第11話:開業先の繁盛と摂津の育ての母の急死

文字数 1,598文字

やがて11月、12月となり、今年も冬の混雑するシーズンを迎えた。それでも我慢をして、いかに効率的な診療ができるかを話し合いながら、1人でも多くの患者を診療した。

その後、1993年となった。このシーズンも患者さんは増えて、1日外来数が500人と新記録となった。この年の夏も混雑が激しく、たまらず、もう3人の若手医師の応援を大学の皮膚科、峰岸教授にお願いした。


この冬もシーズンも混雑した。土日や橫浜アリーナのコンサートの時には、新横浜の周辺は大混雑となる。レストランもカフェも満員でトイレも不足して問題になっていた。

 また、春が来て、5月のゴールデンウイークが過ぎると、徐々に患者さんが増えて、梅雨が明けると一気に増える。その後も増えて、摂津の資産は1億円を超えた。しかし、夏が終わる、10月には、疲労困憊「ひろうこんぱい」となり、鍼灸の先生のところや温泉に通うようになった。その後、副院長の伊東先生と金本先生に、若手皮膚科医師で、手の空いてる人がいたら紹介して欲しいと話した。

 その話しを聞き、10月に女医さん2人紹介してもらったが、今ひとつであり、大学の峰岸教授にも、お願いすると、11月に2名の男性医師が来て、1人の小林医師が、将来仙台の父の皮膚科を継ぐために、修行したいというので、来てもらうことにして、入局後2年生であり、年俸700万円で契約して、常勤で、週1日休みで、働いてもらう事になった。

 やがて、1994年があけた。この年も患者さんが多く、7月に1日600人を越えた、5人で診察して、1人、午前、午後で120人を診察することになった。そこで看護婦さんの数を増やして処置、軟膏、クリームの塗り方を指導させ、事務員を増やして、日常生活の指導の説明をしてもらう様にして、先生方には、診察に集中できる体制を整えた。そのためスタッフの数も7人と開業時の2倍となった。

 1994年4月に摂津の長男の建男が。橫浜の翠嵐高校をめざして、勉強し、合格の確立が75%位で、もう一息だったが、苦手の英語、国語の克服に家庭教師をつけて頑張って勉強して1994年10月の中学一斉テストで学年10位から4位に躍進した。そして翠嵐高校の合格確率が80%を越えた。やがて1995年となり、1月の翠嵐高校の受験で合格を果たした。

一方、次男の哲二と三男の哲三は、クラスでベスト5、学年で10位前後であり、できれば、翠嵐高校か平沼高校に合格したいと頑張っていた。2人は、橫浜駅近くの進学塾に通い出して、勉強続けた。中学2年の秋の一斉テストで翠嵐高校合格確率70%、平沼高校75%となった。哲二と哲三が、何としても、平沼高校には合格したいと話会っていた。その後、1995年が終わり、受験となり、平沼高校を受験して、哲二、哲三とも降格した。

自宅からバスと電車を乗り継いで30分で平沼高校へ通い始めた。その頃、長男の建男は、高校3年生となり、父と同じ、橫浜市大医学部をめざし勉強していた。家庭教師をつけてもらい、毎週2回ずつ、勉強を教えてもらっていた。彼は、記憶力に優れていて、理系が得意であった、反面英語と国語が苦手だった。1996年の夏もエアコンの下で勉強し、家庭教師の先生に弱点を克服する事を重点に勉強した。

 やがて1997年を迎えて、受験の年を迎え、自宅の近くの神社で合格祈願の絵馬を奉納し、合格を祈願してきた。もちろん、勉強は欠かさずに継続していた。家庭教師の先生が、多分、橫浜市大学部に合格できるだろうと話、一斉テストの成績でも合格確率が80%近かったので、受験を決意した。1998年1月下旬に、受験して、2学の合格発表の日、両親と出かけて、無事に合格できた。

 その後、哲二と哲三は、橫浜駅前の予備校に2人で通い、橫浜国大の経済学部をめざして勉強していた。1998年の春の一斉テストでは、合格確率70%を越えた。
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