第2話 漂白その1

文字数 13,186文字

 第二章 漂白その1

 1

「ご乗車ありがとうございました。まもなく終点さっぽろです。どなた様も車内にお忘れ物なさいませんようお支度ください」
 さっぽろ……。少年は初めて聞く地名に不安を覚えた。いつからか一緒にいる少女に促され、ホームに降りた。
 少年はふと、来た方向を振り返る。足元から一直線に延びる黄色い帯の先が、過去といっしょに、闇にのまれていた。
 少年は、少女に急かされるまま、人の群れに紛れ込んだ。 
 押し出されるように駅のホールに立つ。二人は、壁際に取り付けられたベンチにかけた。コカコーラの塗装がはがれ、思った通りに座り心地は悪かった。大人たちが、なにかに追いかけられるように二人の前を通り過ぎていく。コートの襟を立て、二人に目をとめる者はいない。
 少年は急に心細くなった。自分がどこからきたのか、なぜここにいるのかもわからない。
 少女が少年を見上げると、心配そうに訊ねた。
「お兄ちゃん、顔の怪我、大丈夫?」
「お兄ちゃん?」
 少年はハッとして少女の目を見る。無意識にほおのガーゼに手をやった。
 触ると痛いが、血は出ていないようだ。この傷はいつ、どこで負ったのだろう。思い出そうとすると、頭が割れそうに痛み出した。
「大丈夫。それより今、お兄ちゃんと言ったけど、君は俺の本当の妹なのか?」
「そうよ」
 少女は、くりくりとした目を輝かせながら答えた。どうやら本当らしい。
 思い切って訊いてみる。
「名前はなんていうの?」
 少女は一瞬、怪訝そうな目で少年を見たが、すぐに穏やかな表情をつくると、わからないと言って首をふった。「でも本当の妹よ」と言って笑った。
 少年はさらに訊いてみた。
「君は知っているのか? 俺の過去を」
 少女は最初、眉根を寄せて困ったような顔を見せていたが、吹っ切れたように言った。
「ううん、私もぜんぶ忘れちゃった。でもいいじゃん」少女は歯を見せて笑った。「ここから始まったと思えば、二人で楽しくやっていけるよ」
 兄妹だと言われれば、そんな気もしないではないが、お互いに名前も忘れてしまった二人が、これから先どうやって楽しくやっていけるというのだ。少年は不安に駆られる目で辺りを見回した。売店にはシャッターが降り、お弁当屋さんの窓口も閉じられた。行き交う人もまばらになり、時おり凍てつくような風が入り込んでくる。
 顔の筋肉を動かしたせいか、ほおの傷がズキズキと痛み出してきた。少年は立ち上がった。
 野球帽を脱ぎ、トイレの鏡を見ながらそっとガーゼをはがす。恐ろしい傷痕が現れた。鋭利な刃物で、一直線に切り裂かれたようなほおの肉。そのまま固まったらしく、わずかに血が滲んでいた。
ベンチにもどり、少女に訊いてみた。
「この傷、君は何か知ってるかい?」
 少女の顔が一瞬青ざめたように見えた。すぐに目をそらし、ただ首を振るだけだった。
 少女が首をすくめ、少年を振り向いた。
「お兄ちゃん、おなかすいたね……」
 少年は無意識に、ジャンパーのポケットに手をつっこんだ。一枚の紙切れと数個の冷たい金属片が出てきた。
「私、クリームパンが食べたいな」
 少女がちらりと紙切れを見ると、肩をすくめながらつぶやいた。
 そうだ、これは生活するために必要なお金なんだ。そして、千円札が一枚と百円硬貨三個がどれほどの価値があるのかも、おぼろげながら認識できた。たったこれだけで、この先どうやって、二人は生きていけばいいのだろう。
 自分は本当に過去の記憶はないが、少女は何か知っているような気がした。自分に合わせているだけなのか、それとも、思い出したくない共通の過去があるからなのか……。
 向こうから黒革のコートと厳つい制帽を着けた二人の男が近づいてきた。少年はそれが警察官だと、ぼんやり思い出した。年かさの警官が少年に、誰かを待ってるのかい? と訊いてきた。少年は無言で首を振った。若い警官が、どこから来たの? と言いながら少女の肩に手を載せようとした時だった。急に少女が身を強張らせ、少年にしがみついてきた。警官は二人の受け答えに疑問を持ったらしく、駅前の交番所に連れていかれた。
 交番には女性の警官がおり、持ち物や身の回りのものを丁寧に調べた。少年の野球帽の内側に薄っすらと京也の文字があり、少女が持っていた摩周湖の図柄のハンカチには順子と刺繍されていたことから、二人の名前が確認された。少女が少年を兄だというたった一つの記憶から、警官も兄妹だと判断したようだ。
 女性警官が、京也のほおの怪我について訊いてきた。
「この傷、縫ったあとがないけど、手当ては誰がしてくれたのかな?」 
