6月

文字数 9,416文字

京都市内のお茶屋・置屋は6月1日より営業を再開した。
再開に向けてのガイドラインは五花街でつくる「京都花街組合連合会」がまとめ、5月29日の会合で了承した。
美冬たちの想像通りお茶屋などの宴席では換気を徹底し、客同士ならびに芸舞妓の間隔を1~2メートル確保。
芸舞妓にマスクの着用はなく、お酌の際に会話は控えることとなった。
返杯や回し飲みはせず、杯洗(やりとりする杯を洗う器)も使用しない。
おもてなしを「主に歓談と芸事の披露」と定義。
衝立越しにジェスチャーでじゃんけん遊びをする「とらとら」や、軽妙な歌のリズムに乗せた「金比羅船々(こんぴらふねふね)」など、宴席を盛り上げる「お座敷遊び」については行わないという。
また、料亭やホテルへの芸舞妓の派遣は、主催者が出席者全員の身元を把握していることを条件とした。
客との「ご飯食べ」(食事会)についても、原則的にお茶屋か花街関係者が経営する店に限定することとした。
北海道、首都圏からの客の受け入れは当面見合わせる。
連合会の門田会長(祇園甲部)は「健康を最優先に考え、感染拡大防止策を徹底する。これまで通りのおもてなしを今すぐはできないが、今できる最大限のことから始めたい」と話した。
自粛ムードの中、お客様の予約がゼロである日も珍しくはなかった。
そして6月10日。
例年では10月から11月にかけて花街で行われる秋の踊りの会はすべて中止と発表された。

「このまま行ったら中止やな。」
たま居のおぶ屋『翠雲』のカウンターでグラスを傾けていた客が言った。
カウンターは透明のアクリル板で仕切られ、まるでキープしてあるボトルのように所々に千社札が張られていた。
「今年は何もかもが中止どすし、何のことどすのん?」
美冬はそう言いながらカウンターの内側からアクリル板を少し開け、小松菜とお揚げさんの炊いたんが入った小鉢を客の前に置いた。
「送り火やがな。」
「そうどしたか。」
「この間、保存会の理事長と話したんやけど、難しいてゆうとったわ。この分やと『六道さん』も難しいんとちゃうか。」
「まぁ、・・・ゆうても詮無いことどすしなぁ。今年はどこも無理と違いますか。」
ふと美冬は佳介のことを思い出した。
確か毎年、送り火の『妙』の保存会で世話役をしていたはずだ。

その翌日、美冬は佳介に電話をした。
「送り火、難しそうやって?」
「ああ。理事長の神崎さんが、『無理に実施して観光客からクラスターが出たら責任持てん』て
な。それに、うちの会はメンバーが自分で薪を用意して山の上まで持って上がらんならん。地方から帰省した子供やら孫が今までは運んでたんやけど、今年はコロナで帰省せんゆうて、それもでけん。今、必死で保存会のメンバーの家回ってるんやけど、渋い声ばっかりやわ。」
「大変やなぁ。」
「でも、絶対に諦めるわけにはいかん。初盆を迎える人もようけいてはるし、お精霊(しょらい)さんと送り火は、京都人の心の拠り所や。これからもう一回、薪は俺が運ぶから何とか考え直してくれ言ぅて1軒1軒、説得に回るわ。」
それを聞いた美冬は、きっとそれだけでは難しいであろうことを予見した。
「けーちゃん、うちも手伝うわ。」
「え?ええよ。これは俺が・・・」
「ちゃう。あんたのやり方だけではあかんの。」
「なんでやねん。」
「とにかく、保存会の奥さんの情報を集めて。好きなもんとか、子供ができたとか、手術したとか、片っ端から全部やで。今日は用事あるけど、明日あんたのとこ行くさかい。それまで動いたらあかんよ。わかった?」
「あ、おう。わかった。」
佳介は戸惑いながらも返事をした。

