おまけ『女将の追憶』

文字数 4,334文字

たま居の女将である珠美が大石会長の訃報を聞いた後、各方面へ連絡を取ったり様々な手配をしたりして気が付けば夜の11時を回っていた。
置屋を営業していれば夜中の2時、3時などは当たり前だったが4月7日の休業以来、夜の11時まで忙しいことは珍しかった。
ようやく一段落を迎え、おぶ屋のカウンターに座りふぅーっと長い息を吐く。
そしてグラスを二つテーブルに出すと、棚に置いてあったヘネシーVSOPを少しだけ注いだ。
そのボトルには所狭しと千社札が張られ、すでにヘネシーのラベルも見えなくなっていた。
ボトルにかけられたプレートには大石の名が本人の筆跡で書かれていた。
もうアルコールを口にしなくなって40年以上になる。
だが、今日だけは特別だ。
長年付き合ってきた彼に、もう二度と会うことができない。
恵美子夫人から電話を受けてからも、未だに信じられない思いがずっと胸の中に存在した。
きっと、嘘。
信じられない。
ひどい冗談。
何度も心の中で繰り返す。
半世紀、50年という年月が過ぎても初めて言葉を交わした記憶は全く色褪せていない。
こんなにはっきりと思いだせるのに、もうこの世にいないなんて・・・。

珠美が芸妓として座敷に上がっていた34歳の頃。
他の花街のおぶ屋に呼んでもらった時のことだった。
それまでにも大石のことは度々見かけており、挨拶をする程度には知っていた。
その夜はかなり人の出入りもあり、BOX席に陣取っていた大石のもとには珠美しかいなかった。
同席していたのは老舗漬物屋の平山社長。
そして一部上場企業である仕天堂の内山会長だった。
「君たちがこれからの京都を作っていかなあかん。期待しとるんやで!」
珍しく上機嫌な会長はお気に入りのパイプを振りまわして、当時は駆け出しだった大石社長と平山社長に話しかけていた。
それぞれの業種は違えど、京都を支える代表的な会社のトップがこうして顔を突き合わせるのは花街では珍しいことではなかった。
珠美は会長のグラスに新しい水割りを作ってゆく。
普段は偏屈で難しいと評判の内山会長であったが、余程嬉しいことがあったのかこの日は始終笑顔であった。
しばらくして内山会長がパイプを置いて席を立つ。
酔っているのかと思いきやしっかりとした足取りで御不浄のある方へと消え去っていった。
待ってましたとばかりに大石は平山を肘で小突く。
「おい、おまえタバコ持ってるやろ。ちょっと貸せ。」
大石はそう言うと、平山からタバコを1本受け取った。
平山から渡されたタバコの巻紙を破り、会長のパイプにタバコの葉をこれでもかとばかりに詰め込んでゆく。
「ちょっと、よしなはれ。」
珠美が窘めても大石は一向に止めない。
見かねて珠美がパイプを取り上げようと手を伸ばしながら言った。
「ええ加減に、しな」
最後まで言わせずに大石は珠美の手を取る。
ハッとする珠美にいたずらな笑顔でニコリとし、大石は手を放してしーっと唇の前で指を立てた。
そして自分のパイプのタバコの葉を取り出して、会長のパイプにカモフラージュとして詰め込んだ。
折よく会長が戻ってきて、席に座るなり大石がパイプを差し出す。
それを受け取った会長にすかさず平山がマッチの火をつけた。
「おーぉ、すまんな!」
3人が見守る中、会長がパイプを吹かし始めると・・・。
「うわっ!ぺっ!ぺっ!なんじゃこりゃ!」
酔いも醒めたとばかりに目を見開いて慌てる会長に3人は大爆笑していた。
いたずらな少年がそのまま大きくなったような大石の一面は、その後も変わることなく様々な人を魅了してゆく。
それ以後、珠美は何度となく大石から逢い状をもらい、1年後に一夜を共にすることとなった。


ふと我に返った珠美はグラスを回し、ブランデーの香りを楽しむ。
そして、舐めるようにほんの少しだけ口に含むと、椅子の背に身を預け天井を仰ぎ見た。
会う度、話す度に惹かれてゆく。
そして、身を重ねるほどその思いは強くなった。
もちろん大石が既婚であることもわかってはいたが、止められるものではなかった。
お互い忙しい身であるがゆえに会う頻度は少ないものの、お互いの考え方や感じ方は話せば話すほどお互いを高めあえるものになっていった。
煌めく恋心に珠美は我を忘れていた。
しかし、それが深い愛情に変化したのは、珠美が恵美子夫人に出会ったからだ。

大石社長主催のパーティで花街の様々な芸妓たちが呼ばれ、会場に華を添えていた。
社長と夫人は最後までお客様を送るためにバタバタとしており、珠美は陰ながらそれを支える役割を務めていた。
そして片付けが終わる頃、たまたま夫人と二人きりになった。
「お疲れ様。今日はありがとう。」と夫人は労う。
「お疲れさんどした。」珠美は平静を装いながら返事をした。
予期せぬ初めての顔合わせに珠美はかなり緊張をしていた。
引け目と羨ましさと寂しさがない交ぜになった感情。
珠美はそれを顔に出せば負けだと思っていた。
「珠美さんやね?うちの人をいつも支えてくれはって、ありがとう。」
そう言った夫人の顔は心から感謝をしているようだった。
愛人にかけるような言葉ではない。
感謝しているとどうして言えるのだろうか。
珠美はつい、口に出してしまった。
「全部、聞いてはるんどすか?」
「ええ。たまちゃん、たまちゃんって。とても気がつくんですってね。」
ほほほと朗らかに笑う夫人を見て珠美はさらに踏み込んだ。
「うちのこと、憎んではるんどすやろ?」
すると夫人は少し困った顔をして椅子に座った。
珠美にも座るように勧める。
「そうね。以前はそう思ったこともあったわ。でも、あの人に惚れるのは女性だけじゃないのよ。男性も、若い人も、年配の方も。あのやんちゃな笑顔はみんなに愛されている。独り占めできるような人ではないのよ。それに大きな責任を背負っているんだもの、みんなで支えていかなきゃ。」
恵美子夫人はそう言うと珠美の手を取り、自分の手を重ねた。
その言葉を聞き、珠美は夫人との器の差をはっきりと感じた。
この人には勝てない。
いや、勝つとか負けるなんて次元ではないと心が理解してしまっていた。
「すみませんどした。うちのこと、許しておくれやす。」
「いいのよ。・・・これからも支えてあげてね。」
夫人はそう言うと、優しく珠美の手を握り締めた。

