12.5章―2
文字数 4,143文字
アースはピンキーを頭から下ろし、胸に抱える。そのまま入口から見えない位置まで進み、三人は壁際に腰を下ろした。
「ちょうど昨日、新薬が出来たところだ。またサンプルを試してほしいのだが、どうかね?」
低くしわがれた声が響き、アース達はビクリと飛び上がる。実験台の陰から覗くと、ローレンが背を向けて座っている様子が見えた。どうやら彼の向かいにもう一人いるようだが、こちらからは姿が見えない。
「大変恐縮ですが、遠慮致します。その薬が安全かどうか、私には判断出来かねますので」
「ふっ。前のサンプルよりは効果が緩やかなはずだがな、残念だ」
ローレンは背を震わせながら、怪しげに笑う。穏やかな声の客人は深い溜息をつき、声を尖らせた。
「そういえば先程廊下に出た時、奥の部屋から子供の声が聞こえたのですが……もしやドクター、誘拐なさった訳ではないですよね?」
「誘拐ではないぞ。強引に連れてきただけだ」
アース達は同時に息を飲んだ。客人が絶句するのも構わず、ローレンは話を続ける。
「気晴らしに出かけた先でな、恐るべきバランス感覚を持つ子供がいたのだ。何故そのような芸当が出来るのか、実に興味深い! これ以上油を売っている暇はない、彼の体を隅から隅まで調べつくさなくては!」
「お、落ち着いてください! このままではいずれ通報されます。今すぐ子供を解放するべきです!」
ローレンは興奮して席を立つが、客人と取っ組み合っているのか、その場を動かない。すると、けたたましい電子音が数秒間鳴り響いた。アース達は手で耳を塞ぎ、ローレンと客人はピタリと固まる。
「やれやれ、またか。あの機器はよくエラーを起こすのだ。しばらく待ちたまえ」
呆れたように髪を掻き乱し、ローレンは視界から姿を消した。三人は即座に頭を引っこめ、額を合わせて声を潜める。
「やっぱり! デラたちはここに連れてこられたんだ!」
「この部屋よりは奥にいるんだよね、廊下に戻らなきゃ……」
アース達は恐る恐る入口に向かうが、あと一歩のところでドアが開く。入ってきたのは、白いキャップを被った少年だった。大きなパステルブルーの瞳とばっちり目が合い、三人も少年も唖然とする。
「な、何故あなた達がここにいるのですか……⁉」
少年は動揺しながらも騒ぎ立てることなく、小声で問う。彼はアースより幼いようだが、口調は何故か大人びて聞こえた。ミックは身を乗り出し、彼の耳元に口を寄せる。
「わたしとこの子のお兄ちゃんが、ここにさらわれてきたの。この部屋より奥にいるらしいんだけど、どこにいるか知らない?」
「やはりそうでしたか……それらしき場所なら検討がついています。ついてきてください!」
少年は部屋を飛び出し、アース達も彼の後を続く。廊下を走り抜けるが、助手らしき青年の姿は見えない。
途中で事務室に寄り、少年は鍵の束を持ち出す。そして外に出ると、目の前の廊下を真っ直ぐ指差した。
「彼らはこの先の部屋にいるはずです。鍵は後で回収するので差したままで構いません」
「きっ、きみはついてこないの?」
アースは少年に聞き返す。彼はフッと微笑み、三人の背中を押した。
「僕はこれから、ドクター達を足止めします。皆さんも頑張ってください!」
三人は彼に向かって頷き、一斉に走り出した。
この区画は先程とは異なり、静かな場所だった。ドアもボタン開閉式ではなく、ドアノブのついた普通の扉が立ち並ぶ。そして少年の言う通り、しばらく進むと聞き覚えのある声が聞こえてきた。
『だれかー! 助けてー!』
『早くここから出してくれー!』
間違いない、モレノとデラの声だ。ドン、ドンとドアを叩く音が廊下中に響き渡っている。
「デラ、モレノ! 助けにきたよ!」
『そっ、その声はドリ⁉』
『うおお助かった、早く開けてくれ!』
三人は仮眠室と書かれた部屋の前で立ち止まり、鍵の束から同じ名称が書かれた鍵を探し出す。アースが解錠するとドアが開き、モレノとデラがなだれるように倒れこんできた。
「うわあああん、みんなありがとおおおぉ!」
「うおああああアース、うわっミックにピンキーまで! 会いたかったぜえええぇ!」
アース達は二人にきつく抱きしめられる。ミックはいつもの冷ややかな目で兄を睨むと、顔を赤らめながら言い直した。
「そういうのは後にして。今は早く、ここから逃げるのよ」
廊下を引き返し、少年と別れた通路に差しかかる。しかし玄関の方向へ曲がろうとした瞬間、奥の方から声が飛んできた。
「ドクター、大変です! 知らない子供達が侵入しました!」
「何っ、まさかあの二人が逃げたのか⁉ 一刻も早く捕まえるのだ!」
助手の青年とローレンの声だ。機械の音に混ざってばたばたと足音が聞こえてくる。モレノと双子はおろおろと泣き崩れ、ミックは「どうしよう……」とアースの服の裾を掴んで焦っている。アースもまた緊張に震える。いい方法を捻り出そうとしても、機械の音がうるさく集中出来ない。
「……そ、そうだ! ピンキー!」