その翌日。
「北山通りの近藤さんの奥さんは、この間ステンドグラスの展示会で賞もらわはったんやて。ご主人と仏具屋さんしてはってな。子供さんはもう独立してはる。うちの3軒隣りの永井さんは中学校の先生。奥さんは半年ほど前に西陣の織屋さんを退職しはった人や。趣味はガーデニング。あと岩田さんは代々の農家。三条の方にあるイタリアンレストランとかに野菜を卸してはる。奥さんは水泳選手やったんやて。料理がうまいらしいんやわ。・・・なぁ、ほんまにこんなんでええんか?」
佳介は保存会のメンバー表を見ながら美冬に言った。
「ええから、続けて。」
美冬は熱心に細々としたメモを書いている。
さらに18人程のメンバーの説明を佳介から聞き、メモを睨みながら考えていた。
「こんなん、役に立つんか?」
たまりかねて佳介が問う。
「けーちゃん、保存会の運営してるんはご主人方やろうけど、裏方を支えてんのは奥さん方や。当日だけやのうて準備の時のご飯の用意やら、清掃の後片付け、送り火の後の慰労会の準備とか細々としたことを全部やってんにゃで。男は理屈で動くけど、女は共感。奥さん方の協力がないと何も動かへんのよ。」
「そんなもんか?」
「そんなもん。」
「あと、理事長の神崎さんやけどな・・・。」
「うん。」
「奥さんが去年亡くならはって、じいさんとばあさん、小学校3年の娘さんとで暮らしてはる。初盆やさかいな。ほんまは、一番きちんと送ってあげたいはずなんや。」
「そっか。」
それからしばらく美冬はリストやメモに目を通しては何やら呟いていた。
「けーちゃん。これから言うもん用意してくれる?トラパニの塩と和傘、栗のはちみつ、玉井パンのクリームパン。それから・・・。」
「ちょ、ちょっと待って!トラ・・・何?」
「あーもう。そしたらメモに書いとくし。残りはうちが用意するさかい。」
「お、おおきに。」
「ほな、明日の11時にここに来るさかい、3時まで回れるだけ回ろう。」
「え?俺一人で行くよ?」
「もちろん、あんたは来なあかん。けど、うちも一緒に行くさかい。」
「ええよ、そんなん。」
佳介は何か勘違いをしているようだ。
自分が信頼されていないと思っているのかもしれない。
そこで美冬は一歩踏み込んだ。
「んじゃ、誰にどうやって何を渡すかわかってる?」
「・・・。」
「ほな、明日。」
「・・・はい。」


それから10日間、2人は保存会のメンバーの家を駆けずり回った。
美冬は心からいろんな人の話を聞き、時にはおばあさんの話相手になり、時には料理のレシピを教え、そして時には芸妓『美冬』として舞妓グッズを届けたりと、一生懸命に動いた。
美冬の熱意は奥さん方にも伝わり、それが小さな波を生み出す。
もちろん佳介の熱意もあり、1軒ずつ時間をかけながら賛成を取り纏めることができた。
そして最後の関門である理事長の家で2人は話をしていた。
「三宅さん、岩田さん、中村さんをはじめ、理事の方も保存会のメンバーの方も『規模縮小なら』ということで認めてもらえました。」
佳介は理事長にそう報告をした。
ふぅ、と理事長は深いため息をついた。
「佳介君、ありがとうな。」
しみじみと、また少し疲れた声で理事長は言った。
「大文字や他の保存会にも話をして、何とかできるように掛け合うてみるさかい。」
その言葉に美冬と佳介は少し涙ぐんでしまった。
「ありがとうございます。」
理事長は2人と少し打ち合わせをした後、わざわざ玄関まで見送りに出てきてくれた。
「佳介君。」
「はい。」
「この人を大事にせんといかんで。」
「え?彼女は幼馴染で・・・。」
「ええから。」
慌てる佳介の肩に手を置き、理事長は美冬に頭を下げた。
「こいつを頼んます。」
美冬は苦笑しつつも、頭を下げることしかできなかった。


