2話

文字数 6,019文字

 その些細(ささい)な一件からほどなく気づいたのだが、モリゴエはどうやら、頼みごとが苦手らしい。
 それもちょっと苦手、とかではなくて、すごく苦手らしかった。風邪で休んだ講義のときのノートを誰かに借りるという、たったそれだけのことも、人に頼めないらしかった。頼める友達が誰もいないという風でもないのに。
 ともかくそれで、モリゴエは風邪で休んだときの講義の続きに、どうもいまいちついていけてなくて、けれどなんだかマジメみたいで、あきらめて講義を聞き流すでもなく、ちょっと困惑していた。それが、ひとつ後ろの席から見ていてもよく分かった。
「ノート貸したげる」
 あたしは講義が終わったあと、丸めたノートでモリゴエの背中をつついた。
 モリゴエは振り返ったけれど、どういうわけか、やたらと戸惑っていた。たとえば道端で、初対面の人にいきなり呼び止められて、わけのわからない言いがかりをつけられたって、ここまでは戸惑わないんじゃないかと思うくらいの戸惑い方だった。あたしはそれに戸惑った。なんでモリゴエがそんなに戸惑うのか、よく分からなかった。
 モリゴエはありがとうと言ってノートを受け取るでも、いいよと断るわけでもなく、ずいぶん長いこと、振り返った姿勢のままで迷っていた。たかがノートをいっとき借りるくらいのことに、なにをそんなにためらう必要があるのというのか。
 たとえばそれが、「こいつに借りるなんておれのプライドがゆるさねえ」とか、そういう種類の躊躇(ちゅうちょ)なら、腹は立つにしても理解の範疇(はんちゅう)だし、あるいはものすごく遠慮深いとか、「なんでこの人はぼくなんかに優しくしてくれるんだろう」というような(たぐい)の戸惑いなら、苛々(いらいら)はするかもしれないが、まったくの理解不能ではない。けれどそういう調子でもなかった。じゃあモリゴエはいったい何をこんなにためらっているのか。彼女が(いるかどうか知らないが)ものすごく嫉妬(しっと)深くて、ほかの女と口を利くのも嫌がるとか? それはいくらなんでも、想像力豊富すぎだろうか。
 そして、あたしがそれだけ想像の翼を自由に羽ばたかせている間にも、まだまだモリゴエは逡巡(しゅんじゅん)している。喋るのが遅いのは知っていたが、とにかくとろいやつだ。
 とろいけれど、モリゴエの表情の動きから、あたしにはひとつ、分かったことがある。それは、モリゴエは別に考えるのがゆっくりなんじゃなくて、言葉を口に出すまでに、ものすごい余計なことをあれこれ考えて、なんて言ったらいいか困ってるんだ、ということだ。
 なんでわかるのかって、そりゃ、あたしがそうだったから。
 中学校のころ、あたしはちょっとだけイジメみたいなことに()った。イジメ『みたいなこと』だ。ちょっと吊るしあげっぽい雰囲気で女子連中に囲まれて、その輪の中にはあたしが特に仲がいいと思ってた子もしっかり混ざっていて、そこで「佐波って空気読まないよね」とか、「相手が嫌がってても気づかないよね」とか、そんな感じのことを口々に言われたっていう、ただそれだけの出来事だ。特に小突かれたりもしてないし、上履きを隠されたり、体操服を焼却炉に放り込まれたり、トイレの個室で上から雑巾が降ってきたりはしなかった。
 そしてたったそれだけのことでも、あたしはいっぺんに対人恐怖症になった。それまで言いたいことは(のき)()み、深く考えずに口に出してぺろっと言ってきたのが、今度は急に、何をしゃべっていいか、何ならしゃべってもいいのか、考えて考えて考えすぎて、一時期あたしは何にも口に出して言えなくなった。
 それからあたしは一年とちょっとの間、空気だった。ハブられたっていうよりも、むしろ自分から進んで空気になった。空気読めない女が一転して空気。あたしにもちょっと素直で可愛いところがあるでしょ? 異論は認めない。
 ともかくそれで、このときのモリゴエの間が、単にとろいんじゃなくて、いろいろなことを考えすぎて、口に出していい言葉をさがして困ってるんだっていうのが、言われなくてもなんとなく分かった。
 だけど、空気なんて、そんなに一生懸命読まなくてもいいのだ。
 言いたいことをこらえて言わないでいたって、他人というものは結局、今度は根暗だとか影が薄いだとか、なに考えてるのか分からなくて不気味だとか、また別の好き勝手な文句をいう。どうしたって文句を言われる。たとえ頑張ってものすごく気を遣って、クラス一番の人気者になったって、いつか誰かは文句をいう。人の気持ちをぜんぜん気にしないというのも、それはそれで余計な軋轢(あつれき)を生むだろうけれど、まあ、何ごともほどほどが肝要ってことだ。
 だからあたしはこのとき単純に、「モリゴエはもっと自己主張したらいいのに」と思いながら、じっとモリゴエの返事を待っていた。
