4月

文字数 8,204文字

4月

「美冬ねぇさん、お稽古もお店も休みどすし、うち、富山の実家に帰りますよって。・・・美春ねぇさんはどうしはるんどす?」
営業自粛開始の翌日である4月8日の朝、美冬のもとに鏡台磨きに来ていた美紗はそう言った。
「そうやなぁ、いつまで自粛が続くんかも見えへんし、うちも帰ろかな。」
「確か、美春ちゃんは神戸とちごた?」
朝食の用意を終えた美冬はエプロンを外しながら聞いた。
「そうどす。元町の方どすねん。」
「わぁー!確か中華街近いんとちゃいますのん?行ってみたいわぁ!」
美紗は目をキラキラとさせている。
「今度、ご贔屓さんとご飯食べに行ったらええやないの。」
「そんなん、コロナでいつになるかわからしません。」
美春の言葉に美紗はつい唇を尖らせる。
「ほな、おかあさんに頼んどきよし。ねぇ、美冬ねぇさん。」
「そうやねぇ。」
美冬は苦笑しながら応えた。
「今度ゆうときますよって。・・・美冬ねぇさんは実家へ帰らはらへんのどすか?」
「うーん。」
珍しく歯切れの悪い返事に美春と美紗は顔を見合わせた。

美冬の実家は京都の下鴨にある。
いつでも帰れる距離にはあるのだが、今まで正月の元旦以外に帰ることはなかった。
美冬がこの世界に入る時、父に猛反対されたのだ。
「平岡の娘が水商売なんぞ、あかん!絶対に認めへん!」
あんなに激怒した父を見たのは生れて初めてだった。
反対を押し切り、逃げるように置屋へ身を移した美冬にとって、父のいる実家はずっと帰り辛い場所であった。
たま居の女将に言われ、正月の元旦だけは帰ってはいたものの、あまり顔を合わせないように初詣に出かけたりしてまともに話すこともなかった。
父もいつも無口で、だからこそ余計に居心地がよくなかったこともある。
だが美紗の言うようにお店は休業、お稽古も当面は自粛ということもあり、ぽっかりと空いた時間をずっと一人で過ごすのは持て余しそうだ。
実家の母も気にかかる。
仕方ない、帰ろう。心の中で美冬はそう決めた。

「ただいま。」
父が仕事で実家にいない昼間を狙って美冬は帰宅した。
春らしい陽気だったので、ジーンズに白いニットのセーターとピンクのカーディガンを羽織ったカジュアルな感じで、スーツケースに着替えなどを詰め込んで帰ってきた。
「おかえりー!」
母の佑子は嬉しそうに娘の荷物を受け取ると聞いた。
「ね、お昼食べた?」
「ん、まだ。」
「鯛ちらし、食べる?和久傳の。」
「食べる!」
好物のお弁当ともなれば一気に気分が切り替わる。
自分の現金さに半ば呆れて苦笑しながら手を洗った後、キッチンにある折箱を見つけるとそれを持ってリビングへと移動した。
お弁当は二段の『かさね』で、昆布締めした薄切りの鯛の刺身を並べた鯛ちらしの段と、子芋や南瓜などの炊きものなどが入った段に分かれている。
透き通る鯛の身とご飯を一口食べた。
しっとりとした鯛の食感に昆布のうまみがじわっと広がり、ご飯の仄かな甘みとハーモニーを奏でる。
「やっぱり美味しいわ。」
美冬は幸せな気持ちに包まれた。
美冬の部屋に荷物を置いた後、温かいお茶を入れてきた母は美味しそうに食べる美冬を眺めていた。
「それ、お父さんが頼んでくれはったんやで。」
食べ終わりお茶をすする美冬に母はそう言った。
「え?お父さんが?」
「昨日にあんたが返ってくるゆうさかい、お父さんがわざわざ電話で頼んでくれはってな。」
「ふーん。」
父がたまたま注文した弁当が自分の好物だったことを少し疑問には思ったが、美冬はさらりと流してしまった。
「さ、ほな、ちょっとお母さんは買いもん行ってくるさかい。」
「うん。」
「あ、今、裏に庭師さん来てもうてるさかい、終わったらお茶出してや。冷蔵庫に『ふたば』の桜餅入ってるし。」
庭を振り返ると職人らしき人が梯子を上っていた。
「うちも、もうてええ?」
「ちゃんと買うたあるさかい。ほな、頼むえ。」
そう言うと母はマスクをして出かけて行った。