 京也は答えようがなかったが、思い出そうとするたびに襲いかかる頭痛についても、なぜか言い出すことが恐かった。
「もしかして順子ちゃん、何か覚えているかな?」
 警官が順子に視線を移した。順子はちらりと傷を見上げたが、やはり首を横に振るだけだった。
「京也君、名字のほう何とか思い出せないかな?」
 警官が優しくたずねた。順子が、心配そうに京也を見上げている。
「みょうじ……、名前も今初めてわかったので、何も浮んでこないのです」
 京也は正直に話した。警官が、順子ちゃんはどう? と視線を向けたが、同じように首を振るのだった。
「どこから来たのかだけでも思い出せない? 駅名とか、特徴のある景色とか――」
 警察が二人を交互に見ながら尋ねたが、京也は本当に何も思い出せなかった。順子も押し黙ったままだった。
 京也は記憶喪失という言葉を覚えていたが、妹も同時に同じ症状を示していることに、何か不吉なものを感じた。
 数日の間、道内全域に親から捜索願が出ていなかを確認するらしく、その日から交番で泊めてもらうことになった。
 交番の奥に六畳ほどの和室があり、石油ストーブのオレンジ色の光りが、凍りつきそうな心を温めてくれた。
 その夜二人は、お弁当とお茶を出してもらった。お弁当には美味そうな豚肉にピーマンが添えてあり、白いご飯の真ん中に小さな梅干が埋まっていた。空腹が限界にきていた京也は、がつがつと食べ始めた。途中でご飯に刺した割り箸の片方が折れたが、そのまま不ぞろいの箸で食べ進んだ。前で順子が、クスクスと笑いながら箸を進めている。京也は、こんがりと炒めてある豚肉の醤油味を噛み締める余裕もなく、あっという間に食べ終えてしまった。
 一息ついて前を見ると、三分の一ほど残されたご飯の上に、豚肉が一枚載せられた弁当が置かれてあった。その向こうに順子の笑顔があった。京也は軽く合掌すると、それもあっという間に平らげた。
 京也は、ぬるくなったお茶をすすりながら、気になっていたことを切り出した。
「順子、お前は俺の妹らしいが、本当に過去のことは何もしらないのか?」
 それまで笑顔を向けていた順子が、真顔になり答えた。
「知らない。お兄ちゃんと同じよ」それからすぐに笑顔にもどると、「いいじゃん、すべてが新しく始まると思えば。きっと警察で何とかしてくれるよ。私、お兄ちゃんさえいれば、何も恐くない」
 京也の不安とは裏腹に、妹はなぜか、未知の生活に向かうことが本当に嬉しそうだ。
 翌日から、外出は禁止されたが、部屋にはテレビもあり、警察の人々は皆親切にしてくれた。
 結局三日間、家族からの捜索願もなく、四日目に、女性の警官に連れられて市役所に行き、新たに戸籍を作ることになった。
 市役所の児童福祉課に行き、手続きが始まった。警官は二人の肩に優しく手をおき、担当者の言うことをよく聞いて元気にやるんだよと言い残し、去っていった。
 それから二人は、それぞれ学習状況の面談を受けた後、病院に行き、簡単な診察と身体測定を受けた。二人とも覚えていない、生年月日と学年を決めるらしかった。
 すべての手続きが終わり、担当者から、高校を卒業するまで児童養護施設に入ることを説明された。
 それから二人は、一緒に入ることができる施設が決まるまでということで、児童相談所に併設されている一時保護所にあずけられた。 
 三日ほどして、市役所の担当者が訪れた。二人は誰もいない食堂で、白髪が交じる男とテーブルを挟んでかけた。
 担当者が一枚の書類をテーブルに差し出し、話し始めた。
「京也くんと順子ちゃん、新しい戸籍ができましたよ。名字は順子ちゃんが持っていた摩周湖のハンカチからとって摩周となりました。これからは摩周京也、摩周順子と名乗ってください。それと君たちの年齢は、お兄ちゃんが十三歳、妹さんが九歳となります」
 担当者が書類を渡してくれた。そこには二人の名前と生年月日が印刷されていた。父母の欄が空白になっていたが、それがどういう意味なのか京也にはわからなかった。それについては担当者も何も話さず、じっと見ていた順子も何も言わなかった。
「摩周湖の摩周って、なんかかっこいいね!」
 沈黙を破るように、順子が明るく言った。
「順子、お前、摩周湖って、知ってるのか?」
 京也が順子の顔をのぞきこんだ。
「え、いや、ぜんぜん知らない」
 順子が、担当者をちらりと見ながら首をふった。
「本籍は、最初に保護された北口交番所の住所になります。これから、色々大変なことがあるかもしれないけど、二人で力を合わせて頑張っていくんだよ」
 担当者が最後に、優しい目を二人に向け、帰っていった。

