第4話 けもの道

文字数 13,446文字

 第四章 けもの道

 1 

 処理場の中二階、身震いのするような寒気で目が覚めた。大きな蜘蛛が目の前で揺れている。
 今となれば、それが本当だったのかどうかもわからない、長い、長い夢だった。
 いずれにしても、もう引き返せない世界に足を踏み入れたことは確かだった。京也は、急に現実に引き戻された。

 次の仕事から、鬼柳は現れなかった。
 仕事はおおむね、ワンシーズンに一度のペースでやってきた。仕事が完了すると、報酬は指定された口座に正確に振り込まれた。
 この仕事に私情は禁物だが、世の中には、手にかけることすらためらう人間がいることもわかった。
 それは、ある実業家がターゲットに指定された時だった。京也は、一ヶ月以内という期限に追われ、実業家の動きを探っていた。その実業家の素性を知れば知るほど、虫酸が走ってきた。
 その実業家は、善人の顔をして多くの児童養護施設に寄付をしていた。資金を受けた学園は彼をパーティに招き、園児との交流を図ろうとした。そのうち、関連する学園で年長の女子児童が妊娠する騒ぎが起き始めた。原因がわからないまま、世間体に縛られる学園はそれをひた隠しにした。だが、ある名の通った学園で騒ぎが大きくなり、追い詰められた園長が首を吊る事件が発生した。
 期限が迫ったある日、京也はターゲットを間近で確認した。顔や首に脂ぎった肉がどっぷりついているが、あの善人ぶった目だけは忘れるはずがなかった。面倒を見てくれた先輩がトイレで自殺した時、悔し涙を流していた順子の横顔が、遠い記憶に蘇った。
 依頼人は誰なのかは知る由もないが、報酬は二桁少なかった。おそらく被害者に近い者が、せめて藁人形に打ち込む五寸釘になればと、身を削りながらかき集めたものに違いない。たまにはボランティアもいいだろうと、小さな笑みを作った。
 マンションの階段を昇るだけで息を切らすターゲットを拉致するのは容易なことだった。
 処理工場に運ぶ途中、ターゲットが猿ぐつわの下からわめき出した。
「おい、俺をどこに連れて行くんだ。社会のために尽くしてきた俺が、なんでこんな目に遭うんだ。だいたいお前は何者だ?」
――あんたは、孤児院の少女を喰いものにしてきた――
 京也は掟を守り心の中でつぶやいた。それが通じたのか、実業家が語り出した。
「おそらく養護施設の一件を誰かが妬んだのだろうが、俺は何も悪いことはしていない。女子児童も年長になればあの食事では可哀想だ。俺はそういう少女を自宅にまで連れていってご馳走を食べさせた。もちろん園長の許可を受けてだ。彼女らは、俺の目も気にせず、犬のようにスプーンまで舐めていた。俺は少女たちに就職の世話をする一方で、世渡りのコツも教えてやり、小遣いまで与えた。少女たちは感謝し、俺を父のようにいたわってくれた。魚心あれば水心だ。俺は決して強制はしていない」
 ざわざわと吐き気が襲ってきた。ここで息の根を止めようと思った時、男は意外なことを語った。
「だがたった一人だけ、事の一部始終を録音して、すべて本当のことを言うと脅かした少女がいた。可愛い顔には似合わない骸骨のペンダントをつけていた。俺は悪いことはしちゃいないが女房に知れれば話はやっかいだ。可哀想だったが、裏社会の連中にお仕置きを依頼した。小娘一人の口を封じる方法など、いくらでもある」
 ――そうだったのか。順子、お前はすべてを知っていた――
「ぶつ」の処理方法は、仮死状態で血抜きをしてから切断する。従ってターゲットは、痛みを感じないままコンクリート詰めになる。
 京也はこのターゲットに限っては、生きながらに処理することにした。