美冬は久しぶりに自分の部屋に入る。
年に一度しか返ってこない自分の部屋。
しかし母はいつでも帰ってこれるように綺麗にしてくれていた。
中学生の時に好きだったドリカムのCDも、集めていたキティちゃんグッズも、クローゼットの洋服までもが当時のままだ。
まるで時間が止まっているような部屋は、ある意味で母の心の中の美冬を表しているのかもしれない。
大切にされている感覚が嬉しくもあり、少し申し訳なくも感じる。
コロナで実家に帰ることになるなんて想像もしていなかっただけに、何だか自分が自分でないような不思議な気持ちだった。
ふぅ。ため息をついてごろりとベッドに横になる。
ふわりとお日様の香りが美冬を包んだ。


「すいませーん。終わりました。」
男性の声が玄関からしたので、美冬はお茶と桜餅をお盆にのせて向かった。
「はーい。ご苦労はんどす。」と言いながら職人の顔を見る。
「けーちゃん?」
職人は三村佳介という美冬の幼馴染だった。
「真由美ちゃん?」
佳介も驚いて声を上げる。
美冬というのは源氏名であり、本名は平岡真由美という。
同い年で同じ1月の生まれということもあり、すぐ近所に住む佳介とは毎日顔を合わせていた程の間柄だった。
「久しぶりやわぁ。元気?」
「お、おぉ。・・・珍しいな。帰ってきとったんか。」
佳介は汗を拭いて応えた。
「そんなとこ立ってんと、まぁお座りやす。あったかいお茶と和菓子あるさかい。」
「おおきに。」
「あ、うちも桜餅持ってこよ。」
美冬が台所から引き返してくるまでの間に佳介は上り口に腰を下ろし、一口お茶をすすった。
ほうじ茶の香ばしい香りがすぅっと喉を通ってゆく。
「朝から来てたん?」
戻ってきた美冬が尋ねる。
「いや、昼前からやな。今日はちょっと枝先を揃えに来ただけやさかい。」
佳介はそう言うと桜餅を一口でたいらげた。
美冬はそっと桜の葉を取ってから食べ始めた。
「真由美ちゃんは昔から桜の葉っぱ剥いてたな。」
「これが普通やん。うちはみんなそうやで。」
「皮ごと食べた方が美味しいやん。この大島桜の香りがより一層ふぁーっと口の中に広がって・・・。」
「皮だけ食感が違うやん。ってこれ、小学校の時もあんたにゆうたやろ。ほんまに小学生のまんまやな。」
同級生との会話は特別で、一瞬にして何十年と時間が巻き戻る。
中学を卒業してすぐに花街に入った美冬にとって、他人との会話は気の休まるものではなかった。
厳しい先輩や女将の顔色を窺い、また同僚とて陰口や妬みの対象にならないようにと気を付ける必要もあった。
さらにお得意様は経営者や上流階級の人が多いため普段以上に気を遣う。
しかし同級生、しかも幼馴染との会話ともなると、駆け引きのない心休まる時間がそこに存在した。
一生懸命作った泥団子の話。
わけのわからないキラキラと光る丸い石や牛乳瓶の蓋のコレクション。
放課後に遊んだ鬼ごっこや一輪車。
佳介が大切にしていた大きなビー玉。
何でもない話が延々と湧き出し、尽きることがなかった。

「もう20年になるねんな。」
懐かしい思い出に美冬は遠い目をする。
「真由美ちゃんは変わったよ。」
ぽつりと佳介が言った。
「うち?変わってへんよ?」
「・・・めっちゃ、綺麗になった。」
「・・・おおきに。」
美冬は少し照れて笑う。
その笑顔に佳介はしばらく見とれていた。
「・・・付きおうてる人、いてんの?」
「いてたらまだ芸妓なんかしてますかいな。」
ふふふと美冬は笑った。
「・・・よかったら、飯でも行かへんか?」
佳介は思い切って誘ってみた。
「へぇ、おおきに。」
美冬は自然にそう答えていた。
お茶屋の座敷で誘われた時のように。
佳介は瞬時にその凍りつくような雰囲気と拒否の壁を理解し、慌てて立ち上がった。
「ごめん!そんなつもりやなかったんや。」
佳介はそう言うと頭を下げて出て行こうとした。
生粋の京都人は『おおきに』の雰囲気と温度を一瞬にして感じ取る。
「けーちゃん。」
美冬がその背に声をかけた。
「うち、まだもらったビー玉、持ってるで。」
美冬の言葉に振り返った佳介は少し照れたように笑うと、もう一度頭を下げて玄関を後にした。


