8章―4
文字数 2,521文字
その日の夜中。突然物音が聞こえ、ナタルは目が覚めた。
ラウロが戻って来てから、ナタルは就寝中でも僅かな物音に気を配らせていた。フィードがいつ襲来するか分からない。今は[家族]全員がぐっすり眠っており、襲撃には適している。
ナタルは忍び足でベッドから抜け出し、寝室のドアをゆっくり開ける。警戒しながら前傾姿勢で進む。すると、明かりのないリビングで人影が動いた。ナタルは音を立てずに走り出し、その人物を捕らえようとするが。
「何だ、あんただったの」
その人影はラウロだった。彼は座席に腰かけ、月明かりを頼りにスケッチブックに何やら絵を描いていた。ナタルが力を抜くと、ラウロはようやくこちらに気づいた。
「あぁ、起こしちまったか」
ナタルはラウロの傍まで歩み寄る。すると、テーブルを挟んで反対側に、座席をベッド代わりにするヒビロが目に入った。顔までは見えなかったが、恐らく熟睡中である。
「ちょっと、ヒビロさんが起きたらどうするのよ?」
「大丈夫だよ、もうすぐ終わるから」
二人は小声で言葉を交わす。彼らのやりとりにも、ヒビロは気づかず眠っているようだ。
この『変態』は、ノレインの隣で寝ると言い張っていたがメイラに蹴り飛ばされ、男子部屋の入室も禁じられた。だからと言って女子部屋に入る訳にもいかず、客人のはずなのにリビングで寝る羽目になったのだ。
万が一彼が今目覚めたとすると、ラウロは一瞬にして窮地に陥るだろう。
「絵なら部屋で描けばいいじゃない?」
「はは、スウィートのいびきがうるさくてな」
ラウロは苦笑する。そういえば、妙な唸り声が遠くで聞こえていたような。ナタルは思わず、笑いそうになった。
その拍子に彼の絵が目に入り、ナタルは息を飲んだ。それは、フィードの横顔だった。
絵の中のフィードは記憶の中の姿そのものだったが、ナタルが見たことのないような穏やかな顔つきをしていた。それでも、『蛇』の持つ鋭い雰囲気と、静かな色気が伝わってくる。
「前に進むために、どうしても今日のうちに描いておきたかったんだ」
ラウロは鉛筆を置く。その横顔からは、芯の通った強さを感じた。
「恥ずかしいけど、俺の身体も、心も、あいつを求めている。でも救ってやるって決めたから、負ける訳にはいかないんだ」
「それで、フィードの絵を……」
「あぁ」
彼はスケッチブックを、静かに閉じた。
「俺はもう、『路地裏の蝶』には戻らない」
これまでの自分自身に別れを告げるように、ラウロはきっぱりと宣言する。ナタルは笑顔になり、静かに頷いた。
その時、ヒビロが寝返りを打つ音が聞こえ、二人は揃って飛び上がった。『変態』は何やら寝言らしき言葉を呟く。「ル」と発音したようだが、よく聞き取れない。
ナタルは再び熟睡する『変態』を起こさないように、ラウロに耳打ちした。
「『ルイン』って言いたかったのかしら?」
「うーん、他の単語に聞こえたような気もするけど……この人ならまぁ、夢でもルインさんに絡んでそうだよな」
想像するなり、脳裏に『修羅場』が割りこむ。二人は笑いを堪えながら、リビングを後にした。
――――
翌日。あいにくの曇り空だが僅かに青空が混ざり、雨は降り出しそうにない。
銀色のキャンピングカーは完全復活し、ようやく出発可能になった。[家族]は軽めの朝食を済ませ、身支度を手早く行う。準備が終わり次第、この空き地を後にする予定だった。
「私達が今いる場所はここだ」
テーブルにミルド島の地図を広げ、ノレインは現在地を指差す。北西の山沿いにあたる位置から、やや北東に指を動かした。
「そしてここが『家』の場所だ」
「この調子だと、あと一日か二日ってところね!」
到着が近づき、[家族]は歓声を上げる。長かった逃避行から、もう少しで解放されるのだ。ヒビロは荷物を肩に担ぐと、爽やかに挨拶した。
「俺の出番はひとまず、ここまでだな。じゃあ、近いうちにまた会おうぜ!」
彼がドアノブに手をかけた瞬間、ドアを高速でノックする音が響き渡った。ヒビロだけでなく、[家族]全員引っくり返りそうになる(ノレインだけ引っくり返った)。驚いているうちに、聞き覚えのある高い声が聞こえた。
「ルインさーん、メイラさーん! おはようございまーーーーす!」
ヒビロはドアを開ける。開いた瞬間勢い良く入ってきたのは、ケイティだった。
「あれ、皆さんどうして固まってるんですか?」
「ケイティ、ドアをノックする時はもうちょっと、控えめにしてくれないか?」
「え? はいっ、分かりました!」
彼女は首を傾げながらも、元気良く返答する。メイラは我に返り、メモ用紙に何やら走り書きしてケイティに手渡した。
「言い忘れてたわ。あたし達、しばらくそこに滞在する予定だから、何かある時はこの住所の場所までお願いね!」
「はい! 実は私も忘れてて、連絡先聞きに来たんですよ。グッドタイミングでしたね!」
「あっ、そうだ」
ラウロは、慌てたようにケイティを呼び止めた。
「俺を……いや、俺達を助けてくれて、本当にありがとう!」
夫婦も感謝を重ねる。ケイティは少しの間放心していたが、にっこりと笑った。
「お礼を言うのは私の方ですよ。こちらこそ、ありがとうございました!」
ケイティは外に出るとこちらに手を振り、走り去った。
格好良い去り際のタイミングをすっかり失ってしまったヒビロは、気まずげに咳払いする。メイラは彼をギロッと睨み、外を素早く指差した。
「いつまで突っ立ってるのよ。さっさと帰りなさい!」
「わかったわかった。じゃあな!」
柔らかい笑みを飛ばし、ヒビロも空き地を後にする。彼の姿が見えなくなるまで見送った後、ノレインは威勢良く声を張り上げた。
「さて、そろそろ出発するぞ! 『家』まであと少しだッ‼」
全員で掛け声を上げ、出発の準備を始める。時刻はまだ早朝。街が活気づく前に、銀色のキャンピングカーは再び走り出した。
車道に出ると、すぐ近くに小さな街が見えた。その背後には深い緑と紅葉に染まる山々。この短期間で突如開けた新たな可能性に、誰もが期待を寄せずにはいられなかった。
New way, new potential
(新たな道へと続く、新しい力)
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