 モリゴエはかなりの躊躇のあとに、ようやく「ありがと」と小声で言って、あたしのノートを受け取った。
「あのさ」
 あたしは言おうか言うまいか、ちょっと迷ったのだけれど、結局はおせっかいの虫が騒いで、余計な口出しをした。
「あんたもっと、人に頼みごとしたらいいと思うよ」
 そのあたしの説教だかなんだかに、モリゴエはちょっと首を(かし)げただけで、何にも言わなかった。反論もしないし、そうするよとも言わない。
「あんたさ、このまえ居眠りしてた矢木に、ノート貸してって頼まれたときに、フツーに貸してあげたでしょ」
 人がたくさんいるところで、声高(こわだか)に説教めいたことを言うのはどうかと思うくらいの分別は、あたしにもあった。それで、うんと潜めた小声で話を続けた。モリゴエは面倒そうな顔もせず、ごく素直な調子で頷いた。
「だったらさ矢木に、ノート貸してって頼むくらいは、バチもあたんないよね。違う?」
 まあ、居眠り矢木のノートを借りて、それがちゃんと役に立つかどうかは知らないが。
「違わない」
 モリゴエはようやく喋った。やっぱり甘い、かすれた声。
「だったらさ」
 あたしは言いかけて、口をつぐんだ。モリゴエが小さく微笑んでいた。あたしは思わず、そのことにちょっといらついた。なんでそこで笑うのかな、この男は。
 それは全然、いやな笑い方ではなかったけれど、モリゴエがあたしの忠告を受け入れるつもりがまるでないことだけは、なんとなくわかった。
「人に貸しをつくるのはよくて、借りをつくるのはイヤなわけ? それってちょっとヤなやつだよ、モリゴエ」
 あたしは言い終わるなり、自己嫌悪に顔をしかめた。ヤな言い方をしてしまった。同じことを伝えるのにも、もっとやわらかい、いい話し方があるはずなのに、無神経に人を傷つけるような言い方をするのは、あたしの悪い癖だ。
 モリゴエは口を開きかけて、また閉じた。何か言おうとして、思い直して、そうやって言葉を選んでいるようだった。
「……ごめん、言い過ぎた」
 今度は沈黙に耐えかねて、あたしが思わず謝ると、モリゴエは横に小さく首を振って、また微笑んだ。それを見て、あたしはちょっと途方に暮れた。なんでそこで笑うんだろう。やっぱりヘンなやつだ。


 クラスっていったって、高校と違ってなんでもかんでも一緒に行動するわけじゃないし、どうせ学年が上がって専攻を決めたら、いずれはてんでばらばらになるのだから、それほど熱心につるまなくてもよさそうなものだ。だけど、どこにでも仕切るのが好きなやつはいる。
 クラス幹事の小城という男子は、自分から幹事を買って出たというだけあって、いかにもそんなやつだった。きっと将来はどこかの会社の中で、おんなじようなテンションで宴会部長を務めるんだろう。
 その小城のおかげで、あたしたちのクラスは、なんだかやたらと集まる機会が多かった。やれ飲み会だのカラオケだのみんなでテーマパークに行くだのと、頻繁(ひんぱん)に集合がかかって、なんとも落ち着きがない。別に強制参加でもなんでもないが、まあ、あたしも基本的に暇な人間だし(いまは彼氏もいないし!)、すすんで一人狼を気取るつもりもないし、ということで、その半分くらいはなんとなく顔を出していた。
 で、その何回目だかの飲み会で、二次会のカラオケにモリゴエが来ていた。その日の一次会の時点で、カラオケは苦手だと言っているのが聞こえたので、ついてきているのを見ておやっと思ったが、どうやら強引に誘われて断りきれなかったらしい。
 強引に誘われたらしいにしては、モリゴエは仏頂面をするでもなく、苦笑気味に(すみ)に陣取って、律儀(りちぎ)なようすで人の歌を聞いて、手拍子なんか打っていた。
「佐波ちゃん、こないだから何か杜越くんのこと気にしてるよね。佐波ちゃんの好みのタイプって、ああいうの?」
 見ていたら、隣に座っていた目ざといクラスメイトにつつかれた。
「いや別に」
 普通だったら、そこから会話の糸口的にからかわれてもよさそうな会話なのだろうけども、「あ、そ」とあっけなく引き下がられてしまった。あたしの「別に」が、照れるでも動揺するでも厭そうでもなく、あまりにも含みのない「別に」だったからかもしれない。それとも、あたしをからかっても楽しい反応は返ってこなさそうだと思ったのかな。
 すっと引き下がられると妙な心理が働くもので、あんまり素っ気無かったかなと、あたしは内心ちょっと反省して、小声で「ある意味、気になるといえば気になるんだけど」と言おうとした。
 けれどちょうどそのときに、冷やかすような喝采(かっさい)のような、わっという喧騒(けんそう)が巻き起こって、あたしはびっくりして振り返った。そうすると、それまで全然歌わずに、人の歌だけ律儀に聞いていたモリゴエが、弱ったなあという感じでマイクを握っていた。
