第1話 黒い海峡

文字数 7,043文字

 第一章 黒い海峡
 
 1

 ざわりとする気配で目を覚ました。視線を這わせる。大きな猫が、暗い目で見降ろしている。京也の死を待つかのように。
 顔を食い散らされる恐怖にゾッとしながら、京也は重い腕で、野良猫を追い払った。起き上がると、ガード下に朝日が差し込み、路上にも春の兆しが見えた。
 札幌に流れ着いたのは、去年の秋だった。
 逃亡中の京也が、洞爺湖に流れ込む川で作業服の血を洗い流していると、材木を積んだトラックがやってきた。京也はそれに潜り込んだ。トラックは、札幌の郊外の製材工場に着いた。
 京也は、冬に向かう札幌で、人目を避け、コンビニのゴミ置場やレストランの残飯を漁りながら、市内の裏路地を転々とした。路上から見上げる札幌は、まるで違う街に映った。吐く息が凍りつく屋外は、仲間たちが次々と凍死していった。京也は、年老いたホームレスの遺体から古びた防寒コートを引き剥がし、バスターミナルや地下街の階段でひと冬を耐えた。隣町には、妹の順子を残してきた白樺学園があるのだが、今は、近寄ることすらできない幻の館となった。
 京也は、いつもの公園のベンチで、食べ物を残していきそうな家族を漁っていた。すべての希望が失われた今、飢餓が生きる原動力のすべてだった。
 何回か見かけたような気がするサングラスをした立派な身なりの男が近寄ってきた。身のこなしは若いが、歳を重ねた落ち着きがある。顔のあちこちに、まるで整形手術が失敗したような引きつった痕がある。
 刑事かもしれない――。京也はそれとなく身構えた。
 男が前を横切る瞬間、アタッシュケースが水平に京也の顔面を襲ってきた。京也はとっさに沈み込み、それをかわした。まだ鳶のころの勘は残っていた。
 男はすぐに悪かったと丁寧に詫びると、京也の隣にかけた。
「やはり見込んだとおりだ。仕事、ないんだろ? 私のところで働いてみないか。なぁーに、ピザの宅配だよ。難しい仕事ではない」
 京也は男の顔を見てハッとした。この男は、どこかで会っている……。だが、それはすぐに打ち消された。男の目はサングラスに遮られ読むことができないが、明らかに裏の世界の匂いが漂っている。京也の知人であるはずがなかった。人間の毒を嗅ぎ分ける習性は、命がけで働いてきた、高層ビルの建設現場で身についたものだ。
 京也は、空腹を満たしたい一心で、男についていった。男の車は、目立たないセダンだった。
「何と呼べばいいかな?」
 男が、バックミラー越しに声をかけてきた。光の加減で、一瞬、男の目が垣間見えた。不気味なぐらい、優しい目だった。
「摩周京也だ」
「摩周――、それは本名か?」
「もちろん本名だ。なぜ疑う?」
「ああ、悪かった。名字にしては珍しいと思っただけだ。私は鬼柳(きりゅう)だ。ところで、その傷はどうしたんだ?」
 京也はハッとして、左手を頬にやった。答えようがなかった。
「ああ、いい。俺もこんな顔だ。気にしないでくれ」
 京也は、少年のころ記憶喪失で保護された経緯には、あえて触れなかった。
 車はビル街の裏に入って行った。ピザ屋は、その奥にあった。
 店の中で鬼柳が、店長らしき若い男に何かを話している。長髪で左目が隠れている店長が、ガラス越しに京也をちらりと見ると、鬼柳に小さくうなずいた。
 それから京也は、都会のネオンが遠くで瞬く雑居ビルの二階に案内された。薄暗い廊下を奥まで進む。すり減ったPタイル床の部屋に窓は無く、ドアには厚い鉄板が張りつけてある。中央に小さなテーブルと丸椅子があり、プリペイド式携帯電話が置かれていた。部屋の隅には、錆びの浮いたパイプベッドと毛布があった。
 鬼柳が支度金だと言って、一センチほどに膨らんだ封筒をテーブルに置いた。
 京也は、ピザの配達が本業ではないと分かってはいたが、堅気の仕事ではないことを覚悟した。何であれ、闇の中で、首筋をドブネズミの群れが這っていく路上の生活からは救われた。同時に、もうこれで、太陽の下で生きていく道は完全に閉ざされたのだと思った。
 支度金で冷蔵庫とテレビを買った。それで十分だった。
 それから京也は、来る日も来る日もバイクでピザの配達に出かけた。札幌市内ならどこへでも出かけた。
朝は、冷蔵庫に保管してあるハムサンドと牛乳で済ませ、昼はピザ屋で出来損ないのピザを食べさせてもらう。どこで刑事が見張っているかわからない。夜は、表通りや、同じパターンを避け、路地裏の定食屋やラーメン屋に行った。
 ピザ屋の仕事が慣れたころ、鬼柳が部屋に現れた。京也はベッドに掛け、鬼柳に丸椅子を勧めた。
「ピザの配達、けっこう真面目に勤めているそうだな。今日は、もっとエキサイティングな仕事の話をしにきた。ピザの配達をしてもらったのはその準備のためだ。だいぶ土地勘がついたはずだ」
 鬼柳がサングラスの奥から淡々と語った仕事は、想像を絶するものだった。
「俺が断れないと知っての話のようだね」
「察しがいいな。だが、その気になれば過去は消すことができる。契約は五年間だ。報酬はサラリーマンが一生かかっても手にすることができない金を約束する」
「それにしても、なぜ俺が選ばれたんだ?」