それから珠美は大石との関係を改め、2人だけで夜を過ごすことはなくなった。
一方で夫人の手伝いに精を出した。
夫人は留学生の支援や地域のボランティア、蘭の栽培、茶道や華道をはじめとした先生方との交流や行事、また、少しの時間でも料理やお菓子を作り、会社や近所の人に配ったりもしていた。
さらにはライオンズの婦人会の世話、自宅に企業の経営者を招待する際の接待や様々なイベントの援助など、夫人は一体、いつ寝ているのだろうと思う程に日々、多くのことをこなしていた。
夫人との仲が深まるにつれ、大石会長の珠美に対する信頼は大きくなっていった。
そんな夫人が、大石の訃報を知らせる電話を切る前に、つい心から零れ出てしまった言葉。
「もう、触れることすらできないの。」
その言葉に珠美は返す言葉を持たなかった。



ブランデーを手に持ち、天井を眺めていた珠美の頬に一筋の涙の跡が光っていた。
なぜだろう。
天井がぼやけてくる。
まだあの人の死を受け入れたわけではないのに。
ハンカチを取り出そうと懐に手をやると、小さな固いものが指先に触れた。
大石会長がくれた龍の形をした翡翠の根付だ。

「たまちゃん、大丈夫か!」
血相を変えて大石が病室に飛び込んできた。
珠美は踊りの稽古の後、夏季恒例のビアガーデンの準備をしていたのだが、椅子を運ぼうと持ち上げた途端に眩暈を起こし、意識を失って倒れてしまった。
会場にいた他の芸妓や舞子達が慌てて救急車を手配してくれたらしい。
念のために行った検査でお腹の中にドッヂボール程の大きさの子宮筋腫が発覚した。
付き添ってくれた芸妓が翌日に緊急手術を行うことを目を覚ましたばかりの珠美に教えてくれた。
芸妓に礼を言い、帰ってもらったその約1時間後に、こうして大石が駆け付けたのだ。
きっとたま居のおかあさんが連絡をしてくれたのだろう。
息せき切って呼吸もままならない大石がおかしくて、珠美はつい笑ってしまった。
「大丈夫どすがな。ちょっと眩暈しただけどす。」
しかし、大石は真剣な表情を崩さない。
「絶対に、諦めたらあかん。」
その言葉から、珠美の状態を詳しく聞いたことが推察できた。
きっとたま居のお母さんが話してくれたのだろう。
「そんな大げさな。」
珠美はあまりにも急すぎて自分でも信じられなかった。
そして、大石の真剣な顔に思わずふふふと笑ってしまう。
すると大石は珠美の手を取り、武骨な両手で優しく包み込んだ。
「俺も、お母ちゃんも珠美が必要なんや。」
大石は普段、妻の恵美子夫人のことを『お母ちゃん』と呼んでいた。
「まぁ、なんて人!」
これでもまだ、あんたの女なんやけど。と珠美は内心で思う。
いや、明日行われる子宮全摘出の手術で女ではなくなってしまうのか。
それどころか、これが最後になるのかもしれない。
それでもあまりに急すぎて、何だか夢を見ているような現実感のなさだった。
「そや、これを渡しとくわ。」
そう言って、大石は財布につけていた根付を珠美に握らせた。
「これはわしの家に伝わる翡翠の根付や。江戸時代のもんらしい。・・・運を呼び寄せる龍でな。わしも何べんも助けてもろうた。・・・その運を手にできるかどうかは自分次第なんやけどな。だから、これをたまちゃんに預けとく。」
「そんな!そんな大事なもんあかしま」
「そやから!・・・そやから、後でちゃんと返してくれ。・・・ええな。」
「・・・はい。おおきに。」
あぁ、やっぱり今でもこの人を好きや。
改めて珠美はそう思った。

その翌日、4時間に及ぶ子宮の全摘出手術は成功し、1週間の経過観察の後に退院となった。
珠美は手術の成否によらず、この時に芸妓をやめることを決意していた。
退院後、たま居のおかあさんにそう告げると、「自分も年だから、あんたにこの『たま居』を任せたい」と逆に頼まれてしまった。
一人の芸妓であった自分が置屋の経営だなんてと、正直迷ったものだ。
しかし、大石の勧めもあって女将を引き受け、すでに40年の月日が流れていた。
あれから何度も大石に根付を返そうとしたが、「後でや、あとで。」といつも笑ってそう言っていた。
そしてその後に「俺は死ぬんなら桜の季節がええ。桜の花のように潔く散りたい。」と続けた。

折しも亡くなったのは4月21日。
遅咲きのしだれ桜が満開でその言葉通りに大石は息を引き取った。
「死に顔すら見せへんやなんて、潔よすぎやわ。」
珠美はひとり呟く。
身を切られるような心の痛みとともに珠美は一晩中、涙を流し続けた。
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