 あれから五年が経ち、仕事の契約の期限が近づいてきた。約束どおり、アジアのどこかに高飛びし、一生暮らせるだけの金銭は振り込まれた。
 京也は久しぶりに、ガード下の定食屋の暖簾を潜った。
「ああ、いらっしゃい。最近、顔見せないから心配していたよ」
 おばちゃんが、カウンターの隅から、ちらりと目を上げた。
 相変わらず、調理場の奥から、まな板を叩く音が聴こえてくる。
 京也はこの店で出すモツの煮込み定食が大好きだった。きゅうりの漬物を添えてもらい、てんこ盛りのどんぶり飯をかっ込むのがすべてを忘れさせてくれる、至福の時だった。
「おばちゃんには、すっかりお世話になったね」
 どんぶりを空にした京也から、無意識に言葉が口を突いた。
「なんだい、その言い方は。海の向こうにでもねぐらを変えるつもりかい」
 おばちゃんの目が笑っている。
「俺の商売はいつ何が起きるかわからない。ただ何となくさ――」
 京也は、心を見透かされているようでどきりとした。この世で唯一気を許せる場所が、京也の警戒心を取り払ったのかもしれない。
 まな板の音がピタリと止んだ。京也は、調理場の方に目をやった。初めて、奥から出てきた主人と目が合った。ハッとした。初老の外人だった。彫りが深く、浅黒い、アジア系混血のようだった。
 主人が、たどたどしい日本語で語り始めた。
「私も、お客さんと同じような仕事をしていた。バングラデシュの廃船解体作業員。でも、お金、日本の五分の一。東京の建設現場に出稼ぎに来た。もちろん闇ルート。現場で言葉わからない、ものすごく危険。突然、鉄骨が飛んできて、このざまさ。でも咄嗟の判断で、利き足だけは守った」
 京也は、鳶見習いのころをまざまざと思い出した。それとなく主人の足を見た。ズボンに隠されてはいるが、細い左足は義足に違いなかった。
「でも、足が不自由な分、手が器用になった。だから、この仕事、していられる。お客さんも何かの事情で鳶を辞めたんだと思うけど、いつかきっと戻れるように祈っている」
「この人、お客さんぐらいの歳の連れ子がいたのさ。新宿で起きた外人同士の乱闘事件に巻き込まれ、死んでしまった」
「私の息子、正直すぎた。結局、仲間に売られたようなものさ」
「この人の息子は道路工事現場で真面目に稼いでいた。でも、同郷の仲間を見捨てることができなかったのね。レールから外れて生きることは大変さ。仕事に区切りがついたら、また顔を出してよ」
 京也は、おばちゃんの優しい笑顔を見て、ふと、学園で聞いた母親という言葉を思い出した。
「ああ、また、必ず来る――」
 京也をじっと見ていた主人が、静かに口を開いた。
「お客さんの目、息子の目の光と同じ。最後は人間を信じる目。でもそれが、命取りになることがある。気をつけて」
 京也は、これが最後になりそうな予感を胸に、歳月を重ねたおばちゃんと、まだ鳶の目が残っている主人を見つめた。何も語らず、けれども、この家族だけとはすべてが通じ合ったことを信じ、店をあとにした。

 2
 
 あれ以来姿を見たことがない鬼柳から連絡があった。最後に指定されたのは、退職金代わりだと言って、簡単そうに見える割には一桁多い報酬が約束された。ターゲットの位置も、「ぶつ」の処理場を控える港町だった。サングラスの男は最後に、「掟だけは忘れるな」と念を押し、電話の向こうに消えた。
 京也は気を許すことはなく、慎重に追い詰めていった。標的の男は、ただの詐欺師だった。大方、闇の世界の金にでも手を付けたのだろう。
 生臭い潮風が吹き込む場末のホストクラブの裏陰。巻紙から薬物を吸い込み、ふらふらになっている標的の男を、京也は難なく拉致した。夜の国道を海辺の仕事場に向う。
 ぐったりとした細身の体を浴室に引きずって行く。人間、気を失うとこうも重たくなるものか。京也は、これが最後と思うと、初めて、ターゲットの男に憐れみを覚えた。真っ暗な浴室は、寿命なのか照明が点かなかった。京也は、処理方法を変えることにした。
 闇の中から水銀灯の光が落ち、床を薄っすらと照らしている。汚れたコンクリート床に、作業台がぼんやりと浮かんでいる。京也は、鉈と万能鋸を用意し、手足を縛り猿ぐつわをかませた男を、作業台の上にくくりつけた。
 ダガーのブレードを男の喉仏にあてる。ビクンという反応。突然男が目を剝き、もがき始めた。頭部を押さえ、切っ先を押し込む寸前、男の首の下にある輝きに目が吸い寄せられた。わずかに刃先が震える。
 京也の脳裏から、掟の一文字が消え去った。