 2

 それから間もなく、児童養護施設が決まったので移動しますと言われ、二人は迎えにきた施設の車に乗せられた。市内を通り過ぎ、畑にまだ雪が残る郊外の道路を行くと、静かな町の片隅に古びた木造の建物が見えてきた。
『白樺学園』と書かれた木の看板を、順子が心配そうに見上げている。京也も、未知の人生に踏み込む入り口のようにも思え、かすかに不安が過ぎった。けれども、迎えに出てくれた施設の人の笑顔に、ホッとする安堵を覚えた。
 白樺学園には、三歳から十七歳まで十六人の児童が暮らしており、そのうち七人が女子だった。二人が加わり十八人となる。大きな施設では三十人以上のところもあり、ここは規模的には中ぐらいだと説明された。児童たちは、四人から五人の四つの部屋に分けられ、共同生活をすることになる。 
「ここは君たちと同じように、両親から離れたり、家族から暴力を受けていた児童が生活をしているのよ。心に傷を持ってる子が多いけど、みんなと仲良くしてちょうだいね」
 職員の女性が、二人に優しい視線を向けた。
 その日の夕食時、食堂に案内され驚いた。正面の、「歓迎、摩周京也くん、順子ちゃん」という花丸で囲まれた大きな文字の張り紙が目に飛び込んできた。順子が、「わぁっ!」と喜ぶ。京也は自分がなぜ歓迎されるのかがわからなかったが、ただ胸が熱くなるのを覚えた。
 職員の女性に二人が紹介された後、児童たちの自己紹介が始まった。半分ぐらいの児童は消え入りそうな声で自分の名前を言った。そのつど職員が丁寧に名前を反復し、自分の名前は顔を上げて元気に言いましょうと教えていた。一時保護所とは違って傷だらけの児童はいなかったが、京也はどこか雰囲気に共通するものを感じた。
 高校生だという最年長の男女は、大人と変わらない体格をしており、落ち着いた雰囲気を持っていた。けれども、児童たちの目にはみな、同じような寂しさが浮んでいた。
 施設には三人の常勤職員がおり、園長先生から「皆さんのお父さんとお母さんだと思って、何でも相談してください」と挨拶があった。京也はこの時改めて、自分と順子には両親がいないのだと知った。けれども、季節が巡るような両親との記憶がないせいか、他の児童たちの横顔に滲む哀しみは覚えなかった。逆に、その哀しみをはるかに超える何かが、自分たちには隠されているような気がして、暗い崖を覗くような不安感を覚えた。
 京也は、中学、高校の児童が集まる五人の大部屋に入ることになった。日記を書く決まりに戸惑ったが、正直に歓迎会が嬉しかったことを二行ほどにまとめた。九時に消灯となり、薄闇の中に五つの頭が並んでいる。ふと、順子のことが心配になったが、様々な寝息の音にいつしか自分も溶け込んでいった。
 京也の人生は、決して明るいとは言えないが、みな何か見えないものでつながっている、この施設から始まった。
 起床は午前6時半、夕食は午後6時だ。京也は中学校一年、順子は小学校四年から、それぞれ地区の学校に通うことになった。京也は千二百円、順子は八百円、それぞれ学年により金額が異なる月々の小遣いが支給された。
 学年の割には体格のいい京也は、学園の食事だけでは空腹に耐えられなかった。客がいないときを見計らってパン屋に入って行く。「お兄ちゃん、犬を飼っているのかい?」と言う店員の言葉にあいまいに答えながら、一袋五十円のパンの耳を買ってくる。
 人目を避けて口に押し込む姿は、確かに犬と変わりがないに違いない。その犬の餌に、小遣いのすべてが消えた。
 その年が明け、学園で初めての正月を迎えた。ボランティアのおじさんやおばさんが集まり、施設の中で餅をついてくれ、児童全員に振舞われた。京也は最近顔色の優れない順子に声をかけた。
「どうしたの、おなかすいてないのかい?」
「ううん、もうたくさん。お兄ちゃんにあげる」
 京也は、施設の小学生児童が学校でいじめられていることを知っていた。中学校では親がいるかいないかなどは話題にもならないが、小学校ではそれをネタにいじめる生徒もいるらしく、順子は口には出さないまでも、幼い牙を立てながら必死に登校しているにちがいなかった。逆に腕力のある京也はいじめられこそしないが、学業や日常の決まりではあたり前のことがわからず、その都度先生にまで笑われ、いじめられるより惨めな思いをするのだった。
 年の初めの賑やかさも去ったある日のことだった。