6月24日。
お盆を前に先祖の霊を迎える『六道参り』で有名な六道珍皇寺は、例年通りのお盆行事を中止することを発表した。
故人の名を記した水塔婆の申し込みはインターネットで受け付け寺で回向。
精霊が宿るとされるコウヤマキの枝もネットで申し込んだ人に宅配で送ることになった。
ただ初盆を迎える家については「精霊が初めての里帰りで迷わないように必ず六道珍皇寺にお参りする」との習わしがあることから、初盆の新仏を迎える家に限って参拝を受け付けることになった。
先祖の霊を呼び戻す『迎え鐘』を突いて水塔婆を納めた後、高野槙を自宅に持って帰って先祖の霊を迎えるのが習わしだ。
毎年、五条坂で行われる陶器祭りと同じ8月7~10日に行われ、期間中は迎え鐘の前などに数百メートルの行列ができる。
炎天下での行列は毎年大変だったが、京都人の中にそれを嫌がるものは誰一人としていない。
この中止を受け、京都人の間に『送り火も中止になる可能性が高い』という感覚が芽生える。
それほど『六道参り』と『送り火』はワンセットのお盆行事と認識されていた。

そしてその3日後。
6月27日に『送り火』は規模縮小ながらも何とか開催すると発表された。
大の字は6つの明かり火を点火。
船、左大文字は1つ。鳥居は2つ。
そして妙法はそれぞれ1つずつ点火を行うことになった。
京都の夏はこの送り火で締めくくられる。
この発表に多くの京都人は安堵した。
「美冬さん、ちょっとよろしやろか。」
この日、三味線の師匠から電話があった。
「歌舞伎の時之助さんが地方(じかた)の人を探してはってな。美冬ちゃんのことを話したら稽古で弾いてもらいたい言わはんのんや。大丈夫か?」
「ほんまどすか!お願いします!」
歌舞伎役者との練習など願っても叶うものではない。
師匠が美冬を押してくれたことにとても感謝するとともに、自分の演奏が認めてもらえたことがとても嬉しかった。
苦労して地方の修行をしてきた甲斐がある。
その夜は嬉しくてなかなか眠ることができなかった。


数日後、美冬の携帯に佳介からお礼の連絡があった。
今回の協力のお礼がしたいというのだ。
そこで一度行ってみたかった『右近太郎』というお店を予約してほしいと頼んだ。
美冬の先輩芸妓が嫁いで女将となっているため、ご飯食べもこの店なら許される。
その前におぶ屋『翠雲』で待ち合わせることにした。
現在改修中の祇園甲部歌舞練場の近くにあり、たま居の芸舞妓と話すことのできるバーだ。
表札などもなく看板も掲げていないため、通りすがりの一般人は絶対に入ってくることはない。
だた表には掌に乗るほどの大きさの、エメラルドのように美しい翠色の白磁で作られた竜が吊り下げられていた。

「あの、平岡さんから言われてきました三村ですが。」
佳介は恐る恐る翠雲の扉を開けた。
「お越しやす。」
ママである志保がカウンターの一角に案内する。
京都人と言えどお茶屋やおぶ屋に出入りする者はほとんどない。
もちろん佳介も初めてなので、正直なところドキドキしていた。
「真由美はちょっと遅れてくるさかい、ちょっと座って飲んでてゆうてましたわ。」
「すみません。僕は飲めませんので、ウーロン茶でもよろしいですか?」
その言葉に志保は小声で佳介に言った。
「あの子のボトルがあるさかい、気にせんでもええよ。」
「すんません。ほんまに飲めへんのですわ。」
顔を真っ赤にして言う佳介に志保はふふふと笑う。
佳介は少し座りなおしてお店を見回した。
葉巻をゆったりと燻らせる男性が2人カウンターの端にいる他は客の姿はなかった。
しっとりとした土壁に一輪挿しの花瓶がかけられており、大きな白い花が咲いていた。
「タイサンボクですね?」
ウーロン茶を持ってきた志保に尋ねる。
「よう、わからはりますなぁ。」
「木蓮は花が大きいさかい、すぐにわかります。」
「優しい香りがええ感じどっしゃろ?」
冷たいグラスに口をつけて佳介は言った。
「ええ。そうですね。」
「お花屋さんどすか?」
「いえ、庭師の勉強をさしてもろてます。」
「あら、失礼いたしました。」
「お気になさらずに。」
志保はにこりと笑いかけ、カウンターの中へと戻ってゆく。
花の話ができたことで少しずつ緊張が解けてゆき、佳介はこの雰囲気をゆったりと楽しむことができた。