「このペンダントは、どこから手に入れた?」

 京也は猿ぐつわを解いた。
「ペンダント? そんなことより、いくらもらったんだ? 依頼者は誰だ?」
「どうでもいい。お前は消される運命にある。それより、俺の質問に答えろ」
 それまで死に神のような顔をしていた男が、京也の真剣な目を見ると、急に愛想笑いを浮かべ饒舌に語り始めた。
「信じるか信じないかはあんたの勝手だ。このペンダントの持ち主、早く手を打たなければとんでもないことになるぜ」
「それはどういうことだ?」
「ここから先は、このロープを解いてからだ。ところで持ち主の女はあんたの何なんだ?」
 男が下卑た笑みを浮かべた。
「そんなことはどうでもいい」
 京也は作業台から、男をコンクリートの床に降ろした。微かなアンモニア臭。ロープでぐるぐる巻きになった男の股間が、黒く濡れている。
「さあ、早く吐くんだ」
 京也のつま先が男の腹にめり込む。
 エビのようになった男が、吐しゃ物にまみれながら訴える。
「だめだ。俺が行かなければ、やつらを止めることはできねぇ」
「よしわかった。女のいるところに案内するんだ」 
「それは無理だ。女は支笏湖の空き別荘に監禁している。車で二時間はかかる。今夜薬漬けにして、仲間で回すことになっている。間に合わねぇ」男が狡猾な目を向ける。「俺がススキノで引っかけてきた俺の獲物だ。俺がやめろと言えば、ヤツらは手を出さねえ」
「よぉーし、わかった。ここから、今連絡しろ」
 京也は男のポケットを探った。
「お前の携帯電話はどこだ?」
「胸のポケットになけりゃ、あんたの車の中だろ」
 京也は自分の携帯電話を取り出した。
「番号を言え」
「いやだね。女を助けたけりゃ、このロープを解くんだ」
「ザけたことを言うな。さっさと番号を言うんだ」
 裏拳が飛ぶ。歯をへし折る音。滴る赤い糸。男が凄む。
「こう見えても俺は死を恐れちゃいねぇ。いきり立った男たちに女がもてあそばれるだけさ。ロープさえ解けば、すぐに止めさせる。自由にしてくれれば、俺はすぐ高飛びする。あんたの顔も立つだろ。すべてはうまくいく。選択肢はこれしかない」
 男が、じっと京也の目を見る。京也はその目の底を探る。
「――よしわかった。手だけを自由にする。女が開放されたら、すべてのロープを解こう」
 京也は指示通り番号を押し、携帯電話を渡した。
「俺だ。神埼だ。その女をすぐに解放しろ。なんでもいい! 言うとおりにしろ」
 男は携帯電話を閉じ、京也に渡すと、にやりと笑った。
「さぁ、約束を果たした。ロープを全部解くんだ」
「気の毒だが、そうはいかない。俺の仕事と、お前の贖罪がまだ残っている。自由になるのはそれからだ」
 京也のつま先が男のみぞおちにめり込む。静寂な空間を、呻き声が突き抜けていく。再び男を後ろ手で縛り上げた。
 砂利、砂、セメント、それに水をコンクリートミキサーに入れスイッチを押した。ペール缶を四つ準備する。だいたいこれで人間一人分は収まる。
 ペール缶の一つになみなみと水を張った。これに二分も漬ければ返り血を浴びることもなく絶命する。男の腹に腕を回し、持ち上げた。男が弱弱しく抵抗する。ペール缶から水が溢れ出し、激しく揺れ始めた時だった。
 不意に男の携帯電話を思い出した。GPS機能。あの電話が、仲間への通報だったとしたら――。背後に微かな気配。振り向こうとした時だった。
 後頭部を重い衝撃が襲った。男の頭部が入ったままペール缶がひっくり返った。その水の中に、京也はひざまずく。首がめり込むほどの衝撃が二度、三度と続く。
 天井の闇から落ちてくる青白い光。京也の意識がもどった。眩しいような水銀灯の真下で、奇妙な格好で拘束されていた。両脚が八の字に大きく開かれ、それぞれ離れた鉄柱の上部にワイヤーでつながれている。両手は頭上に伸ばされた格好で一括りにされ、鉄骨に下がるチェーンブロックのフックに引っかけられている。尻はコンクリートついているが、まるで人間ハンモックのようだ。
 これから起こることは容易に想像できた。ヤツらの声が近づいてきた。
「どれ、そろそろ始めるか。俺一度これやってみたかったんだ。恐怖の馬走って言ってな、昔、ヨーロッパでやってた八つ裂きの刑さ。こいつにはだいぶいたぶられたからな。まだこいつは完全に死んじゃいねぇ。たっぷり恐怖を味わってから、あのドラム缶でコンクリートの生き埋めだ」
 その時、京也の携帯電話が鳴った。思わず体をよじる。二人のガラス玉のような目が京也を見下ろしている。
「出ないのもヤバイかもな――、おい、ミキサーを止めろ」
 あたりが静かになった。男がしゃがみ込み、京也の胸から携帯電話を取り出した。
「いいか、余計なことを言うと咽を掻っ切るからな」
 錆びついた草刈鎌の刃が首に喰い込む。着信音が続く。
「よし、出ろ!」
 一瞬の逡巡、男が通話ボタンを押した。
 男が耳を近づける。無言が時を刻む。五つ数え、京也は吐き出した。
「セコンド――」
 間もなく、電話は切れた。
「何だ、今のセコンドというのは?」
 男が京也の頬を張った。
「ああ、俺の認識コードだ。俺も組織から、定期的に管理されている」
「そうか、それじゃ早く始末をつけないとな、うふふふ」
 頭上で「ガラガラガラッ」とチェーンブロックが巻き上げられる音が響いてきた。徐々に京也の全身が引き伸ばされていく。手足に激痛が走り、尻がコンクリート床から離れた。張力で全身が宙に浮いている。ダンプカーで引っ張るような力がなおも続き、手足にワイヤーが喰い込んでくる。
「さあ、そろそろ空中分解だ。ざまあ見ろ!」
 男が狂ったように気勢を上げる。
 視界が朱に染まるほどの激痛、命が切り裂かれていく戦慄、突然、記憶が矢のように過去に向かった。