挨拶の手紙。
現在ではメールの方が便利だとか、経済的だとかスピーディだとか言われるが、美冬は葉書や手紙はとても大切なものだと思っていた。
お店やお稽古先は自粛で休みでも、普段の挨拶状はやはり手書きの葉書や手紙がいい。
例え季節の挨拶文であっても、相手の顔を思い浮かべながら書くと筆の動きも変わってくる。
それが相手の心に届く手紙だ。
「出した」ではなく、心に届かなければ意味がない。
日ごろの感謝を込めて挨拶を書くので返事はなくてもかまわない。
いつもありがとうございます。
元気に過ごしております。
一方通行だからこその心のやり取り。
お店や稽古先は休みでも、先生やお得意様に挨拶状を書いていた。
「お茶のランディ先生に長唄の三好先生。三味線の桜田先生に踊りの井上先生・・・。あとは大石理事長と早川専務理事と・・・。」
次々に机の上が葉書や手紙で覆いつくされてゆく。
2時間ほどしてようやく終わったところで時計は21時半を指していた。
本来ならばお座敷の最中の時間である。
コロナのおかげで今までにないゆったりとした時間を持てたことは、美冬の気持ちを柔らかくしていた。
「あ、切手買わな。」
ふと思い立ち、薄水色のカーディガンを羽織って玄関へ向かう。
「どっかいくの?」
母が歯を磨きながら台所から出てきた。
「切手買いにコンビニに行ってくるわ。」
「マスク忘れんときや。」
その母の言葉に慌てて玄関に置いてあった不織布マスクを箱から取り出して家を出た。

花冷えのする京都の夜。
もともと観光客の少ない洛北の下鴨は人影もまばらだ。
コロナ以前とそう変わらない、高級住宅地ならではのゆったりとした時間が流れていた。
表通りにあるコンビニに入ると外の闇から切り離されたように世界が変わった。
美冬はいつも、ついついスイーツのコーナーに吸い寄せられてしまう。
ふわふわロールケーキにゼリー、ティラミスにシュークリーム。
ほとんど見るだけなのだが十分に幸せな気持ちになれた。
舞妓時代には入ることのできなかったコンビニはキラキラな魅力にあふれている。
とりあえずざっと目を通してレジへと向かった。
学生らしき女性の店員が「いらっしゃいませ!」とマスク越しに笑顔をくれる。
「すみません、84円切手を56枚ほど欲しいんですが・・・。」
「え?5枚ですか?」
「すみません、56枚ほど。」
「ちょ、ちょっとお待ちください、数えますので!」
わたわたと切手シートを取り出して店員は必死に数え始めた。
慣れない手つきで数えているためか、しばらく時間がかかりそうだ。
「へぇ、珍しいな。」
美冬の後ろから男の声がした。
慌てて振り返ると佳介が佇んでいる。
店員の様子を見てニヤリと笑い、佳介はマスク越しに言った。
「何や、学生いじめたらあかんで。」
「いややわ、人聞きの悪いこと言わんといて。」
美冬は眉をひそめて言い返す。
そしてふと、佳介の手にプリンとカフェラテがあるのを見つけた。
「けーちゃんはこんな時間にプリン?」
「えぇやん。プリン、うまいぞ。」佳介は開き直って応える。
その時、店員が美冬に声をかけた。
「あのぉ、43枚しかないんですけど。」
「ほな、それ全部おくれやす。」
美冬の柔らかい声に店員は少しほっとしたようだった。

会計を済ませ家路についていると佳介が走って追いかけてきた。
「ちょっと疏水の桜、見に行かへんか?」
その声に美冬は無言のまま考える。
「嫌やったら無理言わへんけど。」
ガサリと佳介の持つコンビニの袋が音を立てた。
「プリンくれたらいいよ。」
「あ、・・・うん。」
佳介は一瞬固まった後、袋からプリンを取り出した。
「冗談どすがな。」
ふふふと笑って美冬は疎水へと足を向ける。
佳介もプリンを手にしたまま並んで歩きだした。