しばらくして扉が開き、艶やかな着物を着た白塗りの芸妓が入ってくる。
「お!美冬ちゃん、久しぶりやな!」
葉巻を吸っていた男性の一人が声をかけた。
「あら、三上はん。平川はん。お久しゅう。」
「新しボトル入れるさかい、こっちこっち。」
そう言って空いている席に手招きをする。
「すんまへん。今日は先約がありますよって。」
にこやかに笑い、美冬は佳介の横へ行き頭を下げた。
「えらいすんまへんどす。お待っとうさんどした。」
「真由美ちゃん?」
佳介は小声で尋ねた。
「ほな、行きまひょ。」
美冬は佳介の手を取ると志保に軽く頷いた。
志保もそれに応えて手を上げると2人は翠雲を後にした。
「えらい、ご執心やな。」
三上と呼ばれた男がぼそりと志保に告げる。
「そうどすか?三上はんと出かける時もあんな感じどっせ?」
「そ、そうかいな?」
「美冬はいつでも一生懸命やさかいなぁ。」
志保はそう言うと、ふふふと楽しそうに笑った。

「おい、芸妓の恰好てどういうことやねん。」
店を出た途端に佳介は慌てて美冬に尋ねた。
「ちょっと遅なったさかい、飛んできたんやないの。」
「そやかて、俺、花代やら言われても・・・。」
「心配しなはんな。座敷から上がったら着物きて化粧してても花代なんか取らしまへん。」
「そうなんか?」
「そうどす。それより予約は何時どすのん?」
「あ、えっと、7時。」
「ほな、ちょっと急がな。走るえ!」
「え?その恰好でかいな!」
美冬は佳介の手を取ると器用に着物の裾を片手に走り出した。
佳介は心配で何度もなんども美冬を横目にするが、当の美冬は気にした風もなく走り続けていた。
店先まで来るとさすがに息が上がっていたため、立ち止まって荒い息をつく。
ふふふふ。
あははははは。
2人はどちらともなく笑いだしていた。
「こんなん、舞妓の頃以来や。たま居のおかあさんに見られたら、間違いのう怒られるわ。」
「舞妓の時は走ってたんかいな。」
「稽古に挨拶回りにお座敷に言ぅて、時間の使い方も知らへんさかいな。」
「へぇ~。俺は今でもしょっちゅう走り回ってるけどな。」
「気張って頭領になりよし。ほんなら走らんでも済むやろ?」
「はいはい。」
「ほな、入ろか。」

打ち水に淡い光で照らし出される石畳の奥に『右近太郎』はある。
昔ながらの土壁の玄関を上がるとすぐに二階への階段があった。
その二階の一角に、狭い座敷の部屋がある。
2人で座るには丁度。
そして親密な時間を過ごすにはもってこいの落ち着いた空間であった。
「ウーロン茶と、ビール?」
美冬は尋ねた。
「あ、ウーロン茶2つ。」
佳介はそう言って、温かいタオルで手をふく。
その後すぐにお料理が運ばれ始めた。
初夏の鱧やイサキのお造りをはじめ、椀物、焼き物からデザートまで8品のメニューはそれぞれに工夫がなされ、創作料理の楽しみを感じさせてくれた。
「おかげで何とか送り火を開催できそうや。ほんまに、ありがとう。」
佳介は頭を下げた。
「お互いさまやがな。毎年、綺麗な送り火を見せてもうてるさかい。」
正直なところ、佳介は美冬の芸妓姿に少し引いていた。
あまりの世界の違いに気遅れしているのかもしれない。
間近で見ることのない白塗りの化粧、日本髪の鬘、そして赤い唇。
この世のものとも思えない美しさと、それが目の前に存在する不思議な空間。
そして2人だけの時間。
何もかもが非現実的だった。
料理の味も全くわからない。
何を話したのかすら覚えていない。
幼馴染の全く別の顔がそこにはあった。
ただ、美しい。
思い切って手を伸ばせば掴める距離にありながらも、そんな美冬に自分は触れてはならないとそう思ってしまった。
「御馳走さんどした。」
美冬の言葉に佳介は現実に引き戻された。
「あ、ああ。ほな、会計してくるわ。先に出ててくれるか?送っていくさかい。」
佳介はそう言って席を立った。

