7月

文字数 6,055文字

7月はまるで美冬の心を映したかのように雨が続いていた。
しっぽりと濡れた北山の通りは緑に包まれ美しい。
しかしあまりの大雨に高野川沿いにある三宅八幡の川岸が崩れるなど、コロナ以外にも京都人の心配は尽きることがなかった。
さらにコロナウィルス感染拡大の第2波が到来する。
例年なら祇園囃子が聞こえてくる頃であったが、鉾もなく人通りも少なく四条界隈は静まり返っていた。
祇園祭と芸舞妓とはあまり関係がないようにも思われがちだが、後祭りに行われる花笠巡行には芸舞妓も行列に参加し、その後八坂神社の舞殿で『花笠巡行奉納舞』を舞う。
昨年は祇園東、先斗町、宮川町、そして祇園甲部と4つの花街が参加しそれぞれの舞を奉納した。
毎年衣装も踊りも同じで、祇園東は『小町踊り』。
先斗町は『歌舞伎踊り』、宮川町は『こんちき踊り』。
美冬のいる祇園甲部は『雀踊り』を踊る。
しかし今年はそれもなく、祇園祭の神事だけが粛々と行われていた。
祇園祭は貞観年中(859~877)京の都に疫病が流行し際に、勅を奉じて神泉苑に66本の鉾を立てて祇園の神を迎えて祭り、洛中の男児が祇園社の神輿を神泉苑に送って厄災の除去を祈ったことに由来する。
京都も過去最高の感染者数を更新したが、祈りが通じたのか死者数はあまり増加せず、感染者も軽症や無症状の人が多かった。
祇園祭の粽(ちまき)は八坂神社で販売された他、インターネットで受け付け郵送する方法でも販売されたため、毎年購入している京都人にとっては少し祇園祭の雰囲気を味わうこともできた。

美紗と葉月は2週間の経過観察の後にたま居へと戻ったが、お座敷などの出番はなくひたすら稽古に励んでいた。
たま居も営業を再開した際に一時的に密かに悪評が流れたが、6月より取り組んできたVIP限定の和食フレンチが功を奏し広がり始めたため落ち着きを取り戻してきた。
美冬もお詫び回りを終え、ようやく以前に生活に戻りほっと一息をつくことができた。

「こんにちは。」
美冬は佳介の家を訪ねた。
「いやー!真由美ちゃん、久しぶりやないの。どないしたん?」
佳介の母が出迎えてくれる。
「けーちゃんに頼まれてた長刀鉾の粽、もうて来ましたんでお届けに。」
「気ぃ遣うてもうて堪忍え。」
「いえいえ。」
「素麺食べる?冷とうて美味しいえ。佳介ももうじき帰ってくるさかい。さ、上へおあがり。」
「いえいえ、そんな。」
「はよ。かまへんから。」
佳介の母に手を引かれ、また子供のころによく遊びに来た懐かしさもあり、ついつい居間へと上がってしまった。
昔ながらの丈の低い漆塗りの長テーブルに木の桶が乗っており、素麺がきれいに並べられていた。
薬味も豪華なものでミョウガに九条ネギ、土ショウガに温泉卵、三つ葉や鳥そぼろなどがあった。
「佳介やらが帰ってきたらあっちゅう間になくなってしまうさかい、ほら、先に食べとき。」
そう言って素麺をお皿に取り分けてくれた。
ひんやりとしたガラスの器にめんつゆを入れ、素麺を入れてから薬味を乗せた。
「んー!おばさん、美味しいです!」
台所にいる佳介の母に聞こえるように振り返って言う。
少し甘めのつゆの味は、子供のころに食べた懐かしい味わいだった。
食べ終えるころには汗も引き、幸せな気持ちになってくる。
そこに佳介の祖母がやってきた。
「平岡はんのお嬢さんかいな。」
その声に慌てて美冬は背筋を伸ばす。
佳介の祖母は近所でも評判の煩型で、美冬も何度も怒られた記憶がある。
「お久しぶりでございます。」
パンツではなくワンピースで来たことを後悔しつつも、正座で頭を下げて挨拶した。
「ちょっとよろしおますか。」
「はい。」
「先日の保存会ではお世話になったようやの。近所の人やらメンバーも喜んどったわ。」
「光栄です。」
「あんた、佳介と一緒になるつもりかいな。」
「はい?」
「嫁はんみたいなことしてたやないの。」
「いや、あれは幼馴染として・・・。」
「それとも何か?佳介をもて遊んどる言わはりますのんか?」
「いえ、そんなことは決して。」
冷や汗がジワリと出てくる。
「珠美はんはあんたのこと褒めとったけどな。」
この言葉に美冬は衝撃を受けた。
「たま居のおかあさん、知ってはるんですか?」
「昔からの同級生や。美冬のこと、よろしゅう頼んますゆうて頭下げてたえ。」
「え?」
「ええ加減な気持ちやったら容赦せんで。」
「あ、あの、ちょっとこの後、用事がありますさかい。すみません。」
美冬はそう言って頭を下げると佳介の家を飛び出した。
遊ぶも何も、付き合ってすらいないものを何故そんな風に言われなくてはならないのか。
佳介の祖母の言葉にドン引きし、一気に気分が悪くなってくる。
確かに佳介を助けたし、自分も支えてもらった。
だが、舞妓時代に恋した時のドキドキとした感じではなく、恋愛感情とはまた違う。
さらに置屋のおかあさんにまで話をするとは、あまりにも行き過ぎている。
しかも、たま居のおかあさんまでが頭を下げるなんて、どうかしているとしか思えない。
自分の知らない水面下で何かが動いている感覚に、美冬は堪らず怖気を震った。
その日、佳介から何度も電話があったが、美冬は一度も出ることはなかった。
LINEには一言、ゴメンと送られてきた。