「なぜ君が――深い意味はない。神が、白羽の矢を立てたとあきらめるしかない」
 鬼柳は、少し口角を上げると、穏やかに続けた。
「仕事に使うバンにはGPS(全地球測位システム)端末が隠されている。逃亡してもすぐにわかる。仕事には二つの掟がある。掟を破ればターゲットと同じ運命をたどる」
 サングラスの奥で、男の目が光った。
「銃は使わないことと、無言を押し通すことだ。チャカは足がつき、しゃべることがすべての禍のもとになる。この仕事は、あんたが三人目となるので、ネームコードはサードだ。仕事はすべてサードとして動いてもらう。残念ながらファーストもセコンドも、大金を口座に残しながらそれを手にすることはできなかった。一人は安易にロシアルートの拳銃を使ってしまった。サツはその大きな密輸ルートの捜査中だった。現場で発見された弾丸の線条痕から出どこを突き止められ、サツはそいつを追った。それを知った密輸ルートの組織は、サツに捕まる前にそいつを消した。二人目はターゲットを追い詰め、隠れ家で半殺しにしたまではよかったが、盗聴されているとは知らず、うっかり連れて行く「処理場」の場所をしゃべってしまった。途中の国道で、追ってきたターゲットの仲間に銃弾を二十発も打ち込まれ、カラスの群れに捨てられた」
「一つ教えてくれないか。ターゲットが消される理由は?」
「それは極秘だ。深入りすると、こちらも消される。ただ、一つ言えることは、ターゲットには、善悪を越えて、消されるだけの理由がある」
 京也は、平成の仕置き人のような途方もない世界に入り込んだと思ったが、すでに後悔する立場ではないことも確かだった。生暖かい返り血を浴びた記憶は今でも鮮明に刻まれている。一線を越えてしまった自分には、二人目も三人目も同じことのように思えた。正常な判断は、すでに麻痺していたのかもしれない。
 最後に鬼柳は、新たなプリペイド式携帯電話を京也に渡した。
「仕事の依頼はこのケータイに入れる。俺は無言だ。心の中で五つ数えたら、サードと言え。それを暗号として、仕事の話に入る。この世界は電話一つでも判断を間違えば命取りになる。忘れるな」
 それから京也は、鬼柳が運転する車で道南の太平洋側へと向かった。
「ぶつ」の処理場は、札幌から車で二時間ほどの、港湾都市T市の外れにあった。近くには北海道の空の玄関口と言われる空港がある。立ち並ぶ廃墟の倉庫の陰に、その鉄工所はあった。鉄工所は、組織の誰かが所有しているらしく、太いチェーンが張られ、大きな「立入禁止」の看板が掲げられていた。鉄工所の規模は大きく、手前の壁際には中二階があった。天井には錆びついたクレーンが下がり、柱のあちこちに懐かしいチェーンブロックがかけられていた。昔は陸揚げした船の修理にでも使っていたのかもしれない。
 ごつい作業台があちこちに置かれ、長年の潮風で錆びついた様々な工具が散乱していた。使い込んだ大型のバールやレンチが立てかけてある。京也はふと、鳶時代のことを思い出した。だが今は、それが本当のことだったのかどうか、遠い記憶の世界だ。
 鬼柳に促され、京也は奥へと歩を進めた。工場の隅にドアが外された比較的大きな風呂場があった。昔、住み込みの作業員たちが使用していたのかもしれない。
 壁際には、錆びたドラム缶と、たくさんの蓋つきペール缶が積まれている。なぜかこの場所にはそぐわない小型のコンクリートミキサーが、開け放たれた地獄の窯のようにこちらを見ている。その時はそれが、「ぶつ」の処理のために用意されたものとは分からなかった。
 風呂場に足を踏み入れた。京也は息をのんだ。今にも「ぶつ」が這い出してきそうな、浴槽が目に飛び込んできた。
「ぶつ」の洗浄に使用してきたらしく、油脂が内側にねっとりと付着している。ふと下を見ると、白いタイルの洗い場に、傷だらけのごつい角材が置いてある。傷にはたくさんの白い欠片が刺さっている。思わず骨が砕かれる痛みを覚え、京也は脚をさすった。
 正面の壁には、作業着と思われる雨合羽の上下が下がっていた。その下にはゴム長が置かれ、デッキブラシが立てかけてあった。
 その横に据え付けられた工具棚には、鉈や出刃包丁など、およそ「ぶつ」の解体に必要と思われる得物が並んでいる。中でも、ステンレス製の万能鋸が、不気味な光りを放っていた。
 鬼柳が、いつになく神妙な表情で仕事の段取りを説明した。すでにおよその見当はついていたが、改めて聞くと、それだけで吐き気を催す凄惨なものだった。
「仏になれば、善人も悪人もない。丁寧に葬ってやることだ」
 鬼柳が最後に、反対側の壁にサングラスの目をやり、神妙に語った。振り返るとそこには、「南無阿弥陀仏」と刻まれた木の看板が下がっていた。胃の重みが、少しは軽くなった。
 処理後の「ぶつ」は残らずペール缶にコンクリート詰めにして、顔の見えない漁師に渡すまでが京也の仕事だ。
 漁師はそれを、産業廃棄物の不法投棄と思い込み海峡に沈める。法を破るリスクが彼の報酬となる。世間は何も知らないが、海峡には夥しい数のペール缶やドラム缶が沈んでいるということだった。
 いずれ鉄板は朽ち果て、コンクリートがむき出しになるが、それも徐々に塩分で劣化し、「ぶつ」はタコや海底の魚たちがきれいに食べてくれるそうだ。

