 あたしは深呼吸して、一気に言った。
「モリゴエは気持ち悪くないよ。だってさ、人に無理やりいうこときかせるのがイヤで、それであんた、あんまり口をきかないんでしょ?」
 モリゴエは勢いに押されたように、こくこくと頷いた。
「だったらモリゴエは優しいんだよ」
 言うと、モリゴエは「それは」とか「そういうわけじゃ」とか、そういうことをもごもごと言って、また黙った。はっきりしないやつだ。
 あたしは仏頂面で歩き出した。モリゴエもつられたように、あわてて足を動かした。
「けど、佐波」
 モリゴエは何か言いかけて、また口をつぐんだ。
 また何かいろいろ、いらないことを考えて、迷っているのだろう。モリゴエと話をするときには、先を急かしてはいけないと、だいぶ分かってきているつもりだったけれど、今はなんだか沈黙が居心地わるくて、長くは耐えがたかった。
「何か言いなさいよ」
 思わずそう催促(さいそく)すると、モリゴエはちょっとうつむいた。それから顔を上げて、ぼそっと言った。
「………………ありがとう」
 低くかすれたモリゴエの声は、迷うように揺れていたけれど、それでもやっぱり耳に心地よかった。
「ありがとう、佐波」
 モリゴエはもう一度言った。
 何か返事をしようと思ったけれど、何を言うのも気恥ずかしいような気がした。それきり二人で黙々と歩いて、やがてモリゴエがバイト先のコンビニに入るまで、二人とも何も言わなかった。
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