「チントテトテ、シャン。そう、そこで足を踏め!ちゃう!何べんゆうたらわかるんや。勢いやない。音を聞け!」
時之助の厳しい声が飛ぶ。
先日、三味線の師匠である桜田から依頼されていた時之助との稽古は想像を絶するほどの苛烈さであった。
たった一小節を稽古するのに何度も何度も、満足がいくまでひたすら繰り返す。
美冬は踊り手に合わせて三味線を変化させ、何とか踊りやすいようにタイミングを整えていた。
踊り手にも癖がある。
勢いを大切にする役者もいれば、溜めを大切にする役者もいる。
時之助は状況や音楽に合わせ、溜めを重視して盛り上げる踊りを得意としていた。
その為、時之助の弟子の稽古でも自然とその流れは生まれる。
「あかん!あほぅ!」
すでに何十回目の中断で、その場の全員が疲労していた。
「30分休憩します。」
時之助はそう言うと、タオルで汗を拭く。
そして美冬の傍らで膝をついた。
「おおきに。ご苦労さんやで。」
「いえ、今回は呼んでもろて、ほんにおおきにどす。」
「桜田さんから聞いてるで。」
「へぇ。」
「美冬ちゃんやったな。確かにええ筋や。」
「おおきに。」
「踊り手にあわす地方(じかた)ゆうのは得難い。ただ、寄り添いすぎてるところがある。ええか、踊り手は踊りやすい三味線が気持ちええもんや。けど、客を魅せるためには踊り手を操るぐらいの突き放すところも必要や。そこのところ気張ったら、もっとええもんになんのと違うか。」
はははと笑いながら時之助は言った。
美冬にとってこの稽古は新しい可能性を秘めていた。
地方として真剣に励んでみたい。
そんな気持ちを高められた瞬間であった。