 モリゴエは傍目(はため)にも、いかにも気が進まなさそうだった。カラオケは苦手だと言っていたことだし、もしかしてひどいオンチだとか、そうじゃなかったらものすごいマイナーな歌しか知らないとか、そういうことだろうかなんて勝手に想像していたら、すぐによく耳にする曲のイントロが流れ出した。
 あいにくあたしは音楽関係にはうとくて、それが誰のなんていう歌なのか知らないのだけれど、とにかくその曲はCMソングだかドラマの主題歌だか、しょっちゅうそこらで流れていて、耳にすれば誰でも聞いたことがあるようなポップスで、まあつまりなんていうか、いかにも無難(ぶなん)そうなセレクトだった。
 長いイントロが終わって、モリゴエがしぶしぶ歌いだしたその瞬間だった。興味深々で注目していたやつも、ひやかすように意地の悪い笑みを浮かべていたやつも、話に夢中になってぜんぜん聞いていなかったやつらも、いっせいにしんと静まりかえった。
 モリゴエの歌はすごかった。
 なんて言ったらいいんだろう。劇的(げきてき)に歌がうまいとか、声楽(せいがく)か何かやってるんだろうとか、そういう感じでは全然なかった。だいたいマイクを(にぎ)る本人はいまいちノリがわるくて、声に気合いも入ってなくて、ごくフツーの地声で、淡々と歌っている。
 でも、そのテンション低い歌声が、めちゃくちゃ耳に甘くて、気持ちよかった。
 終始淡々と歌い終わったモリゴエが、気まずそうに身じろぎしながら、マイクを隣のやつに押し付けるまで、全員、無言でぽかんと固まっていた。
 次の曲のイントロが始まったとき、ようやくみんなの呪縛(じゅばく)が解けたみたいだった。がやがやと興奮冷めやらない調子で、それぞれ好き勝手に騒ぎ出す。「びびったあ」「杜越くん声キレー」「うわ、鳥肌たった」
「杜越、おまえ、何か音楽とかやってんの」
 モリゴエの隣に座っていた男子が、どこか呆然とした調子で、モリゴエをつついた。モリゴエは「まさか」と興味なさそうに答えながら、反対側の席に座っていたやつにマイクを渡そうとして、苦戦していた。そいつは自分の入れた曲がとっくに始まっても、モリゴエからマイクをぐりぐり押し付けられても、まだぽかんとしていた。
「もったいねえ、もったいねえよ、杜越! 何かやれよ、お前。軽音系のサークルとかバンドとか、学内にだってあるだろ」
「大げさな」
 モリゴエはいかにも興味なさそうというか、その話はあんまりしてほしくないという感じだったんだけども、そいつはよっぽど興奮したのだろう、あきらめ悪く食い下がった。「いやだって、マジもったいねえよ」とか、「そんだけの才能、ゴミ箱に捨てる気かよ」とかなんとか、いつまでも粘っていた。そうしたら、あんまりしつこかったからだろう、とうとうモリゴエが怒った。
「その話は、もうよしてくれよ」
 いや、怒ったというほどには、モリゴエの表情も声も、べつに怒ってなかった。ただちょっとうんざりした風に、小声でそう言っただけだ。
 でもそれだけで、言われたほうはいきなり、かちんこちんにフリーズした。たとえばピストルでも懐に隠し持ってそうなオニイサンにドスの聞いた声で(おど)されたなら、こうなってもおかしくないだろうというくらい、ぴしりと凍り付いていた。
 大げさな反応だった。もちろん、普段はうんうん頷いて人の話を聞いてるだけのモリゴエが、めずらしくはっきり拒絶(きょぜつ)したので、意表をつかれて驚いたというだけなのかもしれなかった。でも、何をどう控えめに言っても、その反応は異様だった。
 そして言ったほうのモリゴエはモリゴエで、なんだかぎくっとしたような顔をした。そして急に深々と頭を下げて、「ごめん」と言った。そりゃ、へんな空気をつくったのはモリゴエにも原因があるだろうけども、それにしてもいったい何をそんなに真剣に謝るのかと思うくらい、真摯(しんし)な謝罪だった。
 言われたほうも、「いや、えっと……悪かったよ」と、戸惑ったように頭を掻いて、気まずげに咳払いをした。
「おいおい、しらけちゃったじゃん。誰だよ次、料金もったいないだろ、歌えよー」
 幹事の小城が、なんとかその場の空気をもとに戻そうとして、おどけた調子でどやすと、みんなどこかほっとしたように雑談を再開した。モリゴエの次の次の順番で曲を入れていたやつが、やっと思い出したようにマイクを握って、曲の途中の中途半端なところから、いまいち乗り切れないふうに歌いだした。
 みんながみんなその場の空気を取り繕おうと、何もなかったようなふりをして、たわいのないことを喋りながらも、いつまでもちらちらとモリゴエのほうを気にしていた。あたしももちろんしっかり見ていた。モリゴエが罪悪感に打ちひしがれたように、肩を落としているのを。
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