 2

 最初の仕事は、函館港の外れにある廃墟となった埠頭で、一人の外国人を拉致し、手はずどおりに処理することだった。ただ、鬼柳が、「函館を本当に知らないのか?」と、じっとサングラスの奥から見ていたのが気になった。
「初仕事ということで、簡単なものを用意した。現場も安全地帯だ。だが、そういうところほど落とし穴があるものだ。まだ時間がある。情報収集だけは忘れるな」
 ターゲットの素性や、消される理由は一切教えられなかった。
 京也はいつものガード下の定食屋に出かけた。同じ店には決して顔を出さないが、唯一ここだけは例外だった。なぜかここでは気を許し、鳶だったころのことを懐かしく話した。おばちゃんも、めずらしく鳶の世界を知っているらしく、楽しそうに聴いてくれた。けれども、それ以外のことに触れることはなく、現在や過去のことを詮索することもなかった。
 確か、おばちゃんが、東京方面から函館に渡り、その後札幌に落ち着いたと話していたことを思い出していた。
 おばちゃんがカウンターに出てきた。中では相変わらず客に顔を見せない主人が、まな板で包丁の音を響かせていた。
 主人が決して客の前に顔を出さないことも、彼ら自身も何かの過去を背負っているのだろうと思った。
「函館港って、どんなところなんですか?」
 京也は、本日お勧めのレバニラ炒め定食を食べながら、それとなく訊いた。一瞬、奥で、まな板の音が止まったように感じた。
「興味は観光や遊びじゃないって顔に書いてるから言うけど、函館港もピンからキリだ。色んな人が出入りする。人身売買もあれば、ヤクの取引もあるだろうな」
 おばちゃんが、洗い場に目を落としたまま、淡々とした口調で続けた。
「土地の人から見れば、あそこはいいところさ。けど、世の中ってのは、どんなところにも裏がある。マムシは動いて初めて、蛇だと分かる。裏を覗く時は、その裏をかくぐらいの周到さが必要だ。ああ年寄りが、余計なことを言ってしまったね」
 おばちゃんが初めて、自分の息子を見るような眼差しを向けた。まな板の音が、何かを諭すように響いてくる。京也はなぜか、表裏一体となって生きるこの夫婦に、親近感を持った。 
 強い潮の匂い。不思議だった。遠い記憶にあるような、荒涼とした風景だった。オレンジ色に染まりかけた岸壁に、塗装のはげたボラードが並び、その向こうに、数隻の廃船が放置されている。
 京也は、釣り人たちが去った岸壁で、竿を伸ばしていた。予測は的中した。駐車場の方から二人の釣り人がやってきた。一人が「釣れますか?」と京也に声をかけ、それとなく、わきのバケツを覗いた。中では、寿司屋の生け簀から買ってきた魚が動いている。二人は遠ざかり、一番端のボラードのわきで竿を伸ばし始めた。京也は竿を振る動作をしながら、それとなく彼らの動きを探った。一人が立ち上がった。大きなバッグを提げている。
 ボラードを遠巻きにするように、小さな缶のような物を落として行く。缶は、何かで繋がっているように見える。路盤を転がる微かな音が、潮騒に運ばれてくる。やがて二人は、駐車場の方に去って行った。
 血の色の夕日が水平線の向こうに隠れ、辺りは闇に包まれた。京也は、車を駐車場から移動し、廃船の陰で時を待った。深夜十二時きっかりに、足元を小さな灯りで照らしながら、背の高い外人の男が現れた。静寂に爪を立てるのは波の音だけだ。京也は、息を潜めた。耳の奥で、血が波を打ち始めた。
