4.第Ⅱ章 見沼の水神とは 民間伝承に残る痕跡 御船祭 島根氷川神社

文字数 3,390文字

第Ⅱ章 見沼の水神とは如何なる神だったのか
葬られたはずなのに、民間伝承の中に痕跡が残った
 古代、見沼に住み着いた縄文民族が信仰していた水神とは「女神」の「蛇神」だったと思われる。それを示す痕跡はいくつもある。
 その一 見沼の竜神伝説。実際、見沼周辺には二十以上の竜神・蛇神の民話が今も残っている。その多くが女人もしくは白蛇の姿で顕れる話である。(※後述)
 その二 女體神社。女體神社は「女体社の見沼代用水本支流沿いグループ」に分類される(牛山佳幸氏「関東地方における女体社の調査概報」による)。この女体社とは、河川・水路に沿って鎮座し、「女神」の水神を祀る神社である。古代の水神信仰から派生したものではないだろうか。
 その三 「江戸名所図会 大宮驛氷川明神社」に描かれている荒波々幾社、中山神社境内の荒脛神社。この二社は、漢字表記は異なるが、いずれも「アラハバキ神」を祀っている。アラハバキ神とは、北方縄文人の古代信仰における自然神であり、白蛇・大蛇の女神といわれている。(※アラハバキ神については後述)
 その四 氷川神社の「蛇の池」、女體神社の宮本弁財天(磐船祭祭祀遺跡の中)、中山神社付近の白蛇弁財天など。この他にも、見沼周辺には水神として女神の蛇神が祀られているところが多い。
 その五 蛇口。水道の出口を「蛇口」ということにお気づきだろうか。日々の暮らしの中で、私たちは無意識に、水神は蛇だと認識している。古の神が、今も人々の暮らしの中にひっそりと息づいている。

 現在は「竜神」と伝えられているが、竜とは後世に中国から輸入された概念であり、縄文期にはなかった。元々は水神(蛇)だったものが、後から竜神に変貌した可能性が高い。
 因みに「竜」は古代のシュメールに端を発するといわれている。西方のヨーロッパへ伝わり翼のある「ドラゴン」となり、悪役のイメージをもつ。東方へ伝わった「竜」は雲に乗る「龍」となり神格化された。日本では、姿の近い蛇に手足と角をつけて「龍」が誕生したと思われる。(厳密にいえば、「龍」と「竜」は意味が異なるが、さいたま市の公式HPでは「竜」の字を使用しているので、以下、この文中でも「竜」の字を用いる)

見沼の竜神伝説 
『井沢弥惣兵衛為永と竜』 (大宮区天沼・大日堂)
 徳川吉宗の治世、紀州藩から来た治水家の井沢弥惣兵衛(いざわ やそべえ)が見沼の干拓を命ぜられて、天沼の大日堂に泊って準備を進めていた。するとある夜一人の女性が訪ねてきた。彼女は、自分を見沼の竜神だと言い、干拓によって見沼には住めなくなるので次の住処を見つけるまでの間、九十九日間作業を中止してくれないか、と頼んだ。弥惣兵衛は彼女の話を真に受けずに工事を始めた。しかし様々な災難がふりかかり工事ははかどらず、干拓指揮者を務める弥惣兵衛も病気になり寝込んでしまった。そこに現れて干拓を拒む美女は白蛇だった。
(「さいたま竜神まつり会」ホームページより)

『弁天様のお使い』 (南区別所/別所沼弁天、中央区/二度栗山弁天)
 別所沼の弁天島で一休みしている車屋に声をかけた美女、美女の頼みで二度栗山に着くと美女の姿は消えて白蛇が石段を登っていく。二度栗山には竜神様が祀ってある。
(「さいたま竜神まつり会」ホームページより)