 突然、男の悲鳴が上がり、施設内が騒然となった。京也も食堂に駆けつけた。

「順子、どうしてそんな乱暴なことをしたんだ! お世話になってる人に」
 近所に住む、子供のいない大工の白田おじさんは、園児たちを可愛がり、よくボランティアで家の修理にきてくれていた。
「元気かって声かけて、肩に軽く手を載せただけなんだが、急に歯を食いしばって、カウンターに手を引っ張っていかれ、ザックリさ」
 白田が、右手を握り、何かを振り下ろす仕草を見せた。突き立てられたフォークは左の手の平を貫通したらしく、細い腕のどこからそんな力が出たのか、皆、呆然としている。順子は歯を食いしばったまま涙を堪えているようで、何もしゃべらない。
「白田さん、何かいやらしいことしたんじゃないの。このぐらいの女の子は敏感なんだから」
 駆けつけてきた調理場のおばちゃんが、白田と順子を交互に見ながら言った。
「お、俺はなにもしてないよ」
 白田が目をむいて訴えた。
「白田さん、すぐに一緒に病院に行きましょう!」
 園長先生が慌てて入ってきた。
 左手にタオルを巻いた白田は、利き腕でなくてよかったと言って去っていった。
 いつからか、大人の男との接触を極端に嫌う順子の性癖は変わることなく、施設でも孤立するようになった。一人で花や猫の絵を描く時間が多くなっていった。