松ヶ崎疏水(通称:疏水)は、高野川の西岸にある松ヶ崎浄水場と植物園の南の区間で、賀茂川と結ぶ白川疎水通りに沿い約1キロにわたり流れている。
疏水沿いにはたくさんの桜が植樹されており、地元の人しか知らない桜スポットでもあった。
満開を過ぎたソメイヨシノはすでに散ってきていたが、それでもまだかなりの桜が咲いていた。
疏水沿いの道路には桜の花びらがたくさん散っており、街灯に照らされたそれはさながら白い大理石のようにも思える。
「久ぶりやけど、やっぱり綺麗やわ。」
桜の時期に実家に帰ることなどまずなかったため、もう20年ぶりだった。
「咲き始めもいいけど、今頃の方が俺は好きやねん。」
2人は無言でそぞろ歩き、橋の低い欄干に腰を下ろした。
「中学校の頃、一緒のクラスやった中川って覚えてる?」
「さっちゃん?」
「そうそう。医者と結婚したんやって。」
「へぇ。」
「あと、坂本は今度3人目と結婚するらしい。」
「あぁ、そうなんや。」
名前を聞くと懐かしい感じはするが、芸舞妓として過ごした年月の方が長くなった今、なんだか遠い世界の話のように聞こえた。
「すごいな、真由美ちゃんは。」
ふいに佳介が言う。
「何が?」
「自分の夢に向かって一直線。伝統芸能を体現する立派な芸妓はんやん。」
「けーちゃんかて立派な庭師はんやろ?」
「立派かどうかは知らんけど、今まで必死に勉強してきたわ。」
「そら、みんな同じどす。」
「ははは。そうかな。・・・でも、何となく今までとは違う感じやねん。」
佳介は少し眉をひそめた。
「コロナのこと?」
「うーん、それもそうやけど、何というか社会の流れというか、ものの考え方というか・・・。」
「へぇ。」
「今までとは違って大きく変わろうとしてる感じ。だから今までみたいに勉強してるだけやったら取り残されて、潰れてしまうんちゃうかなって。」
佳介は真剣な顔で話していた。
その顔を見て美冬は中学の卒業式のことを思い出す。
あの時も佳介は同じような顔をしていた。
「あんた、最後に会うた日のことを覚えてる?」
美冬の言葉に佳介はハッと我に返り、気まずい表情を浮かべた。
「覚えてる。」
3月の卒業式の日、佳介は美冬に告白をしたのだった。
「別の世界に行ったとしても俺はずっと待ってるからな。」
好きだとも、付き合ってほしいとも違う言葉。
お互いに淡い思いを持っていたが、違う世界での生活に追われ何時しかその思いも忘れてしまっていた。
「けーちゃんはあの時から変わってへんなぁ。」
美冬はくすっと笑った。
「俺は変わらん。」
佳介はそう言うとカフェラテにストローを突き刺した。
それからしばらくの間、2人は無言で桜を見上げていた。
音もなく散る桜は薄明かりの中でも美しい。
「さ、ぼちぼちお暇しますよって。」
「あ、送ってくわ。」
「かましまへん。」そう言って美冬は歩きだした。
「おい!・・・ほんまにプリンいらんのか?」
追いかけてくる佳介の声に笑いをこらえ、美冬は背中を向けたまま手を振った。


「何とご覧ください!ドラッグストアーの前には長蛇の列ができています。
みなさん、マスクを求めて朝早くから並んでおられます!」
女性のレポーターが絶叫していた。
テレビのワイドショーで見た映像は驚きの光景だった。
普段テレビは見ない美冬であったが、たまたま母がつけていたのを何となく眺めていたのだ。
先日トイレットペーパーが無くなるというデマの行列があったばかりのはずだったが、またしても行列を作って並ぶ人の姿は滑稽なようで切実でもあった。
「ひょっとして、うちの近所のドラッグストアーでも売り切れなん?」
母に聞いてみる。
「無いよ。」
コーヒーをすすりながら母はそっけなく答えた。
「えー。うち、予備買ってへんのに。」
「一箱あげるやん。」
「え?いいの?」
「いいよ。そこそこ買っといたから。」
「ありがとう。」
今は何とか凌げるかもしれない。
でも、このままずっと品薄が続くのだとしたら・・・。
何か替わりのものを探さないと。
「あ、そういえば、ガーゼのマスクって昔あったやんな?」
同じことを思っていたのか、母がそう聞いてきた。
「あ、そっか!自分でマスク作ればええんやん!」
美冬はそう言うとスマホでマスクの作り方を調べる。
「材料はガーゼでなくてもいいみたい。」
「それやったらあんたの浴衣会の浴衣、ようけ預かってるさかいにあれ使いよし。」
「それいいやん!」
浴衣会は芸舞妓らが浴衣姿で舞いや演奏を披露する会であり、2011年ごろから行われてきた。
毎年違うデザインの浴衣は長唄や清元さん等の提供で参加する芸舞妓に配られる。
美冬は毎年参加しており、その浴衣もかなりの数に上っていた。
それを実家に預けていたのだ。
こうして美冬のマスク作りが始まった。
その翌日、先輩の芸妓である先斗町の市華ねぇさんより電話があった。
電話でお互いの無事を喜んだ後、市華は美冬と同じようにマスクを作っているという。
京都市に寄贈するつもりとのことだった。
「出来上がりましたら市華ねぇさんの所に持って上がりますよって。」と美冬は言う。
「美冬ちゃん、ありがとうさん。うちらもちょっとは役に立ちたいやんかいさ。」
久しぶりに聞く市華ねぇさんの声は元気に満ち溢れていた。