 ボラードのわきで、男が黒く揺らめく海を見渡しながら、懐中電灯の小さな光りを胸の前にかざした。遠くでライトが三回点滅した。それがこの男をターゲットと見極めるサインだった。
 ターゲットを守るように張り巡らされた釣り糸は、すでに切ってある。京也は猫のような動きで、男の背後に忍び寄った。無言でワイヤーを首にかけ、一回転した。男がビクンと反応するのが分かった。懐中電灯がコンクリートに転がり、光が踊った。もう後には引けない。獣同士の闘いに突入したのだ。殺らなければ殺られる。男の指がワイヤーに滑り込む寸前、京也は素早くワイヤーを引いた。男が激しく足をバタつかせる。断末魔の指が京也の顔に伸びてくる。そのままワイヤーを肩にかけた。脂っぽい男の体臭が鼻につく。宙をかきむしる男の手を背後に感じながら、車を目指す。徐々にコンクリートをける靴音が静かになっていった。車に着いたころは、男の体重がそのまま京也にのしかかっていた。
 額を伝わる冷たい汗。鳶の仕事とはまるで違う不快な汗が全身から噴出してきた。ワイヤーに絡みついた指を一本一本剥がし取る。
 バンの後部ハッチを開け、男を押し込む。
 いつの間に来ていたのか、向こうにサングラスの男が立っていた。なぜかこの罪を一身に引き受けるように、眉間に皴を刻んでいる。一つうなずくと、きびすを返した。
 京也は、駐車場の端に停められたワゴンに駆け寄った。
 ここからは契約外の仕事だ。やはり、おばちゃんの話は本当だった。京也は、車内に縛り付けられていた三人の少女の口からガムテープを剥がし、手足のロープを解いてやった。新しい衣服のわりには体が汚れ、手足が傷だらけだった。恐怖の目を見開き、皆、言葉を失っていた。
 歯が抜かれたり、指の爪が剥がされ、無傷の者はいなかった。急に、京也の頬の傷が痛みだした。脳裏の奥で、何かが蠢き始めた。鼓動が激しくなる。
「早くここから逃げろ! 誰でもいい、助けを求めるんだ」
 京也は、突然襲ってきた発作に耐えながら、年長の少女に有り金を握らせ、町の明かりが残る方向を指差した。
 外灯の向こうに、三つの影が消えていくのを見届け、闇の中へとハンドルを切った。
 T市の処理場に着いた時は、空がどんよりと白み始めていた。
 一線を越え、さらにまた一線を越える思いで、「ぶつ」の処理にかかった。これでもう自分は、二度とまともな世界に戻ることはできないだろう。ただ、残酷な宿命も、生きるという根源の道だけは残してくれた。京也はひたすら、壁の経文を唱えながら、鋸を引き、鉈を振り上げた。
 コンクリートミキサーは建設現場で見慣れていた。強度のあるコンクリートを作るには、砂利、砂、セメントの割合を四対二対一にして、適度に水を加えればいい。すべてが終わった時、京也の体力と精神力は、限界を越えていた。
 錆びた階段を一歩、一歩昇って行く。今は、血の臭いから一歩でも遠ざかりたかった。中二階の床に倒れこんだ。俺はなぜこんな世界に……。土と埃にまみれたコンパネに、頬の傷が触れる。今はどん清潔な環境よりも、泥にまみれて休む方が、京也には心地よかった。止めどなく涙が溢れ、柾目に滲み込んでいった。
 哀しくも温かい涙の中に、札幌駅に辿り着いた少年のころが蘇ってきた。


 
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