 3

 施設では、できるだけ普通の生活を体験させるようにとの配慮からか、様々なイベントが行なわれる。
 その年の二月十四日のバレンタインデーの時だった。
 施設では、男子児童に公平にチョコレートが渡るようにと、女子児童全員で準備した手作りのチョコレートをかごに入れ、二人が組になって、食堂で全員に配るイベントを毎年開いていた。
 京也は、過去の記憶がないせいか、バレンタインデーのときめくような思い出もなければ、他の男子児童のように、それを期待して一喜一憂することもなかった。それだけではなく、この日に限って世の中が盛り上がっていること自体が、京也の目には不思議に映った。けれども、普段食べたことのない甘いチョコレートが食べられることを楽しみにしていた。
 食堂のテーブルに全員のチョコレートが配られ、この日だけは、コーヒー、紅茶、緑茶が用意され、おかわりまで許された。ふと食堂を見渡すと、順子がカラフルなエプロンを着け、男子児童に紅茶を配っているところだった。普段は見せたことのない笑顔を絶やさずに、男児の一人一人にサービスする姿を見て、京也はなぜか安心するのだった。
 束の間の楽しい時間が過ぎ、少し早めに食堂を出て、突き当りの廊下を部屋の方に曲がった時だった。どこに隠れていたのか、同じ学年の由香里が京也の前に立ちふさがった。両手を後ろに隠し、恥ずかしそうに上目遣いで京也を見ている。京也は一瞬、何が起こったのか理解できず、口を半開きにしたまま由香里を見ていた。
 由香里が両の手の平に小さな赤い包みを載せ、目の前に差し出してきた。
「これ、京也くんに――」
 京也は、笑顔を作ろうとしながら固まっている由香里の目に、どきりとするものを覚え、それに引き込まれるように、赤い包みに手を伸ばしてしまった。なにかをしゃべろうと、言葉をさがしているうちに、いつの間にか由香里は目の前から消えていた。誰にも見られない、ほんの一瞬のことだった。
 京也は、これまで意識していなかったが、最近、由香里とよく目が合うことを思い出していた。以前、部屋の先輩が、絶対内緒だよと声を潜めた話では、由香里は近郊の裕福な農家で暮らしていたらしいが、連れ子として後妻に入った母親が病気で入退院を繰り返すようになってから、義父の虐待が始まり、児童相談所からの要請でこの学園に入園したということだ。京也はこのころはまだ、「義父の虐待」の深い意味はわからなかった。
 もらったチョコは食堂で食べた手作りのものではなく、ケーキ屋のコーナーに並んでいるような高価なものだった。京也は、それを順子にも隠し、あの目を思い出しながら、施設の裏でこっそり食べた。口の中でとろけるような甘さを感じたが、たまに順子に買ってもらうアンパンの時のような、素朴な喜びはなかった。
 チョコを受け取ってから、さらに由香里と目が合うことが多くなり、人目を気にしながらも、「京也くんタレントは誰が好き?」などと、話しかけてくるようになった。由香里は順子とは、すべてが反対の特徴を持っており、容姿、行動ともに明瞭な輪郭を放っていた。
 妹以外に親しく話す友人もいない京也は、由香里の声がけに不快なものはなく、特別な意識も持たないまま、月日が流れた。
 ある日曜の午後だった。女子は全員近くの公園に、先生に引率されピクニックに行っていた。京也が施設の裏でバットの素振りをやっていた時だった。後ろから誰かが近づいてくる気配がした。
「京也くん! お菓子があるの、一緒に食べない?」
 小さな紙袋を提げた由香里が、チョコを差し出したあの時と同じ目で、京也を見つめてきた。芝生の緑が日差しにきらきらと光り、施設の中からは、男子が走り回る無邪気な声が聞こえていた。
「あ、ありがとう。近くの神社のほうが、いいかな――」
 由香里の若草色のスカートは短く、普段とはまるで違う、精一杯のおしゃれをしていることがわかった。京也はなんとなく、二人きりのところを施設の人に見られるのが恥ずかしかった。
 お祭りが過ぎた日曜日の神社は、人通りもまばらで、立ち並ぶ太い杉の木の下はひんやりとした静けさが漂っていた。二人は、境内の隅に置かれたベンチにかけた。向こうを、若い母親が子供の手を引いて通り過ぎていくのが見えた。
 由香里が、二人の間のわずかなスペースにハンカチを広げ、食べたことのないクッキーと、缶ジュースを置いた。
「さぁ、一緒に食べよう。京也くん、どちらでも好きなほういいよ」
 由香里が、緊張がほぐれた楽しそうな笑顔を京也に向けた。
 京也は、一度食べてみたいと思っていたアーモンドが散りばめられたクッキーに手を伸ばした。その時、由香里の短いスカートから伸びる白い脚に目が奪われた。それは最初、ドキッとする美しさを見せたが、すぐに、めまいがするような不快感が襲ってきた。なぜか、治ったはずの頬の傷がズキンと痛み出した。何が起きたのかわからないまま京也は、狼狽のあまり固まった。由香里はそれを、選び迷っていると思ったのか、京也の手の下にあるクッキーを親切に渡してくれた。
 二人は、時間が止まったような境内の景色を眺めながらクッキーを食べた。京也はクッキーの味がまるでわからないまま、ただジュースで呑み下していた。由香里はそんな京也の心が読めるわけもなく、好きな歌手の話などをしながら、時おり京也の横顔を見ていた。京也は心の動揺を悟られまいと、自分でも驚くような、作り笑いさえ浮かべていた。
 食べ終わると由香里は、紙くずと空き缶を紙袋に入れ、ハンカチを自分の膝の上に載せた。何かを隠そうとするその行為は逆に、京也の体の奥に眠っていた何かを目覚めさせ、いっそう不安をかき立てた。
 由香里のおしゃべりがぴたりと止まった。風が渡り、木立がざわめき始めた。ふと肩に触れるものを感じた。京也は振り向いた。すぐ近くに、由香里のあの目が、より真剣な光りを帯びて迫っていた。まぶたが静かに閉じられ、唇が微かに震えている。熱を帯びた由香里とは反対に、京也の心は凍りつき、思わず立ち上がった。
 京也は後悔した。あの赤い包みに、手を伸ばすべきではなかった。悪いのは由香里ではない。自分でも制御できない、得体の知れない拒絶感。けれども、もしそれがなかったとしても、自分は受け入れることができただろうか……。京也は今初めて、由香里の心を弄んできた罪に慄いた。