アースはあることを閃き、廊下を引き返しながらピンキーを呼ぶ。仮眠室に向かう途中に、ローレンがいた実験室と同じボタンがついたドアが見えたのだ。アースはボタンを叩き、その部屋に入る。ここもやはり、実験室のようだ。
「アース、どうしたの……?」
ミック達も追いつく。アースはピンキーを腕に止まらせ、早口で説明した。
「さっき聞いた機械のエラーの音をピンキーに出してもらえば、いけるかもしれない!」
「アース、ナイスアイデア! だったら僕にまかせて!」
ドリはピンキーに[潜在能力]でイメージを流し、指示を行う。ピンキーは「了解!」とばかりに一言さえずり、機械のエラー音をけたたましく再生した。
「なんと! こんな忙しい時に!」
急いで廊下に出ると、先程より近い距離からローレンの悪態が聞こえてくる。アース達は喜びかけるが、続く言葉に体が動かなくなってしまった。
「こちらは私が対処する、君は捜索を続けたまえ!」
「分かりました!」
青年の足音が近づいてくる。もう打つ手はない。アース達はぎゅっと瞼を閉じた。
「イオさん、子供達を見つけました!」
その時、廊下の向こうからあの少年の声が聞こえた。青年の足音はピタッと止まる。「本当かい?」という返答の後、少年は間髪入れずに言葉を返す。
「ボイラー室の横を通っていきました、今行けば間に合うかもしれません!」
「ありがとうナト、恩に着るよ!」
青年の足音は反対方向に遠ざかり、消えた。アース達は恐々と廊下に顔を出すが、人の気配は全くない。「今のうちに!」というミックの声に我に返り、走り出した。事務室、応接室を通り過ぎ、玄関に辿り着く。そのまま外に脱出すると、止まることなく駐車場を駆け抜けた。
「お、俺たち、助かったんだよな?」
「……逃げきるまでは、止まっちゃだめよ」
モレノは妹の返答に「そんなぁ」と泣き言を漏らす。アース達の手前で、双子が同時に笑い出した。
「とにかく、逃げられてよかったよね♪」
「あの男の子がいてくれて、ほんとうに助かったよ♪」
白いキャップを被った、幼い少年。モレノ達の居場所を教えてくれただけでなく、捜索の攪乱までしてくれた。彼もまたローレンの助手なのだろうか。考え事をしていたアースは、突如違和感に襲われる。
「ねぇ、あの男の子……どこかで会ったような気がしない?」
兄妹と双子は、一斉に疑問符を浮かべる。
「……そう? 気のせいじゃないかしら?」
「うん。僕も見覚えはないなぁ」
困惑する兄達の横で、ミックとドリは意見を述べる。アースはしばらく思いつめていたが長いマラソンに息苦しくなり、思考を放棄した。
――
アース達はローレンに追いつかれることなく、公園に辿り着いた。長い距離を走り続けたこともあり、しばらくの間誰も何も言えず、ただひたすらに息を整えるのみ。[家族]のいる空き地に帰る頃には、辺りは薄暗くなっていた。
車のメンテナンスはすっかり終わり、買い物に出かけたメイラとナタル達もとっくに帰宅している。アース達は『こんな時間までどこ行ってたの!』とメイラに呆れられたが、モレノは笑ってこう誤魔化した。
『バドミントンの試合が、ちょっと白熱しただけっすよ!』
一方ライズ研究所では、アース達を取り逃がしたローレンが憤慨していた。助手のイオは「僕の責任です!」と反省していたが、静観していた客人がやんわりと宥める。
「警察沙汰にならなくて良かったです。今後は一般の方には手を出さないよう、充分注意してくださいね」
「施錠をしていたというのに……まさか、君が逃がした訳じゃあないだろうな?」
「いえいえ、私はずっとこの部屋にいましたよ」
客人はローレンの文句をあしらいつつ、席を立つ。
「それでは、そろそろ失礼致します。本社への報告書、忘れずにご用意くださいね」
そっぽを向くローレンから背を向け、客人は白いキャップの少年、ナトの手を引いて研究所を出た。二人は言葉を交わすことなく白い車に乗りこむ。そして発進して間もなく、運転席の客人は口を開いた。
「彼らを逃がしたのはナト、貴方ですね」
「……はい」
暗い表情で俯く彼に、客人は微笑んでみせる。
「よく頑張りましたね。このまま子供達を捕らえてしまったら、間違いなく被害が拡大したことでしょう。賢明な判断でした」
「ありがとうございます。彼らが助かって、本当に良かったです」
ナトの言動は落ち着いていたが、その顔はまだ不安げだった。客人が「どうしました?」と呼びかけると、彼は一瞬言葉を詰まらせ、ゆっくりと声に出した。
「あの子供達は……[家族]の人でした」
客人はしばしの間無言になり、深く息をつく。その客人、リバースカンパニーの諜報部長チェスカは「そうですか……」と感慨深く呟き、哀しげな目線で道路の先を見据えた。
「チーフにも、報告する必要がありますね」
Brother's miserable calamity
(兄達の受難)
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