それから数日後、美冬は女将の珠美と2人でデザインビューロー京都の会長が主催する展覧会に足を運んでいた。
珠美は美冬に対して三村トキとのことを何も語ることはなく、美冬は聞きたいことがありながらも切り出せずにいた。
会長と挨拶をした後、展覧会を案内され休息所でお茶などのもてなしをされた。
今回の展覧会は入場制限の上、マスク着用のこともありほとんど人影を見ることはなかった。
もともと、たま居の芸者である紅月の贔屓であったが、最近は紅月よりも美冬に色目を使い、ことあるごとに手を握ろうとしていた。
もちろん珠美も紅月からそのことを聞いており、展覧会にも付き添うことにしたのである。
「今回の展覧会は京都らしさにこだわり、その感性を惜しみなく発揮させている作品ばかりなんですよ。」
大体、京都らしさというものの定義が曖昧なのに、何をもって惜しみなく発揮しているというのだろう。
会長はひたすらこだわりを語っていたが、美冬は珠美のことが気がかりでさっぱり訳が分からなかった。
元気そうに振舞ってはいるものの、珠美の呼吸はいつにも増して苦しそうであった。
「今回はお招きいただき、ありがとうございました。」
そう言って珠美は頭を下げる。
「いやいや、女将さんにお越しいただけるとは光栄ですな。」
美冬にチラチラと視線を向けながら会長は言った。
「ほな、これから市長にお会いしますよって、お暇させていただきます。」
そう言って珠美は会場を後にしようとした。
「美冬さんはまだ大丈夫でしょう?最後まで案内いたしますよ。」
会長は美冬の手を取り、先を促そうとする。
すると、珠美がふらりと体勢を崩し倒れそうになった。
「あっ!」
美冬は慌てて珠美の身体を支える。
そのまま入り口まで引き返し、2人はタクシーに乗りこんだ。
「おかあさん、大丈夫どすか?」
美冬は珠美の額に浮かんだ汗をハンカチで拭く。
珠美は返事もせず荒い息をしていた。
「吉川病院へ行っとくれやす!」
運転手に珠美のかかりつけの病院を告げて急いでもらう。
美冬はすぐに志保の携帯へ電話を入れた。

「美冬、お疲れ。ありがとう。」
志保が病室に入ってきて美冬に告げた。
衣類や下着などを詰めたバッグや、歯ブラシなどの入った紙袋をドサリと椅子の上に置いた。
「ごめんな。一緒についていながら。」
美冬が頭を下げる。
「一緒にいてくれたからよかったんやんか。」
志保はふわりと髪を背中に回した。
途端にディオールの香水の香りが部屋に広がる。
「とりあえず、検査入院やて。今は薬で寝てはる。点滴もしてもうてるしな。」
「西村会長のとこやろ?あのエロじじぃ、今度は何言ぅたん?」
「志保。」
美冬は眉を顰める。病院とはいえ誰が聞いているかわからない。
「・・・ここんとこ、ほとんど寝てへんかったみたいやわ。」
志保は溜息をついた後、心配そうに珠美を見ながら言った。
「いろんなことがあって、バタバタしてたしなぁ。」
「コロナの舞妓ちゃんの件は、連合やら財団やら頭下げて回ってはったわ。他にも銀行やら贔屓筋やら、いろいろあったみたいや。うちには何にも言わへんけどな。」
志保は持ってきたバッグから衣類を取り出してロッカーにしまいながら言った。
「志保・・・、この間はゴメン。うち、言い過ぎた。」
美冬は頭を下げる。
「うちも。ゴメンな。・・・あんたも大変やったんやて?お琴の平田先生が、あんたが塩かけられたとこ見た言ぅてはったわ。」
「ううん。おかあさんと比べたら全然たいしたことないし。」
美冬は苦笑する。
何度も喧嘩をしては、こうして仲直りをしてきた。
それは言葉では語れない絆であり、信頼でもあった。
しばらくして志保が片づけを終えたころ、ふぅ、と息を吐いた。
「昔に戻りたいなぁ。」
頭をポリポリと掻きながら志保は言う。
「コロナやったら、まだ半年程しかたってないよ。」
「何かもう、何年もこんな感じの気がするわ。」
「うちも・・・疲れたわ。」
「どしたん?」
志保の言葉に美冬は寝ている珠美をチラリと見る。
しばらく躊躇った後、美冬は志保に打ち明けた。
佳介のこと、送り火の保存会のこと。
美紗の侘び回りを支えてもらったこと、そしてトキとの会話。
「うわ、何やそれ!」
志保は思わず噴き出した。
「もう、信じられへんかったわ。」
「そんな男やめとき!」
「うん、そう思うやろ?」
「最悪やん!」
「ただ・・・おかあさんが『頼んます』て頭下げはったんが気になってな。」
「そやな。こればっかりはおかあはんに聞いてみんとわからんしな。けど、あんたはどうなん?ほんまに好きなん?」
「好きとか、そんなんとちゃうし。だた・・・信頼できる人。」
美冬が友達と言い切らないところに志保はピンときたが何も言わなかった。
「ふぅん。んで、あんたはこれからどうしたいの?」
「そんなん、もう会わへんよ。」
「ちゃう。あんたのことやん。いつまでに結婚したいとか、地方(じかた)でやっていくとか、うちと一緒に経営するとか。」
「え?経営?」
「そうやん!うちのこと手伝うてくれへん?」
「手伝うてますやん!」
「そうやのうて、ビジネスとして!」
「そら、地方でやりたい。あと、舞妓達の力になりたい。けど、今のままではあかんと思う。」
「今までにない新しいことをするっていうこと?」
「それは、わからへんけど・・・。」
言葉に詰まる美冬。
正直なところ自分がこの先何をしたいのか、どうすればいいのかはまだ見えてはいなかった。
「まぁ、あんたが何をするでも、うちはあんたの味方や。」
志保は美冬の手を取った。
「ありがとう。うちもあんたの味方やで。」
たま居を支える2人は再び仲直りをした。