 脳裏に、色あせて赤茶けた映像が立ち上がった。

 学校を早引きした少年が部屋の戸を開ける。突然、原色の昇り龍が目に飛び込んできた。肩越しに覗く歪んだ能面のような母の顔。男に絡みつく白い脚。まるで古臭いエロ映画のようだ。思わず目を逸らす。部屋の隅で、シーツに包まった小さな塊が震えている。俺はその時たしか、「けだもの!」と叫んだ。のしかかっていた男が立ち上がった。俺はその股間を見て吐き気がした。男が台所に向う。母がシーツで体を覆い、何かを叫んだ。裸の少女が両手で顔を隠し、部屋から飛び出していった。男がもどってきた。右手に提げているのは、父が家族に魚を捌いてくれた、あの大きな出刃包丁だ。血走った目が眼前に迫る。焼け火箸のような衝撃が頬を抉る。母の目が空洞のように映り、やがて消えていった。真っ暗な部屋で目が覚めた。熱で全身が汗だらけだ。頬が引きつるように痛い。顔が包帯で埋まっている。わきで妹が小さな寝息を立てている。耳を凝らすと、寝室の方からおぞましい母の呻き声が聞こえる。この家は呪われている。俺は妹を起こした。ポケットにライターを忍ばせ、テラスから外に出た。妹を先に駅に向わせた。住宅街を抜け、俺は振り向いた。家族で見たあの港の花火大会のように、火の粉が夜空を焦がしている。その中から焼け爛れた母の顔が迫ってきた。俺は夢中で走った、駅の隅で妹が震えていた。二人は夜行列車に飛び乗った。列車が動き出した。前の席で、おばさんがじっと京也の顔を見ている。突然、焼け爛れた母の顔に変わった。その瞬間、俺の記憶は失われた。
 そうだったのか……。どうせこんなことだろうとは思っていた。思い出すことはなかった。もしかして順子、お前は――。
 京也は罠にはまった瞬間を思い出していた。男の目の底に、何かが見えたのは確かだった。だが、そんなことはどうでもいい。俺は最後に、万に一つでも、たった一人の妹が生きているほうに賭けてみたかった。
ワイヤーが喰い込む手足から、命の一滴一滴がしたたる音が聞こえる。ブキッという衝撃と共に、左脚が軽くなった。激痛を通り越し、凍るような寒さが襲ってきた。
 男たちの嘲笑う声が、廃墟の空間に虚しく響いている。
「おい、もう十分だろ。これ以上やると後始末が大変だ――お、その血に沈んでいるスカル、見覚えがあるな」
「ああ、このペンダントのおかげで助かったようなもんよ。お前も覚えてるだろ、去年の夏、ユカリがススキノで引っかけて、先輩のアパートで回してからソープに沈めた女。なぜかこいつ、あの女を知っていた。このドクロは元々この男のもんだったのかもしれねぇな……」
「あぁ、あんときのお嬢様な。ヤクが効き過ぎて死にそうになった。もと看護婦っていう触れ込みで客がけっこうついてるらしいな。こいつのスケだった? ありえねぇ」
「確かにな――、おい見ろよ、こいつ、笑ったまま死んでるぜ」
「まぶたぐらい閉じてやれよ。この男も、泥沼から這い上がろうとして、神にすがったんだろ。けど、スカルは俺らの世界だけの神だ。陽のあたる場所を夢見たら最後、スカルは死神となるのさ」
 朦朧とした意識の中で、魂を掻き毟るような男たちの声が突き刺さってくる。ユカリ……まさかあの由香里が……。残酷な闇が脳裏をおおっていく。その瞬間――。