 救いようのない、残酷な時が流れた。

 泣きながら、紙のようになって駆けていく由香里の後姿を、京也は、ただ呆然と見つめた。
 その後、由香里と目が合うことはなく、二ヶ月ほどが経った時だった。これまでも由香里の帰省を促していた義父が、やっと本人の同意が取れたということで、黒光りのする大きな車で迎えにきた。
 あの神社の一件の後に持ち上がったこの話に、京也はそれとなく聞き耳を立てていた。義父が引取りたいという理由は、寝たきりとなった母の介護らしいが、児童相談所の担当者は、介護はヘルパーさんに任せ、学業を優先させるべきで、今戻すのは、虐待の檻に返すようなものだと反対した。けれどもなぜか今回は、本人が家に戻りたいと言ったらしい。
 禿げ上がった頭部まで日焼けした骨太の義父が、揉み手をしながら園長先生に挨拶すると、力なく肩を落とした由香里を助手席に促した。義父のごつい手がドアを閉めようとした時だった。由香里が、玄関で見送る京也を一瞬振り向いた。京也は、まるで黒曜石のように、ただの黒い固まりとなった目だけは、一生忘れることはできないだろうと、唇を噛み締めた。

 4

 翌年の秋の晴れた日曜日だった。珍しいお客様がくるということで、昼食を兼ねてパーティが開かれることになっていた。食堂にいくと、カレーライスの良い匂いが漂っており、カウンターの向こうで調理のおばちゃんがお皿に湯気の上がるご飯を盛りつけている姿が見えた。テーブルにはいつもとは違って、一人ひとりにサラダとデザートのショートケーキがついていた。女の子たちは食堂に入ってくると、みな歓声を上げ、顔をほころばせていた。カレーライスが全員の分テーブルに並んだころ、園長先生と、若いカップルが入ってきた。男はジーンズに体型が浮き立つような黒い革ジャンをまとい、女性は水色の短いスカートに大きなロゴの入った白いTシャツを着ていた。
「皆さんの先輩の杉本くんと奥さんです」
 園長先生がにこやかに二人を紹介した。
 二人は丁寧にお辞儀してから、十年前に中学校卒業と同時にこの学園を卒園し、東京に出て鳶職となり、同じように東京の児童養護施設出身の女性と結婚したと話した。男子はみな口を半開きにしたまま、褐色に日焼けした精悍な顔の杉本を見上げていた。体格はいいが色白の京也も、憧れの目で杉本を見ていた。女子はみな、杉本の妻の可愛らしい姿に釘づけになっていた。彼女は、高校を卒業するまで施設に住み、今は病院で介護の仕事をしていると言った。
「それではカレーが冷めないうちにいただきましょう!」
 園長先生が口火を切ると、一斉にスプーンが皿を打つ音が響き出した。その日のカレーは形のある豚肉が三つも入っており、ふと見ると、順子も美味しそうに口を動かしていた。
「今日は特別おかわりもありますよ」
 調理場の中からおばちゃんが笑顔で声をかけてきた。
「懐かしいな。それじゃ俺も、もう半分くらいもらおうかな」
 いちばん最初におかわりを申し出たのは、杉本だった。おばちゃんは杉本を知っているらしく、遠慮することはないよといい、最初と同じに盛りつけ、カウンターに載せた。
 杉本の豪快な食べっぷりを、皆、羨望の目で見ていた。京也も、初めて見る大人の男のかっこよさに顔が火照ってくるのがわかった。いつも何かに押しつぶされそうに暮らしている園児たちが、この日だけは自信に満ちた輝きを見せていた。