その1週間後の4月21日。
美冬の携帯にたま居の女将であるおかあさんから電話がかかった。
「大石理事長が亡くならはった。コロナやさかいに葬式も身内だけで言ぅ話やさかいな。」
「はい。」
「財団もほんまは追悼式とか考えてはるんやろうけど、コロナでできるかどうかもわからんし、うちらにできることは悲しいけどなんもあらへん。」
「はい。」
「ほな、他にも電話しんならんよって堪忍え。」
「おかあさん、電話くれはってありがとうさんどす。」
電話を切った美冬はしばらく身動きすらできずにいた。
まさかという思いと、信じられないという思いが綯交ぜになり、ただ呆然とするしかできなかった。
美冬にとって、とても大きな存在。
すぐに理事長との思い出が蘇ってきた。

**********

その夜はお茶屋『近衛山』での座敷の後、たま居のおぶ屋『翠雲』に場所を移して盛り上がっていた。
大石理事長は非常に話し上手で人を楽しませるのがうまい。
一緒に飲んでいたIT企業の川内社長も終始笑顔であった。
すると、まだ11時過ぎにもかかわらず理事長は席を立った。
「ちょっと御不浄いってくるわ。美冬ちゃん、車呼んどいてくれるか。」
その言葉を聞いた川内社長が驚いた。
「理事長、まだいいじゃないですか。美冬ちゃん、ふく豆ちゃん、もう一軒行こうよ。」
「あほう。」
そう言って理事長は川内社長を見下ろした。
「日の変わらんうちに手仕舞すんのが遊び上手ゆうもんや。美冬ちゃん、頼むで。」
有無を言わさずトイレへと向かう。
美冬はおぶ屋のママである志保に車の手配を頼むと、理事長を見送るために表に出た。
雪こそ降りはしていないが吐く息は白く、京都独特の底冷えの寒さが身を包む。
しばらく待っていると理事長が一人で顔を見せた。
「もうじき来よるさかい、ちょっと待ったってや。」
「へぇ。」
「そう言えば美冬ちゃん襟替えやな。どうや、立方(たちかた)か地方(じかた)か決めたんか?」
「うちは・・・梅ひなちゃんみたいに華はありませんよって、地方にしようか思てます。」
美冬の言葉に理事長は長い息を吐いて、呟いた。
「勿体ないな。」
「え?」
「・・・えぇか。華のある子はいわゆるカリスマや。人目も引くし人気もある。けど、艶のある子は天性や。踊りには華もええが、艶のある子は少ない。美冬ちゃんにはそれがある。辛いし、大変やろうけど、両方頑張ってみぃ。」
その理事長の言葉に美冬は勇気を与えてもらった。

**********

それから踊りの立方と、三味線などの演奏をする地方の両方を人の何倍も努力して磨いてきたのだ。
美冬だけではない。
多くの芸舞妓は理事長から勇気と希望をもらっていた。
花街にとってとても大きく、大切な存在を亡くしてしまった。
夕暮れに染まる部屋で美冬は静かに涙した。

その後、4月24日においでやす財団は花街の芸舞妓254人に1人あたり10万円の助成金を各歌舞会に支給することを決めた。
そのすぐ3日後、先斗町の市華ねぇさんが京都市にマスクを寄贈。
京都市長にマスクを手渡す瞬間は京都新聞にも掲載されていた。
そして同日に『都の賑わい』京都五花街合同公演中止が発表された。
クライマックスに行われる『舞妓の賑わい』は五花街各4名が選ばれて20名が舞台で踊る。
その中には美春も含まれる予定であった。
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