 遠くで二発の銃声が聞こえた……。

 いつの間にかチェーンブロックが緩み、京也は床に降ろされていた。頭上にサングラスの男が立っていた。手首と足首に止血帯が巻かれ、わきに、頭部を吹き飛ばされた二つの死体が転がっている。
「最後の最後に、掟を破ったようだな」
「すみません、どうしても――」
「よほどのことがあったんだろう……」
 京也は起き上がろうとした。左脚のつけ根に激痛が走る。
「ああ、そのままにしていた方がいい。外れた股関節を戻すのに苦労した。腱が一部切れている。完全には治らないかもしれないな。だが、一足遅れたら動脈が切れて、血の海だった……」
 なぜか、サングラスの奥で、男の目が濡れているように見えた。
「ありがとうございます。助けていただいて」 
「羽田行きに乗ろうとしていた時に、急な仕事の依頼が入って電話した。ドジを踏んだとわかった。駆けつけてよかった。この場所を知られたら厄介なことになっていた。この鉄工所の所有者をたどっていけば、依頼者の全貌が知れる。気の毒だが、二人一緒に始末させてもらった。回復次第、仏さんのあと始末だけはきちっとつけてやれ。ゴキブリのように嫌われる奴らも、生まれた時は無濁な人間だ。最後は人間として、冥界の裁きを受けてもらおう」
 鬼柳が、銀色に光るリボルバーを、黒革のショルダーホルスターに収めた。京也はハッとした。どこかで見た光景だった。
 京也の視線を感じたのか、鬼柳が静かに続けた。
「これは南米ルートの密輸品だ。S&WのM60、357マグナム弾を発射できる」
 京也は、頭部が破壊された死体に納得がいった。
「最後の最後に気の毒なことをした。もう仕事のことは忘れていい。マニラ行きの準備は、約束どおりすべて俺がやろう」
 京也に、腑に落ちない一つの疑問が残った。
「なぜ、あなたは俺だけを助けてくれたんだ。放っておけば、俺の金が手に入ったはずだ。
「ああ、確かにな――。これまで手を汚させた、せめてもの償いと思ってくれればいい」
 鬼柳の言葉が、京也の耳におとぎ話のように響いてくる。その心を読んだのか、鬼柳が静かに続けた。
「俺は金のためにこの仕事をしているのではない。だが、この世には、金さえあれば、浮かび上がることができる人間がいることも確かだ」
「俺は、あなたの仕事を引き受ける前に、すでに死んだ人間だ。金をつかんだからといって、それが変わるものではない」
「私も似たようなものだ。この腐れ切った世の中でも、奇跡的に残った正義もある。決して表には出ない、死者が死者を葬る世界だ。また誰かが後を継ぐだろう。誰も知らないところで」
 鬼柳が、初めて人間らしい表情を見せた。
「一つ教えてくれ。あなたは、なぜこの仕事を――」
「……私は道警に身を隠した警視庁の公安だった。あるテロリストを追っていて、偶然政権のタブーに触れてしまった。調査勤務の名目で南米の鉱山に拘束される羽目になった。十年が経ち、解放される見込みがないと知った私は、顔を潰し逃亡に踏み切った。だが、故郷にたどり着いてみると、家も家族も、跡形もなく消えていた。命を狙われる身となった私は、また別な地下組織で生きて行くことにした」
 鬼柳のサングラスの奥に、初めて京也は涙を見た。 
「この近くまで、救急品と一ヵ月分の食料を届けさせる。生き延びることだけを考えるんだ」
 そう言い残すと鬼柳は、ドアの向こうに消えて行った。
 京也は、コンクリートを這いながら後を追い、闇に紛れていく男の背中に、静かに頭を下げた。
 それから四週間、京也は中二階の屋根裏部屋で、激痛と高熱を耐え抜いた。肩や腕に痛みはあるが、動かせるようになった。ただ左脚だけは、重い付属物として残った。あの、バングラデシュから来た食堂の主人の苦労が身に染みる。けれどもあの主人のおかげで、利き足が残ったことは確かだった。
 丸一日かかり、二つのブツを処理した。