 女児たちは、テレビで見るような杉本の妻のキラキラした姿を囲み、にぎわっていた。彼女は女児たちに、誰も知らない東京の暮らしや病院の仕事の話しを聞かせていた。
 京也は思い切って訊いてみた。
「鳶職って、どんなことをするんですか?」
 仕事の興味というよりも、逆三角形のかっこいい杉本がいる世界が知りたかった。杉本が一枚の写真を取り出した。そこには、積み木を敷き詰めたように見える都会の風景に、にょっきりと突き出た鉄骨の建設現場が写っていた。よく見るとそのてっぺんに、腰の周りにたくさんの道具を提げ、すそ幅のやたら広いズボンをはいて立っているヘルメット姿の男がいた。
「これは去年完成した西新宿の東京都庁ビルの建設現場だ。小さく写っているのが俺さ。地上高、二百四十メートルぐらいかな」
「わぁーすごい! でもここで、どんなことをするんですか?」
 京也は写真ではよくわからない、仕事の内容に興味がわいてきた。他の男児もみな、息を詰めて杉本の顔をのぞき込んだ。
 杉本が、鳶職の仕事を説明してくれた。
「俺は鉄骨鳶といって、建設現場で柱や梁の鉄骨を組み立てるのが仕事だ。この鉄骨は全部俺たちが組み建てたのさ。柱や梁は工場で製作され、トラックやトレーラで現場に搬入される。俺たちはクレーンでそれを組み立て、ボルトとナットで締めつけていくんだ。溶接することもある。作業はいつも人が点のように見える高いところだ。一瞬の油断で命を落とすこともある。でも、皆、この仕事にプライドを持ってやっている」
 京也は、聞く言葉がすべて初めてなのでよくわからなかったが、誰にでも簡単にはできない仕事だということだけはわかった。
 お別れの時がきた。学園の前で、妻が女児たち一人一人の手を握っているとき、杉本が初めて、男児たちに真剣な眼差しを見せた。
「みんな、絶対に負けるな! 誰も俺たちに夢や希望を与えてはくれない。自分で行動し、自分でつかみ取るんだ。頑張れよ」
 園児はみな背筋を正し、無言でうなずいた。この時京也は、杉本を目指そうと決心した。なぜか、武器が何もない自分のような者でも、この仕事を身につけさえすれば、社会を渡って行けそうな気がした。

 杉本夫婦の余韻が薄れたころ、施設によく顔を出す、背が高く恰幅のいいおじさんがやってきた。
 おじさんは、たくさんの会社を持つ実業家で、自分も両親がいない環境で育ったので、施設を援助したいと言っていた。仏様のように優しい目をしているおじさんは、皆に好かれていた。
 園児全員が食堂に集められ、そのおじさんから、温水洗浄トイレが寄付されることが紹介された。
「それでは皆さん、声をそろえて、丸山おじさんにお礼を言いましょう」
 園長先生が満面の笑みを浮かべ、丸山おじさんの横顔を仰ぎ見る。園児たちが張り上げる素朴な声が一丸となり、食堂のガラスまで、喜びに揺れていた。
 学園の資金繰りは厳しいらしく、国と道から園児が公立高校を卒業するまでの必要経費は支給されるが、園児が人間らしい生活を維持するには、まだまだ様々な形の寄付が必要のようだった。事実、園児の誕生祝やクリスマスプレゼントは、匿名で学園の玄関先に置いていく靴下や学用品から配られ、年二回食べられる小さなステーキは、近くの肉屋さんが無償で差し出してくれていると話があった。その他に、農家の人々が、収穫期にキャベツやジャガイモを持ってきてくれたり、肉や魚はすべて、調理のおばちゃんがスーパーの閉店間際にかけつけ半額セールで買ってくるものらしかった。