御船祭と磐船祭
 御船祭とは、見沼が沼であった時代、この地の最重要神事であった。『甲子夜話』の記事によると原初は例年9月14日、社から神輿を担ぎ下ろし舟に載せて沼の最深部に進め、四本竹を立てた御旅所(祭祀場所)で、瓶子に入れた神酒を供し様々な神事を行なった。「神幸の際には北風によって自ずと沼の中(の祭祀場所)に到着し、還御の際には南風によって元の(社のある)場所に到着する」といわれている。
 この「神幸の際には北風によって自ずと沼の中に到着し、還御の際には南風によって元の場所に到着する」の風に合う場所が沼の下流だった故に、女體神社で祭祀を行ったのではないか。祭祀時期(9月14日)もこの風に合わせて選んだのではないかと思われる。
 自然神の恵みに基づいて定めたはずの祭祀時期が、おそらくは神が葬られたことにより、いつしか隔年9月8日と変えられてしまった。
 女体社の御船祭は河川・水路など船の守護を祈願するものだが、見沼も広大な沼地であり、舟で交易や移動をしていた為、多くの舟が集まり感謝と安全を祈願するのに適した祭祀場所が必要だった。
 祭祀の行われていたあたりは、今でも「四本竹(しほんだけ)」(下山口新田)という地名で残っている。現在の「芝川第一調節池」建設の際の発掘調査では、祭祀が行われた場所からはおびただしい量(790本)の竹や古銭が出てきたそうで、その数から推測すると中世頃から行われていたかもしれないといわれている。今も四本竹遺跡として残されている。
 後に享保十二年(1727)、時の将軍徳川吉宗の見沼干拓政策により沼が完全に消失する。そのため、御船祭を継続することができなくなった。それ以降は、代替として、干拓地内に柄鏡型の池を掘り、その中に設けた祭祀場にて磐船祭を行うようになった。この磐船祭も、明治初期まで続けられていたが現在はなくなっており、女體神社に磐船祭祭祀遺跡が残っている。

(見沼氷川公園案内板より)


御船祭に関連する伝説
『見沼の笛』
 見沼のほとりに、夕暮れになるときまって笛を吹きながら歩く美女が現れました。そして、笛の音を聞いた若者たちは、その音に誘われるかのように女の方に行ってしまい、一人として帰ってきませんでした。これでは見沼一帯の村から若者がいなくなってしまうと村人たちは心配し、見沼のほとりに石塔を建てて沼の主である竜の供養を行ったところ、笛を吹く美女は現れなくなったそうです。(さいたま文学館「埼玉妖怪見聞録」パンフレットより)
 見沼の水神が女神だったことを示す伝承。また、笛の音は昔から「境界を越えるもの」「この世とあの世とを繋ぐ力がある」と考えられてきた。この民話に出てくる笛は竹笛であり、御船祭の四本竹から連想されたとも考えられる。

「おたけさま」
 見沼の竜神を「おたけさま」「たけひめ」と呼ぶ伝承がある。四本竹から派生した伝承ではないか。元々は御船祭を示して「今年もそろそろ四本竹(の祭)だね」「そろそろお竹さまだね」等と話していたのが、いつしか神様の名前になったのではないか。いかにも地域に根付いた、地域に愛された呼称である。

氷川神社が御船祭を継続したのは何故か
 大和朝廷は自分たちが滅ぼした水神の祟りを畏れた。祟りを鎮める「鎮魂」の祭祀として、この祭祀を止めることができなかったのではないか。しかし、本来は滅ぼす前の民族が縄文の昔から執り行っていた祭祀であり、氷川神社と関係ない祭祀である。その辻褄を合わせるために「神武天皇の皇女が『この祭祀を止めてはならない』と遺言した」という大和朝廷に都合のいい伝説を新たに造った。
 この他にも、自然神への畏怖がそれだけ強かった、農作の水害除けと船の加護が必要だったなどの事情も重なったと考えられる。
 永い間にわたって培われてきた地域の文化をそう簡単に変えられるものではなかったのではないだろうか。

島根氷川神社
 昔は女體神社の後ろに御室山があったが、干拓時に埋め立てるための土が必要であり、山を崩してしまった。この御室山を御神体とする神体山信仰があったという説もある。
 古代の自然神信仰において、山は「蛇神がとぐろを巻いた姿」に見立てられ、水神も山神も同じ神と認識されていた。
「高くあっては山の神、低くあっては水の神」

 しかしながら、見沼の場合は水神信仰だったと推察できる。その根拠となるのは、さいたま市の鴨川沿いに建てられた島根氷川神社である。島根氷川神社も元は荒脛社であり、末社として荒脛社が残っている。この神社でも鴨川を対象とした御船祭が行われていた。ここは山が無い地形であり、御船祭を行う神社が神体山信仰ではなかった証となる。島根氷川神社の参道は一直線に鴨川に続き、社内には水辺まで神を運ぶ神輿がある。
 また、女体社以外で御船祭が行われていた事実により、御船祭が女体社ではなく荒脛社に付随したものであること、女体社が元は荒脛神(水神)を祀っていた神社であること、が明らかとなる。
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