 3

 妹が生きていることを確信した京也は、スーツに身を固め、足を引きずりながら、ススキノのソープ街を探し歩いた。
「金ならいくらでも出す。俺の好みの女がいればの話だが」
 黒服たちは、京也の発する本物の凶気を嗅ぎ分けるのか、触らぬ神の態度を露にした。
 京也は、片っ端からソープの門をくぐり、フロントでソープ嬢のパネルを食い入るように見た。
 もう、この世にはいないのか――あきらめようとした時だった。ひと際きらびやかなソープの看板が目に入った。高級ホテルのようなアプローチが玄関を飾り、豪奢で淫靡な雰囲気を漂わせている。元々はマンションとして建てられたものか、非常階段が路地裏へと降りているのが見えた。
 京也は、タクシーを予約してから、エントランスへ向かった。
 出迎えの黒服が、それとなく京也の脚を気遣い、促すようにフロントへと案内してくれた。照明を抑えたロビーは、まるで竜宮城のようだ。男の極楽と女の地獄が透けて見える。母もこの世界で、身を削りながら俺たちを育ててくれたのか……。
 カウンターで高価な入浴料を払い、隅の応接セットに案内された。黒服が写真集をテーブルに載せると、「ご指名は? うちは全員美形ギャルが売りです。それともお任せで?」と訊いてきた。
 京也はドキドキしながら、半裸に近いソープ嬢の写真集をめくった。がっかりすると同時になぜかホッとした。
 黒服が、京也の心を読むように、横顔をチラリと見た。
「ここにはまだ載っておりませんが、最近入った娘がもう一人います。名前は摩周湖の摩をとった摩耶さん」
「摩周湖の摩――、その娘、出身地はどこだ? もしかして函館とか……」
「そこまではちょっと――、ただ、浜の訛りがあることは確かです」
「どんな女だ?」
「今どきのギャルとはちょっと違う雰囲気なので、ご指名のお客様は、ほとんどが中年の方です」
「……その娘を、お願いしようか」
「少々お待ちください。予約状況を確認します」
 黒服がカウンターに戻ると、受付嬢に短く何かを告げた。彼女がパソコンのキーボードを叩き始めた。間もなく黒服が気の毒そうな表情を張り付け、戻ってきた。
「お客様、あいにくですが、本指名予約がもう三人ほど入っておりました。延長がかかると、今日はちょっと無理かもしれませんね」
「俺は見たとおりこの体だ。ものの十分もあれば終わる。何とかならないか」
 京也はそれとなく黒服の手を包み、数枚の福沢諭吉を握らせた。
「――わかりました。少々お待ちください」
 黒服が再びカウンターで何かを囁き、戻ってきた。豪華なカーテンで仕切られた通路の横の待合室に案内される。午後の早い時間だからか、一列に並んだ黒革のソファに他の客はいない。
 心臓がドラムのように打ち続け、大型テレビの映像が意味もなく流れていく。やはり逢わないほうがいいのかと思い始めた時だった。黒服が音も立てずに入ってきた。
「摩耶さんはもうすぐ出勤しますが、私が先にお部屋までご案内いたします」
 黒服が、それとなく京也の脚を見た。
「ああ、そうしてもらうとありがたい」
 待合室を出ると、宮殿のようなカーテンが自動で開き、エレベーターのドアが現れた。黒服が無言でボタンを押す。浮力が足に伝わり、音もなく二階に着床した。エレベーターを降りると、淡い照明の中に、別な世界へと誘うような怪しげな廊下が真っ直ぐに延びている。両側に白いドアが並ぶ深紅の絨毯を、一歩、一歩進む。各ドアの横には、壁をくり抜いたニッチがあり、小奇麗な花が飾ってある。それが監視窓とは、ほとんどの客は気づかない。
 黒服が、廊下の突き当たりの手前で足を止めた。ベルベットのカーテンの向こうには非常ドアがあるはずだ。左の部屋のドアを静かに開けた。中からピンク色の灯が漏れてきた。
 黒服がうやうやしく口を開いた。
「お客様、一番上等な部屋をお取りしました。どうぞごゆっくり」
 京也は、豪華な内装を施した部屋のソファにかけた。右手の薄いカーテンで仕切られた寝室の奥にダブルベッドが浮び、反対側には白いタイルの浴室が広がっている。
 ここが本当に、妹の順子が毎日命を削る部屋なのか……。京也は間違いであってくれればと、「摩耶」を待った。
 果たしてその希望は無惨にも打ち砕かれた。
「お待たせしました」と言って入ってきた女は、紛れもなく妹の順子だった。順子は京也の頬の傷に一瞬目を留めたが、まさか兄だとは思わない様子で、入浴の準備に取りかかった。京也は立ち上がった。一歩、一歩、左脚を引きずりながらお湯の音に近づく。鏡に、しゃがみ込んで湯加減を見る順子がいる。Tシャツを通す背中の骨格が痛々しい。
「お客さん、気が早いのね。お湯が溜まったら、服を脱がしてあげるから――」
 鏡越しで京也を見た順子が、そこまで言って固まった。口を半開きにしたまま、じっと京也を見ている。その表情が見る見る崩れていく。
 順子が振り返った。恐れおののくような視線が京也を射抜く。
「見た通りこの体だ。入浴は無理だ。すぐに本番をお願いする」
 京也は目でうなずき、それとなく監視カメラの位置を探った。順子もそれを悟ったようだ。今は盗聴も珍しくはない。

