第6話:子供誕生と新天地で皮膚科開業へ

文字数 1,690文字

 やがて1978年12月10日、奥さんの民子さんが元気な男の子を出産。摂津利夫と命名。退院後、家でゆっくりし家事全般は、母の文子がやった。利夫は、ぱっちりとした目の大きい可愛い子で、利和も文子さんも可愛がって面倒をみた。やがて、1979年となった。

 1979年の7月、再び、奥さんの民子さんが不調を訴え、産婦人科を受診すると、妊娠とわかり、予定日が1980年1月18日と解った。摂津利和は、開業する際、初期投資が、ほとんどかからなかったので患者さんも増えてきて年収2千万円を越えた。1980年1月18日に、元気な男の赤ちゃんを出産し、摂津建男と名付けた。

 その後、院長の奥さんの民子さんが子育てで忙しいので退職してもらった。摂津皮膚科は、少しずつ、地元でも名前が知れ渡るようになり患者さんが増えだした。やがて1980年、1981年となり大学からの応援の先生がさらに増えた。そして伊東繁子先生を副院長にして常勤できてもらえる様になった。その後も患者が急増して皮膚科が混雑し、夏、19時まで診療した。

 1981年4月8日、早朝、証券会社の担当者から電話が入りソニー株が上昇してると言い2650円で売り指し値を指示。その夜にソニー株2千株全部、2650円で売れたと連絡が入り、税引き後利益が740万円で残高が755万円となった。1981年11月になり再び、民子さんが妊娠して出産予定日が1982年5月7日と判明。

 しかし、その後、お腹が、大きく、もしかしたら双子かも知れないと言われた。やがて1982年となった。そして1982年5月7日、元気な双子の男の子、摂津哲二と摂津哲三と名付けた。その後は、子供の世話で、てんてこ舞いの日々が続いた。その後、患者さんが増えて、大学からの応援の先生をもう1人増やして3人来てもらうことになった。

 そして大学からの応援の先生で、一番年上の伊東繁子先生に摂津皮膚科を、今度、継いで欲しいと言うと、なぜと聞かれ新横浜近くで新しい土地で新規開業したいというと驚いた様に本当に良いのですかと聞き返した。福島先生に、ここの賃料が、月に20万円だと教えた。正式に決まったら教えて下さいと言った。了解と言い伊東先生に、必ず、状況を報告すると約束した。

 その後も患者さんが増え続けて摂津皮膚科医院は、繁盛して忙しくいの日々を続け、大学の皮膚科の若手研修医を3人雇って診療し年収が3千万円を超えるようになった。そして1983年には、預金が1億円を超えた。そこで新横浜と菊名の間で開業したいと不動産さがしを開始。1983年9月に借家の家主に電話を入れて購入したいと持ちかけた。

 すると2年前に老人施設で父が死んで昨年、母が死んだので金に換えたいと思っていると話していたので、ちょうど良かったと言った。不動産屋さんをまじえて今週の日曜日に不動産屋で、10時に会う事になった。その日、摂津利和が、不動産屋に行くと、直ぐに家主さんが来て、最初に、家主さんが、あなたは、どんなお仕事ですかと聞くので皮膚科の開業医と言った。

 それなら信用できますねと言った。その後、売値は、ズバリ5千万円と家主が言い、冗談じゃないですよ、以前、3500万円で売り出していて売れなかったのでしょと言うと、よく知ってますなと、とぼけた。そして、私達も、あの古屋を改装するので1千万円位かけたので3千万円以上は出せないというと価格交渉でもめた。

 借主が、出て行く時に、かかった費用1千万円はいただきたいと言うと、家主と不動産屋さんが、ひそひそ話をして、わかりました。3500万円で売りますと言った。もう一言3000万円と摂津が言うと不動産屋さんが、中をとって3250万円で丸く収めましょうよと言った。

 どうですかと聞くと、売主が、わかりましたと言い、摂津も了解しましたと答えた。そして3250万円で10年返済というと、そりゃー困る、即金でないと駄目というので、それなら3千万円即金払いで応じると摂津が言うと仕方ありませんと告げた、即金、3千万円で、購入する事にして、振込先を摂津が、家主さんから聞いた。
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