 学園で、誰もが想像もできないような事件が発生したのは、温水洗浄トイレの設置工事が終わって間もなくのことだった。
 朝早く、高校卒業間近の女子児童がそのトイレで首を吊って死んでいるのが見つかった。皆おろおろする中で、調理のおばちゃんが可哀想だと泣きじゃくりながら脚立に登った。皆でやっと床に降ろし、毛布の上に寝かせた。顔が紫色に腫れ上がり、あの奇麗なお姉ちゃんの面影はどこにもなかった。決まっていた就職先から急に断りの電話があったらしいと、おばちゃんが悔しそうに話した。なぜ採用が取り消されたのか、涙を拭うおばちゃんの目は知っているように見えた。
 警察から遺体が戻された時は、日が暮れていた。その夜、食堂でささやかなお通夜があり、剃り上げた頭も若々しいお坊さんがやってきた。皆しくしく泣いている中、お坊さんの美しい読経が食堂に流れていった。京也はふと、ぼろ布のようになって命を閉じたお姉ちゃんが、この清らかなお経で、本当に救われるのだろうかと思った。
 その女児に特に面倒を見てもらっていた順子は、お坊さんが帰ったあと、いつまでも泣きじゃくっていた。京也がもう泣くなと背中をさすると、「きっとあいつのせいだ!」と声を震わせた。京也は「あいつって?」と聞き返したが、それ以上は何も話さなかった。

 木枯らしの吹く日曜日だった。
 京也はふらりと街に出た。寒々とした灰色の街並みを、行き交う人々は楽しそうに歩いている。ガード下のアクセサリー売り場に、若者たちが群がっていた。京也もそっとのぞいて見た。
 黒い布の上で、不気味な光りを放つものが京也の目を奪った。それは銀色に輝くドクロのペンダントだった。そっと触れてみる。
「お兄ちゃん、誰かにプレゼントかい?」
 異国の男が、濃い眉の下から優しい視線を投げてきた。
「私の国、とてもひどい。戦争が日常。毎日、たくさんの人が死んでいく。私たちにとって、ドクロは希望、そして、永遠の魂」
 京也は、男が話したことは理解できなかったが、どんよりと暗い日々を、肩を寄せ合うように生きてきた二人にとって、そのおどろおどろしい光りは力強い神のように思えた。
 男が、小さな笑みを浮かべ、続けた。

「特別、はじ切って、二万円にしたぁげるよ」

 それから京也は、早朝の新聞配達を始めた。
 吐く息が瞬時に凍りつくような冬を越え、手にした二万円を握り締め、あのガード下に向った。まだあるだろうか、あのドクロのペンダント。どうしても欲しかった。それは順子のためなのだが、同じ根に咲くタンポポのような、自分のためでもあった。
 果たして黒ずんだ鉄骨の影で、あのバンダナを巻いた眉の濃い男が、笑みを浮かべ迎えてくれた。
 京也は、一人で絵を描いている順子の部屋に行った。
「今日は順子にプレゼントがあるんだ。何だと思う?」
 京也は色あせたジャンパーの、すり切れたポケットに手を突っ込んだ。
「え、本当、嬉しぃ! なあに、早く見せてよ」
 順子の顔がパッと明るくなる。
 京也はきらきらと光るドクロのペンダントを、順子の目の前で振り子のようにかざした。
「えー、これって、気味悪いな――」
 順子の顔が曇った。
「なんだよ、せっかく買ってきたのに……」
 銀細工が床を打つ、哀しい音が響いた。京也は肩を落とし、踵を返した。
 翌日の朝、食堂で、京也が一人黙々と箸を進めていると、順子が明るくおはようと言いながら前にかけた。京也は顔を上げずにおはようと答えただけで、ジャガイモを箸でつついていた。
「お兄ちゃん、見て!」順子が嬉しそうな声を上げた。「このドクロ、よく見ると可愛いね! ありがとう」
 順子の胸に、ドクロのペンダントが光っている。京也は思わず顔をほころばせた。想像したとおりだった。順子の整った顔に、銀のドクロは対照的な凄みを見せていた。
「よかったな、よく似合うよ」
 京也は眩しそうに順子を見た。

 
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