着替えてきた方がよかったかな。
店を出ると美冬はそう思った。
佳介はいつにもなく緊張しているようだった。
ただ、着替えをして化粧を落とすとなると1時間は遅れてしまう。
佳介を待たせたくなくて急いだのが後悔となった。
ブー。ブー。
マナーモードにしていた美冬の携帯にLINEの着信があった。
携帯を取り出してみると志保からだ。

志保:さっき保健所から連絡があって、美紗が陽性やて

美冬は慌てて返事をする。

美冬:うそ!ほんまに?
志保:微熱らしいから烏丸のダイヤモンド京都ホテルで様子見やて。明日、あんたもPCR受けてな。絶対に他言無用やで。

楽しかった気持ちが一気に黒く塗りつぶされてゆく。
絶望に胸が締め付けられて息をするのも苦しく感じた。
「おまたせ。」
佳介が店から出てきたがすぐには立ち直れない。
苦しそうな美冬の顔を見て佳介は不審に思った。
「おい、どうしたんや。」
心配する佳介の声に美冬は答えられない。
「すぐ前の駐車場に車止めてるさかい、ちょっと待ってて。」
佳介はそう言うと走り出し、すぐに車を回してきた。
運転席から飛び降りて助手席のドアを開けてくれる。
「ほら、送っていくから。」
そう言って佳介が手を取ったが、必死に振りほどいた。
「うち、コロナかもしれへん。けーちゃん、帰って。」
美冬は自分が何を言っているのかもわからない。
ただ、自分が感染している可能性がある以上、佳介と一緒にいるわけにはいかなかった。
動転した美冬の言葉に佳介はため息をつく。
「あほか。今一緒にご飯食べたやないか。移んにゃったら、もう移っとるわ。ええから、車に乗り。」
冷静な佳介の言葉に反論できず、美冬は促されるままに助手席に座った。

佳介はしばらく運転した後、川端沿いに車を止めた。
「ちょっとは落ち着いたか?」
その言葉に美冬は頷いた。
「けーちゃん、ありがとう。」
「誰か、陽性が出たんか。」
他言無用との志保の言葉にしばらくためらったが、こうなっては佳介にもPCR検査を受けてもらわなくてはならない。
そのためにもきちんと話す必要があった。
「うちが面倒を見てる舞妓。」
「どこの病院にいるん?」
「烏丸のダイヤモンド京都ホテル。微熱だけやて。」
「今から行こう。」
「はぁ?何ゆうてんの、行ったかて会われへんよ。」
「会われへんでも行くんや。面倒見てんのやろ?その子は今、真由美ちゃんに申し訳ないて思てるはずや。」
佳介はエンジンをかけ、ホテルを目指した。
途中、コンビニに寄ってもらい、美紗の好きそうなスイーツを見繕った。

夜9時前にもかかわらずホテルはがらんとしており、職員がフロントに一人だけ待機していた。
美紗に会いたいと伝えたが、もちろん面会は断られた。
職員にコンビニの袋ごとスイーツを渡し、部屋に届けてもらうように頼む。
ただ、内線で会話はできるとのことだったので呼び出してもらった。
「美冬さんねぇさん、すんまへん。堪忍どす。」
涙声で美紗は言った。
「何をゆうてんのん、かましまへん。今は何も考えんと、はよ良うなることどす。」
応える美冬も泣いていた。
それからしばらく美冬は話をしていたが、美紗が落ち着いたので寝ることを勧める。
内線を切ってロビーで待つ佳介の所へ向かった。
「けーちゃん、今日はほんまにありがとう。」
「送っていくわ。実家でええのか?」
「うん。ごめんね。」
「ええから。」
2人はホテルを後にした。