「お客さん、特別よ」

 順子が蛇口を締め、カーテンの向こうのベッドに向かった。
 順子がベッドに突っ伏し、震えながら嗚咽を堪えている。
 京也は、はねのけようとする妹の背中に覆いかぶさった。微かに幼き日の香りが蘇る。京也は、男女の交わりを装いながら、順子の耳に声を押し殺した。
「助けにきたんだ。あのドクロのペンダント、取り戻したよ」
 二人はもつれあいながら、言葉を交わした。
「お兄ちゃん――」
 涙で化粧が落ち、変わり果てた妹の顔が京也を見上げた。
「順子、よく生きていたな。この銀のドクロが引き逢わせてくれた」
 京也は、優しく涙を拭ってやると、ペンダントを首にかけてやった。やっと順子の顔に、あのころの生気が蘇った。
「こんな姿を見せてしまい、ごめんね。でも、もう戻れないわ。ひと目だけでも逢えてよかった」
「大丈夫だ。必ず逃がしてやる。俺を信じて言うことを聞くんだ」
「だめよ、ヒモはヤクザの幹部。どこに逃げてもつかまってしまう。それに、銃も持っている」
「どこの組だ?」
「S会傘下のK組よ。函館に本拠がある。ヒモは会長のボディーガード。身の回りの世話までしているわ」
「ススキノのはずれにある、あの事務所か。道内の、ヤクの元締めと言われる。会長は全身火傷を負っていて、寝たきりだと聞いていたが――」
「そう、それでも龍の刺青を見せつけ、威を張っているらしい。実は最初、私はその会長の愛人にさせられていたの……」
 順子が、悔しそうに涙を流した。
「――そうだったのか。辛かったろうな。ところで、龍の刺青というのは間違いないか」
「本当よ。でも、どうして?」
「――全身火傷にあの図柄って、想像がつかなかったただけさ」
「肩のあたりに、龍の眼だけはまだはっきりと残っている」
 京也は、少年のころ、目に焼き付いたあの登り龍を思い出していた。心臓が激しく打ち始めた。頬の傷を再び切り開くような痛みを覚えた。順子が、心配の目を向けた。
「大丈夫? お兄ちゃんも大変だったね。でも、どうやって、アイツらからこのペンダントを――」
 順子が眉根を寄せた。
「偶然、闇の仕事の途中で見つけた。奴らは、もうこの世にはいない。実は、学園時代にお前の先輩を死に追いやった男も、俺が引導を渡した。俺こそ、お前に合わせる顔なんてないのさ。俺が、もう少し早く引き取ってやれれば……ごめんな」
「いいの、また逢えたんだから。でも、逃げられないわ。この店も組の息がかかっている」
 順子は左腕に哀しい目を落とし、指でなぞった。Tシャツの袖から青黒い痣が覗いている。その下に火傷の痕が点々と続き、肘の内側には、注射針と闘った惨たらしいかさぶたが広がっていた。
 京也はそっと目を逸らした。
「大丈夫だ。俺が話をつける。俺も昔のお兄ちゃんではない。俺が店を出ると同時に、部屋に戻り、非常階段を降りろ。タクシーを待たせてある。そのまま千歳空港に行け。成田に着いたら、空港のNホテルに入り、そこで連絡を待て。鬼柳という男が、パスポートやすべての手続きをしてくれる。準備が整いしだいマニラ行きに乗るんだ。最初は観光ビザで入る。住みたければクオータビザを取得して永住すればいい。ほとぼりがさめたら帰国して、南の方で暮らすのもいいだろう」
「なんか夢見たい。もう一度、看護婦の仕事に戻れるだろうか」
「何にでもなれるさ。それにしてもよくお前、看護婦になれたな」
「あの白田おじさんが、奨学金や学費無料の道を教えてくれた。それがあの日、ススキノでばったり……」
 突然京也の脳裏に、あの時の由香里の目が蘇った。
「――もういい、何も言うな。お前はもう自由だ。誰よりも幸せになるんだ。俺の分まで」
 今、順子はやっと、蛇の沼から這い上がろうとしている。由香里も陽光を浴びて生きられることを、京也はそっと祈った。
「お兄ちゃんも一緒に行こうよ。むかし函館から逃げて来たみたいに。もう一人はいやだよ」
 順子は、涙目で京也を見上げた。札幌駅で降りた、あの時の少女の目だった。やはりそうだったのか……。妹は記憶喪失ではなかったのだ……辛かったろう。
 京也は「必ず俺も後から行く」と、涙を堪え、札の中にキャッシュカードを忍ばせ、順子に渡した。
「待って、このペンダント、お兄ちゃんに――」
 順子が、ドクロのペンダントを京也の首にかけた。
「ありがとう……」
 京也は、あのバンダナを巻いた異国の男を思い出していた。順子には、もう、このドクロは必要ない。真っすぐ、陽のあたる場所を目指せばいい。