それから2人は病室を出てタクシーでたま居へ向かった。
着いてすぐに美冬は化粧をして着替えの部屋に飛び込んでゆく。
「遅なってすんまへんどす。」
そこには美冬の着物を用意した男衆の『黒川』が待ち受けていた。
無言で美冬を引き寄せると、手際よく着物を着せてゆく。
それは見事な職人の手さばきで、5分もかからずあっという間に終わってしまった。
「いつもおおきに。」
頭を下げる美冬に黒川は言った。
「大丈夫か?」
ガラガラと渋い声だけに迫力がある。
「へぇ。おかあさんは、あんじょうしてはりました。」
「そやない。美冬ちゃんや。」
「うちどすか?」
黒川は一人で祇園甲部の芸舞妓を何十人も着付るため、ほとんど言葉を話すことはない。
それが今日に限って美冬を心配するとは余程のことだと言えた。
「ここ2、3日、難しい顔しとるさかいな。」
「すんまへん。」
「毎日、ようけ芸妓や舞妓の着付けをしてるとな、すぐにわかるんや。腹が座っとらんちゅうか、帯に巻かれとるっちゅうか。」
しわくちゃな顔に柔らかな笑みが浮かぶ。
「あの、・・・ちょっと聞いてもよろしおすやろか。」
「ええよ。」
「黒川はんは、今後もずっとうちらを着付けしてくれはるんどすやろか?」
「ははははは。面白いこと聞くなぁ。」
しわくちゃな顔をさらにしわくちゃにして笑う黒川を美冬は初めて見た。
「すんまへん。コロナでお座敷ものうなって、舞妓も逢い状が少くのおすやろ?これからはいろいろ変わってしまうのやおへんやろか。」
「美冬ちゃんがそないなこと言うとはな。随分と年がいったこっちゃ。・・・ちょっと、ええか。」
そう言うと黒川は畳の上に胡坐をかいた。
「へぇ。」
美冬もその隣に正座をする。
黒川はポリポリと頬を掻いた後に話し始めた。
「そら、世の中は絶えず変わっとる。昔と一緒なんちゅうもんはない。・・・そやけど、できるだけ変わらんように文化を伝えるんが花街の務めや。ワシかてこれで食うていけんようになるかもしれんけど、それでも守り続ける責任ちゅうもんがある。そらな、死んだら知らん。・・・けど、生きてるうちはあんたらに着物を着せたる。・・・えぇか、美冬ちゃん、ようは覚悟や。それさえあったら、何にも怖ないわ。」
黒川は眩しそうに目を細めて美冬を見つめていた。
「ほんまに、おおきにどす。」
黒川の染み入る言葉に美冬は胸が温かくなった。
「おきばりやす。」
黒川はそう言って美冬の肩に優しく手を乗せると「ほな。」とたま居を出て行った。
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