その翌日、たま居にて。
「今すぐちゃんと公表せんと!」
美冬は厳しく言い放った。
「絶対あかん!何考えてんのん!」
志保も負けじとやり返す。
「ちゃんと公表して頭下げて回らんと、他所に顔見せられへんやないの!」
「あほか!そんなんしたら風評被害でうちが潰れるわ!絶対にあかん!」
30分にも及ぶやり取りが続いていた。
美紗の陽性が判明した翌日、美冬を含めた『たま居』の全員がPCR検査を受けた後、戻ってきてすぐに2人の討論が始まったのだ。
美冬は今回コロナになった美紗ともう一人の舞妓『葉月』についてきちんと公表をし、関係各所に詫びを入れて回るつもりだった。
舞妓の名をつけるということは、一人前になるまで全ての面倒を見るということ。
今回の美紗の件で頭を下げて回るためにも、一刻も早い公表に踏み切るべきだと考えていた。
一方、志保は経営面で大きな風評被害が予想されるため、公表に反対していた。
小母として置屋のマネージメントを預かる以上、リスクヘッジは徹底しなければならない。
コロナの長期化が予想され、客足も回復には程遠い現在において公表することは大きなダメージとなる。
マスコミでも感染者の大多数は身元を公表されておらず、ましてや美紗と葉月だけならクラスターですらない。
それだけのリスクを背負う必要はどこにもなかった。
「あかん。絶対に認めへん。」
「今のことだけ考えてたかて前に進めへんやんか。」
「今潰れたら先も糞もあるかいな!」
やりあう2人を心配そうに、遠巻きに舞妓たちが眺めている。
「・・・あんたら!ええ加減にしよし!」
女将である珠美の雷が2人に落ちた。
2人はもとより、見ていた舞妓たちもその迫力に震え上がる。
ふぅ。と大きなため息をついて珠美は言った。
「全員のPCR検査の結果を待って、人数だけ公表しますさかい。」
「おかあはん!」
志保は叫ぶ。
しかし、珠美はそれを無視して美冬を見据えた。
「美冬、覚悟しいや。」
厳しい批判の中で頭を下げて回るのはとても辛いことだと理解している女将。
『たま居』は佳つ美引退事件以来の大きな困難に直面していた。


その後、PCR検査の結果は全員陰性と判明した。
不幸中の幸いで、感染者は美紗と葉月の2人だけだった。
これを受けて花街連合会は祇園甲部の舞妓2名が6月終わりに感染したと7月7日にマスコミ発表を行った。
『たま居』はそれから2週間、営業を自粛した。
おぶ屋も休業し、業者による全面的な衛生消毒を行った。
美冬の家族や佳介もPCR検査を受けたが結果は陰性だった。
佳介は美冬がお詫びに回るための足になると申し出た。
美冬は丁寧に断ったが佳介は頑として聞かず、車を回して美冬が出てくるのを待っていたため、その後は送ってもらうようになった。
お茶屋や料亭、おぶ屋をはじめ祇園界隈だけで90軒以上。
そして稽古先や関係企業を含めると250軒ほどにもなる。
「すみません、女将さんいてはりますやろか。」
紺のスーツを身にまとった美冬は入り口で声をかけた。
「どちらさんどす?」
応対に出てきたお茶屋の女支配人が訊ねる。
「たま居の美冬と申します。この度はご迷惑をおかけしまして・・・。」
「出て行っておくれやす。」
女支配人が声を上げた。
「本当に申し訳ございませんでした。心ばかりではございますがお詫びの品を・・・。」
「同じ甲部や言ぅて、どんだけ迷惑かかってる思てんのん!」
「本当に申し訳ございません。」
「こんなもん、もろたかて!こんなもん!」
女支配人は差し出されたお詫びの品をひったくると表に向かって放り投げた。
「出て行け!」
側に置いてあった盛り塩をつかみ、美冬めがけて投げつける。
髪や紺色のスーツにまで塩が飛び散った。
美冬は無言でもう一度頭を下げるとその店を出た。

多くの先は仕方のないこと、大変だったねと優しい対応をしてくれていた。
しかし日ごろあまりよく思われていないお茶屋などに至っては門前払いをされた挙句、今回のように塩を投げかけられることも何度かあった。
美冬はそれでもひたすら頭を下げて回る日々を送っていた。
志保とはあの一件以来、顔を合わせても言葉を交わしていない。
そんな中で何かと心配し、側にいてくれる佳介に心から感謝をしていた。
惨めな姿を見られることに最初は抵抗があったが、心が疲れ果ててくるとそれすらどうでもよくなった。
佳介は何もないかのように無言で車を運転してくれていた。
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