 店を後にしたその足で、京也は、K組の事務所に向った。途中で、サングラスの男に連絡を入れた。
 順子の連絡先を伝え、電話を切ろうとした時だった。
「色々調べさせてもらった。あんたがこれから向かおうとするところもわかっている。その仕事は私が引き受けよう。私もたまには、商売抜きで仕事をしたいこともある。あんたも連れと一緒にマニラ行きに乗れ。まだやり直すことはできる」
「え、ちょっと待ってくれ。なぜ俺たちのことをそこまで」
「――」
 電話は一方的に切れた。すぐに掛けなおしたが、つながらなかった。薄っすらと幼き日の、父の記憶が蘇ってきた。
 あの日、逆光のテラスに立っていたのは、確かに父だった。京也は、差し出された両手に誘われ、抱きついていった。頬のひげが痛かった。ふと、父の左胸にある固く冷たい物に触れた。懐にちらりと見えたもの。もしかして、あれは鬼柳がつけていた黒革のショルダーホルスターだったのでは……。
 やっと鎖がつながった。このドクロがたぐりよせてくれたのだろうか……。京也は、愛おしそうにドクロに触れた。
 いや、そんなことがあるはずがない。京也は、死の間際で聞いた男たちの話を思い出していた。ドクロは暗黒の世界でのみ輝く、永遠の魂だ。俺にはそれが一番似合っている。京也の目に、止めどなく涙が溢れ、頬の傷を優しく伝った。
 鬼柳には、もう少しこの世のごみ掃除をしてもらったほうがいい。これは依頼人なしの、俺の最後の仕事だ。携帯電話を踏み潰し、身元が割れそうなものをすべて焼き捨てた。
 ふと、せめてあの357マグナム銃でもあればと思ったが、鳶が親綱に頼るようになればお仕舞だ。
 自分にはこれしかないのだと思い直し、ダガーのブレードを指でなぞった。

 人の動きが止まった都会の雑踏が、ネオンの向こうに延びている。
 京也はあの時の、闇にのまれた黄色い帯を思い出した。
 今は、過去へと続く道をさえぎるものはない。
 京也は鎖を切り、ドクロを呑み込んだ。
 懐かしい潮の匂いが頬をかすめる。
 京也は一歩、踏み出した。
                   (了)



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